この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

テルマエ・ロマエ

帝政ローマの浴場技師が現代日本の風呂文化を導入して賢帝の治世に貢献する! 壮大な歴史コメディ!

 

  製作:2012年
  製作国:日本
  日本公開:2012年
  監督:武内英樹
  出演:阿部寛上戸彩市村正親北村一輝、宍戸開、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    真実の実家の鉱泉宿の猫
  名前:不明
  色柄:キジ白、三毛


◆永遠の都

 前回の『甘い生活』(1960年/監督:フェデリコ・フェリーニ)の頃から遡ること1820~30年ほど、舞台となったローマでは帝政が敷かれ、五賢帝の一人ハドリアヌスが治めていました。歴代皇帝は広大な公衆浴場を作り、民衆の支持を集めたということです。「テルマエ・ロマエ」とは「ローマの浴場」のことだそうです。
 そんな古代ローマと現代の日本をお風呂を通じて結び付けた、ご存知ヤマザキマリさんの漫画が原作の実写映画。寒い季節はやっぱりお風呂。ゆる~く風呂談義でもしながら理屈抜きで楽しみましょう。

◆あらすじ

 紀元128年、ローマの浴場建築技師ルシウス(阿部寛)は、斬新な浴場が求められていたのに時代遅れのものしか思いつかず、仕事を失う。
 気晴らしにテルマエの湯に浸かって斬新な発想に思いを巡らせていると、排水口に巻き込まれ、気づくとそこは現代の日本の銭湯だった。ルシウスはそこで壁の富士山の絵やフルーツ牛乳や脱衣かごなどのローマにはないアイテムに驚き、再び時空を超えてローマに戻ると、それら銭湯のアイデアを取り入れた。
 それ以来、ルシウスはタイムスリップで現代日本と行き来して「平たい顔族(日本人)」の風呂文化をローマに持ち帰り、新しい風呂を作って評判になる。皇帝ハドリアヌス市村正親)もそれを聞きつけ、自分専用の浴場を作らせる。続けて次の皇帝候補ケイオニウス(北村一輝)の治世のために素晴らしいテルマエを作るよう命令するが、ケイオニウスを後継者と認めたくないルシウスは死罪も顧みずそれを拒む。
 ルシウスは、日本と行き来するたびに漫画家の卵・真実(上戸彩)の前に現れ、真実はいつしかルシウスに惹かれていく。ルシウスは真実の実家の鉱泉宿で温熱療法や温泉水の飲用などの効能を知り、ローマ北方の反乱蛮族との戦闘で傷ついた兵士を癒す湯治場を作って兵士の回復に貢献する。湯治場を作る手伝いをしたのは、タイムスリップしてローマにやって来た真実や鉱泉宿の常連たちだった。
 ローマは反乱を鎮圧し、ルシウスは湯治場建設の件でハドリアヌス帝から賞賛される。ルシウスはハドリアヌス帝に、湯治場を作る提案をしたのはルシウスが次の皇帝と認めるアントニヌス(宍戸開)だと言ったのだが、ハドリアヌスは何もかもわかっていた。ハドリアヌスはルシウスの気持ちを汲み、民衆の前でアントニヌスの功績と宣言してアントニヌスへの民衆の支持を固めさせる。
 一方、愛するルシウスのそんな栄光を目にすることなく現代日本に戻ってしまった真実は・・・。

◆お風呂で逢いましょう

 漫画家修業中の真実。銭湯の脱衣場の椅子でうたたねをしていると裸のルシウスが現れ、反射的にスケッチを始めると男性客たちがルシウスを連れて行ってしまいます。それ以来、師事している漫画家先生の家のお風呂場や派遣のバイト先の浴室・トイレのショールームなど、真実の行く先々にルシウスが現れ、実家の鉱泉宿の常連の長老の一言で、真実はルシウスが自分の赤い糸の相手だと確信します。ルシウスと会話ができるよう真実はラテン語を猛勉強。
 この映画の中で猫が登場するのは、その真実の実家の鉱泉宿。実在する建物でロケしています。
 真実の母がお見合い写真を真実に見せます。相手は地元の大ホテルの跡取り息子。母は以前から赤字続きでこの宿を閉めなければならないかもしれないと言い、真実は漫画家の夢を諦めて故郷に帰って親孝行しようかと思います。その立ち話の最中、廊下に三毛猫がニャオ~ンと登場します。猫は真実たちの脇を通り過ぎてひょいひょいと階段を昇って行きます。年月を重ねた木造の宿に素朴な三毛猫の姿はよく似合います。
 ほかにも常連客たちがロビーで話をしているとき、キジ白が長老の膝に乗っています。どちらも慣れた様子なのを見ると、ロケしたお宿の本物の飼い猫かもしれません。
 我が家で昔飼っていた猫の中で、お風呂に入っていると時々見に来る猫がいました。風呂場の外にいるので戸を開けてやると目を丸くして入って来て、湯船の縁に手をかけ、鼻をフンフンさせながら中を覗いていましたっけ。そこでよっこらしょと湯船をまたいで入ってきたら化け猫ですけどね。
 キジ白は始まってから30分20秒頃、三毛は43分30秒過ぎた頃に登場します。
 なお、原作漫画には真実や真実の実家関連の人々は登場しません。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆ローマ人もびっくり

 漫画の原作者ヤマザキマリさんのコミックス版『テルマエ・ロマエ』第Ⅱ巻(ビームコミックス、発行:エンターブレイン)所収の彼女のエッセイ「ローマ&風呂、わが愛vol.10」によれば、ハドリアヌス帝の生きた紀元2世紀の前半あたりではローマ市内での公共大浴場は11ヶ所、個人経営の小さな浴場が約1000ヶ所あったそうで、古代ローマ人も相当なお風呂好きだったことが想像できます。社交場も兼ねていたようです。それらを運営するための労働力はもっぱら奴隷に頼っていたので、ルシウスが真実の働いていたショールームで日本の洗浄機能付きトイレの至れり尽くせりのテクノロジーに驚嘆したとき、奴隷も大変だなと真剣に考えるところが笑えます。
 インバウンドの外国人観光客が日本に来て驚くのがこの洗浄機能付きトイレだということはよく耳にします。日本の多機能トイレはそれこそ日本人のガラパゴス志向の典型例とも言えるでしょう。
 『テルマエ・ロマエ』は、そうした異文化間の接触が生み出す驚きと笑いを描き、日本の風呂文化を古代ローマ人がもろ手を挙げて賞賛し屈服するという日本人にとっては気持ちのいいもの。主役のルシウスを演じる阿部寛はじめ、ローマ側の主要人物を北村一輝や宍戸開など顔の濃い日本人俳優に演じさせるというキャスティングも、ジョークっぽさがあってよかったと思います。
 実際は未知の物への警戒心から、すべて現代日本の物が受け入れられるわけではないはずですよね。日本人だって、洋式トイレの使い方がわからず戸惑ったことがあったわけですし、誰が使ったかわからない便座に直接座ることに抵抗がある人も少なくありませんでしたから。

◆文明の利器

 真実の漫画家先生の家のお風呂に出現したルシウスは、高齢のお父さんの入浴を手伝うヘルパーさんと間違われてしまいます。ルシウスは垢すりタオルでお父さんの背中をこすって垢がどんどん出るのに驚きます。ローマではストリジルというへらを使って垢を落としていたのです。日本人にも、以前、韓国式垢すりに驚嘆した思い出が・・・。
 ルシウスが動物の腸のような物と不思議に思ったホース付きのシャワー。かつてはシャワーと言えばハスの花托のような形のシャワーヘッドが壁や水道管から出ていただけでした。『サイコ』(1960年/監督:アルフレッド・ヒッチコック)で、ジャネット・リーがシャワーヘッドの下で体の向きを変えていますよね。
 欧米式のお風呂にはバスタブの外に体を洗う場所がないのがつくづく不便だと思います。お風呂の目の前に便器があって、ほかの人の入浴中、同居人はトイレを我慢しているのでしょうか。
 湯が冷めるのを防ぐお風呂の蓋も、欧米には浴槽にためたお湯を使い回しするという習慣がないから無用の物。昭和の我が家のお風呂の蓋は木製で、適度な温度と湿度のためかときどきキノコが生えてきましたよ。
 シャンプーハットは使ったことがありませんが、お風呂ブーツは家の中で靴を履いている欧米では不要でしょう。風呂用の腰掛椅子にはルシウスは特に注目していませんが、あれも浴槽の外で体を洗うからこそ必要なもの。日本に旅行に来た外国の方々には小さすぎるかもしれませんが、きっと便利だと思っていただけていると思います。

◆描かれた銭湯

 ルシウスが初めに日本に出現した場所は銭湯。
 1970年代に向田邦子らが脚本を務め、久世光彦が演出したテレビドラマ『時間ですよ』は、銭湯を舞台とした大人気のホームドラマ。当時悠木千帆という芸名だった樹木希林堺正章の定番のギャグとともに挿入されたのが、女湯の脱衣場に間違えたふりをして男性が入って来るシーン。そこでは駆け出しの女優(?)たちが必ずキャーッと言って胸を隠したりする、という演出がありました。うちの父など「風呂屋だったらばあさんや小さい子もいるはずなのに若い女ばかりでおかしい」などとその演出を批判していたのですが、その場面で鼻の下を伸ばしているのを見透かされないようごまかしていたのでしょう。
 一方『テルマエ・ロマエ』の平たい顔族の風呂にいるのはじいさんばかり。明るいうちから銭湯や温泉でのんびりしているのは一定以上の高齢者というわけですね。
 高度経済成長期前、東京など都市部では風呂のない家が多かったはずです。『東京物語』(1953年/監督:小津安二郎)では長女の夫が尾道から来た義父母を銭湯に連れて行きます。民間アパートではまず風呂はなく、銭湯に通うのが普通でした。
 内風呂があっても毎日お風呂に入るわけではありませんでした。同じく小津監督の『秋刀魚の味』(1962年)では笠智衆の父に対し「今日は(お風呂を)沸かさなかった」と言う岩下志麻演じる娘のセリフが出てきます。
 豊田四郎監督の『雁』(1953年)では、妾(高峰秀子)が旦那が遊びに来る昼間に女中を銭湯に行かせます。帰って来た女中は、昼間っからお風呂に行くのはお妾さんの女中だけだと言われた、と話します。成瀬巳喜男監督の『めし』(1951年)では、昼に風呂屋に行く女性を見て浦辺粂子が「二号はんて、ほんまに結構なご身分だんなぁ」と悪口を言います。
 ・・・銭湯に行くことはプライバシーをも裸にしてしまう!

◆秘湯名湯

 映画の中では地名が明かされていませんが、ルシウスが弓の腕前を遊戯場で披露する、温泉街の階段が有名な伊香保温泉。ダラダラと腐れ縁の関係を続ける高峰秀子森雅之の演じる二人が混浴の共同風呂に浸かる成瀬巳喜男の『浮雲』(1955年)も、訳ありの男女という後ろ暗さが画面から湯煙のように立ち上ってきます。
 日本のひなびた温泉にいまもある混浴という習慣、温泉という場所が開かれたものであったこと、男女の性が今よりおおらかだったことを物語っていると思います。『テルマエ・ロマエ』では金精様(こんせいさま)という子宝祈願の奇祭の習俗も描かれていて、ルシウスは金精様の顕現かと思われてしまいます。
 何度も映画化された川端康成原作の『伊豆の踊子』では、混浴ではありませんが、踊り子が女風呂から裸で主人公に向かって「学生さ~ん」と呼びかけるという踊り子の純真さを表す名場面が。
 ちなみに、ローマ時代のテルマエは、もとは混浴だったのが風紀の乱れから男女別に分けられ、奴隷には奴隷用の浴場があったと、原作漫画には描かれています。

 と、ここまでかなりの字数を使ってしまいました。野村芳太郎監督の『張込み』(1958年)、清水宏監督の『簪』(かんざし)(1941年)『小原庄助さん』(1949年)・・・まだまだ汲めども尽きぬ日本映画の風呂エピソード。「この映画、風呂が出てます」でも始めようかしら。

 『テルマエ・ロマエ』に話を戻しますと、ルシウスは自分は平たい顔族の優れた文明のアイデアを盗用したに過ぎない、平たい顔族は何も見返りを求めず力を合わせて働くと、世界に冠たるローマ人として敗北感をぬぐいきれないのです。このルシウスのクソ真面目な性格が日本の当たり前を笑いに変換します。
 ルシウスの真意を最後に汲み取るハドリアヌスはさすが賢帝。舞台で鍛えた発声、立ち居振る舞い、市村正親は別格の貫禄です。
 残念なのは、音楽にイタリアのベルディやプッチーニの歌劇のアリアを多用していること。アリアは感情を揺さぶる効果絶大ですが、歌劇ですからストーリーがあり歌詞があり、それに関係なく劇的だからと持ってくるのは抵抗があります。ほかの映画の音楽を内容に関係なく使っているのと同じと思いますが・・・。


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予告編 次回2月2日(金)公開予定

「この映画、猫が出てます」をご愛読いただきありがとうございます。

次回の作品は

テルマエ・ロマエ
(2012年/日本/監督:武内英樹

大ヒットのタイムスリップ風呂コメディ。
古代ローマの浴場建築技師ルシウスがひれ伏したのは、現代日本の風呂文化!

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甘い生活

空虚な人生を立て直そうともがくゴシップ記者のマルチェロは、もがけどもがけど腐った生活に呑み込まれて行く・・・。

 

  製作:1960年
  製作国:イタリア/フランス
  日本公開:1960年
  監督:フェデリコ・フェリーニ
  出演:マルチェロ・マストロヤンニアニタ・エクバーグ、アヌーク・エーメ、      イヴォンヌ・フルノー、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    セクシー女優が町で拾う子猫
  名前:なし
  色柄:白


◆道化師の歌

 名セリフをソラで言える映画や、あるシーンを一人で再現できるくらい何度も見た映画が皆様にもあると思いますが、私のそういう映画の一つが、フェデリコ・フェリーニの『道』(1954年)です。イタリア語はできませんので日本語で一人ものまねです。
 監督の妻ジュリエッタ・マシーナの演じる軽い知的障がいのある主人公のジェルソミーナが、怪力の大道芸人ザンパーノの一応は妻・芸の助手として二人でバイクに幌車をつなげ、津々浦々を旅します。粗暴なザンパーノはジェルソミーナを対等に扱わず・・・と、話をし出せば1本記事が書けてしまいそうです。
 子どものようなジェルソミーナを真似するも楽しいのですが、もっと楽しいのが怪力ザンパーノの真似。裸の胸に巻いた鎖を筋肉の力で引きちぎるのが彼の芸。道端に人を集めて、今から見せる芸のことを説明する口上が楽しいのです。
 ジェルソミーナはザンパーノの助手として道化の衣装を着てラッパを吹きますが、フェリーニの作品には道化師が欠かせません。今回取り上げる『甘い生活』はネオレアリズモ後のイタリア映画を牽引した巨匠フェリーニの、1960年のカンヌ国際映画祭最高賞パルム・ドールなど多くの賞を受賞した代表作。これにもチャップリン風の哀愁を帯びた道化師が登場しています。

◆あらすじ

 マルチェロマルチェロ・マストロヤンニ)はローマでゴシップ記者として有名人や巷の話題を追いかけていた。文学を志す気持ちを持ってもいるのだが、刹那的で空虚な日々に流されている。ある日、ネタをあさっていたナイトクラブで美しいマッダレーナという女性(アヌーク・エーメ)と会って一夜を共にし、自宅に帰ると同棲中の婚約者エンマ(イヴォンヌ・フルノー)が自殺を図っていた。命は助かったが、マルチェロの浮ついた生き方にエンマは疲れ、マルチェロも彼女にうんざりしていた。
 ある日、マルチェロは知り合いのシュタイナー(アラン・キュニー)という男と偶然再会し、彼の家でのインテリが集まるパーティーにエンマと出かける。シュタイナーは二人の子どもに恵まれた理想的な家庭を築いていて、エンマも憧れを抱く。彼はマルチェロに文学を志すならつてがあるとほのめかす。
 マルチェロは一念発起し、海辺の食堂で文学の執筆に打ち込もうとするが、邪魔が入りうまくいかない。そんなとき父が仕事でローマに立ち寄り、マルチェロはゆっくり話したいと願ったが、父はそそくさと帰ってしまう。
 貴族の館での頽廃的なパーティーでマッダレーナと再会し、マルチェロは彼女を求めようとしたが、彼女は誰彼かまわず関係を持つ女だった。パーティーで夜を明かした後はエンマとお互いをののしり合う喧嘩をして、別れる瀬戸際まで行きながらいつも通りの不毛な関係に戻る。
 そんなときシュタイナーが子どもと無理心中してしまう。
 目標を見失ったマルチェロは文学も記者の仕事も捨て、芸能人の宣伝マンとして仲間内と乱痴気騒ぎで夜を明かす。朝、みんなと海岸に出ると、大きく不気味な魚が浜辺に引き上げられていた・・・。

◆頭に子猫

 映画の前半、ゴシップ記者マルチェロの仕事ぶりが描かれる中、アメリカからイタリアを訪れた色気ムンムンの人気女優シルヴィア(アニタ・エクバーグ)をマルチェロが相手するシークエンスで、白い子猫が登場します。
 ローマ時代の建築や服装を模したナイトクラブでマルチェロがシルヴィアを接待し、肉感的な彼女にのぼせ上ってダンスをしているところに、彼女と共演したことがある男性俳優が馴れ馴れしくやってきます。シルヴィアと彼は店中を踊りまくり、どんちゃん騒ぎを繰り広げます。そんなシルヴィアに婚約者のロバートという男が侮蔑的な言葉を投げてシルヴィアはおかんむり。店を出て行ってしまったので、マルチェロが追いかけて自分の車に乗せ、ローマ市内を走って彼女の気を落ち着かせます。
 シルヴィアは静かな道で手のひらに載るほど小さい白い子猫を拾い、マルチェロにミルクを持ってくるよう言って、頭の上に子猫を乗せてフラフラと足の向くまま歩いて行きます。マルチェロがなんとかミルクを調達して戻って来ると、シルヴィアは猫を地面に置いてトレヴィの泉の中をザブザブ歩いている最中。あわてて泉の中に入り、シルヴィアを止めるマルチェロ。そのとき夜が明け、周囲の人が二人を好奇の目で見ています。
 シルヴィアをホテルまで送ったマルチェロ、何もなかったのに待ち構えていたロバートに往復ビンタと腹へのパンチを食らってしまいます。
 マリリン・モンローを連想させるシルヴィアという女優、空港で記者やカメラマンにもみくちゃにされたあと、「寝るときはパジャマかネグリジェか」などの記者のつまらない質問に「フランスの香水を2滴だけ」などとモンローと同じように答えています。
 モンローは1954年に新婚旅行で夫の大リーグ連続試合安打の記録を持つ野球選手ジョー・ディマジオと日本を訪れ、記者がモンローにばかり取材するのでディマジオが腹を立て、仲が悪くなったという話が伝わっています。それをちょっと思い出させるロバートとの仲たがい。
 ミーミーと鳴くいたいけな子猫が出て来るのは、48分ほど過ぎたあたりです。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆いと高き所

 3時間に及ぶ大作。多くの人物が背景の説明なく登場しますが、人物設定は細かく気にしなくてもその人がすることを見ていれば大丈夫です。見始めるとそう難解な表現に苦しむほどではなく、マルチェロ・マストロヤンニも良い艶加減、出て来る女性俳優もきれいでセクシーです(似たようなタイプの女性たちばかりですが)。けれども、安易に流して見ていると中に含まれているスパイスに気づけないかもしれません。

 冒頭、キリスト像が空を飛んで行きます。ローマ教皇のもとに運ぶためにヘリコプターがロープでむき出しのまま吊り下げているのです。日光浴をしていた水着姿の若い女性たちがそれを見て手を振っています。もう1台飛んできたヘリコプターにはマルチェロやゴシップ専門のカメラマン・パパラッツォ(ウォルター・サンテッソ)が乗り込んで取材しています。彼らは水着の女性たちに気づいて会話しますが、ヘリコプターの音にかき消されてうまく通じません。
 のっけからキリスト像がただの物として扱われていることにうろたえます。『甘い生活』にはキリスト教の権威が衰え、精神的な支柱をなくした人々が堕落と頽廃に陥っている様子が描写されます。
 ローマ郊外では、聖母マリアが現れたと幼い少年少女が訴え、警察、報道陣がどっと押し寄せ、再び聖母の顕現を見ようと群集や病人が集まります。マルチェロも取材にやって来て、自殺未遂から回復したエンマもついて来ています。テレビか映画のクルーとみられる人たちが足場を組んで聖母が現れる瞬間を撮影しようと狙う中、当の子どもたちは「マリア様だ!」とあっちへウロウロ、こっちへウロウロ。一杯食わされたかと思ううちに大雨になり、奇跡を願ったどこかの憐れな母親が連れて来た病気の子どもは死んでしまいます。
 取材の謝礼や金儲けをあてこんだ作り話か、聖母の顕現はとんだ茶番に使われ、マルチェロマルチェロとの幸福な結婚を聖母に祈ろうとしていたエンマも呆然とします。神聖なるものは俗の手垢にまみれています。

◆甘い性格

 神の権威や信仰が衰えると、人間は幸運への感謝を忘れ、不幸や不運を神の思し召しとすることができなくなり、自助努力の不足、無能、と自分の責任として引き受けざるを得なくなります。
 『甘い生活』に登場する貴族など、金のある人々は遊興によってその不安から逃避しています。一方、働くことで飯を食っているマルチェロは、いまの自分は今まで自分がしてきたことの結果、という状況に直面させられています。マルチェロの年頃なら、戦争によって国家体制が崩壊し、権威や道徳的なバックボーンを失い、無我夢中で大人になって、必ずしも彼のせいだけとは言い難い面もありますが、ふと気が付けばどうでもいいゴシップを書いて食べているだけ。文学を目指すという高い志はどこへやらと、はっとする時期のはずです。
 現在の日本で生きている私たちも多かれ少なかれマルチェロと同じ境遇です。そういう自分を直視することは厳しいもの。
 けれども付き合いのある貴族ら恵まれた階級や芸能人たちの頽廃ぶりは自分よりもっとすさまじい。マルチェロは彼らといると自分はまだマシと安心できるので一緒に遊んで現実から目をそらしたいのです。
 婚約したエンマの関心は料理と夜の営みのことばかり。目線の低い平凡な女というだけのことなのですが、マルチェロは彼女といると、凡俗にからめとられて抜け出せない自分を思い知らされ苛立つのです。けれども、互いの人格を否定するようなことまで言う大喧嘩をしたあげく元のさやに納まるところを見ると、マルチェロは優柔不断な男。現実逃避傾向も合わせ自分はこうしたいという軸がフラフラしているのではないでしょうか。ちょっと甘い性格です。

◆チャンスが逃げる

 そんなマルチェロが人生を理想の方向に軌道修正できるチャンスは3度ありました。シュタイナーと再会し再び文学に目を向けたとき、文学に取り組み始めた海岸で清純な娘に会ったとき、父親がローマに訪ねて来たときです。
 父親は地に足が着いた実直な人物。マルチェロの子どもの頃は仕事で不在がちで、以後疎遠だったようですが、昔ながらの妻子を食わせてなんぼ、という大黒柱の気質を持ち合わせているように見えます。ほどほど遊びも心得ていて、男としての学びが得られそうでした。けれどもゆっくり話す暇もなく、悪酔いしてさめるとすぐに帰ってしまいます。
 海岸の食堂で知り合った純真な若い娘はマルチェロに健全な生活を思い出させますが、彼女の好きな流行の騒々しい音楽やエンマからの電話が彼をいつもの生活に引き戻してしまいます。
 そして完璧に自己コントロールしているように見えたシュタイナーが子どもを殺して自殺したことによって、マルチェロは理性と規律への信頼を見失い、一層激しく遊ぶようになってしまいます。

◆海と魚と女性

 海岸に引き揚げられた気味の悪い3日前に死んだ魚は、腐敗した生活の象徴です。そして「魚」キリスト教のシンボルでもあります。この魚はキリスト教のシンボルとして描かれる流線型の魚とは異なる形の、エイのような怪魚です。キリスト教の神や聖母の代わりに、おぞましい何かが人間の権威となるということを示しているのでしょうか。
 そのとき、海岸の食堂の若い娘が現れ、マルチェロに気づいて呼びかけます。彼女は遠くの砂浜から何か言葉を発していますが、波の音にかき消されマルチェロは聞き取ることができません。彼は結局、娘のいる健全な世界とコンタクトを取れないまま、「こっちの生活は甘いぞ~」と呼びかけられたかのように、乱痴気騒ぎで一夜を過ごした仲間たちに合流してしまうのです。
 このラストは、冒頭のキリスト像をヘリコプターで運ぶ途中、女性と呼びかけ合いながらコミュニケーションがうまくいかなかったシーンと呼応しています。また、空を飛ぶキリストと海から引き上げられる怪魚も対を成す関係です。
 映画の始まりと終わりに共通するモチーフが使われることはよくありますが、このラストをどう捉えるか。フェリーニの映画の男性主人公は、たいてい女性と建設的な関係を築くことができません。その関係を築くことができたとき何が変わるのか。怪魚の出現を含め自由で様々な解釈を試みることができるのが、この映画の一番面白いところではないでしょうか。

 信じるものをなくした現代人の方向喪失感を描きながら、映画を重たくしていないのがニーノ・ロータの音楽です。フェリーニとは『道』の「ジェルソミーナのテーマ」をはじめとする名コンビ。ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』(1960年)や『ゴッドファーザー』(1972年)など、20世紀の映画音楽は彼なくしては語れません。

 

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予告編 次回1月22日(月)公開予定

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次回の作品は

甘い生活』(1959年/イタリア/
        監督:フェデリコ・フェリーニ

ゴシップ記者が陥った享楽と苦悩の日々。神なき時代、さまよえる現代人のカリカチュア

 

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