この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

透明人間(1933)

劇薬を飲んで透明人間になった科学者が人々を恐怖に陥れる! 
いまも多くの派生作品を生み出す透明人間ものの第1作。

 

  製作:1933年
  製作国:アメリ
  日本公開:1934年
  監督:ジェームズ・ホエール
  出演:クロード・レインズ、ウィリアム・ハリガン、グロリア・スチュアート
     ウナ・オコナー、ヘンリー・トラヴァース

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    とばっちりを受ける子猫
  名前:不明
  色柄:白


◆透明願望

 透明人間になったら何をしたい?
 この映画は世界初の透明人間もの。ホラー、コメディ、エロチックなど、様々なバリエーションがここから発展しています。この記事ではそれらの作品もいくつかご紹介したいと思います。
 監督は『フランケンシュタイン』(1931年)のジェームズ・ホエール、原作はSF小説のH.G.ウエルズの『The Invisible Man』(1897年)で、映画の原題も同じです。

◆あらすじ

 舞台はイギリスのアイピングという片田舎。
 ある吹雪の日、帽子にゴーグル、顔を包帯とマフラーで覆い、トランクを持った怪しい男(クロード・レインズ)が、「部屋を貸してくれ」と宿屋を訪れる。男は邪魔をするなと言い、部屋で薬品を調合していた。1週間以上逗留し宿代を払わないので、主人が出て行ってもらおうとすると、暴力をふるって抵抗する。警察を呼ぶと、男は警官たちの前で顔の包帯を解く。そこにあるはずの顔がない。透明人間だ! 男は普通の体に戻るための薬品を調合していたのだった。男は窓から逃げ出し、自転車を奪ったり、乳母車をひっくり返したりして村は大騒ぎになる。
 科学者のケンプ(ウィリアム・ハリガン)は、アイピングで透明人間が現れたというニュースをラジオで聞く。ケンプの師のクランリー博士(ヘンリー・トラヴァース)の研究所では、同僚のジャックがひと月以上前に失踪していた。どうやらジャックが失踪の際に持ち出した劇薬を注射して透明人間になったようだ。透明人間のジャックはケンプの家に忍び込み、ケンプを殺すと脅して命令に従わせる。透明人間はアイピングの宿屋までケンプに車を運転させ、復元薬についてのノートを持ち出したあと、透明人間の存在を否定する警部補を絞め殺して逃げる。
 警察は包囲網を敷き、透明人間を捕えるためアイデアやボランティアを募る。透明人間のジャックは、博士の娘のフローラ(グロリア・スチュアート)と婚約していたが、ジャックが透明人間だと知って会いに来たフローラの忠告にも耳を貸さず、邪悪な計画を口にする。
 ケンプは透明人間が自宅にいて命を狙われていると警察に通報し、一旦警察署に身を隠したものの、保護を断って帰宅したあとジャックに殺されてしまう。
 列車を転覆させ、大勢の人を殺害し、罪を重ねるジャックだったが、疲れて農家の納屋で眠っているとき、農夫がいびきに気づき、警察に知らされてしまう・・・。

◆とばっちり

 古い映画は往々にしてツッコミどころ満載なのですが、とりわけこの映画はそんな観客サイドのワイワイガヤガヤが楽しめる1本だと思います。監督のジェームズ・ホエールも、『フランケンシュタイン』のときよりリラックスして楽しんでいるようです。
 赤外線カメラなどなかった時代、透明人間を捕えようとする警察の作戦も素朴そのもの。透明人間に夜の10時に殺すと予告されているケンプを警察署に来させて透明人間をおびき出し、署の塀を乗り越えるところで捕まえようと、広範囲に塗料が飛び散るスプレーガンを用意、塀を乗り越えたのがわかるよう、塀の上に粉をまいておく、というのです。粉なんか、風が吹いたり雨が降ったりしたらどうするんだと思いますが・・・。
 その警察のレンガ塀の前に1匹の貧相な白い子猫が現れます。猫は塀にジャンプして、まいてあった粉を落とし、待機していた警官が猫とは気づかずスプレーガンを発射。猫は真っ黒になってしまいます(モノクロなので実際は何色か不明)。
 いまなら動物虐待と抗議が来そうな場面ですが、この猫さん、人間の役者だったらおいしい役をもらえたと喜ぶところ。ジェームズ・ホエール監督はジョークやユーモア好きだったようなので、この猫の場面は『透明人間』をやると決まったときから楽しみにしていた、とっておきのネタだったのでは?
 白い子猫が登場するのは開始からおよそ62分13秒~23秒の間です。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆暴走する知性

 『フランケンシュタイン』と同じく、科学者の暴走を描いたマッド・サイエンティスト&モンスターものです。死体をつぎはぎにして人造人間に生命を吹き込み、自分は神になったと言い放ったフランケンシュタイン博士は、怪物を制御できず、責任を負って自ら怪物を葬り去ります。
 一方、『透明人間』は、科学者が自分自身を知的欲望の犠牲にしてしまいます。元に戻るための薬を完成する前に透明薬を使ってしまうとは科学者にあるまじき浅はかさですが、貧しいジャックは婚約者のフローラのために画期的な業績を上げたいと功を焦っていたのです。しかし、彼の使った劇薬は神経系に副作用があり、性格を凶暴なものに変えてしまいます。宿屋にこもって復元薬の調合に没頭しようとしていたのに邪魔が入り、脅かすために自分は透明人間だとカミングアウトすると、歯止めの効かないままジャックは犯罪を重ねていきます。社会から疎外されていた彼は、透明人間になることによって社会の支配者になろうとします。

◆スキが見える

 メアリ・シェリーによる原作文学の『フランケンシュタイン』が、社会の異端者として生まれた怪物の苦悩という哲学的問題に分け入っていくのに対し、『透明人間』は同じ社会の異端者であっても、邪悪な性質の中にスキだらけのおかしさを見せます。
 たとえば映画の中で、透明人間は、食後1時間は未消化の食べ物が見えてしまうので人前に姿を見せない、と言うのですが、排泄物として体内に貯留される方は見えないのか、とか、完全に透明であろうとするには真っ裸にならなければならないので、寒いときはどうするのかとか、そもそも包帯を巻いてサングラスをかけた姿がそこまで怖くない、など、彼をごっこ遊び的キャラクターにしてしまいかねない穴があちこちにあるのです。
 けれども、ジェームズ・ホエール監督はウソくささを逆手にユーモラスな場面を入れて楽しんでいます。宿屋のおかみ(ウナ・オコナー)が透明人間のふるまいに対してたびたび上げるけたたましい叫びや、警官のズボンを奪った透明人間が、ズボンだけはいて童謡を歌いながら夜道をスキップし、村人がキャーッと逃げるところなど、『フランケンシュタイン』にはなかったユーモアを次々発揮。警官たちも臆病で無能に描かれ、ゆるさが漂っています。

 透明人間は、世界の支配者になり、透明の軍隊を作って世界を征服するなどと言い放ちますが、現在も世界の権力者がイメージ戦略を用い、カリスマ性を演出しようとするところを見ると、姿の見えない支配者が人々の崇拝の的になるとは思えません。見えない軍隊も、味方同士が見えなくては混乱して自滅するのじゃないでしょうか。だいいち、みんな裸で戦うの? 

許されざる者

 そんな怖いような怖くないような微妙なモンスター性をもとに発展した透明人間もの映画のサンプルをいくつか・・・。
 2000年の『インビジブル』(原題:Hollow Man/監督:ポール・ヴァ―ホーヴェン)もマッド・サイエンティストもの。動物実験で透明化と復元化に成功した科学者が、秘密裏に仲間と共に自分自身を実験台にすると、透明にはなったものの復元に失敗、見えないのをいいことに殺人や性的暴行を繰り広げます(実験動物の檻の中に猫がいます)。仲間たちが上層部に彼のことを報告しようとするとそれを阻止するためさらに殺人を重ね・・・。最後は別れた恋人を追いかけてエレベーターで垂直アクション。モラルゼロのサイテー男。
 やはり姿が見えないと面白くないので、終盤、透明人間を透明プラスチック人間のような姿で表現せざるを得なかったところが透明人間映画の限界でしょうか。
 この映画では、透明化と復元の過程で、皮膚、骨格筋、血管や神経、骨格というように、表層から深層へ解剖図のように変化する特撮が見られます。実はこのアイデアは、元祖『透明人間』でも、透明人間が絶命するとき、はじめに骨格が見え、次に通常の人の姿に変化するという形で既に用いられています。また、続編の『透明人間の逆襲』(原題:The Invisible Man Returns/1940年/監督:ジョー・メイ)でも、血管や神経~骨格筋~通常の人の姿へと変化する様が映像化されています。
 『インビジブル』には『インビジブル2』(2006年/監督:クラウディオ・ファエ)という続編もあり、かわいい猫も出てきますが今回は省略。

◆コメディ透明人間

 コメディとしては1992年の、その名も『透明人間』(原題:Memoirs of an Invisible Man/監督:ジョー・カーペンター)。主人公が偶然透明人間になってしまうたわいのないサスペンス風恋愛コメディ。場合によって人から見えたり見えなかったりと、ご都合主義なところがけしからんですが、終盤、顔の包帯を解いて透明人間の正体を現す元祖『透明人間』で試みられた特撮が、現代の技術でカラーで再現されているところが見どころです。猫と犬がテニスのボールを目で追って首を左右に動かすところもかわいい。
 女性が透明人間になる『The Invisible Woman』(1940年/監督:エドワード・サザーランド/日本未公開)では、透明人間がストッキングをはいたり、ファッションモデルになってショーを見ていたお客が逃げ出したり。同じく『凸凹透明人間』(1951年/監督:チャールズ・ラモント)では透明人間がボクシングで助太刀! 1987年の『アメリカン・パロディ・シアター』(監督:ジョン・ランディス他)には約4分間のパロディー『透明人間のムスコ(Son of the Invisible Man)』が登場(この部分の監督:カール・ゴットリーブ)。本人だけが自分は透明だと思って全裸で行動し、みんなに冷ややかに扱われます(注1)。

◆日本の透明人間

 1949年には日本でも『透明人間現わる』(監督:安達伸生)が製作されています。「特撮の神様」円谷英二が特撮を担当。
 この映画には猫がけっこう出てくるので、いずれあらためてご紹介しようかと考えています。元祖『透明人間』に設定がよく似ていて、ここまでパクッていいのかと思うくらい。
 その後も日本では『透明人間』(1954年/監督:小田基義)『透明人間と蝿男』(1957年/監督:村山三男)が作られていますが、まだ見ていません。私の好きな『ガス人間第1号』(1960年/監督:本多猪四郎)も、一種の透明人間ものと言っていいでしょう。

◆見えない役者

 ラストに惚れ惚れするような美しい死に顔を見せる透明人間役のクロード・レインズは、声によってジェームズ・ホエール監督に選ばれたそうです。上下の歯を噛み合わせたような話し方は、包帯を巻いたしゃべりにくさを表現しているのでしょう。体が透けて見える特撮は、透ける部分に黒いベルベットを巻いて背景を黒くして撮影し、同じ位置で撮影した背景の映像を黒い部分に重ねたそうです。
 『透明人間』が彼の映画デビュー。ハリウッドで活躍するきっかけとなります。よく知られているのは『カサブランカ』(1943年/監督:マイケル・カーティズ)のルノー署長や『スミス都へ行く』(1939年/監督:フランク・キャプラ)の上院議員ヒッチコック監督の『汚名』(1946年)のセバスチャンなどでしょう。そのいずれでもアカデミー助演男優賞にノミネートされていますが、受賞には至っていません。
 彼は娘が10歳くらいのとき、住んでいた町の近くの小さな映画館に、娘を連れて『透明人間』を見に行ったそうです。スカーフで口を覆い、帽子をかぶって入り口で切符を買おうとすると声で館主にわかり、「レインズさんですか! お代はいりません!」と言われたとか。映画の間中、撮影中の苦労話を話していたと娘が語っています(注2)。

 透明人間とケンプの師の博士は、『聖メリーの鐘』(1945年/監督:レオ・マッケリー)で学校にビルを寄付したオーナー役のヘンリー・トラヴァース、フローラ役のグロリア・スチュアートは『タイタニック』(1997年/監督:ジェームズ・キャメロン)で、宝石を海に沈めてしまう老いたローズを演じています。

 

(注1)これら3本はブルーレイ『透明人間』(発売元:NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン/2016年)の特典映像「メイキング」で一部が紹介されてます。
(注2)『透明人間』に関連したクロード・レインズについての記述は上記ブルーレイの特典映像「メイキング」を参考にしました。

◆関連する過去作品

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予告編 次回9月16日(月)公開予定

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次回の作品は

『透明人間』
 (1933年/アメリカ/
  監督:ジェームズ・ホエール

自らを実験台に体が透明になる薬を試した化学者が暴走していく。
その後何本も作られている透明人間ものの元祖。

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ピクニック(1936)

家族とピクニックに出かけたアンリエットは見知らぬ男性たちから声を掛けられ舟遊びに出かける・・・。
ジャン・ルノワール監督の美しき一本。

 

  製作:1936年
  製作国:フランス
  日本公開:1977年
  監督:ジャン・ルノワール
  出演:シルヴィア・バタイユ、ジョルジュ・サン=サーンス、ジャーヌ・マルカン、
     ポール・タン 他

  レイティング:一般 

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    おばあちゃんがかわいがる子猫
  名前:不明
  色柄:キジ白


◆大いなる監督

 パリオリンピックパラリンピックを記念して始めたこのブログのフランス映画強化期間(?)も、今回をもって終了といたします。とは言ってもまたすぐにフランス映画が登場するでしょう。リュミエール兄弟による、スクリーンに投影した映像を大勢の観客に一度に見せるという現在の形の映画の発明以来、やはりフランスは映画に対し先駆者の誇りをもってその芸術的センスを投入・実験し続けていると思います。そして猫の出る映画も多い。
 フランスが生んだ名映画監督の一人、今年2024年に生誕130年のジャン・ルノワールは、画家のピエール=オーギュスト・ルノワールの二男です。第一次大戦ではパイロットとして従軍し、足を負傷して治療中にリューマチの父を看病、映画監督を志し、父の絵のモデルの女性と親しくなります。これらのいきさつは映画『ルノワール 陽だまりの裸婦』(2012年/監督:ジル・ブルドス)の中で、ルノワール監督へのオマージュをこめて描かれています。
 実は『ピクニック』は未完の映画。上映時間は約40分。けれどもこの結末のない短い物語には、映画が私たちにもたらしてくれる喜びが詰まっています。
 19世紀後半のフランス庶民の縮図ともいえる風俗。ジャン・ルノワール監督自身がレストランの料理人の役で出演し、助監督にはジャック・ベッケルルキノ・ヴィスコンティ、このときまだ写真家になる前のアンリ=カルティエブレッソン等と、そうそうたるメンバーが集結しています。
 
 なお、2024年9月6日(金)~10月6日(日)まで、東京日仏学院エスパス・イマージュでルノワール監督作品の生誕130周年記念上映・トークイベントが開催されます。『ピクニック』は9月7日(土)、20日(金)に上映予定です。見に行かれる方は、以下の文章はご覧になったあとでお読みくださいね。

culture.institutfrancais.jp

◆あらすじ

 1860年の夏の日曜日、パリの金物商のデュフール氏は、妻(ジャーヌ・マルカン)と義母、娘のアンリエット(シルヴィア・バタイユ)と、将来アンリエットと結婚し婿養子となる使用人のアナトール(ポール・タン)を連れて、馬車を借りて郊外にピクニックにでかけた。田舎の風景に心洗われた一行は川岸のレストランを見つけ、木の下で昼食をとることにする。
 舟で遊びに来てレストランで昼食をとっていた地元の青年アンリ(ジョルジュ・サン=サーンス)とロドルフ(ジャック・ボレル)は庭でブランコに乗るアンリエットに目を付け、ロドルフが彼女をくどくことに決めて接近する。二人はアンリエットと母親に声をかけ、それぞれが乗って来たボートに2組に分かれて川遊びに繰り出す。ロドルフがアンリエットを誘惑するはずだったが、アンリエットはアンリのボートに乗る。ロドルフは母親を乗せ、いちゃいちゃしながら陽気にアンリエットたちを追い越していく。
 アンリエットとアンリは森の近くでボートを下り、アンリが個室と呼んでいる茂みに腰を下ろす。アンリエットは体に手を回してきたアンリに初めは抵抗するが、やがて口づけを許し身を任せる。まもなく嵐が訪れる。
 数年後、同じ茂みで二人は再会する。そのときアンリエットはすでに結婚し、夫のアナトールがそばにいた・・・。

◆おばあちゃんといっしょ

 馬車でピクニックに出たデュフール家ご一行、レストランの庭でデュフール氏の義母、つまりアンリエットのおばあちゃんはキジ白の子猫をみつけます。耳が遠く、認知機能が衰え気味のおばあちゃんは昼食の場所に置いた椅子で、ずっと猫と戯れています。
 ところが食後、うつらうつらしていたおばあちゃんの手から子猫が脱走。おばあちゃんは逃げた子猫を「ミミ~」あるいは「ミンミ~」と呼んで追いかけます。見ず知らずの猫への呼びかけ方は日本と似ていますね。子猫の出番はこれっきりですが、おばあちゃんもこれっきり。子猫は遠目にもとてもかわいく見えます。
 ルノワール監督のお父さんの絵に「ジュリー・マネの肖像(あるいは猫を抱く子ども)」という名画があります。喉のゴロゴロ鳴る音が聞こえてきそうな、目を細めたキジ白の猫を少女が膝に抱いている絵です。少女は画家のマネの姪。おばあちゃんのかわいがった猫は、一瞬、その猫が絵を抜け出して映画に出て来たのではないかと思うくらいそっくりな表情を見せます。
 猫は開始から10分50秒頃から23分5秒頃までの間に断続的に登場します。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆奇跡の40分

 先ほども言ったように、この映画はおよそ40分の未完の映画。アンリエットが家族とピクニックに出かけ、アンリたちと出会う部分と、のちに結婚したアンリエットがアンリと再会する部分が同じ川岸なので、まとめてロケーション撮影をしたのだと思います。
 この映画のデジタルリマスター版公式サイトによると、この映画の完成前にプリントがドイツ軍によって破棄、ところがオリジナルネガが残っていて、アメリカ亡命中のルノワール監督の了承を得て編集が進められ、1946年にパリで公開されたとのことです。

 出会いと再会――この二つの部分のみが存在することによって、この映画は詩的な広がりを生み、青春の甘酸っぱい懊悩を掻き立て、魂に迫ってきます。
 ルノワール監督の代表作で、複数のカップルが入り乱れ、きわどい恋愛模様を繰り広げる『ゲームの規則』(1939年)や『草の上の昼食』(1959年)などは、見る側の自由な解釈が入る余地のない、隙なく構築されたストーリーです。けれども『ピクニック』には、ただただ余白が広がっています。私たちが登場人物たちの感情や未来をどのように想像するかも自由。
 そして川の水、木々のそよぎ、雲、飽きることなく眺めていられる自然の美、それらに視覚をゆだねたときの悠久の幸福感に満たされるのです。
 2013年にこの映画がデジタル修復されたことは、多くの人がこの未完の映画の芸術的価値を高く評価していることのなによりの証拠です。

◆解放感

 主人公のアンリエットがレストランの庭にあるブランコを漕ぐシーン、印象派の絵画を思わせる白いドレスで、アンリエットは勢いよく立ち漕ぎをします。田舎の自然の中で日常を忘れ、舞い上がるような気持ち。その様子をロドルフとアンリはレストランの窓から観察しています。「座ってくれないかな」とロドルフ。こちらに向かってブランコに乗っているアンリエットが座って漕げば、スカートの中が見えるかもと思っているのです。二人の若者は「子どもができたらどうする」というところにまで踏み込んだ話をしながら彼女を口説こうとしています。
 アンリエットを演じたシルヴィア・バタイユは、この映画のとき28歳。舞台となった1860年頃のヨーロッパでは、女性は10代後半で結婚する人が多かったはずです。この映画の原作(『野あそび』)を書いたモーパッサンの『女の一生』では、主人公の女性は17歳で結婚しています。使用人のアナトールとの結婚が予定されているアンリエットもおそらくそのくらいの年齢でしょう。アンリエットは子どものようにブランコを漕いで男たちの性的な視線を吸い寄せているのに気づかぬ反面、どこかでうずきを感じている年ごろ。シルヴィア・バタイユは美しく魅力にあふれていますが、れっきとした大人の女性です。もう10歳ほど若返らせて、大人と子どもが一つの体に同居しているような女の子を思い浮かべないと、アンリエット像を見誤るのではないかと思います。
 男性たちに声を掛けられる前、アンリエットは、母親に自分の衝動を訴えています。田舎へ来て変な気持ち、かすかな快い欲望が湧いてくる、泣きたいような気持ち、若い頃ママもそんな気持ちになった? と。

◆ゆく河の流れは

 未来の夫のアナトールにはやや精神遅滞があるのか、アンリエットそっちのけで釣りに夢中です。それを特にどうとも感じていないようなアンリエット。そんな中で誘われたアンリに、アンリエットは恋心を覚えたのでしょうか。
 心以上に、はちきれんばかりの若さから来る性衝動にアンリエットは抗し切れなかったのだと思えます。ロドルフが迫ったとしてもロドルフを受け入れたのではないでしょうか。映画の歴史の中で何度も描かれてきた十代の息吹。純情さの近くに隠れている欲望。
 明るいお母さんはモヤモヤするアンリエットに、自分は分別を身に着けたと言って、夫にじゃれたり、ロドルフと追いかけっこをしたり、欲望をほどほどに発散して女盛りを満喫しています。
 そして、このピクニックにおばあちゃんが加わっていることにもある意味を感じます。若い女性、大人の女性、年老いた女性の三人が人生の諸相を表したり、若い女性と骸骨を一緒に描いたりすることによって「死を想え」というメッセージを発する西洋絵画。この映画はそれに似てはいないでしょうか。
 食事をした昼の盛りの木陰、舟遊びに漕ぎ出した穏やかな川の流れ、嵐の襲来、絵画のような映像美にも、どこか自然と時という抗えぬものが持つ無常観が漂います。アンリエットがアンリに抱かれ流す涙、そこに幸せへの予感はありません。

◆未完の美

 現在見られる40分以外に、ルノワール監督は何を描こうとしていたのでしょうか。モーパッサンの原作は、ほぼこの映画と同じです。映画に描かれていない部分と言えば、アンリがたまたまパリでデュフール氏の金物店を訪れ、アンリエットの母に会う短い場面があるだけです。
 それでもなおこの映画が完成していたら、と言うのは、ミロのヴィーナスに腕があったら、と言うのと同じように、芸術的な見地からはあまり意味のないことでしょう。描かれていないからこそ美しい。下世話な三角関係のような話になってしまってほしくない・・・。
 ただ、私が残念に思うのは、アンリ役としてもうちょっと若い女性が初対面で好意を持ちそうな役者を選べなかったのか、というところです。あまり女性に好かれるタイプではなさそうだなあ(少なくともわたしの好みでは・・・)、まして十代の女の子の相手にしては・・・と、ここで急に現実的になってしまうのです。それはルノワール監督が、先ほどわたしが言ったように、アンリエットがアンリに恋心を覚えたからではなく、性の衝動によって身を任せた、というところを強調したかったから・・・なのかもしれませんが。

(参考)「野あそび」『モーパッサン短編集Ⅱ』(モーパッサン著/青柳瑞穂訳/2008年/新潮文庫/新潮社)所収

 

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予告編 次回9月5日(木)公開予定

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次回の作品は

『ピクニック』
 (1936年/フランス/監督:ジャン・ルノワール

家族と出かけたピクニックで男たちから誘惑される若い娘。
動く絵画のような、今年生誕130年のジャン・ルノワール監督作品。

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