この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

街の灯(1931)

盲目の花売り娘に捧げた男の純愛。人の心の美しさをうたうチャップリン不朽の名作。

 

  製作:1931年
  製作国:アメリ
  日本公開:1934年
  監督:チャールズ・チャップリン
  出演:チャールズ・チャップリン、ヴァージニア・チェリル、フローレンス・リー、
     ハリー・マイヤース、 他

  レイティング:一般 

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    窓辺の猫
  名前:不明
  色柄:茶トラ(モノクロのため推定)


◆言葉はいらない

 あまりにも有名なこのチャップリンの映画、感動のラストをほとんどの方がご存知と思いますが、知っている気になってしまって実際は見ていないという方も多いのではないでしょうか。かく申す私も長い間その一人でした。今では結末がわかっていてもやはり涙を流してしまう一本となっています。
 ストーリー作りに着手してから完成するまで3年以上、その間に映画はサイレントからトーキーの時代へと変化します。この映画がアメリカで公開された1931年には日本でも初のトーキー『マダムと女房』(監督:五所平之助)が製作されていますが、『街の灯』は「A COMEDY ROMANCE IN PANTOMIME」とタイトル部分にわざわざ表記されているところから、この頃にはアメリカではトーキーが主流になっていたのではないでしょうか。役者がセリフを発声することなく、効果音や音楽だけが入った字幕付きのサウンド版という形で作られています。チャップリンも日本の小津安二郎監督もトーキーには否定的で、チャップリンが初のトーキー作品『チャップリンの独裁者』を作ったのはずっと後の1940年です。
 ラストの感動に持って行くためには『街の灯』は「トーキーではない」ということが必須だったと言えるでしょう。そのことはまた後ほど。

◆あらすじ

 アメリカのとある街にチョビ髭の浮浪者(チャールズ・チャップリン)がいた。
 ある日道を渡ろうとした浮浪者は、駐車中の自動車が行く手をふさいでいたので、ドアを開けて中を通り、反対側のドアから降りる。その時、美しい花売り娘(ヴァージニア・チェリル)が声をかける。お金持ちが車から降りたと思ったのだ。浮浪者は一輪の花を買おうとして彼女が盲目だと気づくと、彼女の手にコインを握らせてお釣りを受け取らずに去る。
 夜になり、浮浪者は野宿しようと川べりにやって来るが、金持ちの男(ハリー・マイヤース)が身投げを図ろうとするのを見て必死に止める。金持ち男は思いとどまり、浮浪者を親友だと言って豪邸に迎え、愛車をくれるとまで言い出す。
 浮浪者は豪邸の前で花売り娘を見かけ、金持ち男の車で娘をアパートに送り届ける。娘は年老いた祖母(フローレンス・リー)と二人暮らしで、浮浪者のことをお金持ちの紳士だと祖母に話し、好意を抱き始める。そんなとき金持ち男がヨーロッパにしばらく滞在することになり、浮浪者は資金源を失ってしまう。
 その頃、病気で寝ていた花売り娘宛てに、家主から明朝までに家賃を払えないときは立ち退けという手紙が届く。浮浪者は彼女の部屋を訪れ、手紙に気が付くと明朝までにお金を届けると言って出て行く。
 浮浪者は賞金を狙いボクシングの試合に出るがKO負け。そこへ折よく金持ち男が帰国して、事情を話した浮浪者は娘のために千ドルを用立ててもらえる。そのとき金持ち男の屋敷に強盗が忍び込み、浮浪者と金持ち男は強盗を追い払うが、警察が来て大金を持っていた浮浪者は強盗と間違えられてしまう。
 追手を逃れ、翌朝娘のところにやってきた浮浪者は、これで家賃と目の手術をと、娘にお金を渡したあと警察に捕まり、牢屋に入れられてしまう・・・。

◆ストライク!

 花売り娘のアパートは古いつくり。隣の建物なのか、彼女のアパートなのか、建物の1階の一部のトンネル状の通路を通り抜けると外階段があり、そこを上れば娘の部屋のある2階に入れるようになっています。
 金持ち男の車で娘をアパートに送り届けた浮浪者。娘が上る外階段の上には別の部屋の窓があって、そこに茶トラと見える長毛の猫が座っています。部屋に入ろうとする娘の手を取ってうやうやしく口づけをする浮浪者。
「またお送りしてもいいですか」
「いつでもどうぞ」
二人の間には恋が芽生え始めています。
 浮浪者が名残惜しそうに彼女が入っていった部屋を見つめていると、茶トラの猫が窓辺の植木鉢を落っことして浮浪者の頭を直撃。それにもめげず浮浪者は彼女の部屋をのぞき込んでいます。

 テーブルなどの高いところに猫が乗ったとき、小さな物があるとチョンチョンと手で触って落っことすことがよくあるようです。猫は動かない物に対する視力があまりよくないそうなので、とりあえずさわってそれが何かを確かめているうちに落っことしてしまうのかもしれません。
 当ブログのお抱え絵師茜丸の猫は、仏壇に忍び込んでお供えのお茶を飲むそうですが、何一つ倒したり動かしたりしないそうです。猫の仕業と気づく前は、いつの間にかお茶が減っているので不気味だったとか。猫は私たち視覚優位の人間とは全く違う方法で空間を認知し、行動しているのかもしれませんね。
 そんな猫なら植木鉢なんかよけて通るのは朝飯前のはずですが、この茶トラは見事に植木鉢を浮浪者の頭上に落としてみせます。
 猫が登場するのは開始から31分30秒過ぎ頃です。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆花売りの娘

 以前にご紹介した『チャップリンの黄金狂時代』(1925年/監督:チャールズ・チャップリン/以下『黄金狂時代』と表記)と比較してドタバタが抑えられ、よりヒューマンドラマ色が濃くなった作品です。爆笑というよりはクスクス笑いと言ったところ。
 『黄金狂時代』では主人公の男は金の鉱脈を求めて山に入る探検家。『街の灯』では浮浪者です。1929年の大恐慌後、破産してこの主人公のように野宿する人があちこちで見られたようです。タイトル部分のキャスト表記でチャップリンの役は「a tramp(浮浪者、放浪者)」と明記されています。ちなみに似たような名前のあの方のスペルは「a」ではなく「u」ですのでお間違えなきよう。

 この映画でうまいなあと思うのは、花売り娘との出会いです。目の見えない花売り娘が、浮浪者をお金持ちの紳士だと勘違いするために使われるのは自動車。
 浮浪者が誰かの車の中を通ってドアを閉める音で、盲目の娘は誰かが車を降りたと思い、ステータスシンボルである自動車を降りた人、すなわちお金持ち、と勝手に思い込みます。浮浪者は娘から差し出された花を仕方なく買おうとしてぶつかり、娘が道路を手探りしながら落とした花を捜しているのを見て、彼女の目が見えないと悟ると、コインを娘の手に握らせます。
 そのとき車の主が戻って来て車に乗り込み、ドアをバタンと閉めると、娘は花を買ってくれたお金持ちの紳士にお釣りを渡し損ねたと、車の過ぎ去った方を向いてしまいます。浮浪者はお釣りがほしかったのに、声を掛けたら自分が自動車の主のお金持ちではないとばれてしまうので、そーっとその場を離れます。
 この場面をこうして言葉にしましたが、なんとまだるっこしく、くどい説明になってしまうことか。実際の映画には言葉はわずかな字幕以外出てきません。それでいてこの説明以上に、二人の間に生まれる感情を豊かに観客に伝えています。

◆非言語の力

 いつもこのブログで「あらすじ」をまとめるたびに、セリフはよほど印象的でない限り忘れてしまっていたり、重要なヒントがちゃんとセリフの中で言われていたことにあとから見返して初めて気づいたりすることが多いと思い知らされます。
 表情やしぐさ、声の調子などで、直接的に相手に感情などを伝える言語を介さないコミュニケーションを、非言語コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)と呼びますが、チャップリン小津安二郎は、そうした言語を介さないコミュニケーションや表現の力を痛感していたからこそ、トーキーに抵抗したのだと思います。特に1910年代から言葉の垣根を越えたスラップスティックの笑いを届けてきたチャップリンにはその思いが強かったのではないでしょうか。
 後年、チャップリンの名作『ライムライト』(1952年)では、チャップリンの演じる主人公は、自殺未遂のバレリーナを盛んに言葉で励まします。けれども、その言葉はどこか心の奥底まで響いてこないのです。

◆喜劇を生む体

 言葉がいらないといえば、おなじみのドタバタ場面。
 花売り娘のために家賃を工面しようと、ボクシングの試合で賞金を狙う浮浪者。手ごわい相手を前にレフェリーを間に挟んでパンチを繰り出したりと、綿密にリハーサルを繰り返し磨き上げたチャップリン得意のフィジカルなギャグが炸裂。
 けれども、このときチャップリンも40代。彼の初期の映画の、実際より速く見えるスピードが目に焼き付いているせいかもしれませんが、どことなく動きが鈍いのです。のち次第にヒューマンドラマや社会風刺作品を手掛けていくようになるチャップリン。体を張ったスピーディなギャグがきつくなってきた頃なのかもしれません。
 この『街の灯』もノーマルスピードより若干速いのですが、チャップリンは他の出演者に比べると、初期の映画風のカクカクとした動きが際立っています。あの動きはフィルムのコマ数のせいだとばかり思っていましたが、チャップリンに関して言えば、彼がギャグのために磨き体に沁み込ませた芸なのだとハッとしました。偉大なり、喜劇王チャップリン! 彼は体そのものが笑いなのです。

◆沈黙は金

 さて、浮浪者は牢屋を出たあと、彼からもらったお金で手術をして目が見えるようになり、花屋を開いた娘と再会します。娘は浮浪者があの親切にしてくれた紳士だと気づかず、ボロ着の彼を憐れんで花とコインを渡そうと声をかけます。
 この映画が再びトーキーにはない威力を発揮するのはこのときです。娘に話しかけられた浮浪者はもじもじしながら一言も言葉を発しません。言葉を発したら、娘には声であの紳士だとわかってしまうでしょう。感動のクライマックスが成り立つには、浮浪者が声を発しなくても不自然ではないというシチュエーションが必要です。娘がコインを渡そうと浮浪者の手を取って初めて「You?」と気づくラスト。ここに持って行くにはトーキーでは無理なのです。
 このラストのためだけにチャップリンがトーキーではなくサウンド版を選択したのではないかもしれませんが、人間の心のひだを描くには、言葉よりマイムだということを知り尽くしていた彼ならではの選択ではないでしょうか。

◆イマジン

 『黄金狂時代』の記事で『チャップリンの独裁者』の演説について言及しましたが、いまだに世界はその訴えるところに近づいていないどころか、不気味な分断がますます広がっているように見えます。人を陥れ、傷つけるのも言葉であれば、チャップリンの演説のように理想を訴え、人を動かすのも言葉です。けれどもそれは諸刃の剣で、悪にもなり善にもなる可能性を秘めています。
 1通のメールをもらって、それをどう解釈するかで悩んだ経験は誰にもあると思います。良くも取れれば悪くも取れるのが言葉。そこにその言葉の主の微笑みや怒った顔などの情報が伴えば、誰も悩んだり誤解したりすることはないはずです。いわゆる「炎上」には、こんな要因が絡んでいる場合もあるでしょう。デジタル社会になり、言語外の情報をキャッチする機会を私たちは失いつつあります。
 言葉を介さないサイレント映画は、前頭葉ではなくハートに語りかけてきます。私たちは言葉以外のコミュニケーションの力について、あらためて考えるべき時に来ているのかもしれません。


◆関連する過去作品

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予告編 次回10月19日(土)公開予定

「この映画、猫が出てます」をご愛読いただきありがとうございます。

次回の作品は

『街の灯』
 (1931年/アメリカ/
  監督:チャールズ・チャップリン

あの日、自分の手にコインを握らせてくれた男の手のぬくもりを盲目の花売り娘は忘れなかった。
誰もが涙する感動のラスト。

 

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師匠逝く

 このブログで師匠と呼ばせていただいておりました映画評論家の白井佳夫氏が10月5日にお亡くなりになりました。

 師匠には「東京映画村」講座にて親しくご指導いただき、ブログに応援メッセージをいただきながら、最近はお目にかかることがなく「いつか、近いうちに」と考えている間に訃報が飛び込んできてしまいました。

 師匠からいただいたお言葉で忘れられないのは、事細かく隅々まで分析する私の映画レポートに対し「読んだ人が自分にもこれを言わせろ、という余地を残しておかないと。映画評論とはサービス業なんだから」ということでした。

 このブログは評論というスタンスではありませんが、文章をつづりながら師匠のお言葉は常に頭の中にありました。

 師匠、短い間でしたがありがとうございました。

 天国で先に逝った映画人の皆様と楽しく語らってください。

 ご冥福をお祈り申し上げます。

 

猫美人

 

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写楽

江戸時代の絵師・東洲斎写楽とは何者か? 篠田正浩監督が謎に挑む。主演はいま最も熱い真田広之

 

  製作:1995年
  製作国:日本
  日本公開:1995年
  監督:篠田正浩
  出演:真田広之フランキー堺佐野史郎岩下志麻、葉月里緒奈、片岡鶴太郎、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    花里から預かった子猫
  名前:なし 
  色柄:黒
  その他の猫:屋根の上のおとな猫
  色柄:黒

 

◆ハリウッドの将軍

 今年2024年に放映・配信が始まったアメリカ発ドラマ『SHOGUN 将軍』が、9月17日、エミー賞史上初の18部門を受賞。プロデュースならびに主演を務めた真田広之が作品賞・主演男優賞を授与され、話題をさらいました。
 早速反応したのが、このブログのお抱え絵師・東洲斎茜丸。少し後に記事公開の予定だったこの『写楽』が真田広之主演なものですから、繰り上げるよう「早く早く」とせかすこと。茜丸は江戸時代の絵師・東洲斎写楽の子孫を冗談で自称しておりますが、写楽は謎の絵師。活動期間はごくわずかで、実在していたのか、一人の人物ではなかったのではないかと、解明されていない部分が多いのです。ましてや子孫の存在などわかろうはずもなく・・・。
 写楽の代表作は予告編のイラストにも描かれた「三世大谷鬼次の奴江戸兵衛」など。『写楽』は、そんな写楽の正体を自由な推理で描き出したフィクションです。
 1963年に急死した映画監督の川島雄三が、次の作品の主人公として取り上げようとしていたのがこの写楽。川島作品の常連で、写楽を演じるはずだったフランキー堺がその志を受け継ぎ、30年以上を経て企画総指揮、本名の堺正俊で脚色しています。真田広之の主人公写楽のみならず、同時期に活躍した絵師や戯作者などの江戸の文化を彩る実在の人物たち、1835年にできた現存する日本最古の芝居小屋「旧金毘羅大芝居(金丸座)」を使用しての歌舞伎などにも興味の尽きない一本です。

 一般映画ではありますが、喜多川歌麿が描いたとされる春画が出てきます。ぼかしは入っていますが、役者が演じる映像以上になまめかしいので(これぞ絵師の力!)、お子さんとご覧になる場合は注意してください。

◆あらすじ

 寛政3年(1791年)の江戸。
 その日、歌舞伎の舞台で端役を務めていた若者(真田広之)の足が役者が乗った梯子の脚の下敷きになり、骨が砕けてしまう。客席でそれを見ていた大道芸人のおかん(岩下志麻)は、役者ができなくなった若者を大道芸の一座に誘い込む。おかんは若者が舞台でトンボを切っていたので、とんぼという通り名を付ける。
 おかんの一座は、浮世絵や洒落本の版元で大もうけをしている蔦屋重三郎フランキー堺)の店の前で嫌がらせの芸をしたり、蔦屋のお抱え絵師の喜多川歌麿佐野史郎)や、戯作者の山東京伝(さんとう・きょうでん/河原崎長一郎)を連れて蔦屋が遊んでいる吉原に繰り出したりして、騒ぎを起こしていた。吉原での騒ぎのとき、とんぼは花魁に付き従う花里(はなざと/葉月里緒奈)の抱いていた猫を拾って預かる。
 時は寛政の改革の折。贅沢や風紀の乱れへの取締りは厳しく、蔦屋と山東京伝は洒落本をめぐり手鎖と店の規模半減のおとがめを受ける。歌麿はとばっちりを恐れ、別の版元に乗り換える。
 歌麿が逃げ、山東京伝の本も出せなくなり、蔦屋は役者の大首絵(おおくびえ)で起死回生を図ろうと絵師を探し回る。
 ある日蔦屋が声をかけた絵師の一人・鉄蔵(のちの葛飾北斎永澤俊矢)が、隣に住むとんぼの描いたさらし首の絵を蔦屋に持ってくる。その絵の個性にほれ込んだ蔦屋は、とんぼを呼びつけて役者絵を描くよう説得、東洲斎写楽という雅号を与える。蔦屋が許すまで写楽の正体は口外しないことを約束させ、花魁に上り詰めた花里のもとでとんぼを遊ばせる。
 謎の絵師写楽のユニークな役者絵は話題をさらったが、悪評も多かった。当代随一の絵師として花里のもとに入りびたっていた歌麿は、写楽の評判と自分にない個性を不快に思い、手下を使って写楽の正体を突き止めさせる。
 歌麿のもとに連れて来られたとんぼは、花里と一緒に手下の着物を着て廓(くるわ)抜けするよう迫られる。捕まれば激しいリンチに遭うのは必定だが、花里は写楽と逃げることを選ぶ。
 手下に化け、吉原の大門を出る二人。そのとき花里が櫛を落とし、門番に気づかれてしまう・・・。

◆預かった猫

 写楽こととんぼと花里の出会いを取り持ったのは黒猫。花魁のおつきの新造というまだ見習いだった花里は、黒い子猫を抱いて吉原の仲の町を練り歩く花魁道中に加わり、美貌も手伝って人目を引きます。
 その最中におかんたち大道芸人がなだれ込んで、追い出そうとする人々と乱闘になり、花里の手から逃げた子猫が踏みつぶされそうになるのをとんぼが守ります。引き上げていく花里に向かって「預かっておくから心配するな」と叫ぶとんぼ。とんぼと花里には、その短い間にお互い忘れられない想いが生まれます。
 おかんの一座に身を寄せても歌舞伎を諦めきれず、舞台がかかるたびに楽屋裏に通って書き割りの絵を描いたり、役者の絵を描き散らしたりしていたとんぼですが、子猫を花里の分身であるかのように肌身離さず大事にします。
 花里が花魁になりお披露目の当日、とんぼは花魁道中に乱入して歌麿の前に進み出た花里に猫を渡します。お披露目を邪魔され激怒する歌麿。おつきの年配の女が猫をひったくると、力任せにどこかに放り投げてしまいます。
 猫の行方がどうなったのかはわかりませんが、ラスト近く、場末の女郎屋の女郎に落ちぶれた花里を、この世の者かどうかわからないとんぼが見つめ、それをおとなの黒猫が屋根の上からじっと眺めています。とんぼの生死があいまいなラストは、写楽の存在の不確かさを表していると言えるでしょう。
 黒い子猫は18分30秒頃から62分15秒くらいまでの間に何度も登場します。とんぼが書き割りを描く間、邪魔されないよう猫を手桶に入れておくところがほほえましい。おとなの黒猫が出てくるのは134分30秒くらいです。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆世界を熱くする

 『SHOGUN 将軍』のような刀や戦の武士の時代劇とはまた違う、町人文化の時代劇ですが、この映画にかける考証、衣装、道具方など、スタッフの情熱とエネルギーは決して『SHOGUN 将軍』に引けを取らないと思います。エミー賞受賞時の真田広之の日本語のスピーチに、これまで時代劇を継承し支えてくれた人々への感謝やお礼とともに「あなた方から受け継いだ情熱と夢は海を渡り国境を越えました」という一節がありますが、ここにグッと来た時代劇関係者は多かったことでしょう。まさかハリウッドに本物の時代劇を作らせてしまうとは。
 真田広之は、アクション俳優として時代劇映画の出演が多いのですが『たそがれ清兵衛』(2002年/監督:山田洋次)では小太刀の名手の貧乏侍を演じ、室内での抑制された立ち回りと、古武士のような風格がとても印象に残りました。
 このブログで紹介した『怖がる人々』(1994年/監督:和田誠)の第一話「箱の中」での若いサラリーマンや『麻雀放浪記』(1984年/監督:和田誠)など、現代劇では爽やかさを発揮。エミー賞受賞を報じるテレビのバラエティ番組(番組名は失念しました)で、真田広之が教え子の女子高生と道ならぬ恋に引き込まれる教師を演じた『高校教師』(1993年放映)のビデオの一部が流れたとき、その頃を知らない若いタレントがキャーキャー言っていましたっけ。カッコいいですもん、無理もありませんよね。

◆寛政人物往来

 この映画は写楽の周辺の実在の人物がたくさん登場し、彼らのことを予備知識として仕入れておいた方が楽しめると思いますので、簡単に人物紹介をさせていただきます。

【版元】
蔦屋重三郎(1750~1797)演:フランキー堺
 浮世絵や洒落本などを出版・販売する耕書堂のプロデューサー・社長。
【蔦屋に関係する絵師、作家】
喜多川歌麿(1753~1806)演:佐野史郎
 蔦屋のプロデュースで名を成し、美人画の浮世絵で一世を風靡した絵師。
・幾五郎=十返舎一九(1765~1831)演:片岡鶴太郎
 『東海道中膝栗毛』の作者。この映画では上方から江戸に出てくる道中での面白い話をまとめて出版しようとしており、蔦屋の手足となって働く。途中から画風が変わったとされる写楽の絵は、映画では幾五郎が代わって描いたとしている。
・鉄蔵=葛飾北斎(1760~1840)演:永澤俊矢
 ご存知「神奈川沖浪裏」を含む『富嶽三十六景』の作者。映画では歌麿の後釜として絵を描くよう蔦屋から指示されるが、出来上がった絵を見て却下される。
・倉蔵=曲亭(滝沢)馬琴(1767~1848)演:高場隆義
 『南総里見八犬伝』の作者。武家の出で作家を志しているが、映画では硬いものしか書けずに幾五郎や鉄蔵からなめられている。
・俵蔵=鶴屋南北(1755~1829)演:六平直政
 『東海道四谷怪談』などの歌舞伎の台本となる狂言作者(いまの脚本家)。この映画では歌舞伎の裏方を務めていたが、一念発起して上方へ作家修業に向かう。
山東京伝(1761~1816)演:河原崎長一郎
 戯作と呼ばれる通俗小説の作者。映画で描かれているように手鎖の罰を受けるが、曲亭馬琴がその間、手伝いをしたという。
【時代背景に関係する人物】
松平定信(1759~1829)演:坂東八十助
 質素倹約を旨とする寛政の改革を実施した老中。このため、歌舞伎役者に高額の出演料を払ったり、豪華な着物を着るなどといった贅沢は慎まなければならなくなった。
・太田南畝(おおたなんぽ/1749~1823)演:竹中直人
 随筆などを書いた文人狂歌師で御家人寛政の改革で一旦狂歌の筆を置く。写楽の絵が生まれたのは改革の締め付けで民衆の心が冷え切っているからではないかという松平定信の弁に、返す言葉がない。
 
 歌舞伎役者の欠点に近い特徴を極端にデフォルメした写楽の絵は、世に受け入れられず、やがて消えていきます。そんな写楽歌麿といった脚光を浴びる存在に、いつかは俺もと鉄蔵が唇を噛む先に、のち彼のモチーフとなる富士山のシルエットが浮かび上がります。18世紀終盤の江戸で、これらの人々が実際に交流し、刺激し合っていたというのが、写楽という人物の謎解きに終わらないこの映画の面白さです。

 写楽は、現在、能役者の斎藤十郎兵衛(1763~1820)とする説が有力です。この映画では、斎藤十郎兵衛が歌舞伎の舞台の袖でスケッチをしていて、とんぼ・写楽とは別人として描かれています。斎藤十郎兵衛の役をイラストレーターの日比野克彦が務めているのも一興です。

◆絵師の一言

 さて、ドラゴンシリーズに続き、今回も自分の得意ジャンルとして当ブログのお抱え絵師の東洲斎茜丸がこの映画について一筆書いてみたいと申しましたので、以下に掲載させていただきます。茜丸の文章にて、この記事は一巻の終わり~。

 イラストを描かせていただいている東洲斎茜丸です。何を隠そうこの映画の主人公写楽は、私のご先祖さま・・・いえいえ、これは冗談です。
 東洲斎写楽の活躍期間は約10か月あまり。生没年不詳の謎の絵師とされています。阿波徳島藩蜂須賀家お抱えの能役者 斎藤十郎兵衛とする説が、現在では有力とされているようです。一切の余分な物を取り除き本質に迫る、あの大首絵は能という芸に通じるような気がします。
 あんな絵を描いちまった写楽が凄いのはもちろんですが、版元の蔦屋重三郎も凄いお人ですね。時代を超えた目利きなのか、それとも身上半減の罰を食らった後の、ヤケのやんパチなのか(その時の手鎖50日は山東京伝のようですが、映画では蔦重も同様の刑を受けたように描かれていますね)。
 実際の写楽はほとんど謎の人物なので、この映画でも彼の生活は曖昧で掴みどころがありません。同時代の人として、歌麿北斎十返舎一九山東京伝、太田南畝、曲亭(滝沢)馬琴、鶴屋南北、そして蔦屋重三郎などが顔を揃えているけれど、蔦重以外はあまり見せ場のないのが少々物足りないところです。彼らが写楽の登場に、いかに反応したのか、それをもっと見せてほしかったと思います。
 写楽と役者絵を結びつけるためか、彼が稲荷町と呼ばれる歌舞伎の下っ端役者であったようにも描かれていて、歌舞伎界の過酷な上下関係も垣間見せてくれます。当時人気絶頂の五代目団十郎の荒事を、まだ健在だった中村富十郎が気持ちよさそうに演じていて、歌舞伎ファンにも大サービス、といったところでしょうか。
 また、田沼意次の失脚から、権力が老中松平定信に移り、「寛政の改革」とやらが断行されます。生活も豊かで文化華やかな田沼時代から、江戸庶民にとって息がつまるような空気に変わりつつある、そんな時代背景もちゃんと押さえてあります。
 劇中、松平定信がつぶやきますね。「巷ではざれ歌が流行っているとか・・・」と。映画では示されませんでしたが、「白河の 清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき」というアレです。この頃の狂歌は洒落っ気がありますね。もっとも、この狂歌は6年間の改革のずっと後期じゃないでしょうか。江戸の町が灯の消えたようになって、団十郎が舞台から大見えを切っていられた時期じゃありません。
 映画『写楽』は、ストーリーが広がり過ぎてまとまりが悪いような感じもありますが、細かく見てゆくと、枝葉にたくさん見どころがありそうです。個々の登場人物より、あの時代の雰囲気に浸りたい人にはイチオシの映画! と言っておきましょうか。

 

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