彫刻家ロダンの弟子カミーユ・クローデルは、師と恋に溺れ、狂気に落ちておのれの未来を失っていく。
製作:1988年
製作国:フランス
日本公開:1989年
監督:ブルーノ・ニュイッテン
出演:イザベル・アジャーニ、ジェラール・ドパルデュー、マドレーヌ・ロバンソン、
アラン・キュニー、他
レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
◆◆ この映画の猫 ◆◆
役:☆☆(脇役級)
主人公が飼っている猫たち
名前:うち一匹は「グリグリ」
色柄:グレー縞、白黒×2、黒白、茶トラ、白
◆ノーリスク・ノーリターン
今どきの若者はリスクを取らない、そのせいか、恋愛したいと思わない人が増えていると、どこかで聞きました。映画を見る場合、結末を確かめてから見に行く若者も多いそうです。結末をぼかして記事を書いている猫美人としては、エーッという時代です。予期せぬ情動が生まれることを若者は恐れているのでしょうか。
『カミーユ・クローデル』は、リスクを顧みず人生に失敗した女性の映画です。実在する一人の女性彫刻家の伝記的な映画にして、恋愛物語。正直重たい映画ですが、公開当時女性誌などを中心に大々的に取り上げられ、ヒットしました。
美しく才能に恵まれた女性が男性との不毛な関係で人生を棒に振る、だから恋愛はイヤだと言われそうですが、映画として見る分には疑似体験としてたまにはいかがでしょうか。
◆あらすじ
1885年のパリ。
彫刻家として修業中の19歳の美しい女性、カミーユ・クローデル(イザベル・アジャーニ)は、高名な彫刻家のオーギュスト・ロダン(ジェラール・ドパルデュー)の弟子として製作を手伝うことになる。ロダンにはローズ(ダニエル・ルブラン)という事実婚の女性がいたが、ほかの女性にすぐ手を出すことで有名だった。カミーユはロダンに実力を認められるとともに芸術的インスピレーションを与える存在となり、親子ほども年の離れた二人は男と女の関係になる。
カミーユは母(マドレーヌ・ロバンソン)と仲が悪く、父(アラン・キュニー)は彼女の才能を認めて精神的にも金銭的にも応援していたが、ロダンとの仲が深まるにつれカミーユが自身の作品を発表しなくなっていることを憂えていた。カミーユはロダンの子を妊娠するが、ロダンとローズとの三角関係が解消されずに苦しむ。子どもを流産し、作品を作ればロダンの模倣だと言われ、人生がロダンの犠牲となっていることにカミーユは気付く。カミーユはロダンに激しく抗議して別れ、自身のアトリエに引きこもりながら作品を作り続ける。次第に被害妄想や奇行が目立つようになり、ロダンの家に大声で投石したりする。
そんなカミーユを応援する美術商のブロ(フィリップ・クレヴノ)に開いてもらった個展の会場にもカミーユは場違いないでたちで現れ、集まった人々を困惑させる。カミーユは石膏像だけを自宅に送り返させ、片端から破壊してしまう。
やがて、カミーユの生活を支えていた父が亡くなり、カミーユは母と弟(ロラン・グレヴィル)によって精神病院に送られてしまう・・・。
◆増加の一途
166分という長尺のこの映画、猫が出てくるのはようやく121分になろうとするあたり。カミーユが精神に変調をきたし始めてからです。
ロダンと別れ、古いアパートの1階に住居兼アトリエを構えたカミーユ。大理石が入り口から入らないため、ドアを壊して搬入します。窓辺にはぼやっとした縞のあるグレーの猫。ヨーロッパの映画で時々見かける、毛のみっしりと密な猫です。この猫がグリグリという名前だと思います。『猫が行方不明』(1996年/監督:セドリック・クラピッシュ)の猫も同じ名前でしたね。チャーミングな顔の画面いっぱいのアップもサービスで(?)登場します。
搬入した大理石が彫刻として完成に近づいた頃には、近所の男の子がその猫を抱いてそれを眺めていますが、よく見ると床にもう1匹。ドアがないので猫は出入り自由なんですね。
次に猫が出てくるのは133分25秒あたり、同じくカミーユの部屋。このときには猫は白黒、黒白、茶トラと増えていて、ジャーナリストだという女性がインタビューに訪れます。ドアは新しくつけたようですが、カミーユは来訪者を怪しんで釘だらけの棍棒を手にし、なかなかドアを開けません。女性が変な顔をして鼻を押さえているのは、猫の糞尿が室内に放置されてにおうからではないでしょうか。
139分15秒頃には、川が氾濫してカミーユの部屋はすねの高さまで浸水し、そこに美術商のブロがカミーユを助けに来ます。カミーユは中二階で何も知らずに床で寝ていて、その周りに猫がミャーミャー。新顔の白もいます。ブロはカミーユを立ち直らせようと励まし「先に猫を連れ出すよ」と両脇に猫を抱えて舟まで避難します。
猫が出てくるのはここまで。最初の登場から約23分半の間です。時の経過に連れて猫がだんだん増えていくところなど、社会から孤立した人にありがちな部分に目をつけた細かい演出です。
◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆
◆狂気の恋
カミーユ・クローデルの存在が一躍脚光を浴びたのはこの映画によってですが、映画の公開に合わせ雑誌などに掲載された1884年に撮られた彼女の美しく憂鬱そうな顔の写真が、より人々の関心を掻き立てたことは間違いありません。断髪で現代的な面持ちの彼女に、100年後を生きる女性たちが自分たちに重なるものを感じたのでしょう。写真はロダンと知り合う前のものですが、彼女の悲劇的な運命を予感させる暗い目をしています。
カミーユ・クローデルを演じたイザベル・アジャーニは『アデルの恋の物語』(1975年/監督:フランソワ・トリュフォー)で、やはり狂気の恋にのめり込む主人公アデルを演じています。
アデルも実在の女性で、フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの娘。一時恋愛関係にあった兵士を外国にまで追いかけ、彼のアデルに対する気持ちが冷めたのに、それを認めず執拗に付きまとい、ストーカー行為を繰り広げます。アデルも狂気の果てに精神病院に収容され、生涯を閉じます。
『カミーユ・クローデル』の中で、そのユーゴーが亡くなり、国中が悲しみに包まれる場面がありますが、『アデルの恋の物語』でも、アデルがさかんに仕送りを頼んだ父ユーゴーが亡くなるというエピソードが出てきます。ユーゴーが亡くなったのは1885年。カミーユが生きていたのは1864年~1943年、アデルは1830年~1915年と、19世紀中盤から20世紀前半です。二人とも父は名士で裕福、恵まれた少女時代を送ったと思われますが、なぜ恋愛の闇に陥り、狂気を発するまでになってしまったのでしょう。その時代の社会の病理を背負ってしまったのか。
◆病む女
ドロドロ恋愛と言えば日本では紫式部の『源氏物語』に出てくる六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)が有名です。
平安時代の女性は男性が訪ねて来るのを待つ受け身の身。プレイボーイの光源氏は六条御息所のもとに通いますが、六条御息所は源氏より年上で、美貌も教養も家柄もすべて備えた完璧な女性。源氏はだんだん彼女が重くなって足が遠のき、ほかの女性のもとに通います。六条御息所は嫉妬のあまり生霊となってその女性たちに取り憑き、命を奪ったり、死んでからも恨みのために現れたりしたのです。この六条御息所、意外に女性に人気のキャラクターだとか。
カミーユや、アデルや、六条御息所には、美貌や家柄、教養や才能の持ち主という共通点があり、プライドの高い女性だったことがうかがえます。自分はほかの女たちより優れている、なのにあんな女に負けている――傷つけられたプライドは相手への攻撃の刃と化し、惨めさを受け入れられない心は狂気や妖気の煮えたぎる坩堝(るつぼ)となってしまいます。
カミーユやアデルの生きていた19世紀末と言えば、フロイトが活躍した精神分析学のあけぼのの時代です。フロイトは、身体的には異常がないのに歩けなくなるなどのヒステリー患者を治療していましたが、それらの症状が心的な抑圧から来ていて、抑圧されたものを意識化すると症状が消えるという研究を明らかにしました。そうした研究が進んだということは、心を病む人が多かったということを物語ります。
19世紀後半は、女性が自由に人生を選択できる時代ではなく自分の心を抑えざるを得ない状況があった、自分自身の内面を客観視するという精神分析的手法はまだ一般的ではなかった、そのためカミーユやアデルのような深い心の闇に陥る人が少なくなかったのではないかと思います。
◆プライドと妄想
いずれの女性も、恋がこじれ始めたときに相手の男性が誠実に対応していればここまでにはならなかったのでは。
日本では、国立西洋美術館の前庭に「地獄の門」「カレーの市民」が展示され、かつてNHK教育テレビが放送終了時の「君が代」の前に「考える人」の映像を流したりと、知と理性を象徴する彫刻家というイメージのロダンを、『カミーユ・クローデル』は自己本位で逃げてばかりの煮え切らない中年男として描いています。
ロダンの内妻ローズは、服装もけばけばしく、マナーも悪く、もともとはモデル全員に手を付けるという彼のお相手だったのでしょう。そんなローズとロダンと自分の三角関係を象徴するような彫刻をカミーユが作ったのに逆上し、カミーユの作品を自分の真似だ、命がないと言い張るロダン。たまりかねたカミーユがロダンに言い放ったのは「自分を超えられるのがこわいの?」「私をねたんでいるのね!」という言葉。彫刻の才能はロダンより自分の方が上だ、ロダンはそれをねたんでカミーユに弟子の仕事を押し付けて、才能を発揮させないようにし向けたと怒りを爆発させるのです。
カミーユの強烈なプライド。そうだよ、カミーユ。そう思うのだったらそんなオジサンさっさと見限って自分の道を歩めばよいではないか。
けれどもそれは被害妄想の始まりでした。うまくいかないことがあるとすべてロダンの仕業と言い張り、ロダンの存在から自分を解放することができず、才能をいたずらに狂気の中にうずめさせていくカミーユに、ロダンも美術商のブロも手を差し伸べましたが、彼女は立ち直ることができませんでした。
◆長い物語
『アデルの恋の物語』でやり残したことがあったのか、狂気の演技は彼女の体質に合っているのか、原作のカミーユについての評伝を呼んだイザベル・アジャーニが映画化を強く熱望(注)。『カミーユ・クローデル』でセザール賞主演女優賞他を受賞、『アデルの恋の物語』と同じくアカデミー賞主演女優賞にノミネート。監督のブルーノ・ニュイッテンはこれが初監督作品。イザベル・アジャーニと一時結婚していて、この映画当時は別れていたものの、イザベルの要望で彼を監督につけたそうです。ロダンを演じたフランスを代表する俳優ジェラール・ドパルデューは現在ロシア国籍なのだとか。
展開の予想がつく映画で、やはり166分は長い。カミーユと心理的一体感を持って成長し、のち外交官・詩人になり出世する弟ポールの存在も描かれますが、彼の位置づけがわかりづらく、朗読される彼の詩もつまらない。ロダンとのラブシーンも2回で十分。なんとなく雰囲気だけの場面が多すぎると感じます。作曲家のドビュッシーがカミーユに接近するエピソードや彫刻の製作過程なども少し削って・・・猫のシーンもなくてよかったとか⁉
ラストの彼女の老いた写真が痛ましい。若く美しい姿から変貌したこの1枚に彼女の総てが集約されています。
2013年にはジュリエット・ビノシュ主演の『カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇』(監督:ブリュノ・デュモン)という、精神病院に送られてからのカミーユを描いた映画が作られたそうですが、日本未公開とのことです。
(注)DVD『カミーユ・クローデル』「作品解説」より((株)アイ・ヴィー・シー/2011年)
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