この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

カミーユ・クローデル

彫刻家ロダンの弟子カミーユ・クローデルは、師と恋に溺れ、狂気に落ちておのれの未来を失っていく。

 

  製作:1988年
  製作国:フランス
  日本公開:1989年
  監督:ブルーノ・ニュイッテン
  出演:イザベル・アジャーニジェラール・ドパルデュー、マドレーヌ・ロバンソン、
     アラン・キュニー、他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    主人公が飼っている猫たち
  名前:うち一匹は「グリグリ」
  色柄:グレー縞、白黒×2、黒白、茶トラ、白


◆ノーリスク・ノーリターン

 今どきの若者はリスクを取らない、そのせいか、恋愛したいと思わない人が増えていると、どこかで聞きました。映画を見る場合、結末を確かめてから見に行く若者も多いそうです。結末をぼかして記事を書いている猫美人としては、エーッという時代です。予期せぬ情動が生まれることを若者は恐れているのでしょうか。
 『カミーユ・クローデル』は、リスクを顧みず人生に失敗した女性の映画です。実在する一人の女性彫刻家の伝記的な映画にして、恋愛物語。正直重たい映画ですが、公開当時女性誌などを中心に大々的に取り上げられ、ヒットしました。
 美しく才能に恵まれた女性が男性との不毛な関係で人生を棒に振る、だから恋愛はイヤだと言われそうですが、映画として見る分には疑似体験としてたまにはいかがでしょうか。

◆あらすじ

 1885年のパリ。
 彫刻家として修業中の19歳の美しい女性、カミーユ・クローデルイザベル・アジャーニ)は、高名な彫刻家のオーギュスト・ロダンジェラール・ドパルデュー)の弟子として製作を手伝うことになる。ロダンにはローズ(ダニエル・ルブラン)という事実婚の女性がいたが、ほかの女性にすぐ手を出すことで有名だった。カミーユロダンに実力を認められるとともに芸術的インスピレーションを与える存在となり、親子ほども年の離れた二人は男と女の関係になる。
 カミーユは母(マドレーヌ・ロバンソン)と仲が悪く、父(アラン・キュニー)は彼女の才能を認めて精神的にも金銭的にも応援していたが、ロダンとの仲が深まるにつれカミーユが自身の作品を発表しなくなっていることを憂えていた。カミーユロダンの子を妊娠するが、ロダンとローズとの三角関係が解消されずに苦しむ。子どもを流産し、作品を作ればロダンの模倣だと言われ、人生がロダンの犠牲となっていることにカミーユは気付く。カミーユロダンに激しく抗議して別れ、自身のアトリエに引きこもりながら作品を作り続ける。次第に被害妄想や奇行が目立つようになり、ロダンの家に大声で投石したりする。
 そんなカミーユを応援する美術商のブロ(フィリップ・クレヴノ)に開いてもらった個展の会場にもカミーユは場違いないでたちで現れ、集まった人々を困惑させる。カミーユは石膏像だけを自宅に送り返させ、片端から破壊してしまう。
 やがて、カミーユの生活を支えていた父が亡くなり、カミーユは母と弟(ロラン・グレヴィル)によって精神病院に送られてしまう・・・。

◆増加の一途

 166分という長尺のこの映画、猫が出てくるのはようやく121分になろうとするあたり。カミーユが精神に変調をきたし始めてからです。
 ロダンと別れ、古いアパートの1階に住居兼アトリエを構えたカミーユ。大理石が入り口から入らないため、ドアを壊して搬入します。窓辺にはぼやっとした縞のあるグレーの猫。ヨーロッパの映画で時々見かける、毛のみっしりと密な猫です。この猫がグリグリという名前だと思います。『猫が行方不明』(1996年/監督:セドリック・クラピッシュ)の猫も同じ名前でしたね。チャーミングな顔の画面いっぱいのアップもサービスで(?)登場します。
 搬入した大理石が彫刻として完成に近づいた頃には、近所の男の子がその猫を抱いてそれを眺めていますが、よく見ると床にもう1匹。ドアがないので猫は出入り自由なんですね。
 次に猫が出てくるのは133分25秒あたり、同じくカミーユの部屋。このときには猫は白黒、黒白、茶トラと増えていて、ジャーナリストだという女性がインタビューに訪れます。ドアは新しくつけたようですが、カミーユは来訪者を怪しんで釘だらけの棍棒を手にし、なかなかドアを開けません。女性が変な顔をして鼻を押さえているのは、猫の糞尿が室内に放置されてにおうからではないでしょうか。
 139分15秒頃には、川が氾濫してカミーユの部屋はすねの高さまで浸水し、そこに美術商のブロがカミーユを助けに来ます。カミーユは中二階で何も知らずに床で寝ていて、その周りに猫がミャーミャー。新顔の白もいます。ブロはカミーユを立ち直らせようと励まし「先に猫を連れ出すよ」と両脇に猫を抱えて舟まで避難します。
 猫が出てくるのはここまで。最初の登場から約23分半の間です。時の経過に連れて猫がだんだん増えていくところなど、社会から孤立した人にありがちな部分に目をつけた細かい演出です。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆狂気の恋

 カミーユ・クローデルの存在が一躍脚光を浴びたのはこの映画によってですが、映画の公開に合わせ雑誌などに掲載された1884年に撮られた彼女の美しく憂鬱そうな顔の写真が、より人々の関心を掻き立てたことは間違いありません。断髪で現代的な面持ちの彼女に、100年後を生きる女性たちが自分たちに重なるものを感じたのでしょう。写真はロダンと知り合う前のものですが、彼女の悲劇的な運命を予感させる暗い目をしています。
 カミーユ・クローデルを演じたイザベル・アジャーニは『アデルの恋の物語』(1975年/監督:フランソワ・トリュフォー)で、やはり狂気の恋にのめり込む主人公アデルを演じています。
 アデルも実在の女性で、フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの娘。一時恋愛関係にあった兵士を外国にまで追いかけ、彼のアデルに対する気持ちが冷めたのに、それを認めず執拗に付きまとい、ストーカー行為を繰り広げます。アデルも狂気の果てに精神病院に収容され、生涯を閉じます。
 『カミーユ・クローデル』の中で、そのユーゴーが亡くなり、国中が悲しみに包まれる場面がありますが、『アデルの恋の物語』でも、アデルがさかんに仕送りを頼んだ父ユーゴーが亡くなるというエピソードが出てきます。ユーゴーが亡くなったのは1885年。カミーユが生きていたのは1864年~1943年、アデルは1830年~1915年と、19世紀中盤から20世紀前半です。二人とも父は名士で裕福、恵まれた少女時代を送ったと思われますが、なぜ恋愛の闇に陥り、狂気を発するまでになってしまったのでしょう。その時代の社会の病理を背負ってしまったのか。

◆病む女

 ドロドロ恋愛と言えば日本では紫式部の『源氏物語』に出てくる六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)が有名です。
 平安時代の女性は男性が訪ねて来るのを待つ受け身の身。プレイボーイの光源氏六条御息所のもとに通いますが、六条御息所は源氏より年上で、美貌も教養も家柄もすべて備えた完璧な女性。源氏はだんだん彼女が重くなって足が遠のき、ほかの女性のもとに通います。六条御息所は嫉妬のあまり生霊となってその女性たちに取り憑き、命を奪ったり、死んでからも恨みのために現れたりしたのです。この六条御息所、意外に女性に人気のキャラクターだとか。
 カミーユや、アデルや、六条御息所には、美貌や家柄、教養や才能の持ち主という共通点があり、プライドの高い女性だったことがうかがえます。自分はほかの女たちより優れている、なのにあんな女に負けている――傷つけられたプライドは相手への攻撃の刃と化し、惨めさを受け入れられない心は狂気や妖気の煮えたぎる坩堝(るつぼ)となってしまいます。
 カミーユやアデルの生きていた19世紀末と言えば、フロイトが活躍した精神分析学のあけぼのの時代です。フロイトは、身体的には異常がないのに歩けなくなるなどのヒステリー患者を治療していましたが、それらの症状が心的な抑圧から来ていて、抑圧されたものを意識化すると症状が消えるという研究を明らかにしました。そうした研究が進んだということは、心を病む人が多かったということを物語ります。
 19世紀後半は、女性が自由に人生を選択できる時代ではなく自分の心を抑えざるを得ない状況があった、自分自身の内面を客観視するという精神分析的手法はまだ一般的ではなかった、そのためカミーユやアデルのような深い心の闇に陥る人が少なくなかったのではないかと思います。

◆プライドと妄想

 いずれの女性も、恋がこじれ始めたときに相手の男性が誠実に対応していればここまでにはならなかったのでは。
 日本では、国立西洋美術館の前庭に「地獄の門」「カレーの市民」が展示され、かつてNHK教育テレビが放送終了時の「君が代」の前に「考える人」の映像を流したりと、知と理性を象徴する彫刻家というイメージのロダンを、『カミーユ・クローデル』は自己本位で逃げてばかりの煮え切らない中年男として描いています。
 ロダンの内妻ローズは、服装もけばけばしく、マナーも悪く、もともとはモデル全員に手を付けるという彼のお相手だったのでしょう。そんなローズとロダンと自分の三角関係を象徴するような彫刻をカミーユが作ったのに逆上し、カミーユの作品を自分の真似だ、命がないと言い張るロダン。たまりかねたカミーユロダンに言い放ったのは「自分を超えられるのがこわいの?」「私をねたんでいるのね!」という言葉。彫刻の才能はロダンより自分の方が上だ、ロダンはそれをねたんでカミーユに弟子の仕事を押し付けて、才能を発揮させないようにし向けたと怒りを爆発させるのです。
 カミーユの強烈なプライド。そうだよ、カミーユ。そう思うのだったらそんなオジサンさっさと見限って自分の道を歩めばよいではないか。
 けれどもそれは被害妄想の始まりでした。うまくいかないことがあるとすべてロダンの仕業と言い張り、ロダンの存在から自分を解放することができず、才能をいたずらに狂気の中にうずめさせていくカミーユに、ロダンも美術商のブロも手を差し伸べましたが、彼女は立ち直ることができませんでした。

◆長い物語

 『アデルの恋の物語』でやり残したことがあったのか、狂気の演技は彼女の体質に合っているのか、原作のカミーユについての評伝を呼んだイザベル・アジャーニが映画化を強く熱望(注)。『カミーユ・クローデル』でセザール賞主演女優賞他を受賞、『アデルの恋の物語』と同じくアカデミー賞主演女優賞にノミネート。監督のブルーノ・ニュイッテンはこれが初監督作品。イザベル・アジャーニと一時結婚していて、この映画当時は別れていたものの、イザベルの要望で彼を監督につけたそうです。ロダンを演じたフランスを代表する俳優ジェラール・ドパルデューは現在ロシア国籍なのだとか。
 展開の予想がつく映画で、やはり166分は長い。カミーユ心理的一体感を持って成長し、のち外交官・詩人になり出世する弟ポールの存在も描かれますが、彼の位置づけがわかりづらく、朗読される彼の詩もつまらない。ロダンとのラブシーンも2回で十分。なんとなく雰囲気だけの場面が多すぎると感じます。作曲家のドビュッシーカミーユに接近するエピソードや彫刻の製作過程なども少し削って・・・猫のシーンもなくてよかったとか⁉
 ラストの彼女の老いた写真が痛ましい。若く美しい姿から変貌したこの1枚に彼女の総てが集約されています。

 2013年にはジュリエット・ビノシュ主演の『カミーユ・クローデル ある天才彫刻家の悲劇』(監督:ブリュノ・デュモン)という、精神病院に送られてからのカミーユを描いた映画が作られたそうですが、日本未公開とのことです。

(注)DVD『カミーユ・クローデル』「作品解説」より((株)アイ・ヴィー・シー/2011年)

 

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予告編 次回11月11日(月)公開予定

「この映画、猫が出てます」をご愛読いただきありがとうございます。

次回の作品は

カミーユ・クローデル
 (1988年/フランス/
  監督:ブルーノ・ニュイッテン

美しい彫刻家のカミーユは師のロダンとの愛憎に苦しみ、狂気の泥沼にはまってしまう。
イザベル・アジャーニが演じる実話をもとにしたドラマ。

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ハッピーボイス・キラー

連続殺人を犯してしまう青年を駆り立てた、聞こえるはずのない声。
サスペンスとホラーとコメディーが交錯するユニークな映画。

 

  製作:2014年
  製作国:アメリ
  日本公開:2015年
  監督:マルジャン・サトラピ
  出演:ライアン・レイノルズジェマ・アータートンアナ・ケンドリック
     ジャッキー・ウィーヴァー、他

  レイティング:PG-12(12歳未満には成人保護者の助言・指導が必要)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆☆(主役級)
    主人公の飼い猫
  名前:Mr.ウィスカーズ
  色柄:茶トラ
  その他の猫:主人公と仲良くなる女性の猫
  名前:ピッグヘッド
  色柄:黒白


◆後味は悪くない

 久しぶりに猫が主役級に活躍する映画です。原題は『The Voices』。
 映画を見ずに次の「あらすじ」だけを読むと、異常者が猟奇的な連続殺人を犯す、よくある1本と思われるかもしれません。
 しかし、映画を見てみると、これはラブコメか? というようなポップで笑えるシーンが続くかと思えば、シリアスな展開が始まったり、目を覆いたくなるような残酷描写、と、くるくる変化するさまは、月並みな表現ですがまるで万華鏡のよう。人によって、コメディだと言ったり、サスペンスだと言ったり、ホラーだと言ったり、一言で表すのに困る映画でしょう。
 まあ、あまり先入観を持たずに自分の感性にゆだねてご覧になってください。私としては監督のブラックなユーモア感覚にどっぷり浸っていただきたいと思います。

◆あらすじ

 ジェリー(ライアン・レイノルズ)は、水回り製品のメーカーで働き始めたばかりの青年。幻聴を症状とする精神的な病があり、50代くらいの精神科医の女性(ジャッキー・ウィーヴァー)から定期的にセラピーを受け、服薬を欠かさぬよう指導されている。古いボウリング場の事務室を改装した部屋で、犬と猫と暮らしているが、ジェリーの精神世界では彼らが人間の言葉で話しかけてくる。
 ある日、会社の毎年恒例のパーティーの幹事に選ばれたジェリーは、打合せでセクシーなフィオナという女性(ジェマ・アータートン)と知り合う。彼女に惹かれたジェリーは勇気を出して彼女を食事に誘うが、すっぽかされ、一人で車で帰ろうとしたとき偶然フィオナと出会う。彼女を車に乗せて送る途中、大きなシカが車に衝突する。
 ジェリーがナイフで瀕死のシカにとどめを刺し、こわがって逃げ出したフィオナを追いかけたジェリーは、過って彼女を刺してしまう。シカと同じように、ジェリーは苦しむ彼女にとどめを刺す。ジェリーはフィオナの遺体を家に運び、体を小さく切って密閉容器に詰め、首を冷蔵庫にしまう。フィオナの首は生きているときと同じようにペチャクチャと話しかけてくる。
 ジェリーはフィオナの同僚のリサ(アナ・ケンドリック)から好意を持たれ、仲良くなる。サプライズでジェリーの家にケーキを届けに来たリサは、室内に残った血などに気付いて逃げようとするが、はずみからジェリーに殺されてしまい、彼女の首も冷蔵庫にしまわれる。さらに様子を見に来たもう一人の同僚の女の子も犠牲になる。ジェリーは精神科医に助けを求め、彼女を拉致して自室に監禁する。
 パーティーの幹事を一緒に務めた男性社員たちが、ジェリーの部屋を見て警察に通報。ジェリーはメンテナンス用の通路を伝って逃げようとするが・・・。

◆おしゃべりな犬猫

 ジェリーが室内飼いしているのは、マスティフ犬のボスコと茶トラ猫のMr.ウィスカーズ。犬らしく、ジェリーが帰宅すると大喜びで迎えに出るボスコ。一方のMr.ウィスカーズはちょっと離れたところからそんな様子を冷めた目で見ています。2匹ともジェリーとは人間の言葉で話し、しゃべるときは口元にCGが使われています。
 犬のボスコがジェリーに友好的で肯定的なのに対し、Mr.ウィスカーズはジェリーをバカにし、批判的で、悪へとそそのかします。もちろん2匹とも本当は普通の犬と猫で、彼らの言葉はジェリーの心の病から来る幻聴。誰でも人間は自分を肯定する見方と否定する見方との間で、おのれを両価的に評価しているわけですが、ジェリーの場合はそれが外から犬と猫の言葉として聞こえてくるという非現実的な妄想に捉われています。
 ここで猫がネガティブサイドに立っているところが、定番ですが面白い。誰だって犬がしっぽを振って甘えてきたり、寂しいとキューンと鼻を鳴らしたりするのを見ると、彼らの自分に対するシンパシーを疑おうなどという気は起きません。猫の場合はそう単純ではない。何を考えているのかわからない。つり上がった目でこっちを見ている。どうしたって悪役を振るとしたら猫ですよね。そしてまたMr.ウィスカーズ役の猫はとても理知的で聡明そう。人間のようにしゃべり出してもおかしくなさそうな・・・。ジェリーはMr.ウィスカーズに操られるように精神科医から処方されている薬を捨ててしまいます。
 Mr.ウィスカーズを演じた猫はカイロ、ボスコ役の犬はハーミッシュという名前。車に衝突したシカも含め、主人公のジェリーを演じたライアン・レイノルズが声を担当しています。お互い猫好きとわかって仲良くなるリサの飼っている黒白猫のピッグヘッド(頑固の意)は、スパイクという猫が演じています。この猫はジェリーとリサがリサの部屋で一夜を共にしたときも一切しゃべりません。

 ウィスカーといえば、猫の体の部位でかわいいと人気のひげ袋は、ウィスカーパッドと呼ぶそうです。あのひげの付け根の穴が実に整然と幾何学的に並んでいることに、私は子どもの頃から驚嘆し続けています。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆コメディーね

 ジェリーは今どき珍しい真面目青年。堅物そうだけれど根クラなタイプには見えません。職場では会社のイメージカラーの派手なピンクのつなぎの制服を着て出荷担当をしています。ジェリーは何らかの罪を犯して更生のためこの会社で働き始めたようで、雇い主は彼のそうした事情や精神的な病を承知しているらしいことがセリフからうかがえます。
 社内パーティーの幹事に指名され、他部署の女の子と知り合えるとあってジェリーは大張り切り。打合せの前の晩にどんなシャツを着て行こうかとウキウキするジェリーを、Mr.ウィスカーズは、幹事なんてタダ働きさせられるだけ、と冷笑します。
 ジェリーの会社風景といえば・・・フォークリフトが行きかう男ばかりの出荷部のヤードに対し、経理部の女子社員たちは退社時刻が近づくとお化粧なおしに余念なく、女を武器に自信満々なタイプのフィオナ、一見おとなしめだけれどジェリーを一目見て目をつけたリサ、そんな二人から一歩離れて社内恋愛事情を鋭い視線で観察する太めのアリソン(エラ・スミス)と、ツボを得た展開。社内パーティーの打ち合わせで、コンガラインを踊りましょう、というフィオナの提案が通り、音響担当のジェリーとコンビになります。
 ちなみにコンガラインとは、前の人の肩などに手を置いて、一列につながってリズムに合わせてステップを踏む踊り。昭和に育った人ならば「レッツ、キッス」の歌詞で始まる「ジェンカ」のようなダンスと言えばおわかりになるでしょう。
 パーティー当日、会社の廊下で全社員がつながって繰り広げられるコンガライン、ノリノリになったジェリーとフィオナがペアで踊りまくり・・・こりゃ、コメディですわ。

◆ホラーか?

 純情なジェリーはフィオナにのぼせ上ってチャイニーズ・レストランに誘います。ショウが見られるから、と約束した時間になってもフィオナは現れず、中国人のプレスリーブルース・リーの物まねショウが始まります。コメディ調なのは大体ここまで。
 フィオナはダサいジェリーから逃げ回っていたのですが、たまたま自分の車が故障して、レストランから泣きながら車を走らせてきたジェリーに拾われます。
 ここからジェリーの連続殺人が始まってしまうのですが、ジェリーはすっぽかされた恨みからフィオナに殺意を抱いたのではありません。たまたま車に衝突したシカ、そのシカは死にきれず、ジェリーに「殺してくれ」と訴えます。もちろんこれはジェリーの心の声。ジェリーがナイフでシカを殺すのを見て、逃げ出したフィオナを間違って刺してしまい、やはり死にきれないフィオナを苦しませないよう、ジェリーは彼女の息の根を止めてしまうのです。
 リサのときもそうです。たまたまジェリーの部屋に入り、フィオナをバラバラにした痕跡に気付いて逃げようと暴れるリサを突き飛ばすと、リサは頭を打って苦しみ出し、またもやジェリーは彼女にとどめを刺してしまいます。同僚二人が欠勤し、怪しんだ太めのアリソンが訪ねてきたときも、同じようなプロセスが繰り返されたのでしょう。
 彼自身が殺そうと思ったわけでなく、瀕死で苦しむ相手にとどめを刺す、それには彼の少年期の事件が影響しています。

◆サスペンス?

 ジェリーの母親もまた、天使や動物が話しかけてくるという幻聴の持ち主でした。ジェリーの二度目の父はそんな母や、ウサギザルと言って靴下と話すジェリー少年を否定しました。病院に入れられそうになった母親はそれを拒み、自殺しようとしたものの死にきれず、その場にいたジェリーに殺して、と訴えたのです。逆らえずに母を殺したジェリーは、瀕死の者を目の前にするとその記憶がよみがえり、手を下してしまうのでしょう。
 Mr.ウィスカーズやボスコや、殺した女性たちの首が話しかけてくるのは、ジェリー以外の者にとっては妄想にすぎませんが、ジェリーにとっては現実です。それらが話しかけてくることで、ジェリーは自分が生きていることを実感することができたのでしょう。薬が効いているとMr.ウィスカーズもボスコも話しかけてこないただの猫や犬になってしまい、ジェリーはその孤独に耐えきれないのです。冷蔵庫の中の女性たちの首は薬を捨てたジェリーに生き生きと話しかけてくれますが、現実は腐敗が始まっています。

◆そこに幸福が

 警官に踏み込まれたジェリーは逃げようとする途中でガス爆発と火災に巻き込まれ、倒れてしまいます。そのとき、急に画面が真っ白になり、Mr.ウィスカーズとボスコが登場し、ちょっと会話して左右に分かれて画面から消えます。
 そこにジェリーが現れ、ジェリーの母と二度目の父が登場し、続いてフィオナとリサがビシッとハイヒールで決めて立ちはだかります。やがて太めのアリソンが「ハイ!」と加わり、全員そろって歌いながらダンス、ダンス。ジェリーはロイヤルブルーの、みんなはピンクやオレンジの衣装で、コンガラインや、ミュージカルのようなフォーメーションを繰り広げ、満面の笑み。
 これは重たいラストからエンドロールに転換する前の口直しのおまけとか、インド映画のマネだとか、終わった終わった、と思われた方も多いでしょう。
 それでも間違いではないと思いますが、これは天国の描写なのです。
 ジェリーが倒れ、真っ白な画面になったあと、Mr.ウィスカーズとボスコがいなくなる。これはジェリーが死んで彼の妄想も消滅したことを表しています。そして、ジェリーに続き次々現れる人々は、二度目のお父さん以外みんなジェリーが死なせた人たち。そのうちイエス様も現れます。
 こうしてジェリーは苦しみから解放され、天国の雲の上で楽しそうに暮らしている。みんなも「ハッピーソング♪」と歌って踊っている。な~んだ、これでよかったんじゃない、というのがこの映画の締めくくり。
 あっけにとられるブラックユーモアではありませんか。

 マルジャン・サトラピ監督はイラン出身で、漫画家でもあり、フランスで活動している女性。『ペルセポリス』という漫画で国際的な注目を浴び、自ら2007年に初監督作品としてアニメーション映画化したそうです。実写はこの『ハッピーボイス・キラー』と、一部にアニメを使った、バイオリンを壊されて別れた恋人との絆を失う男の物語『チキンとプラム あるバイオリン弾き、最後の夢』(2011年/ヴァンサン・パロノーと共同監督)と、2019年製作、2022年に日本公開された『キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱』の3本だけです。最新作『キュリー夫人・・・』は男性優位の時代の女性先駆者の苦闘とその歴史的立ち位置を描いた伝記映画。真面目一本鎗の演出で、サトラピ監督の個性が見えにくいのが少々残念です。

 

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予告編 次回10月30日(水)公開予定

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次回の作品は

『ハッピーボイス・キラー』(2014年/アメリカ/
 監督:マルジャン・サトラピ

少年時代のトラウマにとらわれた青年に話しかける犬と猫。
ホラーとコメディが交錯するブラックユーモアワールド。

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