「この映画、猫が出てます」をご愛読いただきありがとうございます。
次回の作品は
『たそがれ酒場』(1955年/日本/監督:内田吐夢)
東京のとある酒場に集まる人々のささやかな人生を哀感を込めて描き出す、内田吐夢監督の昭和中期の異色作。
酒場のストリップダンサーをあの津島恵子が熱演。

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恋人のいる国に渡るため自らの皮膚をアート作品化するシリア難民の男。人間の尊厳、身体のモノ化について考えさせられる異色作。
製作:2020年
製作国:チュニジア、フランス、ベルギー、スウェーデン、ドイツ、カタール、
サウジアラビア
日本公開:2021年
監督:カウテール・ベン・ハニア
出演:ヤヤ・マヘイニ、モニカ・ベルッチ、ディア・リアン、ケーン・デ・ボーウ、
ヴィム・デルボア、他
レイティング:一般
◆◆ この映画の猫 ◆◆
役:☆☆(脇役級)
主人公の飼い猫
名前:不明
色柄:茶トラ
前回の記事ではヒトラーから世界を救った男を取り上げましたが、今回は自分の皮膚を売った男。自分の背中を芸術家に提供し、入れ墨を施した生きたアート作品になることで、難民の身から自由を得ようとするシリア人の男の物語です。
親子2代にわたる独裁政権の主で、2024年12月に政権崩壊、ロシアに亡命したと言われているシリアのアサド元大統領が権力を握っていたときの映画ですが、中東情勢や民族問題などに詳しくなくても内容がわからないということはありません。恋愛映画と言ってもよく、一種の戯画として見ていただけるのではないでしょうか。ヨーロッパの人々が難民や中東の人々に対して抱いている差別的意識を遠回しにあぶり出しているところもうかがえます。主人公を作品として展示する、豊かさの殿堂である美術館の美しさにも目を奪われるでしょう。
2011年のシリア。サム・アリ(ヤヤ・マヘイニ)は電車の中で恋人のアビール(ディア・リアン)に求婚し、興奮して思わず「これは革命だ、自由が欲しい」と叫んだのを聞きとがめられ、留置場に収容されてしまう。脱走した彼はアビールの家へ行き、姉の車で一緒にレバノンに逃げようと言うが、良家の娘で今しもベルギーのシリア大使館勤めの外交官とお見合い中のアビールが行けるはずもなかった。
1年後、アビールは見合い相手と結婚してベルギー在住、レバノンに逃げたサムはあるパーティーに潜り込んで食べ物をあさり、シリア難民だと目を付けられる。パーティーの主役で世界的に問題作を発表し続けているベルギー在住の芸術家のジェフリー(ケーン・デ・ボーウ)はサムに声をかけ、サムの背中が欲しいと言う。難民のサム自身をアート作品として商品化し、物になることで外国に渡航も可能となり人間性と自由を取り戻せると、背中にシェンゲン・ビザの入れ墨を入れて展示することを思いついたのだ。シェンゲン・ビザとはシェンゲン協定加盟のヨーロッパ各国へ外国人が行くために必要なビザ。アビールのいるベルギーに行きたい一心で、サムはジェフリーの申し出を承諾する。
背中にビザの入れ墨を彫ったサムは、ブリュッセルのベルギー王立美術館の展覧会で展示されることになった。サムは自分がしていることを隠してアビールと再会するが、勘づいた夫のジアッドがアビールを連れて美術館に来て暴行を働き、サムの嘘がばれる。アビールはサムの宿泊先を訪ねて来るが、それは夫が暴れて美術館に与えた損害について訴訟しないようとりなしてほしいと伝えるためだった。落胆したサムはジェフリーの女性マネジャーでサムの監視役のサラヤ(モニカ・ベルッチ)と付き合っているふりをアビールにしてみせ、二人の連絡は途切れる。
他の美術館に展示され、富豪に買われ、サムはもはや物だった。オークションにかけられたサムは、高額で落札されるとズボンからイヤホンのコードを取り出し叫び声をあげる。自爆テロを連想したのか人々はパニックになって逃げまどい、サムは捕らえられる。そんなサムと弁護士との間で通訳と翻訳を務めたのは、夫と別れたアビールだった・・・。

映画が始まって間もなく、パンツ1枚で横たわって眠るサムの後ろ姿が映ります。のちにシェンゲン・ビザの入れ墨が刻み込まれるムダ肉のない背中。男性にしてはくびれた脇腹のあたりからちょこっと猫の耳がのぞきます。目覚めて茶トラの猫をなでるサム。猫はゴロゴロと喉を鳴らしています。
シリアからレバノン、ベルギーと、転々とするサムですが、シリアで不当逮捕され、レバノンに姉の車で逃げたときも猫を連れて行きます。いえ、連れて行ったというより、姉が車のシートにサムを隠して国境の検問を通過するとき、係官がシートの上にいる猫を見て怪しむことなく車を通し、カムフラージュの役目を果たしたのです。
レバノンで、サムがアビールの結婚式の写真をパソコンで見ているとき猫はパソコンの周りを歩き回っていますが、ベルギーに渡ってからは姿を見せません。とうとうレバノンに置き去りにされたかと思っていたら、ラスト、茶トラは再び姿を現します。サムはヨーロッパで猫を連れて歩けるすべもなかったはずなので、別の猫だとは思いますが、再三私がこのブログで、猫を飼っている人物がどこかへ移動してしまって、その後猫がどうなったかを描いている映画が少ないと言ってきた点からすれば、製作者が猫の存在を忘れていなかったというのは嬉しいことです。イスラム世界で猫は大切にされているからでしょうか。
猫が出てくるのは2分48秒頃、12分24秒頃、13分27秒頃、そして最後の98分30秒頃です。
ところで、この映画はシリアの民主化を巡る内戦を背景としていますが、内戦の中で命がけで猫を守った「シリアの猫男」あるいは「アレッポのキャットマン」と呼ばれる人がいたそうです。詳しくは『シリアで猫を救う』(アラー・アルジャリールwithダイアナ・ダーク著/大塚敦子訳/講談社/2020年)という書籍をご参照ください。

映画の冒頭、美術館に搬入される一枚の額。グラフィックなデザインが施された絵がクローズアップになると、ほくろやかさつきの見える、皮膚とおぼしきものがその色彩の下にあるのが見えます。これはサムの背中のシェンゲン・ビザの入れ墨の部分を切り取った皮膚。この皮膚を収めた額がどうやってここに展示されることになったかを説き起こすように物語は始まります。
良家の令嬢のアビールが親の勧めでお見合いすることになり、電車の中でそれを聞いた庶民のサムは険しい表情になります。その時アビールに「あなたを愛している」と言われ、サムは有頂天。勢いに乗ってその場にいた乗客たちに声をかけ、車内で結婚式を始めてしまいます。サムは、身分違いと思えたアビールが自分を選んでくれたことや、しきたりにのっとって進めなければならない結婚をこんな風に即席で決めたことを、革命や自由にたとえたに過ぎなかったはずですが、政権批判と受け取った乗客が密告し、捕らえられてしまうのです。
ちょうどこの頃からシリア国内で独裁政権に反発する民主化勢力との衝突が激しくなっていて、サムのぶち込まれた留置場は同様の容疑で捕らえられた人々なのか、足の踏み場もありません。国外に逃げる人が増え、アビールは在ベルギーのお見合い相手と結婚することで身の安全を確保します。サムとアビールはレバノンとベルギーに離れ離れになったあとも、ネットを通じてビデオ通話をしていますが、アビールの夫が監視していて自由に話ができません。アビールをそんな夫のもとから救い出したい、と苦しんでいたとき、サムは芸術家のジェフリーと出会うのです。
映画の最後に、2008年に個人コレクションとなったヴィム・デルボアのタトゥー作品「TIM」にインスピレーションを得た、と字幕が出ます。ヴィム・デルボアはベルギー生まれの現代アーティスト。この映画にもシャイな保険会社の男という役柄でちゃんとセリフ入りで出演しています。アーティストというよりサラリーマンにしか見えませんが、実像はジェフリーのように物議をかもす作品を次々と世に送り出していて、「TIM」は2006年に発表したもの。ティム・ステイナーという男性の背中に入れ墨を施し、この映画のサムのように背中を観客に向けて椅子に座らせる作品だそうで、これを見たカウテール・ベン・ハニア監督が映画化を打診したそうです。サムと違い、「TIM」の場合は、ティム自身から体を貸すことを売り込んだとのこと。ティムは、「TIM」をコレクションしているオーナーとの間で、展覧会の開催中は展示作品となるという契約を結んでいるそうです(注1)。
映画では、サムはジェフリーにスカウトされます。ジェフリーは難民というストーリーのあるサム自身がほしい。本来ならばスカウトされるサムの方が強い立場です。けれどもジェフリーが下でに出ることはありません。背中に入れ墨をして展示するという、普通の人間だったら足蹴にするであろう人権軽視の提案を、この難民の男だったらイヤと言わないだろうと、自分の優位性を認識しています。
現代アート作品となったサムの背中は社会にインパクトを与え、シリア難民を守る団体や母親や親戚がサム以上にサムの立場を憂慮し始めますが、サムはそうした騒音をシャットアウト。人妻になったアビールを取り戻すことにしか目を向けません。
アビールの夫が美術館に与えた損害をサムが帳消しにしてからはアビールとは音信不通。その間にシリアにいる母親は内戦で足を失います。
何のために見世物・売り物になったのかと悔やんだサム。オークション会場で逮捕されるとアビールと再会する、という流れは、メロドラマに昔からよくあるパターン。社会の不条理、力による支配・被支配の構図、人間の価値などの問題提起を予想していたこちらとしては、急速に大団円かと拍子抜けしましたが、実はこの後にこの映画最大のひねりが待っています。それはご覧になってお確かめください。
アート作品になることによって、人間「だった」ときにかなわなかった多くのものを手に入れ、人間「として」求めた恋は手に入らないという逆説。このほかにも、サムがオークション会場を騒がせて留置場に入れられたとき、久々に自由になれたとほっとした表情を見せるなど、小さな皮肉がところどころにちりばめられています。正面切ってものを言わないところは「アラブの春」と言われた民主化以前に監督が身につけた姿勢なのでしょうか。
サム役のヤヤ・マヘイニは役にふさわしい引き締まった体もさることながら、への字に引き結んだ口、じっとこらえたような表情で、弱者たるサムをよく表しています。第77回ヴェネツィア国際映画祭オリゾンティ部門男優賞を受賞、本業は弁護士なのだそうです。サムを管理するジェフリーのマネジャーはモニカ・ベルッチ。妖艶な美女といった役どころの多い彼女が、ビジネスに生きる冷徹な女で魅せます(たまに中年女性らしい母性を見せるところも・・・)。
イスラム社会での恋愛・結婚事情は私たちの耳にはあまり届きません。以下は私の断片的な知識に基づく個人的な見解ですので、誤っていたり国によって異なっている場合もあるかもしれませんが、結婚前に性的な接触をすることは戒められているようです。電車の中でサムがアビールの肩に手を回すと、家族の知り合いがいたら、とアビールにたしなめられるのもそんな背景からでしょう。サムのアビールに対する執着は一昔前の日本だったら女々しいと言われかねませんが、イスラム社会で異性を正当に獲得できるのは結婚のときだけ、ひとたび恋をしてしまったら結婚にしか成就の道はないとなると、ダメだったら次の人とそう簡単にはいかないのかもしれません。
監督のカウテール・ベン・ハニアとは英語読みで、検索すると、カウサル・ビン・ハニーヤという母国チュニジアでの読み方が出てきます。ISに参加した姉妹の家族を描いたドキュメンタリー『Four Daughtersフォー・ドーターズ』(2023年)でも脚光を浴びている女性監督。『ハッピーボイス・キラー』(2014年)のマルジャン・サトラピ監督(注2)など、イスラム出身の女性として世界の舞台で情報発信する人が増えているのを頼もしく思います。
(注1)この章の「TIM」に関する記述は下記「MOUVIE WALKER PRESS」の記事を参考にしました。
“皮膚を売った男”は実在した!映画化のきっかけとなった、型破りな芸術家の正体やシリアの内実を知る |最新の映画ニュースならMOVIE WALKER PRESS
(注2)マルジャン・サトラピ監督の映画『チキンとプラム あるバイオリン弾き、最後の夢』(2011年)も、イスラム圏の男性が人妻となった女性を一途に思い続ける物語です。
◆関連する過去作品
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第二次大戦時、ナチスドイツに敢然と立ちはだかった英首相チャーチル。イギリスを率い戦いに燃えた男の、最も輝いた時。
製作:2017年
製作国:イギリス
日本公開:2018年
監督:ジョー・ライト
出演:ゲイリー・オールドマン、ロナルド・ピックアップ、スティーヴン・ディレイン、
ベン・メンデルソーン、他
レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
◆◆ この映画の猫 ◆◆
役:☆(ほんのチョイ役)
チャーチルの飼い猫
名前:不明
色柄: 茶トラ
今年2025年は第二次世界大戦終結から80年。イギリスでは5月5日にロンドンでナチスドイツに対する戦勝80年記念パレードが行われ、バッキンガム宮殿まで行進したとのことです。
1944年、ヨーロッパ戦線ではヒトラー率いるナチスドイツに対し、劣勢に置かれた連合国軍がノルマンディー上陸作戦を決行、形勢を逆転させるきっかけとなりました。作戦が行われた6月6日はD-デイと呼ばれています。
今回の映画の主人公・イギリスの首相ウィンストン・チャーチルはノルマンデイー上陸作戦に反対していました。この映画で描かれるのはそれより前の1940年、チャーチルが首相に就任し、巧みな演説でイギリスをナチスに対する徹底抗戦へと鼓舞したときのエピソードです。
この映画と同時に、チャーチルを描いたもう1本の映画『チャーチル ノルマンディーの決断』(2017年/監督:ジョナサン・テプリツキー)が公開され、ノルマンディー上陸作戦時には過去の人と見なされつつあったチャーチルが描かれています。
今回は、イギリスで今も人気の高い政治家・チャーチルと、第二次大戦時のイギリスを描いた他の映画も合わせ、当時に思いを馳せてみようと思います。
1940年5月、東欧・北欧を占領したヒトラーがベルギー侵攻を目論み、イギリスではヒトラーの動向を見誤ったチェンバレン首相(ロナルド・ピックアップ)の後任選びが白熱化していた。国王ジョージ6世(ベン・メンデルソーン)によって新首相に任命されたのはこれまでに数々の失策を重ねてきた65歳のウィンストン・チャーチル(ゲイリー・オールドマン)。5月13日、就任演説で挙国一致体制を宣言し、徹底抗戦と勝利を訴えるが、閣僚に選任した前首相チェンバレンや外相ハリファックス(スティーヴン・ディレイン)は和平を唱え、彼に反目した。
5月19日、チャーチルはラジオ演説で、どんな犠牲や痛みを伴っても勝たねばならぬ、と国民に呼びかけるが、それは連合国側が劣勢に立たされていることを隠しての演説だった。
5月25日には、30万の英陸軍はフランスの海岸ダンケルクに追い詰められ、全滅を待つばかりとなっていた。チャーチルはハリファックスが勧める和平交渉をはねつけ、フランスのカレーにいた守備隊にドイツ軍を引きつけて、その間に兵士を民間の小型船舶を使って脱出させる作戦を指示する。脱出は辛くも成功するがカレーの守備隊は全滅、イギリス本土へのドイツの侵攻は目前に迫った。強気のチャーチルも和平交渉を視野に入れ、準備を始めさせる。
そんな折、国王ジョージ6世がチャーチルの自宅を訪れる。王は、ヒトラーに対抗できるのはチャーチルだけだと語り、本土決戦を覚悟するなら民衆の意識を探れと言う。地下鉄に乗ったチャーチルは乗客たちに、戦うかヒトラーに頭を下げて和平を望むかを問う。彼らの答えを聞いてチャーチルの迷いは消える。
6月4日、チャーチルは下院で、我々は決して降伏しないと力強く演説する・・・。

太った体に薄い髪、トレードマークの葉巻に山高帽、ちょっとお茶目で憎めないおじさんという印象のチャーチル。ヤルタ会談でアメリカのルーズベルト大統領やソ連のスターリン書記長と共に写った写真は、いまもおそらく歴史の教科書に載っているのではないでしょうか。
何を隠そうチャーチルは大の猫好き。
動物はみな好きだったようで、映画の中でも国王と食事中にテーブルの下にいる犬に食べ物を分けてやっている場面があります。飼っている茶トラの猫とは一緒にベッドにいたり、ベッドの下から出てこないのを心配してのぞきこんだりしています。
『エイリアン』(1979年/監督:リドリー・スコット)のときに、船でネズミを捕えたりする船乗り猫の話をしましたが、チャーチルには第二次大戦中、イギリスの戦艦で船乗り猫をなでている写真があります。ウィキペディアによれば、チャーチルが戦艦プリンス・オブ・ウェールズでアメリカにルーズベルト大統領を訪ねたとき、戦艦の猫ブラッキーは下船するチャーチルと別れの挨拶をし、その後チャーチルと改名され、日本軍に沈められたときにも生き残ったとあります(注1)。
また、NHKで放送された『ヨーロッパ黒猫紀行』では、チャーチルとゆかりの猫の彫刻の話が紹介されています。
ロンドンの超高級ホテルサヴォイの2階のゲストルームに飾ってある、黒猫のカスパーという木彫りの彫刻。19世紀にここで13人で会食したグループの一人が3週間後に拳銃で撃たれて死んでしまったことがあり、以後魔除けとしてカスパーを作って13人での会食には客として席に着かせることにしたというのです。常連のチャーチルはこのカスパーが大好きで、会食の後もカスパーを一緒に連れて行きたがったのだとか(注2)。
猫がチャーチルのベッドの足元にいる場面は開始から6分18秒頃。チャーチルが脚つきのトレーでベッドで朝食をとっているところがイギリスらしいですね。ベッドの下から出てこない猫を呼んでいる場面は10分17秒頃です。

同時期にチャーチルの映画が公開されたとあって、この映画のゲイリー・オールドマンと、『チャーチル ノルマンディーの決断』のブライアン・コックスの、どちらが本物に似ているかということも話題になりました。ゲイリー・オールドマンはアカデミー主演男優賞を受賞。細い顔の彼を丸顔のチャーチルに特殊メイクで変身させたのは、日本人メイクアップアーティストの辻一弘です。彼もアカデミー賞のメイクアップ&ヘアスタイル賞を受賞する運びとなりました。一方、ブライアン・コックスは自前の顔だそうです。
この2作を比べると、『ヒトラーを世界から救った男』の方は、チャーチルの戦時の英雄的リーダー像を浮き彫りにしているのに対し、『ノルマンディーの決断』は人間的な弱さと苦悩にあえぐ姿を描き出しています。
首相となってからついた若い女性秘書を怒鳴り散らし、国王もビクビクする頑固親父ぶりが強調されるのは本作。一方、チャーチルは気分の浮き沈みが激しく、酒を手放さなかったと言われていますが、そんなチャーチルを子どものようになだめ、時には厳しく賢夫人のクレメンティーンが支える姿は『ノルマンディーの決断』の方により具体的に描かれています。
貴族の生まれで子どもの頃から愛国心が強く、政界に進出して第一次大戦前には海軍大臣に就任、イギリスの参戦を強力に主張し、また戦車を生み出すなど、好戦的で引かない性格。ガリポリの戦いを指揮して多くの犠牲者を出し失脚したのち、自ら西部戦線に身を投じ、水を得た魚のように生き生きしたそうです。挫折すると引きこもり、よく絵を描いていたということ。彼の描いた絵をアンジェリーナ・ジョリーが2021年のオークションに出品、12億円で落札されたのだとか(注3)。
映画の中では、1940年5月の首相就任後、3回にわたってチャーチルの演説が出てきます。
最初は5月13日の議会での就任演説、2回目は国民に向けての5月19日のラジオ演説、そして6月4日の下院での演説です。いずれも精神論と言っていい内容ですが、人々が不安と動揺にさいなまれるとき、リーダーの力強い言葉は勇気を奮い立たせ、意識を合わせるためのよりどころとなるもの。一方で、同じく演説の名手ヒトラーが国民を熱狂の渦に巻き込んだように、危険な面も併せ持ちます。
アメリカのジョン・F・ケネディとニクソンの大統領選に当たってのテレビ討論では、話の内容より二人の候補者の見た目の印象が勝敗を左右したと言われています。ナチスはたいまつや鉤十字の旗、行進といった視覚効果を用い、まるで古代の宗教儀式のような眩惑的な陶酔に国民を陥れました。チャーチルは視覚に邪魔されないラジオによって人々の心に語りかけます。
ロシアによるウクライナ侵攻により、ゼレンスキー大統領が引用したチャーチルの感動的な6月の下院演説の一部を映画から抜粋しましょう。
「我々はいかなる犠牲を払っても祖国を守り抜く。我々は海岸で戦う。敵の上陸地点で戦う。野原で 街中で戦う。丘で戦う。
断じて降伏はしない!」
この演説の前、ダンケルクで、イギリスは奇跡的に包囲された兵士たちのほとんどを救出することができました。漁船や遊覧船などあらゆる小型の民間船が協力し、ピストン輸送で兵士たちを沖まで運んだそうですが、なぜかドイツ軍は本格的な攻撃を仕掛けなかったそうです。ドイツ軍の失策とも言える行動はD-デイの際にも見られ、ノルマンディー上陸をみすみす許してしまったと言われています。
ヒトラーはイギリスとは良い関係でいたかったようで和平交渉を打診しますが、この映画にも見られるように、イギリスは大英帝国のプライドをどこの馬の骨ともわからぬヒトラーごときに汚されるのは我慢ならなかったのでしょう。
『チャーチル ノルマンディーの決断』では、アメリカからのちに大統領となるアイゼンハワー将軍がやって来て最新式の周到な上陸作戦を準備し、チャーチルの意見は聞き入れられません。兵士を勇気づけようと戦場に出向くと言い出したチャーチルは迷惑老人といった扱いです。第一次大戦のガリポリの戦いで海岸からの上陸に失敗、何万もの兵士を死なせてしまったチャーチルは、ノルマンディー上陸作戦に悪夢の再現を予感し反対を唱えますが、苦渋の末に承諾します。
ロンドンが空襲を受けると市中に出向いて市民を励まし、戦争中は絶大な支持を得たチャーチルは、戦後すぐの選挙で惨敗、戦時の指導者は役目を終えます。
かつて戦争映画と言えば、シネマスコープの大画面を生かしオールスターで巨額の製作費をかけた大作が花盛りでした。ノルマンディー上陸作戦を描いた『史上最大の作戦』(1962年/監督:ケン・アナキン、アンドリュー・マルトン、ベルンハルト・ヴィッキ)や日本軍の捕虜による鉄橋建設をめぐる『戦場にかける橋』(1957年/監督:デヴィッド・リーン)など、戦勝国の立場から兵士たちを讃える勇ましい集団劇が多かったのですが、近年は兵士や市民個人などに焦点を当てたヒューマンドラマやナチスものが多くなりました。ダンケルクの救出劇は『ダンケルク』(1964年/監督:アンリ・ヴェルヌイユ、2017年/監督:クリストファー・ノーラン)など、何度か映画化されています。
『英国王のスピーチ』(2010年/監督:トム・フーパー)では、吃音のジョージ6世がナチスドイツとの開戦に当たり、言語聴覚士の指導のもと国民に演説をするシーンがクライマックスとなっています。ティモシー・スポールが怖い顔のチャーチルを演じています。
『ミニヴァー夫人』(1941年/監督:ウィリアム・ワイラー)は、銃後のイギリス市民を描いた戦意高揚映画。そこにはチャーチルの演説の精神がそっくり反映されています(アメリカ映画なのですが)。猫が出てくるのでいずれ取り上げましょう。
ちなみにチャーチルは、映画ではローレンス・オリヴィエとヴィヴィアン・リーが主演した不倫の恋の物語『美女ありき』(1940年/監督:アレクサンダー・コルダ)がお気に入りだったのだとか。
(注1)Wikipedia「船乗り猫」より
(注2)NHK「ヨーロッパ黒猫紀行」(2021年6月23日放送)より
(注3)NHK「映像の世紀バタフライエフェクト『チャーチルVSヒトラー』」(2025年4月10日放送)より
※ チャーチルについての記述はこれらのほかWikipedia「ウィンストン・チャーチル」を参考にしました。
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