女地主が亡くなり息子のミルは親族を呼び寄せるが・・・。
ブルジョワ一家の遺産相続とフランス五月革命をめぐる騒動がコメディタッチに描かれる。
製作:1989年
製作国:フランス、イタリア
日本公開:1990年
監督:ルイ・マル
出演:ミシェル・ピッコリ、ミュウ・ミュウ、ミシェル・デュショソワ、
ドミニク・ブラン、他
レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
◆◆ この映画の猫 ◆◆
役:☆☆(脇役級)
女地主のペット
名前:不明
色柄:黒
◆美しの五月
タイトルが数で始まる映画シリーズ最終回は『五月のミル』。
冒頭にも書いたように、1968年5月に起きたフランスの「五月革命」または「五月危機」を背景とした映画です。学生が教育改革を訴えて始めた運動が労働者層に飛び火し、ストライキが広がってフランスの社会機能がマヒ、収束するまでのおよそ1ヶ月間を指しています。
アメリカではベトナム反戦運動、日本では医学部を巡る東大紛争、社会主義国のチェコでは民主化運動など、1968年は、世界同時多発的に若者が体制をひっくり返そうとする運動が繰り広げられた特異な年です。
そんな騒然とした5月に例年通り行われていたカンヌ国際映画祭に、ヌーヴェル・バーグの監督ジャン=リュック・ゴダールとフランソワ・トリュフォーらが乗り込み、ストに連帯、中止させるという事件があり、審査員を務めていたルイ・マル監督はそれに賛同したそうです。
『五月のミル』は主人公のミルの年齢に近づいたルイ・マル監督が、いかにもフランスらしい恋愛模様や個人主義をユーモアを交えて描きながら、1968年を振り返り総括した作品なのかもしれません。
◆あらすじ
南フランスのヴュザック家で、老いた女当主が急死した。同居する長男のミル(ミシェル・ピッコリ)は電話で親戚たちを呼び寄せるが、五月革命のデモやストの真っ最中で、みな集まるにも一苦労。
翌日ミルの娘のカミーユ(ミュウ・ミュウ)が夫と子どもたちと共にやって来る。
ミルの姪のクレール(ドミニク・ブラン)は同性愛の恋人のマリーを連れて、弟のジョルジュ(ミシェル・デュショソワ)は元女優の色っぽい後妻のリリー(ハリエット・ウォルター)を連れて現れる。ストで食べ物が手に入らず、ミルは子どもの頃からの思い出の小川でザリガニを捕まえ、食材にする。ミルと弟の妻のリリーはちょっといいムードになる。
遺産の分配にあたり公証人のダニエルがやって来る。相続権があるのはミルと弟のジョルジュとミルの死んだ妹の娘のクレールの3人。主な遺産はブドウ畑、家、宝石などだったが、家を売るという提案にはミルが強く反対する。ブドウ畑は価値がなく、金目の物はほとんどなかった。その中でお手伝いのアデルに遺産の4分の1を譲るという夫人の遺言が出てきて大騒ぎになる。
葬儀の前夜、ジョルジュの息子のピエールが学生デモを抜け貨物トラックに乗ってやって来る。トラックの運転手の男はそのまま居残り、ピエールは革命の理想を興奮気味に語る。そんなピエールにクレールの恋人のマリーが熱い視線を送る。
葬儀当日、ストのため埋葬や葬儀まで中止になり、冷蔵トラックに夫人の遺体を保管し、下働きの老人に庭に墓穴を掘ってもらうことになる。手持無沙汰で過ごすうちにカップルが入り乱れ、変な雰囲気になってきた夜、近所の工場主のボテロ夫妻が工場が占拠されたと逃げてくる。ブルジョワは左翼の標的になる、家に火をつけられると聞いて、全員で山に逃げ込む。
夜を明かし空腹や言い争いで皆が疲れ切っているところに、お手伝いのアデルがストは終わったと知らせに来る。葬儀は無事終わり、めいめい家に帰って行く。
だが、ボテロはストを隠れ蓑に工場排水を川に流し、ミルがザリガニを捕った小川は死の川になっていた・・・。
◆見守り猫
この映画に登場するのは、亡くなった夫人がかわいがっていた黒猫。夫人はラジオで五月革命のニュースを聞きながら料理をしていたときに体調が急変、階段の踊り場の長椅子まで来て絶命します。そばのテーブルの上でその様子を見ていたのがこの黒猫。長椅子の上で倒れている夫人をお手伝いのアデルが見つけたとき、黒猫は夫人の頬を「起きて」とでも言うかのようになめています。猫の舌はザリザリとした独特な感触。死んだ夫人を演じたポーレット・デュボーは、くすぐったいのを必死にこらえていたことでしょう。
この猫はなかなかいじらしく、書斎に安置された夫人の遺体の足元にいたりして、あたかもかわいがってくれた夫人を見守っているかのよう。一方で公証人のダニエルがミルたちを前に遺産分配についての説明をしているとき、みんなが額を集めている真ん中を通り抜けるという猫らしいデモをしたりします。
葬儀が中止になって、みんながふざけて歌いながら練り歩いて近づくと、耳を思いっきり伏せてシャーッと怒って猫パンチ。ジョルジュがかぶっていたお面が怖かったのでしょうか。
そんな黒猫に、ちょっとエキゾチックな雰囲気があるリリーは「古代エジプトなら主人と埋められるのよ」と話しかけています。
黒猫が最初に登場するのが開始から1分40秒頃、最後の登場は猫パンチの場面で79分過ぎ。その間何度も夫人のそばか、リリーに抱かれる形で登場します。
◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆
◆五月の嵐
映画の中で流れるラジオニュースから、夫人が亡くなったのは5月終わり近くのことでしょう。5月初旬から始まった学生と警察との衝突が中旬には労働者のストライキに波及し、5月下旬には郵便や交通機関がストで機能しなくなるという状況になって、夫人が聞いていたラジオでは学生に対し軍隊が出動するのではと報道されています。交通機関が止まれば物流も止まり、自家用車で移動しようにも給油できず、市民は危険を承知で自宅にガソリンを買いだめしていると葬儀屋から聞いて、ミルは驚きます。
こんな中でお葬式になるというハプニングに、買い置きの食料をお客に回すため、お手伝いのアデルはミルに最低限の食事しか出しません。学生のピエールをトラックに乗せた運転手は、スト中のゴミは誰が回収する、と青臭いピエールらに少し批判的。実際、当時のニュース映像を見るとゴミはまるで災害後の廃棄物のように道端にうず高く積まれています。
発端となった学生運動は、ちょうど第二次大戦後のベビーブームに生まれた人たちが大学生となり、大学への不満とともに旧態依然とした社会体制に反発、社会主義思想を理想と掲げて生まれたもののようです。この前年(1967年)公開のゴダール監督の『中国女』では、フランスの学生が中国共産党の武力による革命を支持し、赤い小冊子『毛主席語録(毛沢東語録)』を文化大革命時の紅衛兵のようにバイブル化する様子を描いていて、五月革命にも影響を与えたそうです。
学生運動に労働者がストライキという形で加わるものの社会が混乱すると、ド・ゴール大統領が議会を解散して国民投票の実施を発表、一連の騒動は5月終わりに沈静化。『五月のミル』ではこれを受けて山に逃げていたミルたちをアデルが迎えに来ます。翌月、ド・ゴールが選挙で信任され、革命の嵐は熱病のように終わりを告げたそうです。この間の社会機能のマヒが一般市民の反発を招いたとも言われているようです。
◆恋人たち
さて、どんな時にも恋を忘れないのがフランス。
子どもたちと下働きの老人をのぞいて、ミルの家に集まった、ミル(60代くらい)、ミルの娘のカミーユ、弟のジョルジュとその妻のリリー、姪のクレールと恋人のマリー、甥のピエール、トラック運転手、公証人のダニエル、お手伝いのアデルの男女5人ずつがムズムズし始めます。
老域にさしかかろうが、死ぬまで恋には現役。ミルはお手伝いのアデルとできていたのに、リリーが現れるとお互いビビッと来てしまいます。公証人のダニエルはカミーユと幼馴染で、結婚を申し込んだこともあり、カミーユの夫が仕事で一旦引き返している間にカミーユに言い寄ります。同性愛のクレールは、相手のマリーがピエールにベッタリになると腹いせにトラック運転手に迫ります。ミルの孫で9歳くらいの女の子のフランソワーズが、大人の会話の中の性に関する内容を「〇〇って何?」と質問してみんなをあわてさせます。
あぶれたのはジョルジュとアデルですが、この二人は結び付きません。アデルには婚約者がいたことがわかり、夫人からもらった遺産を新生活に充てるのか、婚約者を紹介してニッコニコ。
けれども葬儀が終われば何ごともなかったかのように皆それぞれの家に帰っていきます。その時その場のときめきをその場で楽しむのがフランス流? そうした自我が革命の原動力となるのかもしれません。
◆大山鳴動して
強い自我は遺産争いも引き起こし、本来相続権のないカミーユがしゃしゃり出て、おまけにこっそり夫人の指輪をいただき、クレールが激昂(二人とも孫同士)。宝石は娘に譲られるものだから私の死んだ母のもの、と食って掛かります。ミルはミルで、維持管理に金がかかるから家はすぐに売った方がいいとみんなに言われ、「私の思い出を取り上げるな!」とこちらも激怒。家も小川も畑も山も、みんなミルの一部なのです。
財布はほとんど空っぽでも名目上はブルジョワ、革命勢力の焼き討ちに遭うかもしれないと山に逃げ込むミルたち一族は滑稽です。そんな時にもカミーユは宝石類をちゃっかり持ち出し、クレールと泥まみれの取っ組み合いになります。
騒ぎをよそに、ミルはリリーと共に美しいヴュザック家の自然を眺めます。それは失ったら二度と取り戻せない大切な宝物。ミルが自転車を走らせたのどかな野道。5月という季節に植物は命を謳歌し、ツタが絡まる壮麗な家の前には色とりどりの花が咲き乱れます。
葬儀が終わり、後のことはミルに任せて解散となりますが、みんながミルの屋敷に集まってからの顛末はフランスを熱狂の渦に巻き込んだ五月革命にそっくり。古いものを解体しようとした若い勢力、その目的が達せられず散り散りになっていき、何も変わらず元の保守に戻って行く、という・・・。
ミルのもとに静寂が戻ったと見えたのも束の間、工場主のボテロが流した排水のため、小川でおびただしい魚が死んでいます。これは経済優先の資本家が環境を破壊、富の不平等とは別の面での敵だったことを示しているのでしょうか。
◆過ぎにし時
亡くなった夫人の墓穴を庭に掘る下働きの老人の前に感謝を伝えるかのような夫人の霊が現れ、誰もいなくなって静かになった古い家の中に夫人の霊が弾くピアノの音が響きます。ミルは最後に、夫人、つまり母の霊とダンスを踊るのですが、仮にルイ・マル監督がミルを自身と重ね合わせていたとすると、監督の失われつつある過去への憧憬、来し方行く末への想いをそこに見ることができます。
「齢六十に近づいて、この作品を集大成の位置に置けるだろうか。あのとき映画祭に乗り込んだゴダールは難解でとんがった映画ばかり作るようになった。ヌーヴェル・バーグと息巻いていたトリュフォーは逆に商業映画に進んで『未知との遭遇』(1977年/監督:スティーヴン・スピルバーグ)なんかに出たりしている(注)。長生きしたら自分はどうしようか・・・」
などとルイ・マル監督は思ったかどうか。
『さよなら子供たち』(1988年)で自身の子ども時代を振り返り、『五月のミル』で老境と死を描き、1992年の『ダメージ』でエロスを描いて1995年11月に63歳でルイ・マル没。このブログで取り上げた『死刑台のエレベーター』(1957年)や『地下鉄のザジ』(1960年)など数々の名作を遺し、今年2025年は没後30年です。たぶん、猫好きだったのではないかと私は思っています。
(注)科学者のラコーム役で出演しています。
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