亡き父から託された大金を守る子どもたちをニセ伝道師が追い詰める。35年の眠りの後に日本公開された恐怖のおとぎ話。
製作:1955年
製作国:アメリカ
日本公開:1990年
監督:チャールズ・ロートン
出演:ロバート・ミッチャム、シェリー・ウィンタース、リリアン・ギッシュ、
ビリー・チャピン、ピーター・グレイヴス、他
レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
◆◆ この映画の猫 ◆◆
役:☆(ほんのチョイ役)
みなしごたちが暮らす家の猫
名前:不明
色柄:茶トラ(モノクロのため推定)
◆怖いおじさん
毎年夏にはホラー映画を取り上げてまいりましたが、この8月はある意味ホラーよりもっと謎めいた、怖いおじさんが出てくる映画を2本ご紹介します。
1本目の今回は『狩人の夜』。
1955年のアメリカでの公開当時は興行的にも批評的にも芳しくなかったそうなのですが、その後じわじわと注目が集まり出し、未公開だった日本では1990年と実に35年後に初公開されるはこびになったのだそうです。
ちょっと眠そうな顔のロバート・ミッチャムが演じる主人公のハリー・パウエルは、キリスト教の伝道師を自称しながら殺人を重ねるシリアルキラー。デイヴィス・グラッブの原作小説は発売後すぐにアメリカ全土でベストセラーになったそうですが、それにもかかわらず映画が振るわなかったとなると、初めて監督に挑戦したイギリスの名優チャールズ・ロートンの内心はいかばかりだったか。二度と監督の椅子に座らなかったということから、その落胆ぶりがわかろうというものです。
けれどもフィルム・ノワールとしての陰鬱でコントラストの強い映像、残酷で風刺的なおとぎ話のような趣、それに何より主人公の強烈な個性が、じわじわと見た者を侵食し、静かな熱狂の熾火(おきび)となったのではないでしょうか。
一度見ると忘れられないトラウマ映画。原題は原作小説そのまま『The Night of the Hunter』です。
◆あらすじ
大恐慌直後のアメリカ。オハイオ川沿いの町クリーサップ。銀行強盗を働き二人を殺したベン・ハーパー(ピーター・グレイヴス)が自宅へ逃げ帰る。ベンは息子のジョン(ビリー・チャピン)とその妹の幼いパールに奪った1万ドルを託し、誰にも隠し場所を言うなと誓わせる。すぐに捕まったベンは、刑務所に入れられ死刑が確定する。
同じ房に、窃盗で捕まったニセ伝道師のハリー・パウエル(ロバート・ミッチャム)がいた。子どもについてのベンの寝言を、盗んだ金の隠し場所のヒントだとにらんだハリーは、ベンの死刑執行後、出所してベンの家に向かう。
ベンの妻のウィラ(シェリー・ウィンタース)に、ハリーはベンのいた刑務所の牧師だったと偽って近づく。ウィラと末っ子のパールや町の人々はすぐにハリーと親しくなったが、兄のジョンは警戒心をあらわにした。実はハリーは未亡人に接近し、金を奪って殺すという犯罪を20人以上に対して重ねていた。
ハリーはウィラと結婚したが、初夜にも指一本触れず、女性の肉体を嫌悪する。ウィラは彼に洗脳されていく。
ウィラが仕事で遅くなった夜、ハリーはジョンとパールに金のありかを問いただす。口を割らない兄妹に怒りを覚えたハリーは帰宅したウィラを責めてナイフで殺し、子どもたちが寝ている間に車ごと川に沈めてしまう。ハリーはウィラが車で出て行ってしまったと周囲に嘘をつく。
三人だけになった家でハリーは兄妹をナイフで追い詰める。やむを得ず金はパールがいつも抱いている人形に隠してあると言ったとき、人形を奪おうとしたハリーをジョンが地下室に閉じ込めて、パールと一緒に小舟で川に逃げる。追ってきたハリーは舟を取り逃がすが、農夫を殺して奪った馬で川沿いに二人を追い続ける。
ジョンとパールは、とある岸辺でクーパー(リリアン・ギッシュ)という初老の女性に拾われる。クーパーはみなしごたちを引き取って自宅で養っている勝ち気な未亡人だった。
その家に、ハリーがジョンたちの父だと訪ねてくる。クーパーはハリーの怪しさを見抜き、ショットガンを突き付けて追い払う。夜、クーパーと子どもたちが警戒して立てこもる家にハリーが再びやって来る・・・。

◆猫は何を?
いままで取り上げた作品の中でも、これはトップクラスの瞬猫映画。
終盤近く、クーパーの家にハリーが忍び寄ると、クーパーは子どもたちに階段に隠れなさい、と指示します。その子どもたちと入れ替わるように2階からまだ若い茶トラ猫が階段を駈け下りてきます。スマホのストップウォッチで計測すると0.88秒。猫が出るのはここだけですからまばたき厳禁ですよ。
この猫の登場のあと、以下のようにわかりにくい部分が続きます。
階段を上がる子どもたちの足が猫とすれ違う映像にハリーの「子どもをよこせ」というセリフが重なります。
映像は「なぜ?」とショットガンを構えるクーパーのアップに切り替わり、すぐに食堂のテーブルや飾り棚を映した引きの映像に変わって、「あんたには関係ない」と言うハリーと「3つ数える間に出て行きなさい」と言うクーパーの声が飛び交います。
直後、突然フギャーッという猫の怒り狂った声が聞こえ、画面手前に恐怖にこわばった顔のハリーの上半身がびっくり箱の人形のように下から飛び出します。
すぐさまショットガンを発砲し、当たったのかしらという顔をするクーパー。するとおびえた獣のようなハリーの奇妙な悲鳴が聞こえ、脱兎のごとく向かいの納屋に逃げ込む彼の後ろ姿が映ります。
このときの猫の叫びとハリーが顔を出すことの間にどんな関係があるのかがよくわからないのです。
部屋に忍び込んでテーブルの脚のあたりに身を低くしていたハリーが、闇で目が利かなかったところに猫が来て知らずに踏んづけ、怒った猫に驚いて思わず顔を上げたのか?
極度の猫嫌いだったハリーが猫に出くわし、恐怖ですくんでしまって顔を上げたのか?
私としては、ハリー猫嫌い説を取りたいと思っています。
猫嫌いの人の中には、蛇蝎(だかつ/ヘビとサソリのこと)の如く猫を怖がる人がいます。思い出していただきたいのはこのブログで紹介した『黒猫』(1934年/監督:エドガー・G・ウルマー)でベラ・ルゴシが演じたヴィトス。彼は極端な猫恐怖症のため、友人が飼っている黒猫が現れたとき体を硬直させ、反射的にナイフを投げて殺してしまいます。
私の解釈はこうです。
ハリーも極度の猫嫌いという設定。そこで猫とハリーがバッタリ出会い、ハリーが猫を見ただけで金縛りにあってしまうという映像を撮ろうとした。けれども猫の方がどうしてもその場に合った芝居をしてくれない。そこで映像はあきらめ怒った猫の音声を使用し、猫と何かあったと想像させることにした。クーパーに発砲されたあとハリーが異様な悲鳴をあげて逃げるのは、猫に対する恐怖で頭が真っ白になったところに発砲され、完全にパニックになったから・・・。
原作を読めば、このときの猫とハリーの状況はきちんと説明されているのかもしれません。けれどもここでは、監督が四苦八苦して工夫した部分から何を表現しようとしていたのかを想像する方が楽しいと思えます。100人の観客が見れば100通りの解釈が生まれるかもしれません。そして猫とロバート・ミッチャムのNG映像を想像するのもまた一興。画面にはわずか0.88秒しか映らなかった猫がこれだけ波紋を呼ぶというのも面白いではありませんか。
◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆HATE
映画の始まり、星空をバックに聖書に基づくクーパーの説教を聞く子供たちの顔。そしてクーパーが「羊の皮をまとった偽預言者に気を付けよ。中身は貪欲な狼である」と説くと、ヘリコプターによる空中撮影で、かくれんぼをしている別の子どもたちが映ります。そのとき隠れようとした一人が死んでいる女性を発見します。
再びクーパーの説教が聞こえると、川沿いを走る自動車を空中撮影が追い、お金を貯めた未亡人を次々手にかけたことについて、運転しながら神と対話する牧師姿のハリーが映ります。彼はその殺人を神の命令と言っています。
ハリーは殺人そのものを快楽として楽しむのではなく、また女性に性的暴行をしたりはしません。彼は女性が男性を意識して身を飾ったり媚びを売ったりすることが許せないのです。その彼はわざわざストリップ劇場に行って、舞台で妖しく踊る女性を見ながら、指一本一本にHATE(憎悪)と入れ墨した左手の拳を力いっぱい握りしめ、飛び出しナイフの刃を突き出します。彼は知恵の木の実を食べるようアダムをそそのかしたイヴを憎むが如く、女性の男性に対する誘惑的なふるまいを憎悪し、神の名のもとに懲罰として殺害する恐ろしい殺人鬼であることが明かされます。
◆愚かな存在
普通ならこうした設定ではハリーは100%悪で、彼と出会う女性や子どもは完全な被害者として描かれるはずです。けれども、この映画で女性は全く悪くないとされているかというとそうとも言えず、女性を愚かな者とするハリー的視点を内包しているように思えます。
初夜のベッドでウィラは、ハリーに子を産むため以外の快楽を求める行為は神に禁じられていると言われ、もう子どもがほしくないならと拒まれ、ハリーに洗脳されるまま自分を罪深い女だと伝道集会で演説したりするようになってしまいます。ハリーを愛してしまったウィラにはハリーの正体を見抜くことができません。殺害され川に沈められた映像は実にショッキングです。
クーパーの養っている子どもたちの中でお年頃のルビーは町でハリーと出会い、きれいだとおだてられてポーっとなって、ジョンたち兄妹がクーパーの家にいることを明かしたり、ハリーが逮捕されてもなお彼に対するのぼせた気持ちを捨てようとしません。
ハリーにだまされない女性がクーパー。彼女は聖書を精読し神の言葉から学び、衝動や感情に流されない合理的な精神をもっています。男性としてハリーを見ようとすることなく人間としての本質を見抜く目が、自分と子どもたちを守ります。
ハリーは愚かで欲深な存在である女性を殺します。けれどもその反対のクーパーと無垢の象徴である子どもを殺すことはできません。その物語の構図は、殺されるのはその者が悪いからだ、というハリーの考え方をなぞっているようにも思えます。それがこの映画を二重に怖いものにしています。
◆愛と憎しみ
ウィラが川の中で物言わぬ姿となったのと並び、おそれを伴う神秘的な美しさを感じさせるのは、幼いジョンとパールの川下りの光景です。疲れて眠る子どもたちを運ぶ舟が行く沿岸に、ヒキガエル、ミミズク、ウサギやキツネといった動物たちが現れます。そこに子守歌が重なり、マザーグースの絵本のような幻想的な映像が静かに繰り広げられます。その彼方に月をバックに馬に乗ったハリーのシルエットが浮かぶ恐怖・・・。
ハリーは逮捕されます。そのとき見せた兄のジョンの反応は意外なものです。ジョンを真に苦しめていたものは、ハリーではなかったのではないかと思わせる示唆に富んだ展開。
監督のイギリス出身のチャールズ・ロートンは1962年に亡くなっているので、知らない方も多いかもしれませんね。俳優として1930年代からハリウッドで活躍し、演劇の本場イギリスでは舞台俳優として活動していたそうです。ちょっと鈍重そうに見える唇の突き出た個性的な顔で、『運命の饗宴』(1942年/監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ)の指揮者や『情婦』(1957年/監督:ビリー・ワイルダー)の弁護士、『スパルタカス』(1960年/監督:スタンリー・キューブリック)のグラッカスなどの味わいある演技に「イギリス俳優」を感じることができるでしょう。
アメリカではテレビ(それ以前はラジオ)を使ってキリスト教を伝道する伝道師がいて、今も熱狂的な支持者を集めているそうです。裏で政治に影響を与えているのもこれらキリスト教福音派の人たちだというのは昨今の大統領選でよく言われるようになりましたね。
言い忘れましたが、ハリーの右手の指にはLOVEの入れ墨があり、これと左手のHATEが取っ組み合いをしてLOVEが勝つというパフォーマンスでハリーは伝道師として人気を集めていました。それを見て「何それ」という顔をしたのはクーパーさん。神よ、羊の皮をかぶって舌なめずりしている狼を見抜く彼女の如き賢さを、どうぞお授けくださいませ。
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