この映画、猫が出てます

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山猫(完全復元版)

19世紀後半のイタリア統一戦争を背景に、貴族社会の終焉と自らの死を思う一人の公爵の姿を描く。終盤の舞踏会の場面は圧巻。

 

  製作:1963年
  製作国:イタリア・フランス
  日本公開:2004年
  監督:ルキノ・ヴィスコンティ
  出演:バート・ランカスターアラン・ドロンクラウディア・カルディナーレ
     パオロ・ストッパ、ルチッラ・モルラッキ、他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    ①娼婦の猫 ②道端の猫
  名前:不明
  色柄:①白黒、②茶白


◆めくるめく美

 今年2026年に生誕120年、没後50年となる貴族出身の映画監督ルキノ・ヴィスコンティが、おのれの出自の最後の光芒を描いたと言えるのが『山猫』。タイトルの「山猫」は、高貴なる動物をシンボルとする存在、貴族を指しています。貴族の支配する世の中から民衆の意思が社会を動かす時代へと急速に変貌する中、主人公の公爵はおのれの世界が過去のものになりつつあるのを悟り、できれば早く静かな死を迎えたいと願うのです。
 その貴族社会の象徴と言えるのが、映画のラストで30分以上続く絢爛たる舞踏会の場面。『山猫』と言えば見た人は誰でもこのシーンを思い浮かべるのではないでしょうか。ワルツの音楽は、編集者が偶然見つけヴィスコティにプレゼントした、ヴェルディ直筆の楽譜「ピアノのためのワルツ」をオーケストラ用に編曲したもの。
 カンヌ国際映画祭で最優秀パルム・ドールに輝いた3時間以上に及ぶこの映画は、上映時間が長すぎるとして英語吹替で161分に短縮された国際版が公開されたのですが、今回の「完全復元版」とはそれを2003年にオリジナルのイタリア語版に復元したものです。
 イタリアの当時の情勢や歴史を知らないと3時間の上映時間は苦しいのではないかと思うかもしれませんが、貴族出身の監督ならではの贅を尽くした情景描写の部分が多く、歴史の授業のような映画ではありませんので、恐れず映像に没頭してみてください。
 昨2025年9月に亡くなったクラウディア・カルディナーレの野性味あふれる個性も、貴族社会に混ざり込む新しい血を象徴するにふさわしいと言えましょう。ヴィスコンティの美学を堪能できる1本です。

◆あらすじ

 シチリア島の貴族サリーナ公爵家の当主ファブリツィオ(バート・ランカスター)は、活動的な甥のタンクレーディアラン・ドロン)に目をかけていた。タンクレーディは貴族の身ながらイタリア統一を目指してシチリアに上陸したガリバルディ義勇軍に加わり、王国軍を向こうに回して戦っていた。ファブリツィオの娘コンチェッタ(ルチッラ・モルラッキ)はそんなタンクレーディとの結婚を望んでいたが、ファブリツィオはタンクレーディのような野心家にはおとなしい娘は合わないと思い、縁談を進めようとしなかった。
 サリーナ公爵家が名士を集めてパーティを開いたとき、招待された地元のセダーラ市長(パオロ・ストッパ)は妻の代わりに娘のアンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)を連れて来る。ファブリツィオは彼女の獣のような美しさに驚いたが、誰よりもその魅力にひかれたのはタンクレーディだった。タンクレーディはアンジェリカとの縁組を伯父のファブリツィオに依頼し、ファブリツィオも彼女こそタンクレーディにふさわしいと考え、承諾する。
 タンクレーディガリバルディ義勇軍からサルデーニャ王国側に乗り換え、戦闘がおさまったあとは政治家として権力を手にしようとする。シチリアが王国側に統合されることが住民投票で決まり、貧しいシチリアのために政治家になって立ち上がらないかとファブリツィオも言われたが、断った。
 そんな中で、近くの貴族が舞踏会を開催する。ファブリツィオ一家、タンクレーディ、アンジェリカも招かれ、ファブリツィオとアンジェリカの踊るワルツは皆の目を釘付けにする。
 宴が終わり、ファブリツィオは馬車を断り、歩いて屋敷まで帰る。夜空の金星を見上げ、いつになったらそのおそばに行けるのかと、ファブリツィオは話しかける・・・。

◆街猫

 『山猫』というタイトルながら、登場するのは普通の猫。
 ファブリツィオは、ある日シチリアの最大の都市パレルモに向かいます。目的は娼婦と遊ぶため。公爵は7人の子どもがいるにもかかわらず、妻のへそすら見たことがないとご不満で、娼館に通っています。勝手知ったる様子でとある家を訪ねると、応対に出たなじみの娼婦が白黒ハチワレの子猫(かわいい!)を抱いて現れます。
 ファブリツィオの屋敷では、立派な犬が何頭も家族の周りに誇らしげに侍っています。つやつやと黒光りする犬、俊敏で賢そうな猟犬たちは、もはや貴族の一員です。猫は下層の庶民のお供です。
 ラスト、ファブリツィオが舞踏会を後にし、一人でシチリアのわびしい家が立ち並ぶ一角を歩いていると、1匹の茶白の猫がどこからともなく現れます。猫は距離を保ちながらも何かねだりたそうですが、ニャーと3回鳴いてもファブリツィオは猫と関わろうとしません。
 この猫は偶然出演してしまった地元の猫でしょう。ファブリツィオ役のバート・ランカスターは、猫に話しかけられたとき何を考えたのでしょうか。
「あ、猫だ。邪魔するな。ここで撮影は中断かな。いや、カットの声がかからない。アドリブでこの猫に何かリアクションを起こそうか。まさかヴィスコンティがそんな芝居を許すはずがない。ここは打合せ通りあの路地に向かってただ歩いて行くべきだ・・・」
とか?
 完成した映画には、路地の奥の闇の中にファブリツィオの後ろ姿が消えた後も、猫の小さな姿が手前に残っています。そしてそこにFin(終わり)の字がかぶるのです。心なしか、ただファブリツィオが消えていくだけより、それを見送る猫の存在が彼の憂いを際立たせているように思えます。
 名作映画のラストをちゃっかり飾った茶白猫。いまもその子孫はシチリアに生きているのでしょうか。
 娼婦が猫を抱いて現れるのは13分45秒頃、ラスト近くで茶白が登場するのは184分15秒頃です。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆三色旗

 今年2026年、冬季オリンピック開催地となるイタリア。以前、私はイタリアがどうやって今のイタリアになったのかが全然わかっていないことに気づき、イタリアの歴史の本を読んだのですが、それでもよくわかりませんでした。大雑把に言えば、中世から近世にかけ都市国家が乱立し統一の機運がなかった上に、日本のような島国と違い近隣諸国の争いに巻き込まれたり、小国同士で戦争をしていると宗教や民族が異なる勢力がその隙に攻めてきたりと常にうごめいていて、いまのイタリアの実態はなかったというのが、この映画で描かれる統一戦争前の歴史と言っていいと思います。
 19世紀半ばの民族主義の台頭を受けて、イタリア統一のための戦いが始まり、周辺国との駆け引きを経て北部イタリアのサルデーニャ王国に中部イタリアが併合され、さらにガリバルディが征服したシチリアナポリサルデーニャ王国に帰属させるかどうかの住民投票が実施され、ガリバルディシチリアナポリを王国に献上、おおよそ今のイタリアの形になった、というのがこの映画の背景です。統一運動のシンボルとなった三色旗がいまのイタリア国旗の元となっています。
 アラン・ドロン演じるタンクレーディはイタリア統一を目指すガリバルディ義勇軍に加わりブルボン朝シチリア王国と戦います。その行動は自分に累が及ぶかもしれないのですが、そんなタンクレーディをファブリツィオがかわいがる、その理由がひとつの謎とも言えます。

◆壊す者

 ファブリツィオは当主としてサリーナ公爵家をどうやって守ろうかということより新しい秩序に期待を抱いていたようです。典型的な俗物である市長のセダーラが娘のアンジェリカを連れてきたとき、野性的で美しいことは美しいけれど、エレガントな作法やマナーを身につけていないアンジェリカは、名士が並ぶ食事の会場で下品な高笑いをして顰蹙(ひんしゅく)を買います。けれどもファブリツィオはそんな彼女とタンクレーディの結婚を後押しするのです。
 貴族としての伝統を壊すようなタンクレーディやアンジェリカ。監督のルキノ=ヴィスコンティは彼らに自分自身を投影していたのかもしれません。
 ヴィスコンティは若い頃、競走馬のオーナーや厩舎経営を経て、その後映画関係者と知り合い、映画の世界に足を踏み入れます。デザイナーのココ・シャネルに愛され、彼女を介してピカソジャン・コクトーらのフランスの芸術家たちとも親交を結び、映画ばかりでなく、芝居やオペラ、バレエの演出も手掛け、オペラ歌手のマリア・カラスも指導したという、貴族としては型破りな人生を送った人です。秩序や伝統的な価値を転倒させて新風を吹き込むトリックスターのような存在とも言えます。
 そんな自分を肯定したいという気持ちが、タンクレーディやアンジェリカを受け入れるファブリツィオに反映されていたとは言えないでしょうか。

◆宴の陰で

 一方で、ファブリツィオは、金や名誉に執着したり、品性の劣る者には眉をひそめます。舞踏会の招待客のギャル群が控室でキャアキャアはしゃいでいるのを猿のようだと言い、アンジェリカをタンクレーディに嫁がせたならあの土地をもらいたいと算段するアンジェリカの父を軽蔑します。
 「山猫や獅子が支配する時代が終わり、ジャッカルや羊が取って代わる」と、貴族の高貴な精神が遠のき、人々がおのれの利得に食いついて、群れて行動をする時代におののくファブリツィオ。見どころのある若者と思ったタンクレーディも、ガリバルディ義勇軍サルデーニャ王国に下ると、さっさと勝ち馬に乗り換えてけろっとしています。
 かつて食事の席で大笑いをしたアンジェリカは次第に洗練されたマナーを身に着け、舞踏会の日にはファブリツィオと踊らせてもらうまでに磨かれていきます。何を信じたらよいのか、ファブリツィオは混乱してきます。
 アンジェリカに圧倒されたかのようにワルツを踊るファブリツィオ。その二人の姿は、雄弁に新旧交代の時代が来たことを物語っています。けれども、花嫁衣裳と見まごう白いドレスのアンジェリカと正装のファブリツィオは、あたかも結婚式の新郎新婦のような、異質なものの新たな融合を象徴していると見えなくもありません。
 ヴィスコンティは舞踏会の場面を借りてファブリツィオの葛藤を描こうとしています。けれどもなまじワンカットで自然光、30分以上という力を注いで舞踏会を撮影したことにより、観客はその映像の絢爛さを追うことに夢中になって、ファブリツィオの内面に心を傾けることがおろそかになったように思います。
 『山猫』はヴィスコンティ自身の出自へのレクイエム、観客にとっては舞踏会の記憶。終始ヴィスコンティの美学が貫かれた映像が何よりも圧倒的で、当初ファブリツィオが変化を求めようとしていたときから、最後は憂愁に沈んでしまった心の動きに寄り添うのは難しかったのではないでしょうか。
 逆に言えば、他のどの監督も描けない贅沢な美の体験こそが、この映画を唯一無二のものにしていると言っていいと思います。

◆69歳にて死す

 以前、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1946年/監督:テイ・ガーネット)の記事の中でヴィスコンティ監督版(1942年)をご紹介しましたね。この作品で監督デビュー後、『揺れる大地』(1948年)や『若者のすべて』(1960年)などのいわゆるネオレアリズモ作品群を経て、後年はこの『山猫』や『ルートヴィヒ』(1972年)『家族の肖像』(1974年)といった、貴族社会や家族を舞台に、頽廃的な美、老いや死を感じさせる作品が展開します。ヴィスコンティ監督は自身が同性愛者であることを公表していたそうですが、それを感じさせる耽美的な映像も少なくありません。
 『ベニスに死す』(1971年)では、世界で一番美しい少年と言われたビョルン・アンドレセンが起用されましたが、彼もまた昨2025年10月に亡くなってしまいました。トーマス・マンによる原作小説ですが、彼の小説を映画化するのはヴィスコンティの夢だったそうです。原作のバレエ化でトーマス・マンに会ったときは、さしものヴィスコンティも緊張で真っ青だったのだとか。
 『山猫』で主役を演じたバート・ランカスターは『家族の肖像』で再びヴィスコンティ作品の主役を務めます。これも時代と人の変化に死を思う男性の役。バート・ランカスターは、ヴィスコンティとの仕事は人間同士の関係においても俳優と監督との関係においても、素晴らしい経験だったと語っています(注)。

 さて、『揺れる大地』のときに資金調達のため家の宝石類を質屋に持ち込んだというヴィスコンティは、結婚していず子どもがありません。死後、その財産は誰が継いだのか、生前、映画につぎ込んでしまったのか・・・?

 

(注)ヴィスコンティ監督についての記述は1999年RAIイタリア放送協会製作のTVドキュメンタリー「ルキノ・ヴィスコンティ」を参考にしました。

◆関連する過去記事

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ジャン・ルノワールに映画の手ほどきを受けたヴィスコンティが助監督を務めた作品

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