この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

鍵(1959年)

性の衰えを自覚した高齢の男が妻と若い男性を接近させ、自らの欲望を掻き立てようとあがく。
谷崎潤一郎の原作小説を大胆にアレンジした初の映画化作品。

 

  製作:1959年
  製作国:日本
  日本公開:1959年
  監督:市川崑
  出演:中村鴈治郎(二代目)、京マチ子、仲代達矢、叶順子、北林谷栄、他
  レイティング:一般

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    家に迷い込んで来る猫
  名前:不明
  色柄:キジシロ


◆性と猫と文豪

 高齢者の愛と性を描いた映画の第二弾、明るいコメディだった第一弾の『ラブリー・オールドメン』(1993年/監督:ドナルド・ペトリ)とはがらりと変わり、今回は性に執着する老人を描いた粘着質な文芸映画です。
 原作は文豪谷崎潤一郎の同名の小説。谷崎潤一郎は、エロスを描いた耽美的な作品が殊に有名ですが、この『鍵』は1974年の神代辰巳(くましろたつみ)監督版など何度も映画化されていて、この6月にもいまおかしんじ監督が新作を公開するそうです。市川崑版は最も早く、谷崎潤一郎が1956年に小説を発表した直後に映画化。
 その谷崎潤一郎は映画好きにして猫好き。大衆演劇をそのまま移し替えたような初期の日本映画に芸術的・技術的革新をもたらそうと意欲を燃やし、自らの原作・脚本で『アマチュア倶楽部』(1920年)という映画をトーマス・栗原に監督させたりしています。
 猫好きならではの話としては、猫を溺愛するダメ男が主人公の『猫と庄造と二人のをんな』という小説を1936年に発表。『夫婦善哉』(めおとぜんざい/1955年)の豊田四郎監督・森繁久彌の主人公で1956年に映画化されています。谷崎潤一郎はこの主人公以上に猫を溺愛していたと伝えられ、わたしも谷崎が猫を抱いている写真をいくつか見たことがあります。
 『鍵』に話を戻すと、スタイリッシュでクールな市川崑監督と1958年の『炎上』以後何度もコンビを組んだ名カメラマン宮川一夫による、映像美に重点を置いた演出と、後半に進むにつれミステリー風の展開が見られます。妻と夫が相手に読まれることを意識しながら日記を書いて盗み読み、鍵は日記がしまってある机のもの、という原作小説とはかなり異なりますが、この頃の日本映画の威信を感じる重厚な出来。昨2025年に亡くなった仲代達矢が準主役を演じています。

◆あらすじ

 京都に住む高名な古美術の鑑定家の剣持(けんもち/中村鴈治郎/なかむらがんじろう)は、年齢からくる性の衰えに悩んでいた。まだ若く美しい妻(京マチ子)に執着する剣持は、主治医の助手の木村(仲代達矢)と妻を故意に接近させ、その嫉妬と刺激から自身の衰えを回復させようと試みていた。
 夫婦は娘の敏子(叶順子)と木村を結婚させようともしていたが、二人ともすでに肉体関係があるものの愛を感じてはいなかった。敏子は木村と母の間を薄々疑っている。
 剣持が敏子と会わせようと木村を自宅に招いたある夜、酔った妻は風呂で脳貧血を起こし意識を失ってしまう。剣持は木村に手伝わせ妻を抱え上げてベッドで介抱し、木村にわざと妻の裸を見せる。翌日剣持は木村を電話で呼び出して妻の診察を頼み、物陰から盗み見をする。目を覚ました妻は起きようとして力が抜け木村の背中にしがみつき、思わずそのままかき抱く。
 妻は寝言で木村の名を呼ぶようになる。娘の敏子は木村を家に呼ぶために自分がダシに使われるのが嫌で家を出て下宿する。木村と母は隠れて外で会うようになり、敏子は剣持に告げ口するが、剣持はそのことよりも木村を妻に近づけようとした自分の思惑について敏子に図星を指されたことにカッとする。
 血圧が異常に高くなった剣持は急に敏子と木村の結婚を進めようとする。敏子は以前から母が木村を利用して血圧の高い父を興奮させ、死なせようとしていたのではないかと思う。
 木村とは何もないとしおらしい態度を見せる妻をいとおしく感じ、抱こうとしたとき、剣持は脳出血を起こして動けなくなってしまう。妻はさっそく家の鍵を木村に渡し、木村は忍んで通って来る。
 しばらく自宅で療養した後に剣持は亡くなる。妻はきれいさっぱり後を片付け、木村と敏子を結婚させ、ここで木村に医院を開業させて情事を続けるつもりだった。だが、剣持家の財産だけが目当てだった木村は、それが全くないことに気づく・・・。

◆愛情の有無

 俗っぽい煩悩が着物を着て歩いているようなオヤジを演じ、1950~60年代の、日本映画が最も勢いのあった時期に活躍した二代目中村鴈治郎。歌舞伎俳優、人間国宝、中村玉緒の父です。映画では、成瀬巳喜男の『鰯雲』(1958年)や小津安二郎の『浮草』(1959年)『小早川家の秋』(1961年)ほか、金、女などへの執着を強く抱きつつ、表向き涼しい顔をして生きているといった、いわゆるむっつりなんとか系の役柄が彼の十八番と言えるでしょう。この映画の剣持もまさにそうした人物です。
 その剣持には歩くときに軽い跛行があります。
 妻は剣持に対して決して嫌な顔を見せたりしない慎み深く従順な女で、こちらも本心を隠して生きている人物です。けれども、彼女の剣持に対する感情がわかる描写が映画の開始後間もなく存在します。
 16分40秒あたりで、剣持家のお勝手の土間の外に1匹の猫がやってきます。それを見た妻は、「まあかわいい、あんたどこのうちの猫や」と言ってミルクをあげようとするのですが、ミルクのお皿に近づいて来た猫が足を引きずっているのを見ると急に顔色を変え、首元をつかんで乱暴に表に放り出してしまいます。猫の歩き方で剣持を連想し、彼への嫌悪感から猫を邪険に扱ったのです。急に冷たくされた猫が気の毒です。
 市川崑監督の映画では、このブログの第2回目で『吾輩は猫である』(1975年)を取り上げましたが、現在の常識ではちょっと考えられないようなひどい仕打ちを猫にしています。どうもこの人は猫ばかりでなく動物が好きではなかったのではないでしょうか。以前、別の記事で書きましたが、監督の被写体に対する感情というものは不思議とスクリーンを通して観客に伝わるものです。
 演出上の狙いもあるでしょうが、動物に対して愛情のある人ならこういう描き方はしないのでは、と再び思ってしまった短い場面。かわいい猫や、と言ったわりにはかわいく撮れていないのは、カメラの宮川一夫も猫が好きではなかったのでしょうか。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆老化とは

 映画が始まると、正面を向いた仲代達矢の木村が観客に視線を向けながら「人間の老衰減少は10歳から始まるそうです」と老化についてのレクチャーを始めます。50歳では微妙な味がわからなくなり、70歳では人間の力の3分の2を失ってしまう・・・など、当時の学説に基づく説明のようで、現在の知見とは異なるところもあると思いますが、じっと目を見つめて言われてしまうとドキリとしてしまいます。
 わたしも眼の衰えは、映画館で映画を見たり、こうしてパソコンを凝視したりしていると嫌でも痛感させられます。そうそう、高齢者の生理的特性としてトイレが近くなるというものもあります。映画館は一部の高齢者には結構ハードルの高い場所なのではないでしょうか。
 
 木村のレクチャーはさておき、この正面切った仲代達矢の顔は粉をはたいたような白さです。中村鴈治郎もそんなメイクをしています。そして妻の郁子を演じた京マチ子は虫の触角のような細くつり上がった眉、娘の敏子役の叶順子は鬼のような三角のご太い眉毛です。このようなメイクは、この映画が日常をかけ離れた閉じた特殊な世界の物語であることを強調し、観客をその世界にワープさせる効果を狙ったものと思われます。ちょうどお面をつけて演じるような、日常と虚構の世界を分ける仕掛け。その不自然さがこの主な4人が世間の良識からかけ離れた存在であることを際立たせています。
 敏子は木村が問題外と言うくらい、見た目の悪い娘という設定ですが、演じた叶順子はとても美しい人です。これが彼女の真の姿だとはお思いになりませんように。
 主役4人以外はナチュラルメイク、と書きかけて、いつも実年齢からかけ離れた老婆役を演じていた北林谷栄は、ナチュラルと書いていいのか特殊メイクと書いた方がいいのか、手が止まってしまいました。「あらすじ」では触れませんでしたが、北林谷栄は後半のキーとなる剣持家のお手伝いのはなを演じています。80代くらいに見えますが、このとき48歳。1963年の『にっぽん昆虫記』(監督:今村昌平)に実年齢相当の姿で出演していますので、関心のある方はそちらをご覧ください。

◆国宝の味

 妻の肉体に執着する剣持、若い男を妻に近づけ、それによって自分の欲情を掻き立てようとする屈折した心理。妻の人格を考えず、一方的に自分の所有物、性の道具としてしか見ていません。木村が剣持の財産を目当てに敏子と結婚し、開業するのが目的の計算高い男だったからよかったものの(?)、純情な男だったら妻に本気になり、下手をすれば愛の逃避行とか刃傷沙汰になる可能性もあったでしょう。
 木村は単に、剣持が妻の裸の写真がほしいのだと考えて当時まだ珍しかったポラロイドカメラを剣持に渡します。けれども、剣持は撮ってその場で見るポラロイドカメラには関心を持ちません。妻が風呂で気を失っている間に裸にして普通のカメラで撮影し、意図的にきわどいポーズを収めたフィルムを木村に渡して現像を頼むのです。
 木村はやはり剣持から押し付けられた娘の敏子の扱いにくさに閉口しながらも表面上は彼女との交際を続け、将来の開業のために彼女を利用します。大阪のなじみの連れ込み宿に行って母の裸の写真を敏子に見せ、敏子の体もいただくのです。
 その宿のそばの蒸気機関車の車両基地で、車両が連結したり動いたり、汽笛が鳴ったりというのは明らかに性行為のプロセスをなぞらえたもの。機関車の煤が木村と敏子が抱き合う部屋の畳に吹き込んでくるところなどは、リアルタイムに機関車を利用していた人でなければ思いつかないカットでしょう。芸術的なカメラワークがすばらしい。

 けれども、これらの屈折した行為を演じながらも中村鴈治郎がただのいやらしい爺さんとは見えないのが芸の力でしょうか。鴈治郎をこの時代に活躍した同年代の俳優、たとえば長谷川一夫とか滝沢修とか小沢栄太郎とかに置き換えて想像してみても、美術家として芸術的に崇高なものを求めるかのように妻の肉体を賛美しながら、根本でそれを突き動かしているのはただの猥褻な本能、という二重性を出せるのは鴈治郎しかいない、という気にさせられるのです。

◆市川崑劇場

 こうした四者の愛憎渦巻く密室的な展開に風穴を開けるのが、北林谷栄のお手伝いさん・はな。彼女は良かれと思って剣持のために指圧師を呼び、その施術が引き金となって剣持は脳出血を起こしてしまうのです。そのとき、隠れていた妻の本音が奔流となって動き出します。もしかしたら妻の虫の触角のような眉毛は、オスを食べてしまうメスカマキリのような残酷さを表しているのかもしれません。
 妻は自分を抱こうとしてろれつが回らなくなった剣持を前にほくそ笑みます。てきぱきと医師に往診を頼み、氷枕を調え、看護師が泊まり込みで派遣されます。少し話が横道にそれますが、昔の日本映画を見ると急病人が出ても救急車を呼ばず、このように家庭に医師を呼ぶ場面が出てきます。なんで救急車を呼ばないのかと思うかもしれませんが、実は今のように救急車が全国的に配備されたのは1963年以降と、比較的遅いのです。
 派遣されてきた看護師は、この家の人たちが病人のことを心配していない、と敏感に感じます。それに相槌を打つのが、お手伝いのはな。

 愛欲の世界を追ってきた映画は意外な終わり方をします。この映画は谷崎潤一郎ではなく、市川崑劇場。市川崑は直接谷崎から映画化権を買ったそうですが、谷崎が大胆な手の加え方を許したのは、映画好きだったからでしょうか。
 市川崑は4人姉妹を描いた谷崎潤一郎の『細雪』を1983年に映画化しています。こちらはただきれいな女性俳優を並べただけといった当たり障りのない平凡な趣きでした。4人もそろうと諸々の配分など、気を遣うことが多かったのかもしれません。元阪神タイガースの江本孟紀がよかったですね。

 

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