この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

鬼火(1963年)

放蕩にふけり、人生と向き合ってこなかった男が死を選ぶ。
虚無に包まれた男の2日間を追った文芸作品。

 

  製作:1963年
  製作国:フランス
  日本公開:1977年
  監督:ルイ・マル
  出演:モーリス・ロネ、ベルナール・ノエル、ジャンヌ・モロー、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    友人宅の飼い猫
  名前:不明
  色柄:黒


◆鬼火のような人

 今回と次回の2回にわたって、リメイクではないけれど題名(邦題)が同じ映画をお届けします。こういう企画を時々やりたいのですが、同じ題名の映画までは見つけられても両方とも猫が出ているとは限らないので、今回は貴重な機会かもしれません。
 これからご紹介する『鬼火』は陰鬱なフランス映画。「鬼火」という題名から、明るく爽やかな内容が期待できないのは見る前からおわかりかと思います。
 そもそも「鬼火」とは何ぞやと調べてみると、古くからの言い伝えや物語などで語られてきた、原因不明の発光・発火現象を総称してそう呼ぶようです。動物などの死体から出る腐敗ガスが燃焼するケースがあるようですが、墓場などでそうした炎が見られると霊魂と結び付けて気味悪く思われたのでしょう。
 原作小説も映画の原題と同じく『鬼火(LE FEU FOLLET)』ですが、『ゆらめく炎』という題で日本語訳が出版されています(注)。訳者の菅野昭正氏の「あとがき」を引用すると、フランスで「鬼火」とは、“比喩的に使われる場合には、才気煥発だがいささか優柔不断かつ無定見で、あまり当てにならない人間のことを指すらしい”とのこと。“墓場などであちこちに揺れる燐光のうごきかたから、そういう用法が出てきたのだろう”と指摘したうえで、日本語の鬼火にはそうしたイメージが含まれていないので、翻訳の題名をこのようにしたということです。モーリス・ロネが演じる主人公のアランは、まさしくフランスで言う鬼火のような人物です。
 『鬼火』というタイトルの映画は今回ご紹介する2本以外にもあり、また「鬼火」という語がタイトルに入る映画も多数あります。不気味さ、陰気さのつきまとう「鬼火」。次回ご紹介する1本もご覧になったうえで、あなたの『鬼火』はどれか、吟味していただければ幸いです。

◆あらすじ

 アラン(モーリス・ロネ)は、アルコール依存症で療養所に入所中。妻の友人の女性と無断外泊し、7月22日の朝を迎えた。アランは完治していたが、療養所は居心地がよく、居座っている。アランは7月23日に自殺するつもりだった。
 アランは平凡な人生を嫌悪し、働いたことがない。パリで放蕩し、ニューヨークに住み、アメリカ人の妻の収入で生活していたが、彼には十分ではなく、離婚をほのめかして療養のためフランスに戻った。見た目が美しく、知的で身なりもよい彼は女性にもてたが、本当に恋した女性ソランジュ(アレクサンドラ・スチュワルト)とは結婚できず、妻とは不仲である。
 医師は療養所に朝帰りしたアランに、妻とよりを戻し、退所するよう勧めるが、アランは拒む。アランは外出し、以前からの知り合いを訪ね歩く。なじみだったバーやホテルでは、皆アランとの再会を喜んだが、アランが去ると、明るかった彼の変わりようをささやき合った。昔の友人デュブール(ベルナール・ノエル)は地に足をつけた生活をしていた。
 画廊で働くエヴァ(ジャンヌ・モロー)の家を訪ねると、芸術家たちが麻薬におぼれていた。彼らをアランは軽蔑した。政治的な活動をいまも続ける友人たちはごろつきのようだった。
 アランは禁酒を破って酩酊する。愛していたソランジュが結婚したブルジョアの元親友の屋敷で倒れ込んだのち、晩餐会に参加する。客の一人、有名人でソランジュに気のあるブランシオンはあからさまにアランを見下す。アランはソランジュの屋敷での翌日の昼食に誘われる。屈辱とソランジュへの思いにさいなまれアランは療養所に戻る。
 アランは7月23日の朝を迎えた。身の回りの世話をする係に昼までかまわないでくれと言い、身辺の荷物をトランクに詰め、旅支度をする。そのときソランジュから「お昼の約束を忘れないで」と電話がかかって来る・・・。

◆さくらねこ

 40歳前後と見えるアランの若い頃からの友人のデュブール。彼の家を訪ねたとき、小学校高学年と低学年くらいの二人の娘と、少し硬いが美しい妻との堅実な家庭生活が垣間見えます。そこには黒猫がいます。
 黒猫はアランも交え皆が昼食を囲む食卓に、妹の膝に乗って顔をのぞかせ、お裾分けをもらっています。母親は、そうしたお行儀のよくないことをやめさせ、猫を娘の膝から降ろしますが、今度は上の女の子が椅子の下にいる猫にお裾分けします。
 いかにモデル的で安寧の内にある家庭かをとどめのように象徴するペットの存在。そうした生活を忌避して来たアランにとって、理想的な家庭はむしろ欺瞞として感じられたようです。アランはその気持ちをデュブールと二人だけになったときに彼にぶつけますが、この食卓ではお父さんの友だちとして上の女の子にやさしく質問を投げかけます。
 「アルディ好き?」と聞くと姉は首を横に振り、妹がすかさず「シルヴィ・ヴァルタン!」と答えます。父親のデュブールはまだシルヴィ・ヴァルタンを知らず、アランからアイドルだと教わります。60年代、元祖アイドルとされた若者世代のカリスマ的女性歌手。いまも現役で活動し情報を発信している彼女、日本で一番知られている歌はCMソングの「レナウンワンサカ娘」でしょうか。
 おとなが自分はもう古いとショックを受けるのは、こんなふうに若い子から好きな芸能人の名前を聞かされたとき。アランの言ったアルディとは、シルヴィ・ヴァルタンより一足先に人気を集めていた歌手のフランソワーズ・アルディのことだと思います。アランとしては最新流行を口にしたつもりだったのでしょうね。
 この黒猫、よく見ると右耳がカットされています。今ではさくらねこと言って、避妊・去勢手術済みである印として獣医さんが猫の片耳に桜の花びらのように切り込みを入れることはよく知られていますが、この映画の当時の日本では、さくらねこどころか猫に避妊・去勢手術をすることなど一般的に考えられませんでした。わたしが初めて猫の耳カットについて知ったのも今から20年くらい前。この映画の猫の耳カットも今と同じ意味でされていたのかどうかわかりませんが、国によっては耳の先端をまっすぐに切ったりするところもあるようです。カット側が右か左かによって性別を表すとされているものの、私の見たところでは少し昔に手術された猫などは不統一なようです。
 右耳カットの黒猫が出て来るのは映画の真ん中のあたりです。この記事の公開日現在、このブログで取り上げた回数でフランス映画の監督第一位は今回のルイ・マル。それというのも彼が多くの映画に猫を登場させているからです。おそらく彼の周囲には猫がいたと思われる日常的な描写に心が和みます。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆時を選ぶ映画

 映画でも、文学作品でも、その作品に触れるのに好適な年代というものがあると思います。 
 わたしがこの映画を初めて見たのは20代半ば頃だったと思います。当時のわたしにとってこの映画は、内容が理解できないと言うより、字幕なしで見たかのように取っ掛かりのつかめないものでした。ただ茫然と映画館を後にした記憶が残っています。
 そんな経緯から『鬼火』はわたしにとって忘れられない映画という点でトップクラスに属するものとなりました。アレルギーとも言うべき苦手意識をひきずり、その後長い間見ていませんでしたが、〇十年以上の時間を経過したのちあらためて見たとき、アランの内面がわからないでもない自分に気づきました。
 あの頃に比べて多くの映画に触れてきたから、フランス映画のクセを飲み込んだから、一度見ているから、という理由もあるでしょう。けれども、わたしがアランの年齢を追い越し、失敗や後悔といった負の経験を蓄積してきたことが一番大きいと思えます。
 アランの精神状態は明らかにうつです。若く、美しく、知的な容貌で、おそらく中流以上に属していた彼は、遊び仲間にもチヤホヤされていたことでしょう。我が世の春がいつまでも続くかのように青春を手放さないでいる間に、知人たちは自然にそれぞれの道に散っていきます。ふとあるとき、彼は自分が一人で取り残されていることを痛烈に感じたのだと思います。
 アルコール依存は完治したと医者は言っていますが、その依存に陥った根本の部分には何も治療の手が施されていないように見えます。
 いつか自分も特別な人だけがくぐれる門の向こうに行きたいともがくのが青年期。アランの場合は恋したソランジュを自分から手に入れようともせず、無為徒食を絵に描いたように自分が何もしなくても何かがやってくることを夢見ていたのです。ようやく現実に目覚めたとき、残された道はアルコールのみだったのでしょうか。

◆にがい生活

 この映画をあらためて見直したとき、フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』(1960年)を思い浮かべました。この主人公のマルチェッロは、現実とむしろ妥協し過ぎていて、ゴシップ記者としてくだらない生活に首まで浸かっていることに嫌気がさしてきます。ちょうどアランと同じくらいの年頃のはずです。そして、理想的な人生と家庭生活を営んでいるインテリと知り合い、彼を手本に若い頃に抱いた志を奮い起こし、人生を立て直そうと思います。けれども、その人は自殺してしまうのです。
 一方、『鬼火』のアランは堅実な人生を築いたデュブールから、友人として自分と一緒にやりなおそうと親身な忠告を受けたにもかかわらず、耳を貸さず、結局命を絶ってしまいます。ここには書きませんが、映画では知人たちへの恨みや皮肉のこもった遺書を遺します。自殺とは、後に残された者への最大の復讐だということをどこかで読んだ記憶がありますが、アランの遺書はその説そのものです。
 なぜアランは自殺したのかを追究するのは、この映画においてはあまり意味がありません。妻の友人の女性と一夜を共にしたあとに立ち寄ったカフェの労働者階級、ソランジュの嫁いだブルジョア階級、現実からのシェルターともいうべき療養所、妻のいるニューヨーク、どこにも居場所はなく、つのる孤独と敗北感を彼は人のせいにして旅立ちます。逆恨みを受けた人々は遺書に打ちのめされるでしょう。その時初めて、アランはあの世から勝利するのです。
 幼児的な万能感・自己愛が挫折してから最期の日まで、アランに何かできることはなかったのでしょうか。アランの人生観はさておき、この映画はアルコール依存ではなくうつの状態をよく表しています(原作では麻薬中毒となっています)。エネルギーを使い果たし、何もすることができない状態が続くのがうつ病。なおりかけの、何かするエネルギーが溜まってきたときに自殺が多いということです。

◆音楽は語る

 『鬼火』では、ルイ・マル監督の劇映画デビュー作『死刑台のエレベーター』(1957年)の主役のモーリス・ロネとジャンヌ・モローが、年輪の積み増しもそのまま共演している姿を愛しく感じます。市場で一緒に食材を買って、アランが買い物かごを提げて家に行くのが数少ない心温まる場面です。
 『死刑台のエレベーター』では、夜のパリの街をジャンヌ・モローがさまよう場面でマイルス・デイヴィスのジャズが流れ、クールな映画世界を作り出していました。『鬼火』ではエリック・サティのピアノ曲が全体の空気を静かに染め上げています。エリック・サティは名前からも曲からも、現代のポピュラー系作曲家のように感じられますが、19世紀終盤に、いまもよくCMなどで耳にする「君がほしい(ジュ・トゥ・ヴー)」や「ジムノペディ」などの代表作を作曲しています。この映画で最も印象深いのが「3つのグノシエンヌ」。寄る辺ないアランの内面を時として映像より能弁に物語っています。

 

(注)『ゆらめく炎』(作者:ピエール・ドリュー・ラ・ロシェル/訳者/菅野昭正・細田直孝/河出書房新社/1967年)

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