この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

吾輩は猫である

吾輩は主人公である。だから、最初から最後までずっと出ている。猫好き諸君には喜んでほしいのだが、猫の扱い方でちょっと目をつぶりたくなる場面がある。日本映画の歴史の一断面として、少し我慢して見てくれたまえ。

 

  製作:1975年
  製作国:日本
  日本公開:1975年
  監督:市川崑
  出演:仲代達矢波乃久里子伊丹十三岡本信人 他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆☆(主役級)
    苦沙弥先生の飼い猫
  名前:なし
  色柄:ロシアンブルー
  その他の猫:車屋のクロ、二絃琴の師匠の猫・三毛子

◆日本で一番有名な猫

 第1回目の『第三の男』のあとは日本映画をもってこよう、何を選ぼうか、と考えた結果、文豪夏目漱石原作の『吾輩は猫である』を最初に持ってくるのが格としてふさわしいと思い、この映画を選びました。
 断っておきますが、この映画、前回の『第三の男』以上に面白くない・・・かもしれません。原作を読んだ方ならご存じのように、この小説は猫の目を通した人間批判。飼い主の先生とその身の回りの出来事を、猫がいささか皮肉っぽくコメントするから面白いのですが、それを映画化した場合、その面白さがどのように生かされているかが一番の見どころだと思います。監督と脚本の腕が試される一作です。

◆あらすじ

 明治後期、東京の中学の英語教師・珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)先生(仲代達矢)は、友人の迷亭伊丹十三)、門下生の寒月(岡本信人)らと、今日も世間話で時間を潰している。苦沙弥先生の家に迷い込んで住み着いた猫は名前も付けてもらっていない。先生の絵のモデルになったり、隣の車屋の乱暴者の猫・クロにすごまれたり、二絃琴の師匠(緑魔子)の美猫・三毛子のもとに通ったり、と猫らしく自由に徘徊して暮らしている。
 ヒマで気楽に見える苦沙弥先生だが、神経質で、英語教師が嫌で、胃弱に悩まされている。寒月は、金持ちの実業家の令嬢・金田富子(篠ヒロコ)に見染められ、博士になれたら婿に、という話が持ち上がっている。実業家の金田(三波伸介)は、苦沙弥先生の家の裏の落雲館中学に多額の寄付をしているが、そこから野球のボールが先生の庭に飛び込んでは先生の神経をすり減らすし、先生は金田家の成金臭いふるまいが気に入らない。
 金田は寄付金をわいろに大臣の座を手に入れようとしていたのだがかなわず、寒月は故郷で妻をめとり、以前苦沙弥先生の書生だった三平(左とん平)が金田の令嬢と結婚することになった。三平が前祝いにとビールを持って訪れ、苦沙弥先生と友人一同で乾杯する。猫の吾輩は人間がビールで口数が多くなったのを見て、自分も陽気になりたいとコップに残っていたビールを飲んでしまった・・・。

f:id:nekobijin:20210413150141j:plain

◆「吾輩」の猫たち

 日本映画で、ストーリーに猫が絡むものは少ないようです。いまはタレント猫もたくさん登場していますが、この『吾輩は猫である』の頃までは動物プロダクションなどあまりなかったのではないかと思います。『吾輩は猫である』は1936年に山本嘉次郎監督が一度映画化していますが、そちらは見たことがありません。

 吾輩を演じた猫は、ロシアンブルーのティムという猫。オス4歳。ちゃんとタイトルにもクレジットされています。明治時代の日本の猫の話なのに洋猫を使うのはしっくりこないと、公開当時思っていました。いま見ても明治のノラ出身の猫とは思えないけれど、なかなか思索的な顔つきを見せ、一言ありそうな感じがするので採用されたのでしょう。原作の吾輩は「波斯(ペルシャ)産の猫の如く黄を含める淡灰色に漆の如き斑入り」とありますが、ちょっと見当のつかない色柄です。猫の図鑑や猫の毛の色を解説した本などにも、これじゃないかと思われるものは見当たりません。本の表紙や挿絵にも、吾輩の決定版の姿は描かれていないようです。夏目漱石先生の筆はありきたりな描写を嫌うあまり、摩訶不思議な猫像を作り出してしまったのかもしれません。

 車屋のクロ役の猫はその名も同じく黒。オス12歳。原作の「猫中の大王」という形容通りの見事な貫禄。猫界の安部徹です。吾輩あこがれの三毛子役の猫はメス1歳のミーコ。かわいい。悶絶するほどかわいい。吾輩ならずとも胸がときめきます(猫の名前と年齢はウィキペディア吾輩は猫である(映画)」より)。

 いまは、オスもメスも避妊手術を施されている猫が多いですが、このティム君には、立派なオスのタマタマがついています。それを見てお久しぶりと懐かしく、しばし遠い目になってしまいました。
 なお、迷亭役の俳優であり映画監督の伊丹十三は、猫好きで知られていました。

◆猫はなんにも言えないけれど

 冒頭でも言いましたが、この映画では、猫に対する乱暴な行為がいくつも見受けられます。日本文学史上最も敬愛されるべき猫の映画だというのに残念です。
 苦沙弥先生が吾輩に帽子を投げてぶつける、車屋のクロが、おかずのシャケを取ったとおかみさんに蹴飛ばされる、吾輩が手で払いのけられる、襟首をつかんで放り出される、頭を叩かれる(叩かれたとき小さく声を出す様子が映っている)など。車屋のクロが、宿敵のイタチを捕まえるときに最後っ屁の攻撃に遭っても大丈夫なように、石に何度も自分の鼻をぶつけて潰すシーンはひどい。よく見れば、効果音で激しくぶつかったように見せかけているようですが、ハリボテの石に向かって人間がお寺の鐘の撞木のように猫を押さえて何度も往復させて映したようで、ぶつかりそうになる瞬間にさすがのクロも顔をしかめて嫌がっています。かわいそうで見ていられません。

 そして、原作通りビールで酔っぱらった吾輩は水がめに落ちてしまうのですが、本当に猫が水中でもがくさまを映しています。透明の水槽に猫を入れて横から撮影したのだと思いますが、そうまでしておぼれる様子を映像にする必要があったのでしょうか。ティムだったにしろ、スタントの猫だったにしろ、安全に配慮したとは思いますが、一発OKだったのか何度も撮りなおしたのか、などなど、そのときの猫の恐怖を思うと見るに忍びない気持ちです。

◆映画は時代を映す

 漱石先生の原作を読むと、かわいがられてはいるのですが、やはり、蹴とばしたり叩いたりのアクションが描写されています。書生だった三平に至っては猫を煮て食べたことがあると言っています。今のようにペットは家族の一員というより、人様とそれ以下の生き物、という一線が存在していたのでしょう。だからこそ、猫が人間社会を一段高いところから批判的な目で見つめる、という逆説的な面白さが小説『吾輩は猫である』のヒットの理由だと思います。

 昔の日本映画を見ると、猫の扱い方が乱暴なことが多いのに気づきます。抱いていた猫を下ろすとき、飛び降りやすいようにおろしてやるのではなく放り投げたり、襟首を後ろからつかんで持ち上げたり。襟首をつかむのは、猫キックや爪で引っかかれたり噛まれたりの攻撃を受けないためにはよいようですが、おとなの猫が自分の体重を首の皮で支えて吊り上げられるのはいかにも苦しそうです。

 これからもこのブログで取り上げる古い映画に猫を粗末に扱う場面が出てくることがある、ということはお断りしておきます。今とは違う文化だった・・・のです。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

     f:id:nekobijin:20210311123435j:plain

◆誇張された俗悪さ

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。」の有名な書き出しで始まり、全編猫の目で物語られて行く原作小説ですが、映画は猫は猫として擬人化せず、おしまい近くなるまで吾輩のモノローグはありません。つまり、映画では吾輩の目でなく、観客の目が苦沙弥先生とその周囲の人間模様を観察することになります。言ってみれば、どうでもいいことで日々を営んでいる人間の、その滑稽さや哀しさを猫のように一歩離れた目でキャッチできるかどうか、それがこの映画を楽しめるかどうかのキーでしょう。

 けれども、アクセントとして挿入された、苦沙弥先生の子どもがご飯をぐちゃぐちゃにしてしまうところや、金田家の令嬢富子が好物の安倍川餅を下品に食べるところとか、落雲館の生徒が野球のボールを苦沙弥先生の庭に飛び込ませて先生をからかうところなど、誇張された演出が戯画的なおかしさに昇華しきれず、不快な部分もあります。インテリで尊敬されるべき苦沙弥先生(漱石自身)のような人間が世間的な成功には縁がなく、金や欲にまみれ道理をわきまえない俗悪で軽蔑すべき人間が幅を利かせている、という夏目漱石が抱いていた怒りや嘆きは見て取れるのですが、映像化の過程で、人間の俗悪さが原作の滑稽さを通り越して、醜さにまでなっているように思います。このオーバーな演出は、猫の扱いと共にやはり減点ポイントでしょう。

 ついでに、苦沙弥先生の姪の雪江(島田陽子)のセミヌードや金田が二絃琴の師匠とできているというのも観客サービスのおまけ。原作にはありません。

◆原作を読まずしてこの映画を見ることなかれ

 私は、この映画を見る前に、半分くらいまででいいので原作を読んで雰囲気をつかんでおくことをお勧めします。これは人間のどうでもいい日常をやや離れたところから眺めるように作られた映画で、見る側はさらにそれを「眺める」気持ちで見るのが、この映画に合った鑑賞法ではないかと思うのです。先ほども言いましたが、自分自身が猫の目になることが必要なのです。そして、一歩離れた目で人間の営みを分解して見せた市川崑監督の映画に『東京オリンピック』(1965年)があります。記録か芸術かの論争が世間を騒がせました。

 市川崑監督は92歳没と長命だったので、その生涯にたくさんの映画やテレビドラマを残していますが、スタイリッシュで、垢ぬけた演出が見られます(たとえば映画『黒い十人の女』(1961年)、テレビ『木枯し紋次郎』(1972年)など)。市川監督は計算された端正で冷静な映像作りが特徴だったように思います。見る側を熱っぽい興奮に落とし込まない。好き嫌いが分かれるかもしれません。

 市川崑監督の、一歩遠いところで映画を作っているようなスタイルは、吾輩の目、という気がします。やはり、『吾輩は猫である』を映画化できるのは、この時代、市川監督しかいなかったのではないかと思います。ラストの、苦沙弥先生と奥さん(波乃久里子)の静かなシーンが、私は好きです。

第三の男

猫が出るのは前半から中盤の数回。うち、一度はストーリーが思わぬ方向に転換するきっかけを担っているのですが、そこでは不思議なことが・・・?

 

  製作:1949年
  製作国:イギリス
  日本公開:1952年
  監督:キャロル・リード
  出演:ジョゼフ・コットンアリダ・ヴァリオーソン・ウェルズ 他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)


  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    女性主人公アンナの飼い猫
  名前:なし
  色柄:ミケ・キジ白(モノクロ映画のため推定)

◆「名作」なのに面白くない?

 今のように映画や動画がいつでもどこでも楽しめるようになるはるか以前の、家庭用ビデオデッキが普及する1980年代前まで、旧作映画を楽しむには、再上映館を除けばテレビの名画劇場で放映されるのを待つしかありませんでした。放送時間枠におさめるために本来の上映時間が短くされたりしていたのですが、大半の人はそんなことはお構いなしで、テレビ版名画を見て喜んでいました。「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」のフレーズで有名な淀川長治さんなどの解説者も、また、解説者が選ぶ不朽の名作のハイライトシーンを集めた特集番組も人気でした。そういう特番で必ず登場するのが『第三の男』。
 監督のキャロル・リードや『第三の男』という題名を知らなくても、アントン・カラスのツィターの演奏による軽快なテーマ音楽(ヱビスビールのCMにも使われている)や、クールな美女アリダ・ヴァリが脇目も振らず並木道をまっすぐ歩き去るラストシーンを耳や目にしたことがある人は多いと思います。それほど有名な映画にもかかわらず、「面白かった!」と手放しでこの映画をほめる人に今のところお目にかかったことがありません。かく申す筆者も初めて見たときは??? ストーリーがよくわからずじまい。けれども、わからなかったところを復習するようなつもりで二度、三度と見ていくと、さすが! と思えてきます。一度目は音楽とラストシーンを覚えているだけでもいいのです。最低二回は見てください。

◆あらすじ

 映画の舞台は第二次世界大戦後まもないウィーン。町は爆撃で破壊され、闇商売が横行している。三文小説家のホリー・マーチンス(ジョゼフ・コットン)は、子供の頃からの親友ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)に仕事を紹介してもらいにアメリカからはるばるやってくる。だがハリーは車にはねられ、たったいま葬式が済んだところ。警官によればハリーはお尋ね者の密売屋だったという。ハリーの死と犯罪に手を染めていたことが信じられないホリーは、ハリーの恋人のアンナ(アリダ・ヴァリ)に近づいて真相を探ろうとする。ハリーは生きていた。ハリーは自分が死んだように見せかけて仲間の一人を殺し、警察から逃れようとしていたのだった。警察に協力してハリーをおびき出すおとりになるホリー。アンナは、ハリーを警察に売ったと激しくホリーを責める。ホリーはアンナのことを好きになっていた。そこにハリーが現れ、ホリーは警察と共に彼を追う。

f:id:nekobijin:20210314151816j:plain

◆ハリーにしかなつかない猫

 アンナがアパートで飼っている猫は顔や右肩やおなかの白いミケ。ホリーが彼女の部屋に来て猫をじゃらそうとしますが、猫は窓から表に出て行ってしまいます。「ハリー以外にはなつかないの」とアンナ。
 おんもに飛び出した猫は、石畳の歩道をトコトコと壁づたいに歩き、暗がりにたたずんでいる男の靴の上に乗ってその顔を見上げます。ハリー以外にはなつかないはずの猫がこんなになれている男とは? 死んだはずのハリーでは? と匂わせる重要なシーン。けれども、どういうわけかアンナの部屋にいた猫と、石畳を歩いて行く猫と、男の靴に乗っかる猫が別々の猫なのです。アンナの部屋にいたミケと歩いて行く猫はよく似ていますが、顔の柄が違います。靴に乗るのはキジシロ。ミケ2匹はなんだか毛がぼそぼそで眠そうな目で、そのへんのノラちゃんという感じなのですが、キジシロは目がぱっちりの美形。もちろん設定上は同じ猫。キジシロが男の顔を見上げたあとで、猫は再びミケに戻り、男の靴ひもをくわえてじゃれつきます。これはあら不思議、猫イリュージョン、ではなくて、猫が靴ひもにじゃれつくだけではこの靴の主がハリーでは、と思わせるインパクトに欠けると、猫の表情のカットをつなげたのだと思います。普通は少なくともどちらかのミケを別の日に撮りなおしてフィルムをつなげるはずなのに、ミケのスケジュールが合わなかったか、監督の意図に沿った演技力(目力?)を発揮してくれなかったかで、精いっぱい似て見えた代役のキジシロのフィルムをやむなくあとから挿入したのでしょう。今の映画作りでは考えられないおおらかな時代だったんですね。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

         f:id:nekobijin:20210311123435j:plain

◆男と女と犯罪と

 地下下水道での7分以上にわたる追跡シーンが最高の見せ場。
 はじめは親友の死の真相を知りたくてアンナに近づいたホリーが次第にアンナに惹かれ、恋心を抱く純情さ。自分のためなら世間ばかりか恋人のアンナも顧みないハリーの冷酷。それに憤り、アンナを助けるために警察に協力したホリーの正義感と真心に気づかないまま、ハリーを裏切ったと彼の純愛をきっぱりと拒絶するアンナ。
 ストーリーは1940年代から50年代に一大ジャンルをなした犯罪映画の仕立て。なのに、それを意図的に外したとぼけたユーモアがそこかしこにちりばめられ、暗く陰惨なサスペンスを脱した独特の味があります。この緊張感をずらしたところがこの映画の魅力とも面白くなさの一因とも言えるのですが。

◆モノクロの美とユーモア

 この映画では、ウィーンの街並み・橋・大観覧車・地下の下水道など人工の構造物の幾何学的な美、ラストの並木道のように直線的でシャープな構図、光と影のコントラストに目を奪われます。色彩がないからこそこれが引き立ちます。デジタルネイティブ世代にあたる若い人には、昔のモノクロフィルム映画は見たくないと言う人が多いようですが(こわい、気味が悪い、という声を聞いたことがあります)、『第三の男』は一度は、いえ、二度は見ておくべきです。
 そして、力の抜けたユーモアがいい。子供が見覚えのあるホリーの顔を見て、「この人が殺した」と叫んで、大人たちがドイツ語で何やら口々に追いかけるところとか、風船売りの老人が張り込み中の警官に風船を買ってくれとつきまとうとか、サスペンスタッチに描いて緊迫感を盛り上げれば効果的な場面なのに、わざと苦笑を誘うように持って行きます。どっと笑うようなギャグでなく、じわじわと笑いに落とし込んでいくような運びが実にうまいと思いませんか。
 キャロル・リード監督のほかのモノクロ作品で私のおすすめは『邪魔者は殺(け)せ』(1947年)。サスペンス性はこちらの方が上ですが、それだけに見る方もエネルギーがいる映画です。

◆アンナの女心

 ラストの、ハリーが逃げ切れなかったことを恨むアンナが、枯葉の舞う並木道で、彼女が来るのを待ち構えるホリーを完璧に無視して立ち去る場面。わが師匠・映画評論家白井佳夫氏(東京12チャンネル(現テレビ東京)の「日本映画名作劇場」で、1976年から3年間、にこりともせずに解説者を務めたことがある)は、早稲田大学映画研究会時代、メンバーに対し、「アンナはなぜホリーに見向きもせずに通り過ぎてしまったのか」について次の二つの解釈を提示し、論争を仕掛けたそうです(1)。


「①あの悪魔的な魅力を持った男、ハリー・ライムに、友人として心服していた平凡な、三文小説家のホリー。(ハリーを裏切った)そんなあなたの方など、私は、一瞥も与えずに、去っていくのよ。あなたが、私のことを愛しているらしいことを、知っていればこそなお」
「②あの悪魔的な男を愛してしまった私のような女は、私を愛してくれている平凡人のあなたの方を、じっと見詰めて、その愛を受け入れる資格は、ないと思う。それは結局、あなたを不幸にするだけなのだから。だから私は、あえて、あなたの方を見向きもせずに、去っていくのよ」
(注:ネタバレ防止のため、一部略)

◆第三の解釈

 さて、あなたはどちらを選ぶでしょうか。
 多くの人が①だと思います。彼女はハリーを裏切ったホリーが許せない。しかもその男が自分を愛している。そのこと自体我慢できない。気の強いアンナは、ホリーに最も冷たい「無視」という形で仕返ししたのです。
 ②のような解釈は、師匠が学生だった1950年代頃まではポピュラーだったのだと思います。太平洋戦争前からの価値観、新派(明治末期から昭和前半頃に隆盛だった日本の演劇の一派で、悲劇的な運命を耐え忍ぶヒロインが人気)の芝居や「母もの映画(1940~50年代に流行した、母性愛を至上のものとして描いたメロドラマ調の映画)」などで、自己犠牲や忍従に甘んじる女性像が美化され量産された時代だったからです。


 師匠は、“さて、そうした二つの解釈に対して、実は私はこう考えるのである。映画『第三の男』で、キャロル・リード監督は、結局そのどちらかを〈正しい〉とするような、一方的な古い〈割切り・解釈〉で作品を作ってはいないのである。キャロル・リード監督は女優アンナが、三文小説家ホリーを、〈憎んで〉もいたし、同時に〈愛して〉もいたのだろうと規定しているのだ、とでもいったらいいのか。順番を逆にして、彼女は悪魔的な愛人ハリー・ライムを〈強烈に愛して〉もいたし、同時に〈強烈に憎悪して〉もいたのである。そんな〈両義的な一瞬を切り取って、フィルムの映像として永遠化するようなこと〉こそが〈現代的な黒白映画の映像表現の最先端を極めたやりかた〉ではないのか、とキャロル・リードは心の底で、秘かに考えていたに、違いないのである。”と言っています(2)。


 犯罪者を愛する女性は少なくありません。アンナはパスポートの偽造を頼んだりと、ハリーが何らかの悪事を働いていたことは知っていたのでしょう。彼女はハリーと共依存の心理関係にあり、特殊な男に愛されることで自己充実感を得ていたのではないかと思います。「ハリーは私の一部なの」と言い、「正直者で分別があり無害なホリー」と、普通の人・ホリーを見下しています。
 グレアム・グリーンの原作小説のラストでは、アンナはホリーの腕に自分の腕を通し、二人で歩いて行ったそうです。こちらは今の若い世代の共感を得やすいと思いますが、どうでしょうか。

 

注 (1)(2)
白井佳夫「中山信一郎/オーソン・ウェルズキャロル・リード/そして『失われた時を求めて』」
『泣き笑い 映画とジャズの極道日記』中山信一郎 2020年 所収

 

このブログについて (はじめに)

 「猫が出てくる映画」を毎回1本、観客目線で紹介・批評するブログです。と言うと、猫の可愛さ・神秘性を堪能できる猫たっぷりの映画を期待されるかもしれません。このブログには、堂々主役を張る猫から、「あそこに出てる!」というくらい瞬間猫ショットの映画も多々・・・。というのは、「映画に出てくる猫について語る」のではなく「猫が出てくるという条件でピックアップした映画について語る」ブログだからです。
 映画について文章を書いて人に読んでいただきたい、と思いつつ、巨匠の名画のことをいまさらちょっと書いてみたところで誰も見向きもしないだろう、新作映画はSNS上で瞬時にレビューが飛び交う時代、無名の人間の批評なんて読む人いないよね、とモヤモヤする中、猫が出るとも知らずに見た映画に思いがけず登場する猫の姿に、猫好きとして喜びを感じていました。ストーリー上の必然もないのに、なぜ監督はわざわざこのシーンに猫を使ったのか・・・。私のように猫が隠れている映画を見つけたいと思っている人がいるのでは・・・。それがこのブログを書くことにしたきっかけです。
 「猫が出てくる」を条件に選ぶと、自分が普段あまり見ないジャンルの映画や、評論で取り上げられないような映画もまじってきます。選り好みせずに筆を執って、幅広い方に読んでいただけたらと思います。ただし、アニメは人間の都合で猫を自由に造形できてしまうという理由で、対象外とさせていただきます。
 あなたが猫好きでも、そうでなくても、ここで紹介した映画があなたにとって忘れられない一本になりますように。

             f:id:nekobijin:20210311123236j:plain

◆師匠からのメッセージ

 このブログの公開にあたり、映画について書くことの面白さに導いてくださった、映画評論界の重鎮・白井佳夫師匠から応援メッセージをいただきました。師匠は、東京・池袋の西武百貨店別館のカルチュアセンター「池袋コミュニティ・カレッジ」で、月2回、映画を見てディスカッションとレポート発表を行う「白井佳夫の東京映画村」を開講しております。見学もできますので、関心のある方はどうぞお越しください(TEL:03-5949-5488)。


 猫美人さんは、わたしが講師を務めた、東京芸大での特別講義や、池袋の東武カルチュアセンター(閉校)や、池袋コミュニティ・カレッジに引き継がれた『白井佳夫の東京映画村』の生徒の中で、特に切れ味のいい映画の文章の書き手で、その面白さは保証いたします。彼女のユニークな個性をじゅうぶん楽しんでください!」
                          映画評論家

                          f:id:nekobijin:20210330154037j:plain                     

                                                                                                         f:id:nekobijin:20210410155225j:plain

◆参考書籍
 『スクリーンを横切った猫たち』 千葉豹一郎著 2002年 ワイズ出版
 『ねこシネマ。』 ねこシネマ研究会編著 2016年 双葉社

イラスト担当:東洲斎茜丸