この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

このブログについて (はじめに)

 「猫が出てくる映画」を毎回1本、観客目線で紹介・批評するブログです。と言うと、猫の可愛さ・神秘性を堪能できる猫たっぷりの映画を期待されるかもしれません。このブログには、堂々主役を張る猫から、「あそこに出てる!」というくらい瞬間猫ショットの映画も多々・・・。というのは、「映画に出てくる猫について語る」のではなく「猫が出てくるという条件でピックアップした映画について語る」ブログだからです。
 映画について文章を書いて人に読んでいただきたい、と思いつつ、巨匠の名画のことをいまさらちょっと書いてみたところで誰も見向きもしないだろう、新作映画はSNS上で瞬時にレビューが飛び交う時代、無名の人間の批評なんて読む人いないよね、とモヤモヤする中、猫が出るとも知らずに見た映画に思いがけず登場する猫の姿に、猫好きとして喜びを感じていました。ストーリー上の必然もないのに、なぜ監督はわざわざこのシーンに猫を使ったのか・・・。私のように猫が隠れている映画を見つけたいと思っている人がいるのでは・・・。それがこのブログを書くことにしたきっかけです。
 「猫が出てくる」を条件に選ぶと、自分が普段あまり見ないジャンルの映画や、評論で取り上げられないような映画もまじってきます。選り好みせずに筆を執って、幅広い方に読んでいただけたらと思います。ただし、アニメは人間の都合で猫を自由に造形できてしまうという理由で、対象外とさせていただきます。
 あなたが猫好きでも、そうでなくても、ここで紹介した映画があなたにとって忘れられない一本になりますように。

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◆師匠からのメッセージ

 このブログの公開にあたり、映画について書くことの面白さに導いてくださった、映画評論界の重鎮・白井佳夫師匠から応援メッセージをいただきました。


 猫美人さんは、わたしが講師を務めた、東京芸大での特別講義や、池袋の東武カルチュアセンター(閉校)や、池袋コミュニティ・カレッジに引き継がれた『白井佳夫の東京映画村』の生徒の中で、特に切れ味のいい映画の文章の書き手で、その面白さは保証いたします。彼女のユニークな個性をじゅうぶん楽しんでください!」
                          映画評論家

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                                                                                                         f:id:nekobijin:20210410155225j:plain

◆参考書籍
 『スクリーンを横切った猫たち』 千葉豹一郎著 2002年 ワイズ出版
 『ねこシネマ。』 ねこシネマ研究会編著 2016年 双葉社

イラスト担当:東洲斎茜丸

 

予告編 次回6月7日(日)公開予定

「この映画、猫が出てます」をご愛読いただきありがとうございます。

次回の作品は

『縮みゆく人間』(1957年/アメリカ/
 監督:ジャック・アーノルド)

洋上で不気味な霧に包まれたあと、スコットの体は縮み始める。
猫に襲われるまでに小さくなったスコットの孤独なサバイバルはいつまで続くのか。

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鬼火(1956年)

ガス代の滞納を続ける主婦に集金人は体を要求する。みすぼらしい身なりで女は彼の下宿を訪ねるが・・・。

 

  製作:1956年
  製作国:日本
  日本公開:1956年
  監督:千葉泰樹
  出演:加東大介、津島恵子、宮口精二、堺左千夫、清川玉枝、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    集金先の猫
  名前:不明
  色柄:茶白(モノクロのため推定)

 

◆ダイヤモンド・シリーズ

 タイトルが同じだけれどリメイクではない映画の紹介企画、『鬼火』の2回目は日本映画です。46分という短さで、DVDなども売られていないそうなので、残念ながら鑑賞する機会が限られているのが心苦しいのですが、映画らしい良い作品なので紹介させていただきました。
 私が見たのはCS放送の日本映画専門チャンネルで、昭和の日本映画を当時の地理や市民生活も含めて広く紹介する映画評論家の川本三郎氏の解説付き。同氏の解説によると、1956年から東宝が「ダイヤモンド・シリーズ」と銘打ち、“上映時間は短いが、人気作家の作品を原作とする中身の濃い芸術作品を作るようになった”とのことで、『鬼火』はシリーズ第1回作品。
 「ダイヤモンド・シリーズ」には、同じく千葉泰樹監督の『下町(ダウンタウン)』(1957年)『新しい背広』(1957年/監督:筧正典)など、川本氏が著作の中で紹介してきた映画が含まれ、いずれも同チャンネルで放映されました。小粒ながら、文学で言えばショートショートのような、凝縮された味わい深い作品ばかりです。
 東宝のデータベースではダイヤモンド・シリーズで検索しても、すべてのラインナップが出てきません。どうも東宝は一般ファンへのアーカイブ情報の提供にはあまり力を入れていないような気がします。これから整備されるのを期待したいところです。
 脚本は黒澤明監督作品を多数手掛けた菊島隆三、音楽は伊福部昭と、黄金期日本映画らしい布陣である一方、千葉泰樹監督は現在はあまり知られていないかもしれません。戦前から時代劇を手掛けていたそうですが、戦後は多くの映画会社を経て1956年から東宝専属。『鬼火』で好演した加東大介を主役に起用した相場師の出世物語『大番』4部作(1957~1958年)や、社長シリーズの第1弾『へそくり社長』(1956年)も監督しました。東宝の明朗サラリーマン映画路線を軌道に乗せた監督の一人と言えるでしょう。
 ただしこの『鬼火』はたいへんシリアスなドラマ。出来心が取り返しのつかない結果を生んでしまう悲劇です。

◆あらすじ

 忠七(加東大介)はガスの集金人。新しく東京都江東区の一画を担当するようになった。料金滞納の多い地区で、仲間の吉川(堺左千夫)からその中でも特に厄介な家を教えられる。
 こわれそうな家の戸を開け声をかけると、ガスに鍋がかかっていた。やつれてはいるが美しいこの家の主婦ひろ子(津島恵子)が顔を出し、金は払えないがガスを止めないでくれと忠七に懇願する。夫(宮口精二)が長い間寝たきりで、薬を煎じなければならないのだと言う。忠七は、ガスを止めない代わりに暗に体を要求する。ガスを止めないでいただけますかと繰り返すひろ子に、忠七は今夜俺の家に来いと下宿の場所を教えて帰って行く。
 夜が更けてもひろ子は現れず、忠七があきらめかけた頃、ひろ子がひっそりとやってくる。ひろ子は身を固くしたまま「ガスを本当に止めないでいただけますか」と繰り返す。今夜は泊まれないとひろ子が言うので、忠七が急いで布団を敷き出したとき下宿のおかみさん(清川玉枝)が帰ってくる。それをきっかけにひろ子は逃げ帰ってしまう。
 家に戻ったひろ子は、夫に今夜のいきさつを話して泣く。夫も静かに涙を流す。
 翌日、忠七は再びひろ子の家を訪ねる。お勝手では何も乗っていないガスコンロの火が燃えていた。忠七は電気の止まっている真っ暗な家の中に入って行くが・・・。

◆小さな目撃者

 映画は、木の葉の陰でミンミンゼミが鳴いている映像から始まります。川の土手の上を自転車のアイスキャンディー売りが通ると、座って休憩していた忠七が声をかけて1本買い求めます。「もう彼岸だっていうのにいつまでも暑いじゃないか」と話していますが、いくら暑くても彼岸にミンミンゼミはいないだろうと、いつものことながらいらぬツッコミを入れているわたし。
 歩き出した忠七がある家の勝手口の戸を開けて集金の声をかけると、猫の声がニャーと聞こえます。見ると廊下の真ん中に茶白のハチワレ猫が座っています。家人は留守のよう。猫は飼い主が帰って来たと思って出てきたのかもしれません。
 留守だとあきらめて忠七が帰ろうとしたとき、出入り口付近の棚の上にがま口が置いてあるのに気付きます。手に持って重さを確かめていると、再びニャーと声がして、猫が障子の陰から顔をのぞかせ忠七を見つめています。それに気がとがめたのか、忠七は元のところにがま口を置き、人目に付かないようにそばにあった鍋をかぶせて出て行きます。入れ替わりに押し売りのような人がその家に入っていきそうになりますが、忠七が留守だと追い返すと、間もなくこの家の主婦(中北千枝子)が帰って来ます。
 財布が置きっぱなしになっていたので鍋をかぶせておいたと忠七が不用心を注意すると、主婦はガス料金を払って奥に入り、猫を抱きながら出てきてタバコを1箱忠七に差し出します。忠七ががま口を見てよこしまな気持ちを抱きかけたとは思わず、鍋の陰に隠した気配りへのお礼のつもりなのでしょう。忠七は「かわいい猫ちゃんですね」とお世辞を言って猫の頭をなで、タバコを受け取って出て行きます。
 もしも猫に人の言葉が話せたら「あのおじちゃん、さっきがま口を手に取って見ていたよ。わたしが声をかけたから元に戻したんだよ」と告げ口したことでしょう。お礼のタバコは猫ちゃんにあげるべきでしたね。 
 見事に警備員の役割を果たした猫ちゃんが出て来るのは開始から2分45秒過ぎ頃。この猫、眼の周りは白いのですが鼻から口の周りの色が濃くて、ちょっと大宮デン助風。大宮デン助・・・若い方には通じないか。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆一見善人風

 加東大介と言えば、丸顔にコロンと太った小さい体、憎めない人のよさそうな顔立ちで明るいムード。黒澤明監督の『七人の侍』(1954年)ではリーダーの勘兵衛の良き女房役を務め、最後まで生き残る三人のうちの一人を演じました。意外に悪役もやっていて、同じ黒澤監督の『用心棒』(1961年)や山中貞雄監督の『河内山宗俊』(1936年)ではヤクザの子分を演じています(『河内山宗俊』のときは市川莚司の芸名)。成瀬巳喜男監督の映画ではいい男系で、多いのが恋愛トラブルの当事者役。
 『鬼火』では、一見人のよさそうな忠七が内面ではあさましい欲望を抱えているところがカギ。その点で加東大介の起用はピッタリだったと言えるでしょう。
 忠七も根っからワルではなさそうで、同じ集金人仲間の吉川から集金先の女性と3度関係を持ったことがあると聞かされて驚いています。その話を聞いた同じ日に、ある集金先で主人とお手伝いさんの女性が関係している現場を目撃。薄給の忠七、伯父さんに嫁さんももらえないとこぼしているところに刺激的なことが続いてムラムラ、人がよろしくやっているなら俺もちょっとくらい、という気持ちが生まれたのでしょう。そんなときに料金滞納を続ける家の主婦・ひろ子と出会います。

◆明かりを消して

 貧しさを絵に描いたようなひろ子。浴衣姿で、本来はその上に帯を巻くものなのに、細ひもだけしか締めていません。どうすれば(支払いを)延ばしていただけるんです、という言葉遣いからはきちんとした暮らしをしてきたことがうかがえます。忠七の頭にはさっき吉川から聞いた話がこびりついていたのでしょう。「わかってるじゃないか」と言うと、ひろ子は忠七のタバコに火をつけてやったマッチの大箱を取り落とし、マッチが床に散乱します。病人がいるからここではだめだとひろ子が言うと、忠七は夜下宿に来るように誘います。傍らではガスにかかった煎じ薬がぐつぐつと薄気味悪く煮えています。
 ひろ子の夫の病気は結核菌が脊椎で病巣を作る脊椎カリエス。そのため7年も寝付いたままだとのことで、すでに金に換えられるものは換え尽くしたもよう。夜になってひろ子が、用事があるが帯がないので出かけられないと夫に言うと、寝ていた夫は寝巻の帯を解いて、夜だったらごまかせるよと、巻いて出かけるようひろ子に促します。
 これ以上の哀れはない貧困と不幸。一変して明るいのが、ひろ子が下宿に訪ねてきたところを忠七が風呂屋でひげを当たりながら空想する場面です。
 口に紅を引いて美しく化粧し、さっぱりとした着物に着替えたひろ子が現れると、忠七はいい帯だとほめます。柄が古いとひろ子が謙遜すると、忠七はいい物には流行りすたりなんてないと言い、出前の上寿司を勧めます。その食べ方の品の良さにほれぼれする忠七。ひろ子をほめると、ひろ子は鼻にかかった声を出して忠七をつねり・・・と、ここで忠七はひげを深剃りし、いたた、と現実に戻ります。
 サラリーマン喜劇などでよくあった定番の流れのギャグに郷愁がよみがえります。身なりを整えたひろ子の艶っぽさもにくい。
 実際にひろ子が忠七の下宿に現れたときには、そんな空想も180度方向を変え、重苦しい空気がのしかかります。ひろ子が忠七の部屋で明かりを消してくれと言ったのは、体の交渉を持とうとする恥ずかしさからではなく、昼間のみすぼらしい浴衣に夫の寝巻の帯を締めて来たのを見られたくなかったからです。

◆出来心

 いつものようにラストは語りません。この後の展開は、「あらすじ」を参考に想像していただければ、見たことのない方でも大きく外れることはないでしょう。タイトルの『鬼火』は、静まり返ったひろ子の家の中で青く燃えるガスの炎。
 いい人そうに見える忠七のような普通の人間の中で醜い欲望がうごめき出す。前半のエピソードの積み重ねが物語の土台を支えています。罪の意識がなく出来心で行動した忠七。軽い気持ちが招いた重大な結末など、微塵も想像していなかったに違いありません。そのとき忠七が思わず口にする言葉がこだまします。
「堪忍してくれ!」
今の日本ではあまり使われない言葉でしょう。ガスの燃える青い火が鬼火となって、忠七の身の回りに一生つきまとう・・・。刑罰よりも重いものを忠七は背負って生きて行かなければならなくなったのです。

 忠七の加東大介、ひろ子の津島恵子、夫の宮口精二、すべて『七人の侍』に出演。宮口精二は常に冷静な剣の達人・久蔵役で観客をしびれさせました。この映画では痩せた体で選ばれたのか、一度も起き上がることのない病人の役。津島恵子は村娘・志乃を演じた当時はもっとふっくら。『七人の侍』と『鬼火』の間に、このブログで紹介した『たそがれ酒場』(1955年/監督:内田吐夢)に出演していますが、1年1年違った印象を受けます。
 脇役では、忠七の下宿のおかみさんの清川玉枝が実にいい。下町の世慣れたおかみさん。落語にでも出てきそうなキャラクターで、ひろ子に逃げられた忠七に遅まきながら素人女の口説き方を指南。ひろ子が手を付けずに残した上寿司を「残り物には福がある」とちゃっかりつまみ、ラストに向けていい息抜きになっています。
 人物以外では、物売りや伯父の作っている下駄の鼻緒、もらったタバコのラッキーストライクを珍重する様子など、当時の風俗がしのばれる描写も見どころ。

 原作は吉屋信子の小説。吉屋信子と言えば少女小説という頭があったので、このようなシリアスなストーリーを意外に思いました。映画の冒頭には、タイトルが出る前に作者の文章を引用した字幕が出ています。おそらく、原作小説の一部でしょう。その引用を今回の締めくくりとさせていただきます(句点筆者)。
「気の毒なのは此の人たちの運命であった。
 世間にはふとしたことからその人の一生を左右することが
 ありがちだ・・・・・・。」

 

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予告編 次回5月27日(水)公開予定

「この映画、猫が出てます」をご愛読いただきありがとうございます。

次回の作品は

『鬼火』(1956年/日本/監督:千葉泰樹)

ガス会社の集金人の忠七は料金を滞納し続ける家の美しい主婦に、払えないならと体を要求する。
凝縮されたストーリーの中に人間の業が渦巻く、優れた小品。

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鬼火(1963年)

放蕩にふけり、人生と向き合ってこなかった男が死を選ぶ。
虚無に包まれた男の2日間を追った文芸作品。

 

  製作:1963年
  製作国:フランス
  日本公開:1977年
  監督:ルイ・マル
  出演:モーリス・ロネ、ベルナール・ノエル、ジャンヌ・モロー、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    友人宅の飼い猫
  名前:不明
  色柄:黒


◆鬼火のような人

 今回と次回の2回にわたって、リメイクではないけれど題名(邦題)が同じ映画をお届けします。こういう企画を時々やりたいのですが、同じ題名の映画までは見つけられても両方とも猫が出ているとは限らないので、今回は貴重な機会かもしれません。
 これからご紹介する『鬼火』は陰鬱なフランス映画。「鬼火」という題名から、明るく爽やかな内容が期待できないのは見る前からおわかりかと思います。
 そもそも「鬼火」とは何ぞやと調べてみると、古くからの言い伝えや物語などで語られてきた、原因不明の発光・発火現象を総称してそう呼ぶようです。動物などの死体から出る腐敗ガスが燃焼するケースがあるようですが、墓場などでそうした炎が見られると霊魂と結び付けて気味悪く思われたのでしょう。
 原作小説も映画の原題と同じく『鬼火(LE FEU FOLLET)』ですが、『ゆらめく炎』という題で日本語訳が出版されています(注)。訳者の菅野昭正氏の「あとがき」を引用すると、フランスで「鬼火」とは、“比喩的に使われる場合には、才気煥発だがいささか優柔不断かつ無定見で、あまり当てにならない人間のことを指すらしい”とのこと。“墓場などであちこちに揺れる燐光のうごきかたから、そういう用法が出てきたのだろう”と指摘したうえで、日本語の鬼火にはそうしたイメージが含まれていないので、翻訳の題名をこのようにしたということです。モーリス・ロネが演じる主人公のアランは、まさしくフランスで言う鬼火のような人物です。
 『鬼火』というタイトルの映画は今回ご紹介する2本以外にもあり、また「鬼火」という語がタイトルに入る映画も多数あります。不気味さ、陰気さのつきまとう「鬼火」。次回ご紹介する1本もご覧になったうえで、あなたの『鬼火』はどれか、吟味していただければ幸いです。

◆あらすじ

 アラン(モーリス・ロネ)は、アルコール依存症で療養所に入所中。妻の友人の女性と無断外泊し、7月22日の朝を迎えた。アランは完治していたが、療養所は居心地がよく、居座っている。アランは7月23日に自殺するつもりだった。
 アランは平凡な人生を嫌悪し、働いたことがない。パリで放蕩し、ニューヨークに住み、アメリカ人の妻の収入で生活していたが、彼には十分ではなく、離婚をほのめかして療養のためフランスに戻った。見た目が美しく、知的で身なりもよい彼は女性にもてたが、本当に恋した女性ソランジュ(アレクサンドラ・スチュワルト)とは結婚できず、妻とは不仲である。
 医師は療養所に朝帰りしたアランに、妻とよりを戻し、退所するよう勧めるが、アランは拒む。アランは外出し、以前からの知り合いを訪ね歩く。なじみだったバーやホテルでは、皆アランとの再会を喜んだが、アランが去ると、明るかった彼の変わりようをささやき合った。昔の友人デュブール(ベルナール・ノエル)は地に足をつけた生活をしていた。
 画廊で働くエヴァ(ジャンヌ・モロー)の家を訪ねると、芸術家たちが麻薬におぼれていた。彼らをアランは軽蔑した。政治的な活動をいまも続ける友人たちはごろつきのようだった。
 アランは禁酒を破って酩酊する。愛していたソランジュが結婚したブルジョアの元親友の屋敷で倒れ込んだのち、晩餐会に参加する。客の一人、有名人でソランジュに気のあるブランシオンはあからさまにアランを見下す。アランはソランジュの屋敷での翌日の昼食に誘われる。屈辱とソランジュへの思いにさいなまれアランは療養所に戻る。
 アランは7月23日の朝を迎えた。身の回りの世話をする係に昼までかまわないでくれと言い、身辺の荷物をトランクに詰め、旅支度をする。そのときソランジュから「お昼の約束を忘れないで」と電話がかかって来る・・・。

◆さくらねこ

 40歳前後と見えるアランの若い頃からの友人のデュブール。彼の家を訪ねたとき、小学校高学年と低学年くらいの二人の娘と、少し硬いが美しい妻との堅実な家庭生活が垣間見えます。そこには黒猫がいます。
 黒猫はアランも交え皆が昼食を囲む食卓に、妹の膝に乗って顔をのぞかせ、お裾分けをもらっています。母親は、そうしたお行儀のよくないことをやめさせ、猫を娘の膝から降ろしますが、今度は上の女の子が椅子の下にいる猫にお裾分けします。
 いかにモデル的で安寧の内にある家庭かをとどめのように象徴するペットの存在。そうした生活を忌避して来たアランにとって、理想的な家庭はむしろ欺瞞として感じられたようです。アランはその気持ちをデュブールと二人だけになったときに彼にぶつけますが、この食卓ではお父さんの友だちとして上の女の子にやさしく質問を投げかけます。
 「アルディ好き?」と聞くと姉は首を横に振り、妹がすかさず「シルヴィ・ヴァルタン!」と答えます。父親のデュブールはまだシルヴィ・ヴァルタンを知らず、アランからアイドルだと教わります。60年代、元祖アイドルとされた若者世代のカリスマ的女性歌手。いまも現役で活動し情報を発信している彼女、日本で一番知られている歌はCMソングの「レナウンワンサカ娘」でしょうか。
 おとなが自分はもう古いとショックを受けるのは、こんなふうに若い子から好きな芸能人の名前を聞かされたとき。アランの言ったアルディとは、シルヴィ・ヴァルタンより一足先に人気を集めていた歌手のフランソワーズ・アルディのことだと思います。アランとしては最新流行を口にしたつもりだったのでしょうね。
 この黒猫、よく見ると右耳がカットされています。今ではさくらねこと言って、避妊・去勢手術済みである印として獣医さんが猫の片耳に桜の花びらのように切り込みを入れることはよく知られていますが、この映画の当時の日本では、さくらねこどころか猫に避妊・去勢手術をすることなど一般的に考えられませんでした。わたしが初めて猫の耳カットについて知ったのも今から20年くらい前。この映画の猫の耳カットも今と同じ意味でされていたのかどうかわかりませんが、国によっては耳の先端をまっすぐに切ったりするところもあるようです。カット側が右か左かによって性別を表すとされているものの、私の見たところでは少し昔に手術された猫などは不統一なようです。
 右耳カットの黒猫が出て来るのは映画の真ん中のあたりです。この記事の公開日現在、このブログで取り上げた回数でフランス映画の監督第一位は今回のルイ・マル。それというのも彼が多くの映画に猫を登場させているからです。おそらく彼の周囲には猫がいたと思われる日常的な描写に心が和みます。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆時を選ぶ映画

 映画でも、文学作品でも、その作品に触れるのに好適な年代というものがあると思います。 
 わたしがこの映画を初めて見たのは20代半ば頃だったと思います。当時のわたしにとってこの映画は、内容が理解できないと言うより、字幕なしで見たかのように取っ掛かりのつかめないものでした。ただ茫然と映画館を後にした記憶が残っています。
 そんな経緯から『鬼火』はわたしにとって忘れられない映画という点でトップクラスに属するものとなりました。アレルギーとも言うべき苦手意識をひきずり、その後長い間見ていませんでしたが、〇十年以上の時間を経過したのちあらためて見たとき、アランの内面がわからないでもない自分に気づきました。
 あの頃に比べて多くの映画に触れてきたから、フランス映画のクセを飲み込んだから、一度見ているから、という理由もあるでしょう。けれども、わたしがアランの年齢を追い越し、失敗や後悔といった負の経験を蓄積してきたことが一番大きいと思えます。
 アランの精神状態は明らかにうつです。若く、美しく、知的な容貌で、おそらく中流以上に属していた彼は、遊び仲間にもチヤホヤされていたことでしょう。我が世の春がいつまでも続くかのように青春を手放さないでいる間に、知人たちは自然にそれぞれの道に散っていきます。ふとあるとき、彼は自分が一人で取り残されていることを痛烈に感じたのだと思います。
 アルコール依存は完治したと医者は言っていますが、その依存に陥った根本の部分には何も治療の手が施されていないように見えます。
 いつか自分も特別な人だけがくぐれる門の向こうに行きたいともがくのが青年期。アランの場合は恋したソランジュを自分から手に入れようともせず、無為徒食を絵に描いたように自分が何もしなくても何かがやってくることを夢見ていたのです。ようやく現実に目覚めたとき、残された道はアルコールのみだったのでしょうか。

◆にがい生活

 この映画をあらためて見直したとき、フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』(1960年)を思い浮かべました。この主人公のマルチェッロは、現実とむしろ妥協し過ぎていて、ゴシップ記者としてくだらない生活に首まで浸かっていることに嫌気がさしてきます。ちょうどアランと同じくらいの年頃のはずです。そして、理想的な人生と家庭生活を営んでいるインテリと知り合い、彼を手本に若い頃に抱いた志を奮い起こし、人生を立て直そうと思います。けれども、その人は自殺してしまうのです。
 一方、『鬼火』のアランは堅実な人生を築いたデュブールから、友人として自分と一緒にやりなおそうと親身な忠告を受けたにもかかわらず、耳を貸さず、結局命を絶ってしまいます。ここには書きませんが、映画では知人たちへの恨みや皮肉のこもった遺書を遺します。自殺とは、後に残された者への最大の復讐だということをどこかで読んだ記憶がありますが、アランの遺書はその説そのものです。
 なぜアランは自殺したのかを追究するのは、この映画においてはあまり意味がありません。妻の友人の女性と一夜を共にしたあとに立ち寄ったカフェの労働者階級、ソランジュの嫁いだブルジョア階級、現実からのシェルターともいうべき療養所、妻のいるニューヨーク、どこにも居場所はなく、つのる孤独と敗北感を彼は人のせいにして旅立ちます。逆恨みを受けた人々は遺書に打ちのめされるでしょう。その時初めて、アランはあの世から勝利するのです。
 幼児的な万能感・自己愛が挫折してから最期の日まで、アランに何かできることはなかったのでしょうか。アランの人生観はさておき、この映画はアルコール依存ではなくうつの状態をよく表しています(原作では麻薬中毒となっています)。エネルギーを使い果たし、何もすることができない状態が続くのがうつ病。なおりかけの、何かするエネルギーが溜まってきたときに自殺が多いということです。

◆音楽は語る

 『鬼火』では、ルイ・マル監督の劇映画デビュー作『死刑台のエレベーター』(1957年)の主役のモーリス・ロネとジャンヌ・モローが、年輪の積み増しもそのまま共演している姿を愛しく感じます。市場で一緒に食材を買って、アランが買い物かごを提げて家に行くのが数少ない心温まる場面です。
 『死刑台のエレベーター』では、夜のパリの街をジャンヌ・モローがさまよう場面でマイルス・デイヴィスのジャズが流れ、クールな映画世界を作り出していました。『鬼火』ではエリック・サティのピアノ曲が全体の空気を静かに染め上げています。エリック・サティは名前からも曲からも、現代のポピュラー系作曲家のように感じられますが、19世紀終盤に、いまもよくCMなどで耳にする「君がほしい(ジュ・トゥ・ヴー)」や「ジムノペディ」などの代表作を作曲しています。この映画で最も印象深いのが「3つのグノシエンヌ」。寄る辺ないアランの内面を時として映像より能弁に物語っています。

 

(注)『ゆらめく炎』(作者:ピエール・ドリュー・ラ・ロシェル/訳者/菅野昭正・細田直孝/河出書房新社/1967年)

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