この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

怪談佐賀屋敷

佐賀・鍋島家を舞台に繰り広げられる化け猫騒動。やっぱり怖い日本のホラー。

 

  製作:1953年
  製作国:日本
  日本公開:1953年
  監督:荒井良
  出演:坂東好太郎、杉山昌三九、入江たか子、沢村國太郎、南條新太郎、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆☆(主役級)
    龍造寺家の飼い猫
  名前:こま
  色柄:三毛

◆お盆は怪談

 一昔前まで真夏になると、テレビで心霊特集とか、怖い話をするタレントが登場しましたが、最近はこの手の番組はあまりやらないようですね。夏だからゾッとする怪談によって暑気払いをするという意味もありますが、そもそもお盆の時期に怪談をやるという習慣は、江戸時代の歌舞伎から始まったそうです。最も有名な鶴屋南北原作の「東海道四谷怪談」の初演は1825年。真夏の暑い時期は夏枯れ、お客さんの出足が鈍るころなので、怪談物で客寄せを図ったというのです。その流れを汲んで、怪談映画は昭和のお盆・夏休みの風物詩となっていました。四谷怪談・化け猫ものは視覚的な見せ場も豊富。何度も映画化されています。

◆あらすじ

 世継ぎに恵まれない鍋島丹後守(沢村國太郎)は、次席家老の磯早豊前(いそはやぶぜん/杉山昌三九)の発案で側室選びの催しを開いた。豊前は、妹の豊(とよ/入江たか子)が選ばれ世継ぎを産めば、自分が権勢を手にできると目論んでいたが、丹後守が見染めたのは上席家老・龍造寺家の冬(伏見和子)だった。冬は小森半左エ門(坂東好太郎)と恋仲で、龍造寺家は鍋島家との以前からの関係もあって側室入りを断り、丹後守は豊を側室に迎える。
 冬の兄の龍造寺又一郎(南條新太郎)は失明していて名前だけの家老だったが、冬の側室入りを断ったのを気にして、殿のご機嫌うかがいに碁を打ちに城に出かけて行く。しかし、龍造寺家を潰せば自分の地位が上がるとたくらんだ豊前のはかりごとで、又一郎は丹後守に切られ、遺体を城内の古井戸に投げ捨てられてしまう。
 又一郎が行方不明になり、母(毛利菊枝)が念仏を唱えていると、又一郎がかわいがっていた猫のこまが又一郎の血のついた頭巾とともに現れ、続いて又一郎の亡霊が自分が殺されたことを伝え、恨みを晴らすよう言い置いて消える。母はこまに復讐を託して自害し、こまが母の血をピチャピチャとなめる。
 豊前の偽りで龍造寺家は取りつぶしとなり、一方、豊が懐妊する。その頃から丹後守と豊前の身辺に怪異なことが起きるようになる。城内に化け猫のうわさが広まり、怪しい猫と又一郎の亡霊にさいなまれ、丹後守は乱心、命すら危うくなっていく。やがて、豊も怪しいそぶりを…。お家の危機に半左エ門は…。

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◆こまちゃんmyラブ

 主役級から瞬猫まで、私がこのブログで取り上げようと思っている映画の出演猫で、一番のお気に入りがこの「こま」です。とても素朴な和猫というところが好きなのです。路地やお寺の階段で毛づくろいしていたり、寝ていたりする、どこでも見かけるそこらへんの猫です。芸能界ずれしていないところがいいのです。
 特に素人臭さを感じるのが時々カメラ目線になってしまうところ。役者はやっちゃいけないことですが、こまちゃん、ふとこっちと目が合っちゃうんですね。それと、平然とカメラの前を横切るところ。又一郎役の南條新太郎は盲目という役柄で目をつぶっているからか、こまを抱くとき、そこを持ったら痛いだろうなと思うところを持ったりするのですが、そう思ってこまの顔を見ていると、案の定うう~んというような顔をする。そういう自然なところがかわいくて、怖いシーンで登場してもかわいくて、かわいくて。怪談映画なのにデレデレしている自分はいかがなものか…。
 もちろん、当時は動物にそこまで求めなかったという時代性もあるでしょうし、最近の映画でも猫は撮影中にはこまのような生の姿を見せているとは思いますけれど、美しく立ち居振る舞いのスマートな近年のタレント猫たちは、たとえて言うならハリウッドスター。私にはこまのような純朴な和猫が好みのタイプなのです。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆        
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◆発端はお家騒動

 この映画、タイトルバックが不思議に怖いです。睡蓮の葉の浮いた池の表に雨が降り、そこに「怪談佐賀屋敷」のタイトルがかぶり、セットの庭木に降り注ぐ雨をバックにスタッフ、キャストの文字が並び、最後に再び睡蓮の池に戻って監督の名前が出るという、ほとんどなんの工夫もないものなのですが、時代がかったオーケストラの音色と合わさり、なんとも不気味な雰囲気を漂わせています。龍造寺又一郎が殺された夜に降っていた雨。この日を境に怪異は始まります。
 この物語は、実際に佐賀藩に起きたお家騒動をもとにしています。もともと佐賀(肥前)は、戦国大名として龍造寺家が治めていたのですが、父・政家の病弱により家督を継いだ四男高房がわずか5歳だったため、家来にあたる鍋島家が実権を握ったそうです。それが徳川幕府によって鍋島家が佐賀藩の大名と定められ、主家であった龍造寺家が鍋島家の臣下になってしまいます。その屈辱がもとで成人後の高房が自殺、あとを追うように父が亡くなったあと、鍋島家の二代目藩主が病で悶死、高房の亡霊の仕業と噂され、鍋島家のお家騒動として歌舞伎や講談の題材になっていったようです(諸説あります)。化け猫はいつ、どうやって加わったのか…?
 この映画で、龍造寺家の冬を側室に迎えたいという申し入れに、母と兄が「正室ならまだしも側室という妾の身分では」と断るのは、もともと家格は龍造寺家が上だったという背景があるからです。

◆六三の黒

 鍋島丹後守も、龍造寺又一郎も、これらの史実をヒントに作られた架空の人物ですが、話を面白くするために出てくるのがお約束の悪役・磯早豊前
 鍋島家は過去の経緯から龍造寺家に敬意を払い、上席家老に据えています。磯早豊前は次席家老。彼にしてみれば、目が見えず、得意の囲碁で殿の相手を務めるだけで、家老としての仕事をしていない又一郎が自分より上の位にいるのが面白くありません。妹の豊を側室にと企画した催しでも、殿のお目に留まったのは龍造寺の冬、というわけで、ますます又一郎が目障りになってきます。豊前は、丹後守と又一郎の碁の手合わせの最中、又一郎が中座する間に、又一郎の決め手となる石を取り去り、又一郎が戻ってくると、殿の石をそこに置かせるよう仕向けます。又一郎がそこには自分の石があるはず、と主張すると、丹後守が自分がごまかしたと言うのか、と怒って又一郎に刀を抜き、豊前がとどめを刺す、という時代劇お得意の展開。
 目の見えない又一郎がどうやって囲碁を打つのか、というと、石を置く目を仕切り役に告げて置いてもらい、相手の目を仕切り役が読み上げ、それを全部記憶していく、というわけです(まったく、囲碁や将棋の強い人の脳はどうなっているのか)。豊前にそそのかされて丹後守が自分の黒の石を置こうとした目が「六三」。殺された又一郎が投げ込まれた古井戸から「六三の黒~」という声が聞こえたり、丹後守の枕元で「六三の黒~」という声がしたり。驚いて丹後守が見ると、又一郎が絶命したときに倒れ伏した碁盤の上にこまが乗って、丹後守を暗闇からじっと見つめています。

◆おちょやん大暴れ

 側室に上がった豊が懐妊し、祝いの宴の最中、突如突風が吹き、暗闇から目を光らせた猫の首が飛んできます。丹後守が切りつけ、小森半左エ門が血の跡を追っていくと、そこは磯早豊前の屋敷。その夜、豊前の妻が義母の部屋を見ると、行燈の油をなめる猫のシルエットが! たちまち義母が猫のような顔に変身。「見たな~」と猫の手つきで妻を見えない力で操り、鼓や三味線のお囃子に乗って、宙返りさせたり転がしたり逆立ちさせたり。若手の歌舞伎役者がスタントを演じているのだと思いますが、着物でこれをやるのは相当訓練していないと難しいでしょう。2009年の歌舞伎『怪異 有馬猫』の公演では、化け猫に操られた腰元が、体操のあん馬のような技や膝立ちでぐるぐる高速回転する技も披露。あっぱれ!
 化け猫に変身する豊前の母の杉江を演じたのは、NHKの朝ドラ「おちょやん」のモデルになった浪花千栄子。庶民的関西人を感じさせる物腰で、溝口健二木下恵介などの映画に多数出演しています。しれッとしたやり手ばばあなどを演じさせたらこの人の右に出る人はいないでしょう。木下恵介の『二十四の瞳』(1954年)の、金毘羅様近くの飯屋のかみさん役など見てください。化け猫姿はアクが消えてむしろかわいい感じ。嬉々として演じているように見えますね。

◆化けるきっかけ

 こまは次に豊に乗り移ります。小森半左エ門が城内を見回っていると、豊が夜中に池をじっと見つめています。半左エ門がその様子を見て、腰元に上がっている妹に生きた鯉を豊のそばに置いておくように言いつけると、豊は鯉を見つけてかぶりつき、化け猫の正体を現します。豊は兄の豊前を噛み殺し、大暴れの末、半左エ門に退治されてしまいます。
 『怪談佐賀屋敷』などに登場する化け猫が、西洋の魔女のお供の黒猫や狼男などと違うのは、恨みによって生まれた存在であるというところです。逆に言えば、恨みが猫の姿をとった、と言っていいかもしれません。物陰に身を隠してじっと獲物を待ち構えたり、捕えた獲物をもてあそぶなどの猫の性質が、陰なものと結びついたのでしょうか。
 「恨みの感情」は、怪談物や忠臣蔵をはじめとする歌舞伎や時代劇の重要なモチーフとなっています。これが日本のホラーのじめじめした怖さを生むのでしょう。

◆恨んでいるのは誰?

 華族出身で美人女優の誉れ高かった入江たか子が、猫メイクで大立ち回りを演じるこの映画。当時のファンは見ずにはいられなかったことでしょう。42歳でチャレンジした『怪談佐賀屋敷』を皮切りに彼女の化け猫は大当たりをとり、以後次々と化け猫映画に出演、「化け猫女優」と呼ばれるようになってしまいます。
 1932年、21歳で人気絶頂の彼女は「入江ぷろだくしょん」という個人プロダクションを設立、自分の選んだ企画に自分で出演する、という恵まれた状況にあったのですが、1937年にプロダクション解散後、戦後は病気になって芸能活動ができなくなり、回復後、仕事ができるならなんでもやるという姿勢で、化け猫役を引き受けたそうです。
 ここで登場するのが溝口健二監督。彼はプライドの高い人で、入江ぷろだくしょんから仕事をもらったことがあり、それまで自分が顎で使っていた女優から仕事をもらうことに屈辱を感じていたようです。1955年の映画『楊貴妃』に入江たか子を起用。イメージ通りの演技が何度やっても出てこない彼女に「化け猫ばかりやっているからだ」と、大勢のスタッフの前で罵り、それをきっかけに彼女は自ら降板してしまいます。
 そのことについて溝口監督の没後に作られたドキュメンタリー『ある映画監督の生涯』(1975年)で、新藤兼人監督が入江たか子にインタビューしています。そのときのくやしさを思い出してか、美しい彼女の顔が何度か歪んで見えます。彼女がただの化け猫女優だったら、溝口監督のことを恨んで喉笛をかみ切るようなことでも言えたはず。でも、そんなことは言いませんでした。「(化け猫映画でも)役を受けたかぎり、どんな芝居でも投げちゃいけないと思って、一生懸命やりました」(注)。
 逆恨みした化け猫は、溝口監督の方だったようです。

 日本のお盆気分を味わえる怖くて楽しい娯楽作品。横幅の狭いスタンダードサイズの画面を生かした、スタントと本役の入れ替わり、お色気で迫る豊と、清純な冬の対比も見どころです。できればワイワイと大勢で見て、盛り上がりたいものですが・・・。

 

(注) 『ある映画監督 ―溝口健二と日本映画―』新藤兼人岩波書店/1976年

 
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エイリアン

SFホラーの金字塔。続編『エイリアン2』についても少し触れています。宇宙でも猫はやっぱりマイペース?

 

  製作:1979年
  製作国:アメリ
  日本公開:1979年
  監督:リドリー・スコット
  出演:シガニー・ウィーバートム・スケリット
     ジョン・ハートイアン・ホルム 他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    主人公? 宇宙船? のペット
  名前:ジョーンズ
  色柄:茶トラ

◆征服者エイリアン

 この映画の公開当時、「エイリアン(alien)」という言葉そのものが日本ではなじみがなく、「エイリアン」とは、異邦人とかよそ者という意味の言葉であるという説明がされていたように記憶しています。いまではすっかり、侵略的な厄介な存在をエイリアンと呼ぶことが定着してしまいましたが、パロディ化されたものも含め、「エイリアン」という語が題名に含まれる映画やドラマは全世界にどれくらいあるのでしょう。怖い、気持ち悪いと言われながら、エイリアンは人類の心に深く住み着いて世界中に蔓延してしまったのです。

◆あらすじ

 貨物曳航宇宙船ノストロモ号は、地球への帰還中に正体不明の信号をキャッチした。発信元の小惑星に着陸し、3人の乗組員が発信者の異星人の化石化した遺体と、洞窟に無数の卵のような形の物体を発見する。その物体に近づくと突然生き物が飛び出し、ケイン(ジョン・ハート)のヘルメットを溶かして顔に貼りつく。ノストロモ号に戻った3人に対し、リプリーシガニー・ウィーバー)は、ケインを宇宙船に入れずに隔離しようとするが、アッシュ(イアン・ホルム)が入れてしまう。
 ケインの顔に付いた謎の生物は、脚を切断しようとすると強酸を出し、宇宙船の床に穴が開く。その生物はいつのまにかケインの顔からはがれて死んだ。リプリーが死骸を船外に捨てるよう主張しても、アッシュは地球に持って帰ると言い、船長(トム・スケリット)もアッシュに任せてしまう。離陸後まもなくケインは元気になるが、急に苦しみだし、歯だけが目立つ気味の悪い生物がケインの腹部を食い破って逃げ、宇宙船のどこかに隠れてしまう。生物(エイリアン)は見つけられないまま成長を続け、乗組員たちを次々に襲う。残された4人は脱出艇で逃げようと相談するが、議論に加わらないアッシュを不信に思ったリプリーがコンピュータにうかがいを立て、この船はエイリアンを捕獲して地球に運ぶことが目的だったことを知る。アッシュはそのために船会社から送り込まれたのだった。
 脱出用のシャトルリプリーが準備する間に、他の乗組員は次々とエイリアンに襲われ、残されたのはリプリーと猫のジョーンズだけになってしまう。リプリーはジョーンズと共に脱出艇に乗り込み、母船を爆破して地球に向かうが…。

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◆お邪魔なジョーンズ

 新型コロナの流行による在宅勤務で、仕事の邪魔をする猫たちのことが話題になりました。リモート会議に飛び入り参加したり、パソコンのキーボードを占拠したり。『エイリアン』に出てくるトラ猫ジョーンズも、猫々しい行動で乗組員の足を引っ張ります。ジョーンズは、冒頭まもなく、乗組員がコールドスリープから目覚めて食事をするシーンから最終盤まで、ところどころに登場します。
 ケインの腹を食い破って逃げたエイリアンを探しに、動くものに反応する探知機を使ってリプリーらが三人組で船内をめぐると、ロッカーに反応が。網を持って1、2の3で待ち構えると、飛び出してきたのはジョーンズ。な~んだ、と気が抜けたところで、また機械が反応してはいけないと、ブレットがジョーンズを探しに行きます。もう少しのところで捕まえようとしたとき、ジョーンズがウーッと威嚇の声。ブレットの背後にエイリアンがいたのです。ジョーンズを探しに行ったばっかりにエイリアンの犠牲になってしまうブレット。襲われているときに、ジョーンズの「それがなにか?」とでも言いたげな顔が画面いっぱいのアップで2度映ります。コラッ、お前のせいだ!

 なぜ宇宙船のような、触ってはいけない物とかごちゃごちゃと隅っこがあったりするような所に猫なんか乗せたのだ、と思うのですが、ネズミの害から船を守り、航海の安全のアンテナとなる猫を乗せる、という船の伝統からでしょうか。これが犬だと、人間と一緒に戦ってしまう。宇宙船の隅で助けを求めるようにニャ~ンとか細い声で鳴いていた猫を救おうと、キャリーケースに入れて母船から逃げる場面は、リプリーの孤立無援な脱出劇と、爆破までのカウントダウンの緊迫感をいやがうえにも高めます。

◆別のストーリー

 脱出艇への通路の手前でエイリアンと出くわし、一旦ジョーンズの入ったキャリーケースを置いて、爆破を止めに走るリプリー。けれども爆破はもう止められず、宇宙船に残る選択肢は消滅します。リプリーはギリギリのタイミングでシャトルにキャリーケースと共に乗り込みます。
 リプリーがキャリーケースを手離していた間に、ジョーンズにエイリアンが寄生して、脱出用のシャトルリプリーとジョーンズが乗り込んだあとでリプリーが襲われてしまうとか、ジョーンズの中にエイリアンが寄生したまま地球まで運ばれてしまう、などのストーリーを思い浮かべた人もいたと聞きます。続編の1986年の『エイリアン2』(監督:ジェームズ・キャメロン)を見ると、リプリーもジョーンズも無事地球に帰っています(57年もかかって!)。再度あの小惑星へエイリアン討伐にリプリーが旅立とうとするとき、ジョーンズは留守番に置いて行かれます。リプリーは死ぬ覚悟で、ジョーンズを道連れにしてはかわいそうと思ったのでしょうか。…まあ、やっぱり前回で懲りたのでしょうけれど。

 『スクリーンを横切った猫たち』によれば、シガニー・ウィーバーが『エイリアン』のプロモーションのため来日したとき、わざわざジョーンズに似た茶トラの猫をコーディネートして一緒に記者会見に臨んだそうです。ところがこの猫、カメラのフラッシュに驚いて彼女のドレスをひっかいて台無しにしてしまったとか。まったく、猫ってやつは!

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

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◆宇宙で朝食を

 『エイリアン』を久しぶりに見て、思い浮かべたのは『ティファニーで朝食を』(1961年/監督:ブレイク・エドワーズ)です。茶トラの猫をペットにしている女性主人公、という共通点を持ちながら、そのキャラクターの描かれ方の違い。ドレスアップして男性の気を惹き、女を売り物にお金持ちと結婚することを究極のゴールとして行動する『ティファニーで朝食を』のホリー。彼女にお金より心の絆の大切さを教えてくれた男性と結ばれるハッピーエンド。
 一方、『エイリアン』のリプリーは、カッコいい、強い、逞しい。たった一人でエイリアンという怪物や、エイリアンを連れ帰る目的で宇宙船を航行させた会社のたくらみと対峙します。ジョーンズに茶トラの猫を起用したところは、『ティファニーで朝食を』の主人公との対照性を意識したものではないか、と私は思うのです。

◆戦う女

 伝統的な怪物ホラー、西部劇、アドベンチャーものなどでは、勇敢な男性主人公が、悲鳴を上げて助けを呼ぶ女性を救います。しかもこれらの映画では、女性の存在やその向こう見ずな行動がピンチを招くことが多いのです。『エイリアン』では、リプリーが伝統的な男性ヒーローの役割、猫のジョーンズがピンチを招く女性の役割を担っています。
 リプリーは、科学担当のアッシュの勝手な行動を「わたしの方が上位者だ」と戒めます。自分より年上の男性に、自分の方が上だと女性が制することは、今でもためらわれることかもしれません。けれども、責任と権限が与えられた以上、女性はその壁を破らなければなりません。
 リプリーのカッコよさは、脱出用のシャトルに乗り込んだ彼女が着替えるときの下着のシンプルさにも表れています。レースなどの飾りや、ピンクなどの女の子色を使わない機能一点張りのアイテム。唯一、股上が浅く、前が開いていないショーツが、その主が女性であることを主張。不思議にセクシーさをかもし出しています。

 圧倒的な力に正面から一人で立ち向かう女性像の原点となった『エイリアン』。『エイリアン2』では、リプリー小惑星で取り残された少女を守って武器を構えるスチル写真が使われ、リプリーの頼もしさはさらに増していきます。ただ、マッチョな男性ヒーローを女性に置き換えただけのような描き方は、はたしてこれでいいのか、という疑問を生みます。それを補うように、エイリアンとの遭遇から地球に帰還する57年の間に実の娘に先立たれてしまったリプリーの、少女に寄せる母性が描かれます。
 何がどこから出てくるかわからなかった第1作の恐怖に比べ、その後の『エイリアン』シリーズは、エイリアンの精密な描写と人類の闘いのゲーム的な展開が中心になっていきます。リプリーを演じたシガニー・ウィーバーも、これを越える役にいまのところたどり着いていないようです。

◆ディレクターズ・カット版

 『エイリアン』は、2003年にディレクターズ・カット版が発表されました。ハリウッドではプロデューサーの力が強く、劇場公開時に内容が変更させられたり、シーンが削除されたり、監督の意に沿わない改変を余儀なくされることがよくあります。人気の出た作品を後日監督(ディレクター)が自分の意図通り編集した版が、劇場公開版とは別のディレクターズ・カット版。監督の思い入れのあるカットやシーンが追加されることが多いようです。
 『エイリアン』ディレクターズ・カット版では、ケインを宇宙船に入れるのを拒んだリプリーに腹を立てた女性乗組員のランバートリプリーに平手打ちをしたり、ジョーンズを探しに行ったブレットをエイリアンの視線から見るカットが入ったり、リプリーが手離したジョーンズのキャリーケースがエイリアンに突き飛ばされる、といったカットが追加されています。ジョーンズにエイリアンが寄生して…というアナザーストーリーを考えた人たちがいたのは、劇場公開版ではキャリーケースをエイリアンが突き飛ばすところまでは映らず、ジョーンズの背後にエイリアンが迫る映像が一瞬だけ入ったため、これは何かを暗示しているに違いない、と思ったからでしょう。

 ディレクターズ・カット版で追加されたシーンで、最も議論を生むであろう部分についてはあえて伏せます。おそらくプロデューサーの判断で削除されたのだと思います。日本のSFホラー映画『美女と液体人間』(1958年/監督:本多猪四郎)は、人間がジェル化して東京にパニックを起こす映画ですが、最後はその液体人間をガソリンで焼き殺してしまいます。けれども、この液体人間は人間が変身しただけで、死んでからよみがえったわけでなく、まだれっきとした国民なのに焼き殺してしまっていいのだろうか、と思ったのですが、『エイリアン』ディレクターズ・カット版で追加された問題のシーンにも、似たようなところがあります。
 ちなみに『美女と液体人間』の美女は、彼女を愛する学者が助けに来るまで、レースのスリップ姿で築地の下水道を逃げまどっています。 

 

eigatoneko.hatenablog.com

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お葬式

縁起でもないタイトルと題材ながら大ヒット。今見るとちょっと懐かしい、昭和のお葬式。

 

  製作:1984
  製作国:日本
  日本公開:1984
  監督:伊丹十三
  出演:山崎努宮本信子菅井きん大滝秀治、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    主人公の家の飼い猫
  名前:ニャン吉
  色柄:茶白のブチ

◆パーソン・イン・ブラック

 会社員だった頃、私は人事・総務系の部署にいたので、社員や社員の身内の方にご不幸があると、よく葬儀の手伝いに行きました。経理の人たちは香典チェック係。手伝い以外にも、葬儀が寂しくならないようにと、お通夜と告別式に弔問に行く人数をそれぞれ等分に割り振ったり、葬儀は大事な仕事でした。それが、平成半ばくらいになると、だんだんと、身内だけで葬儀をすませるからと、弔問、お手伝い、お香典、お供物を固辞するお宅が増えてきました。会社の規定の弔慰金は、香典袋に筆書きしてお渡ししていたのですが、それもついにはキャッシュレスで口座振込となり、葬儀が社員のご親族のときは、社内は何事もなかったかのように静かになってしまったのでした。

◆あらすじ

 井上侘助山崎努)と雨宮千鶴子(宮本信子)は俳優夫婦。ある日、母(菅井きん)と二人で暮らしていた千鶴子の父の急死の知らせが届く。二人はマネージャーと子供と猫とともに、車で東京から伊豆に駆け付ける。葬儀は両親の家で行うことになった。
 翌朝、侘助と千鶴子が通夜の準備をしていると、侘助の付人と一緒に手伝いに来た侘助の愛人の良子(高瀬春奈)が場違いな奇声を出して騒ぎ出す。良子を外に連れ出した侘助に、良子は抱いてと迫る。侘助は仕方なく言うことを聞き、良子を追い返す。
 老人会のゲートボール仲間のおばあちゃんが棺にとりすがって号泣したり、近所の女性たちが台所周りを手伝ったり、酒を飲んで男どもがなかなか腰を上げなかったりなど、騒々しかった客たちが帰ったあと、母と千鶴子と千鶴子のいとこのシゲ(尾藤イサオ)とが、水入らずの通夜を過ごす。
 告別式当日。火葬場の煙突から立ち上る煙を眺め、しんみりする親族たち。侘助は火葬場から戻ってみんなに挨拶をしなければならず、緊張気味。精進落としの料理を前に口を開こうとすると、思いがけず母が「喪主だからご挨拶をしたい」と進み出る…。

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◆堂々たるニャン吉

 猫好きの伊丹十三監督が、帽子をかぶってブチ猫を胸に抱いている写真を見たことがありますか? その写真の猫が『お葬式』のニャン吉だそうです。撮影中に撮られたスナップ写真のようです。
 ニャン吉は、侘助一家が車で伊豆に向かう場面からお通夜までの間に登場します。初め、この映画を見たとき、ニャン吉は亡くなったお父さんの飼い猫だと思っていました。お父さんがニャン吉を自慢していたという、お通夜に来た老人会の仲間たちのセリフがあったからです。でも、お父さんが亡くなって、侘助一家が駆け付けるときの車内にニャン吉がいるので、変だなと思ってよく見てみると、老人会の仲間は、東京に住む侘助夫妻が、伊豆の父母の家に来るときにしょっちゅうニャン吉を連れて往復していたけれど(ニャン吉は)文句ひとつ言わないと(お父さんが)言っていた、と話しています。自分の娘夫婦の飼い猫の自慢を老人会の仲間にするなんて、お父さんもなかなか猫好きだったようです。
 この絶妙なやり取りを繰り広げる老人会の4人は、戦前戦後の日本映画の名バイプレイヤーたち。右から伊丹監督の父・伊丹万作がシナリオを書いた『無法松の一生』(1943年/監督:稲垣浩)、『手をつなぐ子等』(1948年/同)で、どちらも主人公の父親役を演じ、時代劇で活躍した香川良介、クセ強めの関西人を数多くの映画で演じた田中春男、ニャン吉を抱いているのが黒澤明成瀬巳喜男監督作品の常連・藤原釜足、左端がサイレント時代から小津安二郎の映画などで活躍した吉川満子です。相手をする宮本信子も、圧倒されてたじたじになっているようです。
 ニャン吉が大物らしい演技力を発揮するのが、お通夜の日の朝。祭壇が準備された居間に、スタスタと出てきたと思ったら、いきなり畳に寝っ転がり、周りに人がワサワサしていても、目もくれずマイペース。猫は慣れない環境だと借りて来た猫状態になるはずなのに、このリラックスぶり。私がニャン吉がお父さんの家で飼われている猫だと思ってしまったのは、このニャン吉のあまりにも落ち着き払った態度のせいでもあります。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

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◆タブーに斬りこむ

 今で言う「お葬式あるある」を集めたこの映画、伊丹十三監督は、死を悼むという本来厳粛であるべき儀式にひょっこり顔を出す、想定外で滑稽な要素に焦点を当ててあざやかに映画化し、世間の絶賛を浴びました。これが監督第一作。
 それまであまり表立っては語られなかったことを、丹念な取材に基づきコミカルに活写するというスタイルはその後も貫かれ、『お葬式』で千鶴子を演じた妻の宮本信子を主役に、国税査察官と脱税者の攻防を描いた『マルサの女』(1987年)や、民事介入暴力と戦う女性弁護士を描いた『ミンボーの女』(1992年)などを作りますが、1997年に64歳で謎の死を遂げています。監督業以前から、俳優、エッセイ、イラストなど多彩な才能を発揮。伊丹監督のお葬式はどんなお葬式だったのか…。
 故郷の松山市宮本信子が「伊丹十三記念館」を建て、生前の様々な資料を展示しています。伊丹監督がニャン吉役の猫と写っている写真のポストカードも売っています。

◆慣れない方がいい

 『お葬式』のヒットの理由は、リアリティにあると思います。今でこそ、「お別れの会」などを無宗教で行ったり、他人を呼ばず近親者だけの集いとしたり、生前から自分の葬儀を企画・演出したり、と多様化している葬儀ですが、この当時は葬儀社とお寺に言われるがまま、それに、各人が過去に得てきた知識や慣習が混ざり合って(宗教や土着の習慣によって異なるはずなのに、自分の経験を主張してやまない人がいたり)、悲しみと慣れないことで思考停止気味の遺族の周りに、その倍以上の平常心の他人が集まって、ベルトコンベヤー式に事が進行していたように思います。
 どこかちぐはぐで迷惑な人の代表が、大滝秀治演じる故人の兄。手広く事業をやって成功しているものだから、人の集まる場で上に立って仕切らずにはいられません(「自分の親戚で言えばあの人だ」などと思う方もいらっしゃるかも)。出棺のときに写真を撮ろうと言い出して流れを止め、みんなに悲しみのポーズのやらせを要求するなど、いますよね、こういう人。7人きょうだいで、千鶴子の父が亡くなったことにより自分一人になってしまったというのに、ちっとも悲しくなさそうで、千鶴子のいとこ(伯父さんと千鶴子の父にとっては甥)のシゲという青年は彼を嫌い、皆が帰って静かになったあと、棺の窓を開け千鶴子の父の顔を見てすすり泣きます。千鶴子の父にはかわいがってもらったのでしょうか。つられて千鶴子も千鶴子の母も泣きだします。親戚間の人間模様も、葬儀という場では鮮明になったりするものです。

◆我慢できない女

 『お葬式』で、議論を呼んだのが侘助と愛人の良子の破廉恥なセックスです。ほかの部分は、葬儀で誰もが経験しそうなリアルなエピソードで、観客は共感をもって見ることができますが、この部分は露骨でえげつなく、ましてやそれが葬儀の日に会場の目と鼻の先の野外で、という設定で、異質な雰囲気です。ただ、私は、これが伊丹監督流だと思います。
 伊丹監督は、さびれたラーメン屋を流れ者の男が再生させる映画『タンポポ』(1985年)の傍系のエピソードで、食に対する人間の欲求やあさましさを皮肉っぽく描いています。どんなに取り澄ましていても、人間は生きている以上は食欲や性欲から免れられないし、それは時や所を選ばず人間を支配しているという認識が、伊丹監督にはあったと思います。だとしたら、たとえ葬儀という場であろうと、その支配に操られる人間がいたとしても、何らおかしいことではない、ということがあのシーンに込められていたのではないでしょうか。外見はまじめで硬そうな良子の中に、人間という動物のドロドロした欲望がうごめいているという逆説も感じられますが、この場では良子の外見はあまり意味がないでしょう。ここで最も伝えたいはずのことは、生きるために人間に備わっている欲望というものの圧倒的な力だろうと思います。
 もうひとつ、このシーンで私が感じるのは、藪の中を走って逃げる良子を侘助が追いかける部分が、溝口健二の『西鶴一代女』(1952年)で、斬首された勝之介の遺言を読んで、井戸に身を投げようと藪の中を走るお春を母が追いかける長回しのシーンを模倣したものではないかということです。伊丹監督が初の監督作品で、クレーンを使ってやや上方から流れるように撮るこの撮影方法を取り入れてみたいと考えてこのシーンを作ったとすると、葬儀会場からほど近い山道で行為に及ぶという設定の不自然さも合点がいきます。
 いずれにしても、比較的当たり前のことをつづった『お葬式』の中で、このシーンが最も強烈な印象を残したことだけは間違いありません。

◆願わくは花の下にて

 『お葬式』のリアリティのことに話を戻しましょう。
 葬儀屋のサングラスの海老原(江戸家猫八)は、海千山千で、その家の懐具合を鋭く嗅ぎ当て、彼らがちょっと無理すれば出せるくらいのサービス料金を提示しているのでしょう。宗派の違うお寺のお坊さん(笠智衆)を呼んで、二人で結託してうまいこと商売しているような。何しろこのお坊さん、ロールスロイスに乗っているくらいですから。
 おなかの大きい千鶴子の妹(友里千賀子)、血縁者ではないので控え目なその夫、その子供たちと侘助と千鶴子の子供たちが元気に遊びまわるところなど、親戚の集まりではよくありそうなことです。
 火葬場で棺を窯におさめ、蓋を閉めるときは、本当にこれが最後のお別れだと、涙を抑えられないものです。侘助
「俺は春死ぬことにしよう。俺が焼ける間、外は花吹雪。いいぞ」
と千鶴子に語ります。

◆その時を、その後を

 笑ったり共感したりしているうちに映画は終わりに近づき、お母さんが自分から進んでした挨拶は胸を打ちます。
 心臓発作で病院に担ぎ込まれたお父さん。最期のときは心肺蘇生措置のため、お母さんは病室の外にいて、みとれなかったのです。お母さんが語るのは「どうせ亡くなるなら、その時を一緒にいてあげたかった」という、愛する者への、真実の人間らしい気持ち。新型コロナでタレントの志村けんさんが亡くなったとき、遺体の顔を見ることもできず、お骨になって戻ってきたのを受け取っただけだったというお兄さんの談話は、私たちにショックを与えました。
 心停止が必ずしも死とは言えなくなったり、肉体は生きていても人間としての活動を復活することのできない脳死など、医学の発達によって死の定義も変化を続けています。けれども、人間が、いつどのように死ぬかを選べないという事実は、昔も今も変わりません。色々な医療器具につながったまま、親しい人にお別れも言えずその時を迎えることになるなら、という気持ちが、せめてその後はと、自分らしい葬儀やお墓のあり方を模索する動きにつながっているのではないでしょうか。

 

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