この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

レンタネコ

ウソかまことか、まことかウソか。人の心にぽっかり空いた穴に効くネコ、お貸しします。


  製作:2011年
  製作国:日本
  日本公開:2012年
  監督:荻上直子
  出演:市川実日子草村礼子光石研山田真歩田中圭小林克也、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆☆(主役級)
    サヨコの貸す猫などクレジット全17匹
  名前:「歌丸師匠」のほか、レンタル中に「マミコ」と名付けられた子猫、
     お客さんが以前飼っていた「モモコ」以外は不明。

  色柄:茶トラ、黒白ハチワレ、茶白、三毛など・・・


◆毎度おさわがせ

 「レンタ~ネコ。レンタ~ネコ」「ネコネコ」
 ハンドマイクのこの声が聞こえてきたら、財布を握りしめてダッシュしてしまいそうです。
 最近は流しの物売りの声をあまり聞かなくなりましたが、冬になると焼き芋屋さんだけは必ずやってきます(不思議なことに待ち構えていると来ないもの)。我が家の近所では以前、野菜や餃子を売る軽トラックなどが来ていましたが、コロナの影響か、見かけなくなりました。この夏はマスクを外して夏祭りの露店も楽しめるか、と思っていたら第七波がひたひた。気の抜けない日はまだ続くようです。

◆あらすじ

 一緒に暮らしていた祖母と2年前に死に別れ、古い庭付きの家に一人で住んでいるサヨコ(市川実日子)には、子どもの頃から自然と猫が寄ってきた。子猫から年寄り猫まで全部で8匹ほどの猫の面倒を見る彼女は、リヤカーに猫を積んで猫を貸し出す「レンタネコ」の行商をしている。
 今日は吉岡さんという品のいいおばあちゃん(草村礼子)に声をかけられ、簡単な審査で前金千円を受け取って茶トラの猫を貸し出した。一人暮らしの吉岡さんは少し前にそっくりな茶トラのモモコを亡くしたばかりだった。レンタル期間は吉岡さんが他界するまでだったが、ほどなくその日がやってくる。部屋の後始末に来た息子から、サヨコは猫を引き取って帰る。
 次に猫を借りたのは、単身赴任中の中年サラリーマンの吉田(光石研)だった。吉田はかわいかった娘が成長して冷たくされるようになり、単身赴任が終わることを恐れていた。子猫を借りた吉田は元気を取り戻し、サヨコから猫を譲り受けて家に帰っていった。
 サヨコは「今年こそ結婚する」「新婚旅行はハワイ」と目標を紙に書いて部屋に貼り出していた。ある日、レンタネコの行商中に「ハワイ旅行が当たる」という宣伝ののぼりを目にしてレンタカー屋に入っていくと、一人で店番している女性・吉川(山田真歩)に出会う。彼女がいつも一人ぼっちで寂しいことを知り、彼女に待ち人が現れるまで猫を貸し出すことにする。ところが吉川は自分で自分の会社の車を借りてハワイ旅行のくじを当て、猫を一旦サヨコに返して旅立って行った。
 今日もまたサヨコが行商に出ると、中学の時の同級生の男子「うそつきはったりの吉沢」(田中圭)とばったり出会い「ジャミコ」と呼び止められる。吉沢は猫を貸してほしいと言うが、サヨコはツンとして家に帰ってしまう。吉沢はサヨコの家までやって来て、一緒にビールを飲みながら昔話をしたりするが、猫を借りずに帰ってしまった。やがて、吉沢のことを尋ねる人が来て・・・。

◆猫いらんかえ~

 江戸時代の町などは物売りをして歩く人が多く、たいへん賑やかだったと聞きます。人口が増えるとともにネズミの害が増えて猫を飼うようおふれが出され、隣近所で猫の貸し借りも行われていたそうです。ネズミを捕ってもらおうとせっかく猫を借りてきたのに、慣れない環境で縮こまってしまったのをたとえたのが「借りてきた猫」の由来。
 『ハリーとトント』(1974年:監督/ポール・マザースキー)では、ハリーは以前、猫のセールスマンをしていたと言っていますが、広大なアメリカでは猫を手に入れようとしても、そのへんで拾ったりもらったりできるような環境ではなかったということでしょうか。
 サヨコが貸し出す猫の役目は、借りた人の心の中の寂しい穴ぼこを埋めること。ほとんどのシーンに猫が登場し、映画を見る人の心の穴ぼこを埋めてくれます。こうした映画ではしばしば猫が擬人化されたり、お値段の高そうな猫がこれでもかとばかりに観客アピールしたりすることがありますが、『レンタネコ』は普通の猫の姿が映っていて和みます。サヨコがレンタルする猫もサヨコの家で放し飼いにされている雑種の「Cランク」の猫たちばかり。映画のために動物プロダクションが貸し出す猫たちも、ブランド猫・そうでない猫で、お値段のランク付けがなされているのかもしれません。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆儲けなし

 猫をリヤカーに乗せてレンタルという、現実にはありそうにない商売をしているアラサーとおぼしきサヨコの、とある夏の日々を切り取ったこの映画には、浮遊感覚と言うべき空気が漂います。レンタル契約は、猫を貸し出すときにサヨコが審査し、合格したら借用書にお客がサインし、前金を払って成立です。審査と言ってもいい加減なもので、サヨコが見てこのお客がちゃんと猫をかわいがってくれると思えば合格で、借用書もお客の名前と猫の色柄と、漠然といつまで借りるかを書くだけという、法的な形式など調っていないもの(実際は第一種動物取扱業者として法律で厳しい義務が課されます)。
 わずかな金額でサヨコの生活が成り立つのかお客が心配そうにすると「私は株で毎日億の金を動かしています」「占い師で“多摩川の母”と言われています」「テレビコマーシャルの作曲をしています」とその都度違う話をし、実際に彼女がその仕事をしているイメージ映像が流れます(全部猫がアシスタントをしています)。
 かと言ってサヨコが怪しい商売を目論んでいるわけではなく、何で食べているのかはよくわかりませんが、寂しい人の心の穴ぼこを埋めるためにレンタネコをしているのです。まあ、ボランティアに近いものでしょう。そのへんの具体的な説明は抜きに、もしレンタネコなんてことをする人がいたら・・・というファンタジックコメディの要素がある映画です。

◆現在・前世・将来

 具体性のなさと言えば、サヨコそのものが現実から浮き上がっているような存在です。2年前まで祖母と暮らしていたというサヨコですが、両親については一切の消息が描かれず、その生活には親の痕跡すら感じられません。そんな彼女について、垣根を隔てた隣の家のおばさん(小林克也)は「あんたの前世はセミだ」と因縁めいたことを言います。だから男は寄って来ず、猫しか寄って来ないのだそうです。
 サヨコの目標である「今年こそ結婚する」は、彼女の暖かい家庭に対するあこがれなのでしょうか。逆に彼女は家庭や結婚などに実体験から来る具体的なイメージを持っていないように見えます。彼女の最強の味方だったおばあちゃんが亡くなったあと、猫たちが彼女の心の穴を埋めてくれたようですが、多くの猫たちでも埋められないものがあり、それが何かはサヨコにもまだつかめていないようです。
 同年代のレンタカー屋の孤独な吉川と「自分たちは女性としてCランク」と意気投合したあと、彼女がちゃっかりハワイに行くことになり、吉川を「世界中から取り残されているようだ」と同情して猫を貸してあげたのに、自分がその気分を味わうことになってしまいます。

◆偶然の再会

 中学の同級生の吉沢から呼ばれた「ジャミコ」というあだ名は「ウルトラマン」に出てくる、首が胴体に埋まった気持ちの悪い怪獣「ジャミラ」がもと。こんなあだ名をつけられるくらいだからサヨコはちょっと周りから浮いた子。いつも保健室で寝ているサヨコと、やはり周りから「うそつきはったり」と呼ばれる吉沢とは、はみ出し者同士気楽に話せる間柄でした。この吉沢とのシークエンス(物語の中のひとつのまとまりとなった部分)がいい。
 大人になった吉沢に異性を意識して緊張するサヨコ。この再会が彼女の日常を打開する方向に進むのかと思いきや、意外な展開が待っています。

◆負けてもいい

 こういう映画は一部の人からは何が面白いのかと思われるかもしれません。戦って己の望むものを獲得しようとする競争原理の中で生きている人には、生産性のない若い女性がブラブラしているだけ、と全否定されてしまいそうです。が、そうした価値観は果たして絶対でしょうか。勝っているときはいいですが、負けたとき、もっとムチ打ってと言える人はどれだけいるでしょう。
 やっぱりアメ玉が必要なのです。アメ玉が問題を解決してくれるわけではありませんが、いっときアメ玉でエネルギーを補給して、また仕切り直すことができるのです。
 サヨコは結婚することで自分の不全感が満たされるとは思っていないのでしょう。むしろ人とのつながりの中で悩むお客さんたちの姿を見てしまいます。疎外される寂しさを埋めてくれるアメ玉の役を人間に求める難しさを知っているから、猫を貸すのです。考えてみれば、猫はネズミを捕る以外あまり取柄のない生き物。「お前はエライなあ」と人を卑屈にさせないところが、猫のアメ玉効果かもしれません。

◆気持ちのいい距離

 脚本も手掛けた荻上直子監督は『かもめ食堂』(2005年)や『めがね』(2007年)でも、女性主人公の他人とのゆるい結びつきを淡々と描いています。結びつく他人の方も何をしているのかわからない人。お互いに立ち入ったことは聞きません。経歴や家族といった属性を脱いだ、その人そのものと個と個として結びつきます。自分の「気持ちいい」を求めた人々が、気持ちのいい部分だけでつながっているのです。
 何十年かして、21世紀初めの日本の女性史を探るうえで、荻上監督の映画は(登場人物のファッションも含め)、大いに参考になるかもしれません。

 主役の市川実日子は『シン・ゴジラ』(2016年/総監督:庵野秀明)での、環境省自然環境局野生生物課長補佐のち代理・尾頭ヒロミのクールな演技で強烈な印象を残しました。ちょっと怒り顔の彼女、クセのある若い女性の役が多かったと思います。中年以降どんな俳優になっていくか、注目です。

 

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ゴッドファーザー

イタリア系組織犯罪集団マフィアの名を世に知らしめた名作。家族と愛と冷酷のハーモニー。


  製作:1972年
  製作国:アメリ
  日本公開:1972年
  監督:フランシス・フォード・コッポラ
  出演:マーロン・ブランドアル・パチーノダイアン・キートン
     ジェームズ・カーン 他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    ドン・コルレオーネの愛猫
  名前:不明
  色柄:キジ白


◆愛のテーマ

 公開から今年で50年。当時爆発的にヒットした映画本体もさることながら、映画音楽の巨匠ニーノ・ロータによる「ゴッドファーザー~愛のテーマ」も日本語歌詞でカバーされ大人気になりました。半世紀たった今も「マイ・ウェイ」と並んでシニアの方のカラオケ持ち歌のひとつではないでしょうか。

◆あらすじ

 1945年、ニューヨークを拠点とするマフィアのドン(首領)の一人、ヴィトー・コルレオーネ(マーロン・ブランド)の娘・コニー(タリア・シャイア)の結婚式が盛大に行われていた。久々にヴィトーの三人の息子・長男のソニージェームズ・カーン)、二男のフレド(ジョン・カザール)、三男のマイケル(アル・パチーノ)と、養子でコルレオーネファミリーの相談役を務めるトム(ロバート・デュヴァル)が顔をそろえ、マイケルは恋人のケイ(ダイアン・キートン)を家族に紹介した。結婚式を機にドンのもとには色々な相談事を持ちかける人がやってきたが、ドンは義理を欠く人に対しては決して断れない貸しを作って対応した。
 麻薬業界の大物ソロッツォ(アル・レッティエリ)はタッタリアファミリーを後ろ盾に、麻薬ビジネスを目論んで政界に顔のきくコルレオーネを抱き込もうとしたが、ヴィトーは麻薬に反対し物別れとなる。邪魔なヴィトーを消して跡目のソニーに付け入ろうとしたソロッツォの一味にヴィトーは銃撃されるが、一命を取り留める。ソニーは報復にタッタリアの息子を殺し、マイケルがソロッツォと彼に買収された警部を銃で殺害、父の故郷シチリア島に高跳びする。コルレオーネファミリーと、タッタリアファミリーら、麻薬ビジネスに肩入れするニューヨークの五大ファミリーとの全面戦争が始まった。
 ソニーは短気で、罠にかかって殺されてしまう。マイケルはシチリア島で一目ぼれした娘・アポロニアと結婚したが、ソニーの死の知らせで危険を察知したとき、マイケルを狙った爆弾でアポロニアが死に、急遽アメリカに戻る。
 退院したヴィトーは五大ファミリーのドンを集めて対立の終結を図り、他ファミリーが麻薬に走る中、コルレオーネファミリーの勢力は縮小、その折も折、ヴィトーが急死する。マイケルはコルレオーネファミリーの窮地に、五大ファミリーのドンたちを消すことを決意する・・・。

◆猫なでドン

 映画の冒頭、カメラに向かって正対する、つまり、ドン・ヴィトー・コルレオーネに向かって話す視線の五十がらみの男性の顔のアップが映ります。彼は葬儀屋のボナセーラ。娘の顔にひどい傷を負わせた相手を殺してほしいと訴えます。
 場所はドン・コルレオーネがそうした相談を聞くためのオフィス。大きな机の向こうに座ったヴィトーが手の中で猫をもてあそんでいます。猫はヴィトー役のマーロン・ブランドに手を伸ばしたり、体の向きをくねくね変えたり、すっかり甘えてリラックスムード。マーロン・ブランドも猫が喜ぶポイントをあちこちまさぐり、明らかに猫好きの正体を見せつつもドンとしての仏頂面を崩しません。『燃えよドラゴン』(1973年/監督:ロバート・クローズ)や「007シリーズ」の、組織の首領が猫と絡む場面を紹介してきましたが、猫との親密度はマーロン・ブランドが一番。
 この場面、マフィアの行動原理を説く重要なところなのですが、私はいつ見ても猫に気を取られて上の空になってしまいます。猫が出てくるシーンは、続編の『PARTⅡ』(1974年)『PARTⅢ(注)』(1990年/いずれも監督はフランシス・フォード・コッポラ)を通じてもここだけ。ヴィトーの後継者となったマイケルは庭で椅子に座っているときに絶命するのですが、そのとき彼の周囲にいたのは2匹の子犬でした。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆血縁と地縁

 アメリカの映画やテレビドラマで悪事を働く組織集団と描かれていたギャングの多くが、イタリア系の移民、特にシチリア島にルーツを持つマフィアという集団であるということを示してみせたこの映画は、公開当時大ヒットと共に社会現象を巻き起こしました。強大な力を持つトップを「ドン」と呼ぶことがはやりました。芸能界のご意見番和田アキ子が「ゴッドねえちゃん」と呼ばれたりしました。悪事を業とする組織集団を「○○マフィア」と呼ぶようになりました。映画の続編を「PARTⅡ」のように表すようになったのは、この映画がきっかけです。
 映画の冒頭は、ドン・コルレオーネの家族と、それを基盤としたファミリーのあり方、彼らの仕事の流儀が描かれます。
 娘のコニーの結婚式は、イタリアの舞曲タランテラの演奏とダンスでお祭りのような賑やかさ、彼らのルーツをしっかりと印象付けます。
 ドンを動かす動機は義理と同胞愛。ボナセーラが娘の復讐の相談に来る前にアメリカ式に警察・裁判に訴えたことに不満を述べ、これまで彼が長い間不義理を続けていたことを責め、青ざめたボナセーラが「ゴッドファーザー・・・」とドン・コルレオーネの手に口づけをすることでやっと許しを与えます。コルレオーネ家に世話になっているパン屋の職人には永住権を持てるよう裏から手を廻し、彼をドンと頼み懐に飛び込んでくるイタリア系の人にはその訴えを聞いてやるのです。その一方で、映画の主役を手に入れたいと訴えた歌手のジョニーのため、彼を起用することに耳を貸さなかったプロデューサーには血も凍るほど残虐な脅しを仕掛けます。ファミリーに敵対する者に対しては容赦ないのです。

◆対立の激化

 そうした行為を指揮するデモーニッシュなドンの、マーロン・ブランドは圧巻です。どこか底知れない人物の役は彼の十八番。けれども意外に早く銃撃されて入院すると、息子たち、中でもアル・パチーノが演じるマイケルが物語の中心に躍り出ます。
 マイケルはファミリービジネスとは距離を置いていました。アメリカ市民として自ら志願して兵役につき、功勲を挙げて終戦後に家族のもとに戻ってきます。ヴィトーも、マイケルには本当の意味でイタリア系アメリカ人に貢献する権力者として、議員や知事になってほしいと思っていたのです。けれどもヴィトーがソロッツォとタッタリアファミリーから襲われ、さらに入院中の病院の警護を担うべき警官がソロッツォとグルだったと知ったマイケルは、ヒットマンの役を買って出ます。マイケルはコルレオーネファミリーの最前線に立ちます。

シチリアの血

 シチリア島に身を隠したマイケルは父の出身地・コルレオーネ村を訪ねます。ここで流れるのが「ゴッドファーザー~愛のテーマ」。恋人のケイをアメリカに残しながら、美しいアポロニアと恋に落ち、マイケルは結婚します。アメリカだったら普通に交際して結婚するかどうかはそれからというところが、シチリアではそうはいきません。出会ってすぐ父親に結婚を前提にした交際を申し込み、お披露目パーティーで高価な贈り物をしなければならなくなります。黙って付き合ったりしたら殺されそうな雰囲気です。シチリアの血の気の多さと父権の強さを示す部分です。
 兄のソニーが殺され、アポロニアが死んだときも、マイケルの感情の動きは描かれません。それどころかアメリカに帰ると、かつての恋人のケイの前に突然姿を現し、結婚を申し込みます。そのプロポーズは「君が必要だ」「僕たちの子どもを持とう」。信用できるのは血を分けた家族だけという中で、マイケルは後継ぎを生んでくれる女性としてケイを求めるのです。ファミリービジネスから最も遠いところにいたマイケルが、ファミリービジネスの亡者に変わっています。

 この映画の登場人物で、観客と同じ視線でマフィアの世界を見つめる唯一の人がケイです。マイケルがシチリアに潜伏中はどこにいるかも知らされず、もちろん結婚していたなど知る由もなく、マイケルを忘れようとしていたケイ。ケイは、どんなにドン・コルレオーネが人のために力を尽くしていると言ってもそのために他の人を殺すのか、とマイケルに問います。マイケルは答えに窮しますが、ケイは結局コルレオーネ家に嫁ぎ、男の子を生みます。そうしてまともな神経を殺してきた彼女は、マイケルの妹のコニーが夫のカルロをマイケルが殺したと怒鳴り込んできたときに、マイケルに恐る恐る本当なのかと聞きます。マイケルは否定し、ケイは安堵の表情を浮かべます。内心それを完全に信じてはいないであろうケイが哀れです。

◆家族の歴史

 そんなケイも『PARTⅡ』では、普通の人間としての感覚を麻痺させて生きる人生に「NO」を突きつけます。『PARTⅡ』では、二代目ドン・コルレオーネとなったマイケルと、ヴィトーがいかにしてドンとなっていったかが描かれ、本作と一体となった作品と言っていいでしょう(若き日のヴィトーはロバート・デ・ニーロ)。『PARTⅢ』では、マイケルの死までが描かれます。第一作で洗礼式の赤ちゃん役で出たコッポラ監督の娘ソフィア・コッポラが美しく成長して出演していますが、アル・パチーノが少々グロテスクに老けてしまったのには複雑な思いです。
 マーロン・ブランドは、本作でアカデミー主演男優賞に選ばれますが、映画業界の先住民の扱い方について抗議を表明するため受賞を辞退。授賞式では先住民の女性が彼の代理でスピーチします。1950~60年代の公民権運動も支持していた彼にとって、アメリカ社会のマイノリティであるイタリア系移民、マフィアを演じることは、ただの役以上の意味があったのだと思います。彼の波乱の俳優人生はドキュメンタリー『マーロン・ブランドの肉声』(2015年/監督:スティーブン・ライリー)に、自身の録音テープの声と共に収められています。

 話は変わりますが、マイケルがソロッツォたちを殺したあと、マフィアの抗争を報じる新聞を印刷する輪転機が回り、見出しが画面に躍るカットが挿入されます。よく使われるこのカットの手法、一体いつどの映画から始まったのかを、前回の記事での「毒の吸出し」と同様、ずっと知りたいと思っているのですが・・・。


(注) 『PARTⅢ』はコッポラ監督によって再編集され、2022年に『ゴッドファーザー 
    最終章 マイケル・コルレオーネの最期』として公開。


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ライフ・イズ・ビューティフル

幼い息子を守るために父親がついた嘘。ナチスの収容所で奇跡が生まれる。

 

  製作:1997年
  製作国:イタリア
  日本公開:1999年
  監督:ロベルト・ベニーニ
  出演:ロベルト・ベニーニ、ニコレッタ・ブラスキ、ジョルジオ・カンタリーニ、
     ホルスト・ブッフホルツ 他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    ユダヤ人少女の猫
  名前:不明
  色柄:キジ色のスポッテッドタビー


◆人生は美しい

 1998年カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。タイトル通りの感動の物語です。
 前回の『HANA-BI』(1997年/監督:北野武)のきわめて寡黙な主人公・西とは一転、「口から先に生まれてきた」というたとえの見本のような人物・グイドが主人公。両者のトータルのセリフ時間はどれだけ違うのやら…?

◆あらすじ

 1939年のイタリア。グイド(ロベルト・ベニーニ)は友人と一旗揚げようと都会のアレッツォに向かっていた。途中、グイドは農家の納屋でハチに刺された女性(ニコレッタ・ブラスキ)を助ける。アレッツォでは叔父の世話でホテルのレストランの接客係として働きながら本屋の開店準備を始める。開店手続きで役所に行くと局長の男とトラブルになり、追いかけられて自転車で逃げる途中、小学生の列に突っ込む。子どもたちを引率していた教師は昨日ハチに刺された女性・ドーラだった。
 それ以来グイドはいつでも突然ドーラの目の前に現れ、ドーラも自分に率直に愛情を示してくれるユーモアたっぷりのグイドに惹かれていく。ドーラは例の役所の男と婚約していたが、仕事優先の彼に不満がいっぱい。婚約発表パーティーがグイドの働くレストランで開かれ、グイドの奇策でドーラはグイドと逃げ出し、結ばれる。
 数年後、二人の間にはジョズエ(ジョルジオ・カンタリーニ)という男の子が生まれ、本屋を営み幸せに暮らしていたが、ユダヤ系のグイドと叔父はジョズエとともに突然ナチスの収容所に輸送されてしまう。妻のドーラはユダヤ系ではなかったが、彼らを追って自ら収容所行きの汽車に乗る。
 年老いた叔父と幼いジョズエは収容所でガス室に送られる運命だった。グイドはジョズエを助けようと、収容所の生活はゲームだと言い聞かせ、いい子にして1000点たまると本物の戦車がもらえる、隠れていて見つかったら失格だ、と説明する。ジョズエはがんばって言いつけを守る。一方、グイドは女子棟のドーラに向けて、放送設備をちゃっかり拝借して呼びかけたり、思い出の音楽を聞かせたりして自分の存在と愛情を示すのだった。
 ついに戦争が終わり、ドイツ軍は収容所から撤退を始める。収容者を運び出し抹殺が繰り広げられる中、グイドはジョズエを隠し、ドーラを捜しに行くが・・・。

◆子猫の飼い主

 映画の中盤、ジョズエの誕生日パーティーの準備が整い、ドーラが自分の母親を迎えに行って戻るとパーティーの支度がめちゃめちゃにされ、家から誰もいなくなっています。グイドとジョズエと叔父さんは前触れなく連れ去られてしまったのです。三人が収容所行きの汽車が出る駅まで乗せられた自動車には大勢のユダヤ人が乗っていて、ジョズエより年かさの少女がかわいい子猫を連れています。収容所にはペットなど連れて行けるはずはなかったのですが、少女はうまく子猫を紛れ込ませたのでしょう。
 ナチスの収容所では、労働力となる人、ドイツ軍にとって有用な人しか生存を許されず、この映画にもある通り老人や幼児や病人などは、シャワーを浴びるようにとだまされてガス室で殺され、持ってきた荷物は没収されたと伝えられています。少女の連れていた子猫は、ガス室に入った人たちが着ていた服の山の上をうろうろと歩いています。飼い主の少女はつい今しがた、その短い生涯を閉じたのでしょう。子猫は少女の姿を捜し求めて鳴いています。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆監督・主演・脚本

 ライフ・イズ・ビューティフル』も『HANA-BI』も、監督自身が主演・脚本を担当しているので(『ライフ・イズ・ビューティフル』はヴィンセンツォ・セラミと共同脚本)、主人公のキャラクターは監督の意図通りと考えていいでしょう。正反対の主人公ですが、どちらも自分の家族を常識破りの方法で守ったという点では同じ。奇しくも二つの映画は製作年、監督自身が寄席芸出身(北野武は漫才、ロベルト・ベニーニは一人でしゃべくって笑わせるスタンダップコメディ)、国内外で多くの映画賞を獲得するなど、共通点が多いのです。ただし、主人公の結末には死に対する日本的な精神文化と西欧的な精神文化の差がはっきりと出ているように思います。
 ロベルト・ベニーニジム・ジャームッシュ監督の映画の常連で、1986年の『ナイト・オン・ザ・プラネット』で、ローマのタクシー運転手を演じています(猫が一瞬だけ道路を横切る)。タクシーに乗った神父に止めるのも聞かず罰当たりな懺悔をまくしたて、神父が心臓発作を起こしてしまうというオムニバスの一編。このときも口から生まれて来たような男だったのですが、グイドはさらに輪をかけたおしゃべり。ロベルト・ベニーニはもっともっとしゃべりで演じ切りたかったのでしょう。

◆言葉と心の力

 この映画の見どころはいまも言った通りグイドのしゃべり。「お世辞」「ホラ」です。特に秀逸なのは、収容所に入れられて、事情が分からない幼いジョズエに今から起きることが全部ゲームだとしてつく嘘。ドイツ兵に収容所の規則を説明するのでドイツ語が分かる者は通訳しろと言われ、わかりもしないグイドがゲームの規則に置き換えてジョズエの前で発表する場面は、間と言いジェスチャーと言い絶妙。グイドの口舌は苦し紛れの嘘からまことを絞り出していきます。
 「ふざけるな」と不快に思う人も当然いるでしょうが、父が収容所を経験したロベルト・ベニーニは、批判は承知でこの映画を世に送り出したのではないでしょうか。ほとんどの人が「収容所でこんなことあるはずない」という思いを抱きつつ、見終わった後には「どんな時にも希望と笑いを捨ててはいけない」「こんな話もあっていいんじゃないか」という気にさせられ、片時現実を忘れる罪のなさで押し切られてしまうのです。
 嘘と並んでこの映画でよく登場するのは「おまじない」。ここぞというとき指でパワーを送るようなしぐさとともにグイドが呪文を唱えると、必ずそれが実現します。強く心で信じたことが必ず実現するという自己啓発の教えを聞いたことがある人も多いでしょう。グイドの言動は、言葉と心の持つ力をあらためて思い出させてくれます。観客はまさにベニーニマジックにかかったと言っていいでしょう。

◆父と子と母

 ジョズエを演じた子役のジョルジオ・カンタリーニの天使のようなかわいらしさには子猫もたじたじ。この子でこの映画は半分以上持って行かれていますね。ネットで画像を検索してみたら現在はさすがイケメンの青年に成長していました。
 婚約発表パーティーから逃げ出したドーラを追ってグイドが温室に入っていくと、次のカットでは二人の間に生まれたジョズエがその温室から出てきます。そのときはまだ赤ちゃんっぽさが抜けていないのですが、収容所に行ってからは一回りしっかりして見えます。この映画も『自転車泥棒』(1948年/監督:ヴィットリオ・デ・シーカ)『鉄道員』(1956年/監督:ピエトロ・ジェルミ)など、男の子と父親の絆を描いたイタリア映画の殿堂入りですね。
 妻のドーラを演じたニコレッタ・ブラスキは、ロベルト・ベニーニの実際の妻で、よく共演しています。家庭でもあんなにしゃべられては疲れてしまうだろうけれど・・・。
 このドーラとグイドが出会ったとき、ハチに刺されたドーラの足のハチの毒をグイドが口で吸い出すという場面があります。昔の映画や漫画で、よくこのように蛇やハチの毒を吸い出して助けるという場面が出てきたのですが、そもそもこういう場面が最初に登場した映画は何だったのだろう、とずっと思っています。咬まれたりするのは必ず女性で、吸い出すのは男性、そしてそれが一種の愛情の表現のように描かれます(男が咬まれて男が吸い出すという場面は見たことない!)。なお蛇に咬まれたりハチに刺されたりした場合には、映画の真似をせず安静にして早めに医療につなげるのがよいそうですよ

◆レッシング先生

 もう一人印象的な登場人物は、医師のレッシング。なぞなぞが大好きで、グイドがレストランの接客係だったときに、レッシングがどうしても解けなかったなぞなぞをグイドがいとも簡単に解いたのが縁で仲良くなります。ナチスのお抱えの医師として収容所でグイドに再会。ドイツ軍関係者とのパーティーでグイドが経験を買われて接客係を務めていると、出席していたレッシングに大事な話がある、と真顔で耳打ちされます。何かと思えば、ウィーンの獣医に出されたなぞなぞを解いてほしいという話。レッシングに何か裏から有利な取り扱いをしてもらえるのではないかと、この時ばかりは真剣な表情だったグイドは力が抜けて呆然としてしまうのです。
 レッシング医師を演じたのはホルスト・ブッフホルツ。『荒野の七人』(1960年/監督:ジョン・スタージェス)で、村娘と恋に落ちる若者(黒澤明の『七人の侍』(1954年)で言えば木村功の役)を演じた俳優ですが、私にとって忘れられないのはジュリアン・デュヴィヴィエ監督のドイツ語版『わが青春のマリアンヌ』(1955年)で主役を演じていた彼。『ライフ・イズ・ビューティフル』は、彼の最後の出演作となりました。

 

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