この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

恐怖の報酬(1977)

賞金を目当てに命がけの爆薬運搬業務に集まった無頼の男たち。ウィリアム・フリードキン監督によるオリジナル完全版を軸に、クルーゾー版にも言及。

 

  製作:1977年
  製作国:アメリ
  日本公開:1978年(オリジナル完全版は2018年)
  監督:ウィリアム・フリードキン
  出演:ロイ・シャイダーブリュノ・クレメール、フランシスコ・ラバル、アミドゥ、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    偽造パスポートを手配する男の家の猫
  名前:不明
  色柄:白に黒(キジ)ブチ?


◆切り取られた過去

 フランスの小説家ジョルジュ・アルノーによる原作小説の二度目の映画化。今年2024年4月からはNetflixで同名のオリジナル映画が配信されているそうですが、今回この作品を選んだのはそれとは関係なく偶然です。このブログのおかかえ絵師の茜丸が、イラストの準備の都合上これから取り上げる映画を早く教えてくれと、先へ先へとせかすものですから、何ヶ月も前から予定は決まっているのです。猫美人は絵師に尻を叩かれて映画を選び文章を書いているのです(涙)。
 今回取り上げるウィリアム・フリードキン監督によるオリジナル完全版とは、初公開当時北米以外では無断で30分ほどカットされて上映されていたものを監督自らの尽力で元のように復活させたもので、日本では2018年に公開されたということです。
 1975年の『ジョーズ』(監督:スティーヴン・スピルバーグ)でサメと対決する警察署長を演じたロイ・シャイダーが主役を演じ、『恐怖の報酬』を挟んで1978年に『ジョーズ2』(監督:ヤノット・シュワルツ)でも主役を務めていますので、彼の旬の時期の映画と言えるでしょう。
 1953年の最初の映画化は、フランスのアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督、俳優で歌手のイヴ・モンタン主演で、日本での一般公開は今から70年前の1954年。私は子ども時代にテレビで放映されたこの映画を見て、数々の場面がトラウマになって残るほど強烈な印象を受けました。
 クルーゾー監督の版には猫が出ていないので、フリードキン監督版を軸に両方の作品を比べてみたいと思います。なお、以下では両作品をクルーゾー版、フリードキン版と表記させていただきます。クルーゾー版も一部をカットされて上映された歴史があり、このブログで参考にしたのは148分のディレクターズ・カット版です。

◆あらすじ

 時は映画製作当時の現代。
 メキシコのベラクルスでサングラスにスーツの男(フランシスコ・ラバル)が消音ピストルで男を殺害して逃げる。
 エルサレムではゲリラが爆弾テロを起こし、若いメンバーの一人(アミドゥ)が人ごみに紛れて行方をくらます。
 パリで裕福な暮らしをしている金融関係の男(ブリュノ・クレメール)は、融資にまつわる詐欺に関わって逃亡する。
 アメリカで賭博の元締めの金を奪い車で逃げたギャング集団の男(ロイ・シャイダー)は、交通事故を起こし一人だけ逃げ出す。彼らが銃で撃った元締めの一人はマフィアの親分の弟だった。
 彼ら4人の男たちは南米のとある国の辺境の村ポルベニールにたどり着く。彼らは、ここからさらに逃亡したいと考えていたが、それには多額の金と身分証が必要だった。
 その頃、数百マイル離れたアメリカ資本の石油採掘場で反米ゲリラによると思われる激しい火災が起きる。消火のためにニトログリセリンの爆発力を利用したいのだが、わずかな刺激で爆発するニトロを現場に運搬する手段はトラック輸送しかない。石油会社は多額の賞金でトラックの運転手を募集し、4人を選ぶ。みな偽名で、アメリカのギャングだったドミンゲス(ロイ・シャイダー)、パリから流れ着いたセラーノ(ブリュノ・クレメール)、エルサレムから逃げて来たマルティネス(アミドゥ)。選ばれたもう一人はスーツの男ニーロ(フランシスコ・ラバル)に殺され、ニーロが運転手の座に収まる。
 想像を絶する悪路、障害物、二人ずつ乗り込んだ2台のトラックはやっとの思いでジャングルを進む。だが、セラーノとマルティネスの乗ったトラックはパンクのはずみで爆発、やがてドミンゲスと同乗していたニーロも途中でゲリラに襲われたときの負傷がもとで死んでしまう。
 トラックの燃料も尽き、ドミンゲスはボロボロになりながら火災現場に歩いてニトロを届ける。多額の賞金を独り占めしたドミンゲスだが、その喜びも束の間だった・・・。

◆猫にごはん 

 南米のとある国(独裁国家?)のポルベニールという村、空港と1軒のホテルがある、流れ者の吹き溜まりのような土地です。ロイ・シャイダー扮するドミンゲスは空港の荷役で働き、パリから来た通称セラーノと、イスラエルから逃げて来たゲリラ・この土地ではマルティネスは、石油会社のパイプライン建設の労働者として働いています。それぞれ金を貯めて高飛びしようとしているのですが、安い賃金で一向にお金は貯まりません。
 パリから逃げて来たセラーノは、結婚10年記念に妻から贈られた腕時計を売れば旅券や航空券代にはなるだろうと、それらをあっせんしている男の家を訪ねます。その男の家に猫がいます。
 セラーノを案内した少年とセラーノが男の家の入口から入っていくと、お皿でごはんを食べていた猫が二人に対してフギャーッと威嚇します。けれどもそれも一瞬で、すぐまたせっかちにお皿に顔を突っ込みます。室内には、家族らしい人たちのスナップ写真がピンクの壁にベタベタ貼られ、3匹の子猫とインコを描いた子ども向けの額絵が飾ってあります。その下には子どもが作った猫と見える動物の工作があり、一目で一般家庭のもぐり商売ということがわかります。セラーノは腕時計とは別に男から多額の現金を要求され、手も足も出ません。
 ポルベニールは、人間以外にも、ブタ、犬、ニワトリ、鳩、カニまで右往左往する、潜伏にはもってこいの混沌とした環境ですが、頭上を飛び交う飛行機にドミンゲスらの脱出の念は募るばかり。金、金、金が欲しい・・・。
 猫が登場するのは始まってから33分過ぎ頃です。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆謎多き男

 クルーゾー版とフリードキン版を改めて見直してみると、どちらも上映時間の前半約1時間が、トラック出発までの経緯の描き込みにたっぷり用いられています。そこまで時間をかけていながら運転手に選ばれた4人の背景は今一つぼやけている、というところも共通しています。フリードキン版はそこを頑張って説明しようと、社会背景も描こうとしているのですが、かえって半端な情報を増やし話をごちゃごちゃさせているように思います。映画としての醍醐味は、わずかな刺激でも爆発してしまうニトログリセリンの運搬のサスペンスにあり、後半に入ると4人の過去は時々影のように差し込む程度です。

 ここで、フリードキン版とクルーゾー版の比較のため、登場人物を対照させておきます(フリードキン版は(フ)、クルーゾー版は(ク)と表記)。

◆主人公
(フ)ドミンゲス(ロイ・シャイダー
(ク)マリオ(イヴ・モンタン
◆スーツ姿で空港に降り立つ50がらみの男
(フ)ニーロ(フランシスコ・ラバル)
(ク)ジョー(シャルル・ヴァネル
◆パリに住んでいた男または白い髪の男
(フ)セラーノ(ブリュノ・クレメール
(ク)ビンバ(ペーター・ファン・アイク
◆パリに住んでいた男または白い髪の男と組む男
(フ)マルティネス(アミドゥ)
(ク)ルイージ(ファルコ・ルリ)

 このうち、どちらの版でも謎なのがスーツ姿の50がらみの男です。
 フリードキン版では映画の冒頭で人を殺害しますが、プロとおぼしき行動で、何食わぬ顔でその場を立ち去ります。次に登場するのはポルベニールの空港に降り立つところですが、クルーゾー版では空港(ラス・ピエドラス)がこの男の初登場シーン。係官に金を握らせて空港の外に出るところは同じです。
 トラックの運転手に選ばれていた一人を殺して自分がおさまるという冷酷な行動を起こすのはフリードキン版のニーロ。人殺しをしたニーロのことをマルティネスが「シオニスト!」と罵ります。シオニストは、パレスチナを神との約束の地とし、この地にユダヤ人の祖国を築くシオニズムを立場とする人。ざっくり言うと主にユダヤ系の人々です。かたやマルティネスは、エルサレムで爆弾テロを行っていた、反ユダヤ主義パレスチナ・ゲリラ。二人はいまも対立の続く民族紛争の当事者同士です。ニーロをナチス残党狩りの男としている映画サイトもありますが、映画を普通に見た限りではそこまで読み取るのは難しいと思います。
 クルーゾー版では、ニーロに当たる男・ジョーは主人公のマリオと同じフランス人で、二人はすぐ打ち解けます。ジョーは喧嘩でピストルを持ち出し、かつて密輸もやっていた、どうやらその筋の人らしい。運転手に選ばれた男の一人が集合時間に遅れたとき、代わりにジョーがやって来ます。彼が何かしたのではと、みな怪訝に顔を見合わせますが、不問のままトラックは出発します。

◆生死を分けるもの

 クルーゾー版では、4人の男たちが集まった町はアメリカ資本の石油会社がのさばり、ほかにまともな仕事もない場所。外で働こうにも金のかかる飛行機しか交通手段がなく、男たちは今の暮らしを脱却したくて、危険な仕事に応募するのです。
 スーツの男・ジョーは初老にさしかかっていて、気力の衰えが隠せません。ストレスで熱を出したり、崖っぷちすれすれの木の足場を曲がろうと荒っぽい運転をするマリオから逃げ、置き去りにされそうになったりします。運転だけ俺に任せて金だけもらおうとする卑怯者、とマリオはジョーに言い放ちますが、ジョーは、報酬は運転代と恐怖に対する代金だ、俺とお前は役割を分担している、と開き直ります。
 これが『恐怖の報酬』の題のもとですが、フリードキンのオリジナル完全版では、題は『SORCERER』に改められています。
 SORCERER(ソーサラー)とは魔物・魔法使いなどを意味するそうですが、フリードキン版では男たちが乗る2台のトラックにそれぞれSORCERERとLAZAROというニックネームが付けられています。パリのセラーノとゲリラのマルティネスが乗ったトラックがSORCERER、ロイ・シャイダーのドミンゲスとニーロが乗ったのはLAZARO。LAZAROとはキリストの友人の名前で、死んだあとにキリストが訪ねていくと生き返ったそうです。
 SORCERER号のフロントのデザインは顔に見えると思っていたら、走るSORCERER号の傍らの岩壁に南米の古代文明風の魔物のような彫刻があり、その牙をむいた顔がSORCERER号にそっくりです。魔物と結び付いていたためかSORCERER号は爆発し、二人のドライバーも吹き飛んでしまいます。
 一方、LAZARO号は生を運命づけられていたと言えるでしょう。ニーロが死に、賽の河原のような場所を走り抜け、ガス欠であと一歩で動かなくなりますが、ドミンゲスは徒歩で目的を達成します。

◆どんでん返し

 パレスチナユダヤや、SORCERERとLAZAROのような、対立と緊張の構図をこの映画に持ち込んだところがフリードキン版の特徴。ドミンゲスが運転するトラックの前に裸の現地の男が飛び出してあおるのは、文明と非文明の対立を描いていると言えるでしょう。トラックが巡り合うトラブルは、いまにも落ちそうな吊橋、倒木、途中の山道で積み荷を奪おうとした武装ゲリラにニーロが撃たれるなど、外的な因子によるものです。
 一方、クルーゾー版では、4人のドライバーが内面的に分裂する様子が描かれます。マリオとルイージは、ジョーが町に来てマリオとつるんだことで仲たがいをし、そのマリオとジョーもトラックに乗ると険悪になります。もう1台のトラックの爆発によって破れたパイプラインから噴出した原油が溜まった中を進もうとして誘導していたジョーを、マリオが知っていながら轢いてしまうむごたらしさ。目的のために犠牲を顧みない人間の狂気。脚の折れたジョーを脇に乗せて励ますマリオにジョーからの返事が返ってこなくなり、たった一人になってしまったマリオは、そのとき初めてジョーの存在によって自分が恐怖から目をそらすことができていたことを知るのです。
 なおも待っているのはラストのどんでん返し。フリードキン版はドミンゲスに何かが訪れるという外的な理由で、クルーゾー版はマリオ自身の内的要因によって、結末がもたらされます。
 クルーゾー版のラスト、マリオが帰って来ると喜んだ彼の情婦が酒場でダンスを踊り出し、カーラジオで同じ曲を同時に聴きながら、二人分の報酬を手にして有頂天のマリオは・・・。

 フリードキン版は社会構造と人間の相克というテーマまで描こうとして力及ばなかった感があり、クルーゾー版は人間という実存に迫ることに徹したと言えるのではないでしょうか。『フレンチ・コネクション』(1971年)や『エクソシスト』(1973年)で大ヒットを飛ばしたフリードキン監督も、この作品では不発だったとか。フリードキン版の最後には、クルーゾー監督への献辞が捧げられています。


◆余談
クルーゾー版では、マリオの宝物として、パリの地下鉄の切符が出てきます。『リラの門』(1957年/監督:ルネ・クレール)のときに紹介したシャンソン「地下鉄の切符切り」の歌詞の、切符の「小さい穴」はこの映画でご覧いただけますよ。


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◆関連する過去記事

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予告編 次回5月30日(木)公開予定

「この映画、猫が出てます」をご愛読いただきありがとうございます。

次回の作品は

『恐怖の報酬』(1977年/アメリカ/
        監督:ウィリアム・フリードキン

わずかな刺激で爆発するニトログリセリンを、悪路の中トラックで運ぶ男たち。その賞金は彼らの恐怖への対価なのか。
1953年のイヴ・モンタン主演、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督版も併せて紹介。

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聖メリーの鐘

廃校の危機にさらされる学校の命運を神に祈るシスター。
イングリッド・バーグマンがボクシングと野球を披露する!

 

  製作:1945年
  製作国:アメリ
  日本公開:1948年
  監督:レオ・マッケリー
  出演:ビング・クロスビーイングリッド・バーグマンヘンリー・トラヴァース
     ジョン・キャロル、他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    学校で飼われている子猫
  名前:不明
  色柄:茶トラ(モノクロのため推定)


◆シスターと修道女

 働く女性の映画を連続して取り上げてきましたが、最後に登場するのはキリスト教のシスター。教会に付属する学校の院長先生を、イングリッド・バーグマンが演じます。
 この映画で主人公はずっとシスターと呼ばれているのに、終わりの方で女生徒が「先生のような修道女になりたい」と、わざわざnun(ナン/修道女)という言葉を使っています。シスターと修道女は厳密には異なる存在だそうで、シスターはキリスト教の教えに基づいて教育や医療などの慈善活動を行い、修道女はより厳格な誓いを経て修道院で神に祈りを捧げる信仰生活を送るそうです。おそらくここでは、同じ修道女でも、先生を務めるときは役割上の呼び名としてシスターと、もともとの神に仕える仕事を果たすときは修道女と、区別して使っているのだと思います(私個人の解釈です)。
 清らかなシスターを演じたイングリッド・バーグマンは、この映画ののち不倫スキャンダルを巻き起こしています。働く女性の映画の最後に、俳優という仕事を選んだ女性・バーグマンについても少々触れてみたいと思います。

◆あらすじ

 神父のオマリー(ビング・クロスビー)は、聖メリー教会に赴任し、教区内の財政難の学校を訪問する。教師は全員シスター。院長はまだ若いシスター・ベネディクト(イングリッド・バーグマン)だった。
 今にも崩壊しそうな校舎の隣の、運動場を売却した土地には資本家のボガーデス氏(ヘンリー・トラヴァース)のビルが完成目前。シスター・ベネディクトはボガーデス氏がビルを新しい校舎として寄贈してくれるようにと神に祈っていた。ボガーデス氏は、学校を廃校にして土地を売らなければ市議会で取り壊し命令を出すと主張する子ども嫌いの利己主義者。奇跡でも起きない限り寄付は望めなかった。
 オマリー神父とシスター・ベネディクトは、生徒の教育方針をめぐって対立する。殴り合いに勝った男の子をほめたオマリーに、反対を示すベネディクト。パッツィ(ジョン・キャロル)という娘が卒業試験で落第点を取ったときも、ルール通り留年を主張するベネディクトと、パッツィの将来を考慮して卒業を認めさせようとするオマリーは口論になる。
 ある日、生徒がビルのガラスを割ったお詫びに、オーナーのボガーデス氏のもとをシスター・ベネディクトが訪れる。ボガーデス氏はぼろ校舎をつぶして従業員の駐車場を作りたいと語り、ベネディクトはビルの部屋が教室になったところを想像する。ベネディクトは寛大と慈悲の心で寄付すればボガーデスの名はその身が塵になっても残る、と言い残して去る。
 しばらくするとボガーデス氏は、何かあったのか、人が変わったようになった。ビルを学校に寄贈すると申し出たのだ。ベネディクトが大喜びをしたのも束の間、オマリー神父から彼女の転任が告げられる。オマリーとの対立が原因で左遷されるのだと、ベネディクトは心を乱してしまう・・・。

◆猫がいる学校

 舞台となった学校は建て替えが必要なほど老朽化している、とされていますが、モノクロ画面で古さはあまり伝わりません。初めて訪ねたオマリーは、院長を待つ間ロッキングチェアに腰を下ろそうとしますが、そこには茶トラの子猫がいてお尻の下敷きになってギャーと逃げていきます。応対したシスターは「あちこちに猫がいますの」と説明。
 まもなく十数人のシスターが集まり、オマリーが着任の挨拶をしていると、背後に置いたオマリーの帽子の中に子猫がちゃっかり潜り込んで、帽子が生き物のように動き出します。シスターたちはそれを見てクスクス。オマリーはなぜ笑われているのかがわからずオロオロ。やがて笑いの理由に気づき、いたずら子猫をオマリーは胸に抱えます。
 ここでは帽子の中にバターか何を塗って、子猫を帽子の中にとどめる工夫をして撮影したようで、猫が帽子の中をせっせとなめています。NGを繰り返していると猫もおなか一杯になってなめなくなるし、こういう演出はスタッフ泣かせ。

 レオ・マッケリー監督と言えば、以前にご紹介した『新婚道中記』(1937年)で、犬のミスター・スミスを活躍させましたが、この映画でも面白い犬を登場させています。オマリー神父が、心臓病の男が善行を積んで長生きした話をボガーデス氏の主治医にすると、それを伝え聞いたのか、心臓の悪いボガーデス氏は急に誰にも親切になり、車にひかれそうになった犬を助けるのです。そのあとボガーデス氏が何かに導かれるように教会に入ると、犬は命の恩人の後について来てあくび声を出し、祈っていたシスター・ベネディクトとボガーデス氏が目を合わせます。犬を礼拝堂から連れ出したボガーデス氏は挨拶に来たベネディクトにビルの寄付を申し出るのです。
 『新婚道中記』でも猫はイタズラ役で、犬がいいところを持って行っていましたが、この映画でまたしても・・・。
 
 猫が出て来るのは5分50秒過ぎの椅子の場面と、8分少し過ぎの帽子の場面の2回。2回目は2分近い長さで、子猫のお茶目さと監督の動物ギャグセンスが楽しめます。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆無責任男

 『聖メリーの鐘』はそのタイトルが示すような心洗われるヒューマンドラマ。
 ビング・クロスビーが主役の神父を演じた『我が道を往く』(1944年/監督:レオ・マッケリー)の続編ですが、もともとは『我が道を往く』の方が続編として企画されていたそうです。
 『我が道を往く』は、オマリーが教区の副神父として赴任し、教会や住民たちを健全な方向に導くという物語。オマリーの次なる活躍は、という形で『聖メリーの鐘』は始まりますが、のっけから前任の神父が学校のシスターたちと対立して追いやられたと聞かされ、前途多難な気配が。
 さぞかし老獪な院長が、と構えていたら、若いシスター・ベネディクトが現れてオマリーは拍子抜けしたよう。気がゆるんだのか、院長の許可も得ず子どもたちの前で学校を休日にしてしまうというスタンドプレーを演じて、ベネディクトはご立腹。「子どもたちが悪さをしたらあなたの責任」と言い放ちます。ああ、やっちゃった。

◆ボクサー・ベネディクト

 二人の二度目の衝突は男子生徒のケンカの処置。何もしていないエディにトミーが嫌がらせ、殴り合いでトミーがエディに勝つと、オマリー神父はトラブルを仕掛けたトミーの強さをほめます。エディはベネディクトに教えられた通り殴られた頬と反対の頬を出し、さらに殴られてしまいました。オマリーが、男の子は将来戦って道を切り開くために力が必要、と言うのに対し、ベネディクトが暴力の肯定だと批判すると、そんな女性の考え方が男の子の成長の芽を摘む、とオマリーは反論します。現在ではオマリーの考えは旧来のジェンダー意識だと言われるでしょうが、以前はよくこういう考え方を耳にしましたね。
 ベネディクトはスポーツ用品店に出かけ、男の子の自己防衛に役立つ本を、とボクシングの解説書を買って来て自分で一通り習得、エディを呼んで内緒でコーチするのです。尼僧姿で「左ストレート、右クロス、左フック、右アッパーカット」と、バーグマンのフォームはきまっていてきれい。次第に服の裾をつまみ上げて軽やかなフットワークも見せ・・・。
 バーグマンとスポーツやコメディは珍しい取り合わせですが、それを一度に実現させてしまったレオ・マッケリー監督、この時までに二度のアカデミー監督賞はやはり伊達ではありません。
 エディは次のトミーの嫌がらせにはボクシングのテクニックで圧勝、トミーを寛大に許し、仲直りします。驚くオマリーに微笑むベネディクト。
 さらにシスター・ベネディクトは野球をしていた女子生徒のバッティングフォームをお手本を示して修正、女の子の打球はボガーデス氏のビルの窓ガラスを割り、それがベネディクトとボガーデス氏が話をするきっかけとなるのです。
 シスター・ベネディクトはお転婆だったという設定ですが、野球の構えも様になっているバーグマン、プールで素人ばなれした飛び込みをするプライベート映像を見たことがありますので(注)、運動は得意だったのでしょう。

◆教育と愛

 卒業試験に落ちたパッツィには、彼女がおなかにいる間に父親が姿を消し、教育上問題のある家庭で生活していたという事情があり、母親から頼まれたオマリーがそんな背景を隠して学校に入学させ寄宿舎に入れました。いじけがちだったパッツィを留年させたら彼女がさらに傷つくと、オマリーは点が足りなくても卒業させるべきだと言い、ベネディクトは規則は規則と、留年を主張します。
 パッツィのためにはどちらがよいかと迷うケースですが、やはりベネディクトの方が正論でしょう。社会にはルールがあることを教え、今後の彼女を注意深く指導するのが教育の本質です。けれども、パッツィは卒業するとあの家に戻らなければならないと、わざと落第点を取ったのです。ベネディクトのようになりたい、と泣くパッツィにベネディクトは、これから出会う楽しみを味わう前に放棄してはダメ、と修道女の生活の厳しさを悟らせるのです。
 そんなときパッツィにも奇跡が訪れます。卒業式にはパッツィの姿が・・・。

◆悪役か天使か

 このように神の見えざる手が働き、すべてが好転する展開は、イージーだ、ご都合主義だと思われるかもしれませんが、アメリカでの公開は1945年12月6日と、クリスマス映画だったわけですね。クリスマスの学校行事・年少の生徒たちの演じるキリストの生誕劇にもたっぷり時間がとられています。
 クリスマスの映画と言えば1946年のフランク・キャプラ監督の『素晴らしき哉、人生!』が有名ですが、この映画で主人公を救う天使の役を演じたのが、ボガーデス氏を演じたヘンリー・トラヴァース。彼を見るとこの天使が思い浮かぶので、後から見た『聖メリーの鐘』ではどうしても憎らしい利己主義者には見えませんでした。そもそもこの人、悪役面ではありませんよね。

 学校も生徒たちも危機を脱しますが、オマリーに転任を言い渡されたベネディクトだけは真っ暗。人間的な苦しみは修道女でも私たちと同じ。見かねたオマリーは転任の真の理由を明かします。

◆自分らしさを求めて

 スウェーデンで俳優人生をスタートし、夫も子どももいて、1939年にハリウッドに招かれ人気俳優になったバーグマンは、アメリカに家族を呼んで暮らしていましたが、1945年に写真家のロバート・キャパと知り合って恋に落ち、まもなく別れています。また、イタリアのロベルト・ロッセリーニ監督のネオ・レアリズモ作品『無防備都市』(1945年)『戦火のかなた』(1946年)を見てロッセリーニ監督に手紙を書き、彼の映画への出演を願い出ます。念願かない、1949年の『ストロンボリ』(現在は『ストロンボリ 神の大地』)でイタリアに渡り、主演したバーグマンは、ロッセリーニ監督の子どもを宿してしまいます。
 シスター・ベネディクトや、『ジャンヌ・ダーク』(1948年/監督:ヴィクター・フレミング)でのジャンヌ・ダルクなど、聖女のイメージを揺るがす不倫スキャンダルにアメリカ中からバッシング。
 バーグマンは同じような役ばかりのハリウッド式の映画作りに飽き足らなくなっていたのです。彼女の人気を不動のものにした『カサブランカ』(1942年/監督:マイケル・カーティス)でもおなじみの、涙をたたえたバーグマンのきらめく瞳の美しさにフォーカスした映像は『聖メリーの鐘』でもここぞとばかりに登場します。修道女姿で出身地スウェーデンの歌を歌い、ボクシングや野球もしてみせるこの映画は、いわばファンサービス満載のアイドル映画。そのようなお仕着せの自己像を捨て、バーグマンはリアリズムに挑戦します。自分らしさを追求するそんなエネルギーが、新たな恋愛をも生み出したのだと思います。
 バーグマンはロッセリーニ監督とも破局、ヨーロッパに住んで俳優業を続けます。60代で臨んだ映画、巨匠イングマール・ベルイマン監督の『秋のソナタ』(1978年)では、誰も口を出したことのない監督の演出に意見したというのも、彼女らしいエピソードではないでしょうか。
 最後となったこの映画では、母親でありスターである自分自身と重なる役を演じています。

(注および参考)
 映画『イングリッド・バーグマン 愛に生きた女優』
 (2015年/監督:スティーグ・ビョークマン)
(参考)
「永遠のヒロイン その愛と素顔『わたしを演じる孤独~イングリッド・バーグマン~』」
 NHK衛星ハイビジョン・BSプレミアム 2010年12月4日放送

 

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予告編 次回5月19日(日)公開予定

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次回の作品は

『聖メリーの鐘』
 (1945年/アメリカ/監督:レオ・マッケリー

老朽化した学校を駐車場にと息巻く利己主義の老人、彼のビルを新しい校舎にと祈るシスター。イングリッド・バーグマン主演の心温まる物語。

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