この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

リラの門

パリの下町。ろくでなしのジュジュはかくまった犯罪者に小さな幸せを奪われる。

 

  製作:1957年
  製作国:フランス
  日本公開:1957年
  監督:ルネ・クレール
  出演:ピエール・ブラッスールジョルジュ・ブラッサンス、アンリ・ヴィダル、
     ダニー・カレル 他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    芸術家の猫
  名前:不明
  色柄:黒白

◆庶民の詩

 フランス映画には、似たような名前の映画監督が多くいます。今回の映画の監督はルネ・クレールですが、ルネ・クレマンアラン・レネルイ・マルマルセル・カルネなど、語感が似ていたり活動時期が近かったりすると、作品と監督がごちゃごちゃになってしまったりします。「ジャン」で始まる名前の監督も多いですね。
 ルネ・クレール監督の主たる活動期は1930年代から1950年代で、1930年代はフランスの庶民を描いた『自由を我等に』(1931年)『巴里祭』(1932年)など、1950年代は美男俳優ジェラール・フィリップを起用した『夜ごとの美女』(1952年)などの恋愛もので知られています。が、今の目で見れば子ども向けテレビ番組のような演出の作品もあり、そういう作品に当たったときは「ああ、そうだ、ルネ・クレールだった」と、その無邪気さを心の中でニコニコ見守ることにしています。

◆あらすじ

 パリの下町に住む中年男のジュジュ(ピエール・ブラッスール)は、仕事もせず近くの酒場でしょっちゅう酒を飲んでいた。酒場にはかわいいマリア(ダニー・カレル)という二十歳の娘がいる。ジュジュはマリアに秘かな恋心を抱いていた。酒場でギターの弾き語りをしている芸術家(ジョルジュ・ブラッサンス)はジュジュの住まいの隣のあばら家に猫と住んでいて、ジュジュは自宅よりもこちらに入りびたっていた。
 ある日、警察に追われている男(アンリ・ヴィダル)が芸術家の家に押し入り、ジュジュと芸術家は警官が捜索に来ると、床下の地下室に彼を隠してしまう。
 二人は追われている男を警察に売るつもりはないと、あとでそっと逃がしてやるつもりだったのだが、酒場でみんなが読んでいた新聞で、彼が殺人を犯し警官を二人も射殺したバルビエという凶悪犯だと知って青ざめる。
 バルビエは体調を崩して寝込んでしまい、ジュジュが薬局に薬を買いに行って、かいがいしく看病する。回復したバルビエは近くの愛人の部屋にしけこむつもりだったが、二人の連絡係になったジュジュは愛人の女にバルビエの荷物を持って行ってくれと愛想尽かしを伝えられる。バルビエは南米に高飛びすることにし、芸術家は一刻も早く出て行ってもらおうと偽造用のパスポートを申請する。
 前のように飲みに来なくなったジュジュの様子を見に酒場の娘のマリアが芸術家の家に行くと、芸術家が出かけているのにジュジュが誰かと話しているのに気づく。ジュジュはマリアにバルビエを地下室にかくまっていることを打ち明け、口止めする。
 ジュジュと芸術家が不在のとき、芸術家の家の中をのぞいたマリアはバルビエと出くわしてしまう。バルビエはマリアを脅すが、美しいマリアに深いキスをしたあと彼女を逃がす。
 ほどなくマリアは毎晩外出するようになった。ジュジュと芸術家が酒場にいる間にバルビエと逢引きを重ねていたのだ。その頃、芸術家が申請していたパスポートが出来てきた。バルビエはさっそく偽造し、マリアと会っていることが父親の酒場の店主にばれそうになったため、芸術家の家を出て行くことにする。
 バルビエは、ジュジュにマリア宛の手紙を託す。父親に外出を止められたマリアは「あとからマルセイユに行くと伝えて」とジュジュにバルビエ宛の紙包みを渡す。それはバルビエの逃走資金だった・・・。

◆タキシードキャット

 この映画の音楽を担当し、自らギターを弾き、物悲しい歌を歌っているジョルジュ・ブラッサンスの芸術家が飼っている猫、黒白のいわゆる「タキシードキャット」です。
 タキシードキャットとは、猫が四本足で立ったときに、表側が黒、地面の腹側が白の、あたかもタキシードを着ているように見える猫のことです。顔の下側の白い毛の部分に対し上側の濃い毛色の部分が額で漢字の八の字の形のように割れている猫を、日本では「ハチワレ」と言いますが、タキシードキャットは必ずしもハチワレではなく、全体の黒と白の比率で言えば黒が多め。この映画に登場する猫は、ちょうどバットマンの覆面のように、鼻先から上の部分が黒くなっています。
 体調を崩し、うなされた凶悪犯バルビエは、芸術家の飼い猫がきつい目で俺を見たと怒り「刑事と同じ目だ、首を絞めてやる」と大声で怒鳴ります。こんな男でもやはり良心があるのか、猫に見つめられてやましさを覚えたのでしょう。ジュジュが猫をつかまえて芸術家に渡しますが、芸術家役のジョルジュ・ブラッサンスの猫の抱き方がとても優しく、ほっとします。猫はひどくおびえたとき飼い主の脇に顔を突っ込んできたりしますが、このときもジョルジュ・ブラッサンスのあごの下に首を押し付けて守ってもらおうとしているかのようで、なんともいじらしい。彼とこの猫は、普段から一緒に暮らしているかのようにしっくりしています。
 地下室から出てきたバルビエが芸術家とジュジュと一緒に食事のテーブルを囲もうとしたとき、バルビエの座る椅子に猫が座っていて、バルビエがちょっといやそうに猫をどけると「そこは普段は猫の席なんだ」と、芸術家。
 猫は、芸術家の家の中でただ存在しているといった風情で何度も画面に登場しますが、映画のセットの中という慣れない場での緊張感も全くなさそうな自然さで、これもジョルジュ・ブラッサンスとの絆が猫に安心感を与えているからではないかと思えてきます。
 バルビエは、足元の猫をよけそこなって地下室の階段に転げ落ち、猫が俺を見た、悪い前兆だ、と最後まで猫におびえ続けています。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

ポルト・デ・リラ駅

 あらすじの中に題名の「リラの門」の意味をにおわせる部分は何もありませんでしたが、「リラの門(Porte des Lilas)」は、パリの地下鉄(メトロ)の駅名。昔は、壁で囲まれ門で守られていた町がありましたが、「リラの門」はパリ市の壁にあった門で、地下鉄の駅はその近くに作られ、駅名はそれにちなんでつけられたそうです。パリの北東部の19区と20区の境あたりにあるそうで、1区から20区へと中心から渦巻き状に広がっているパリ市の一番外側にあたるところです。
 駅名はその町を表すシンボル。「リラの門」といえば、当時、この映画のような下町臭さが漂っていたでしょう。殺人を犯したバルビエは逃走中「リラの門」付近で車の事故を起こし、ケガをしてジュジュたちの暮らすあたりまで逃げ込んできます。
 話は違いますが、「小さい穴、小さい穴・・・」の、地下で一日中乗客の切符を切っているメトロの改札係の歌詞で知られるシャンソンの名曲「地下鉄の切符切り」は、もともとは「リラの門の切符切り」。・・・駅の改札口で駅員に切符を切られた経験もない若い方には「何のことやらさっぱり」「そんな歌聞いたこともない」かもしれませんね。YouTubeでお聴きになってみてください。

◆ろくでなし

 映画は、荷車に荷を乗せ犬を連れた老夫婦とみられる二人がスクリーンを左から右に歩いて行く場面から始まります。「リラの門」付近の市場にでも向かっているのでしょうか。彼らがフレームから消えると、右奥の角の酒場にカメラが移り、入り口が開いたその中で芸術家がギターを手に歌を歌い、ジュジュがタダで酒を飲もうとカウンター越しに酒瓶に手を伸ばし、傍らでマリアが新聞を読んでいます。芸術家の哀調を帯びた歌はだらしのないジュジュのことを歌っているかのよう。酒を盗み飲みしたジュジュは酒場の店主に追い出され、芸術家の家に二人で向かいます。
 ジュジュは、年老いた母と妹が古着の商いで生計を立てているのにまともに手伝いもせず、定職もなく、母親からろくでなしと言われ、あてにされていません。そんな彼は、人間は自分のことしか考えない、汚いと言い、人のためになりたいという願望を持っています。
 いつもジュジュに親切にしてくれる芸術家のことは他人を大切にするいい奴だと認め、彼がフォアグラが食べたいというのを聞き、バルビエが付近に逃げ込んだ騒ぎに乗じて食料品店のフォアグラの缶詰を12個も盗んできて芸術家に食べさせたりします。芸術家の家に入り込んだバルビエを隠すことになったのも、バルビエの捜索に来た警官に盗んだフォアグラの缶詰を見とがめられないようにしたあげくのことで、彼がとんでもない凶悪犯だと知ってもあとの祭でした。

◆招かれざる客

 この映画で誰もが疑問に思うのは、なぜジュジュが凶悪犯バルビエを大事にしたかです。ろくでなしと言われ誰の役にも立っていなかったジュジュが、バルビエの世話を焼くことによって自分の役割を見つけたことがひとつでしょう。凶悪犯だと知った当初は早く出て行ってほしいと焦っていますが、バルビエが病気になって看病するうちに、自分は必要とされている、と自己肯定感が満たされるようになってきます。
 そして、バルビエが今まで自分のそばにいなかったイケメンでワルな伊達男だったことで、なにがしか憧れに似た気持ちを抱いたに違いありません。それまで芸術家のことだけを友だちと言っていたのに、ジュジュは次第にバルビエに対しても友だちと言い始めます。けれどもジュジュは、芸術家とは対等だったのに、バルビエとはいつのまにか服従的な関係になっていきます。
 芸術家は「おまえ、バルビエを尊敬しているな」と、ジュジュの心を見透かしています。いままで友だちはお前だけだと言っていたジュジュがバルビエにべったりになっていくのを見て腹立たしく思いつつ、粗暴なバルビエにおとなしく出て行ってもらえるよう、しぶしぶ二人を見守ります。

◆自己犠牲

  バルビエに、南米に行ったらおまえに金を送ると言われ、その気になるジュジュ。「お金が出来たら・・・」と、好きなマリアにマルセイユに行こう、と誘います。友だち以上恋人未満的な関係でジュジュと仲が良かったマリアは、いいわと言っていましたが、バルビエに心を奪われ、彼と毎晩会っていることをジュジュに打ち明けると「わたしたち、友だちよね」と、親愛のキスをします。ジュジュの夢は砕け散ります。
 バルビエの逃走資金をマリアから預かったとき、自分と行くはずだったマルセイユでバルビエと落ち合う約束をマリアがしていたことにジュジュはさらに愕然とします。バルビエは金を手にすると、そんな約束はマリアに金を出させるためのウソだったことをジュジュに明かすのです。マリアはどうなる、人のことはどうでもいいのか、と怒りを爆発させたジュジュは・・・。

 ・・・マリアが愛する男と幸せになれるなら、とバルビエの前に身を引こうとしたジュジュ。バルビエに利用されていたそんなお人よしの自分を見捨てなかった芸術家こそ、真の友だったことにジュジュはあらためて気づきます。
 ラスト、映画の冒頭と同じ街角で、スクリーンの右から左へと、犬を連れた老夫婦とみられる二人が空になった荷車を引いて現れます。バルビエの訪れはリラの門の人々になにがしかの変化をもたらしました。けれども彼が去ったあと、リラの門の界隈は再び閉塞的な静けさの中に戻っていく――。
 荷車の夫婦が去っていきます。右奥の酒場の入り口の扉が閉まり、灯りが消えて映画は終わります。
 幸せになる人は誰一人いなかった・・・。フランス映画らしい哀愁漂うリアリズム。明るく屈託のない映画の多いルネ・クレール監督が、60歳をあと1年に控えて作ったほろ苦い一作です。

 風采の上がらないジュジュを演じたピエール・ブラッスールは、マルセル・カルネ監督の『霧の波止場』(1938年)や『天井桟敷の人々』(1945年)などの名画にも出演しています。『ラ・ブーム』(1980年/監督:クロード・ピノトー)で、ソフィー・マルソーの父親役を演じたクロード・ブラッスールのお父さんです。
 マリアを演じたダニー・カレルは、彼女を見るためにこの映画をみてもいいくらい、とてもかわいい女性ですが、演技がちょっと硬い。監督に「目はここを見て!」と指示された通りに必死に演じているように見えるところが初々しいです。

 

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