この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

ミツバチのささやき

「わたしはアナよ」幼い女の子が空想に向かって呼びかける。少女が呼び寄せたものは・・・。


  製作:1973年
  製作国:スペイン
  日本公開:1985年
  監督:ビクトル・エリセ
  出演:アナ・トレント、イサベル・テリェリア、フェルナンド・フェルナン・ゴメス、
     テレサ・ギンペラ 他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    主人公たちの家のペット
  名前:ミシヘル
  色柄:黒
  その他の猫:映画『フランケンシュタイン』に登場する猫


◆それぞれのささやき

 この映画が公開されたとき、アート系の作品を数多く日本に紹介したミニシアター、今はなきシネ・ヴィヴァン・六本木に見に行きました。「アナ・トレントみたいにかわいい子、見たことない」と映画は大評判でした。インターネットが普及していなかった当時、こうした映画の情報収集は映画館で売っているパンフレットが最強のツール。たしか自分はパンフレットを買ったはず、と探してみたら、ありました! 驚いたことにツヤ消しアート紙でB5判、カラーの表紙・裏表紙も含め広告なしで52ページ、計ってみたら157グラム。さらに驚くのはその執筆陣。巻頭はビクトル・エリセ監督への四方田犬彦のインタビュー記事。続いて武満徹蓮實重彦の対談。映画評論家では淀川長治川本三郎、さらに文化人類学者の山口昌男に漫画家の萩尾望都、詩人、写真家、等々、芸術・文化系のビッグ・ネームがずらり。
 自分の書くものに影響するので、書く前にこれらの文章は読まないことにしています。アート・娯楽に限らず、自分がその映画に接したときの正直な反応を表すこと、何か知っていることがあればお話しして、皆様にもその映画と、そこにちょこんといる猫に関心を持っていただくことを心がけています。

◆あらすじ

 1940年頃、内戦後のスペインのカスティーリャ地方・オユエロス村。1台の幌付きトラックがやってきて、村の公民館に移動映画館を設営した。上演作品は1931年の『フランケンシュタイン』。アナ(アナ・トレント)と姉のイサベル(イサベル・テリェリア)も、夢中で画面を見つめている。
 二人が映画を見ている間、母(テレサ・ギンペラ)は、手紙をしたため、駅まで自転車を走らせて投函した。養蜂業者の父(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)はその日の仕事を終え、映画の音声が漏れる公民館の傍らを通って自宅に帰った。住み込みのお手伝いさんがいる、裕福な家庭である。
 夜、子ども部屋のベッドで、アナは姉のイサベルに映画についての質問の答えをせがむ。イサベルは、映画の怪物は精霊で、村はずれに住んでいる、目をつぶって「わたしはアナよ」と呼びかければいつでもお話しできる、と作り話をする。
 二人は小学校の帰りに村はずれの「精霊がいる」廃屋に行き、アナが大きな足跡を見つける。別の日にアナが一人でそこに行くと、足を負傷した脱走兵が隠れていた。アナは父のコートを持ち出して彼の世話を焼くが、彼はある夜銃殺され、そこで父の懐中時計が見つかったことから、父はアナが来ていたのではないかと疑う。脱走兵が死んだと知らずにアナが廃屋にやってくると、アナの関わりを確かめるために父が後を追って来る。アナは叱られると思って逃げてしまう。村の人々が探す中、日はとっぷりと暮れていく。
 夜、林の中の沼のほとりで、アナは背後に誰かの気配がするのに気づく・・・。

◆猫の敵

 この映画では多くの場面で生と死がシンボリックな形で登場します。そして生と死の中間に子どもが置かれます。大人にとって子どもは、死にやすく守ってやらねばならない存在ですが、子どももそれを知っていて、大人が自分をそれから守ろうとする「死」というものを知りたいという衝動を秘めているようです。アナより2つ3つほど年上に見える姉の方は、死をアナより抽象的に考えることができるようになっていて、様々な死のシミュレーションを試みます。
 映画の中で、猫は中盤2度登場します。1度目は野外から家の中で母がピアノを弾く場面への転換のとき。2度目はイサベルが昼寝をしている子ども部屋の場面です。イサベルは、ベッドの下に猫がもぐっていったのに気づいて「ミシヘル」と呼んで抱き上げます。初めは撫でたり頬ずりしたりしていたのに、ミシヘルがおとなしいとわかると、首の周りに回した手に力を込めて締め始めるのです。ミシヘルは怒ってイサベルの手をひっかいて逃げ出しますが、イサベルは引っかかれた傷の血を唇に塗り、紅を差した自分の顔を鏡で誇らしげに見つめます。イサベルはそのあとで、アナの目に触れるように自分が事故で死んだふりをしてみせ、おどかしてみたりするのです。
 一見不可解な行動ですが、子どもはこういう形で死を疑似体験し、自分で命をコントロールできるという自信を得て成長していくのではないでしょうか(実験台にされた猫はいい迷惑ですが・・・)。
 まだ幼いアナは、姉のように死を対象化することができません。姉の事故死ごっこにだまされた後で、姉とその友だちが焚火の火を跳び越える、死と再生の体験と言うべき遊びに加わる身体能力もまだありません。アナの中で、映画や姉の話から組み立てた空想の世界だけが、真実かどうかを確かめるすべのないままふくらんでいきます。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆怪物の存在

 前々回にご紹介した映画『フランケンシュタイン』(1931年/監督:ジェームズ・ホエール)が、この映画のモチーフとなっています。父が脱走兵の身元確認をするカット、村人たちが灯りを手にアナを捜しに行くカットなどが『フランケンシュタイン』を見た方なら記憶に結びつくでしょう。
 アナとイサベルをひきつけたのは、湖のほとりで少女マリア(注)と怪物が遊ぶシーン。実際の『フランケンシュタイン』の映像が流れ、マリアの父親が湖に投げ込まれたマリアの遺体を抱いて村にやってくる場面も、公民館の汚れたスクリーンに映ります。アナは、姉のイサベルに「なぜ怪物はあの子を殺したの」「なぜ怪物も殺されたの」と聞くのですが、うまく説明できないイサベルは「映画の中のことはみんなウソだから、誰も死んでいない。わたしは怪物が生きているのを見た」などとごまかすのです。「どこで見たの」というアナの問いに、イサベルの創作上の「怪物=目に見えない精霊の隠れ家」のある村はずれへ二人で確かめに行くことになります。
 荒涼とした平原の真ん中にぽつんと建つ朽ち果てた廃屋。そばには打ち棄てられたような井戸。そこに向かって、学校帰りの幼い姉妹が鞄を抱えて、お人形さん、豆粒、さらにゴマ粒のようにどんどん小さく遠ざかっていきます。乾ききったその大地に雨滴のように吸い込まれ消えてしまいそうな二人。廃屋の周りで大きな靴跡を見つけ、アナの心の中で怪物の存在は現実になります。そのとき自分が『フランケンシュタイン』のマリアの位置に立ったという自覚は、アナの中にはありません。

◆父と母

 姉妹の父と母は、会話を交わすことはありません。父はこの妻の夫・姉妹の父親としては少し年を取っているように見えます。母の手紙は誰に宛てて書いたかわからず、ラブレターのようであり、そうでないようでもあり、内戦によって長く消息のつかめない人への再会の希望を自分のために吐き出しているようです。母がその手紙を駅に到着した貨車のポストに投げ入れたあと、客車に座って窓の外を見ている兵士と目が合います。お互いの心中を探り合うような視線です。母は内戦の前、夫以外の男性を愛していて、その人が戦闘に加わって消息がつかめなくなってしまったのかもしれない、手紙はその人に宛てたのか? 汽車の兵士にその人を思い浮かべたのでは、と思わせます。
 父の方は、仕事のあと書斎にこもってミツバチの生態についての文章を書き始め、机に突っ伏して眠ってしまいます。明るくなってから母の寝ている寝室に入っていくような気配がありますが、傍らに眠ることはありません。目を覚ましかけた母も声をかけるでもなく目を閉じます。よそよそしい夫婦仲。
 父の書く文章は、ミツバチが子孫を養育するために自らを犠牲に働き続けること。父は、妻の心が自分にないことを知りながら、二人の娘の養育のために自分の人生を捧げているのだということを、ミツバチを通して物語っているようです。その家の窓には蜂の巣のような六角形の装飾が施されています。

◆無垢な少女

 「怪物の隠れ家」に偶然逃げ込んだ脱走兵にリンゴを差し出すアナは『フランケンシュタイン』で怪物にお花を差し出したマリアそのものです。疑いや恐れを知らない純真無垢な少女の優しさ。痛々しいほどつぶら黒い瞳。脱走兵は直接的には怪物ではありませんでしたが、この脱走兵との出会いが、アナを危機に導きます。叱られると思って逃げ込んだ林の中で出会った怪物と見える誰か。見つめるアナ・トレントの唇が、本当にわなわなと震えています。そして目を閉じる――。
 初めてこの映画を見たとき、私はアナが恐怖のあまり気を失ったと思いました。あらためて見ると、アナは「目を閉じて『わたしはアナよ』と呼びかければお友達になれる」というイサベラから聞いた話を実行しようとしたように思えるのです。

◆I was born

 線路に耳をつけて汽車の接近を知る遊び、父の部屋の絵画、毒キノコ・・・、死の表象があふれるこの映画は「よみがえり」で終わります。母は投函するばかりになっていた手紙を燃やし、書斎で眠る夫の肩に上着を着せかけます。
 人間の手で醜く生まれた『フランケンシュタイン』の怪物も、普通に生まれた人間も、生まれさせられたことに違いはありません。その親も、またその親も・・・。新たな生命にバトンを渡す永遠の営みの中で、人間だけはある時から、生まれさせられた自分がいつかは消えることに気づいて、生きていくことになるのです。昨日までの自分と今日の自分との、死と生まれ変わりを繰り返しながら。


(注) ここではオリジナル通り「マリア」と書きましたが、『ミツバチのささやき』の字幕とパンフレットのシナリオ採録によると、少女の名は「メアリー」となっています。ただし、アナたちが見ていたスペイン語吹替えの『フランケンシュタイン』の映画では、少女は「マリア」と名乗っているように聞こえます。この記事では「マリア」と表記します。

 

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