この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

吸血鬼ノスフェラトゥ

99年前に作られた、モノクロ・無声のもっとも初期の吸血鬼映画。こんな映画があったのか!

 

  製作:1922年
  製作国:ドイツ
  日本公開:未公開
  監督:F・W・ムルナウ(フリードリッヒ・ウィルヘルム・ムルナウ
  出演:マックス・シュレック、アレクサンダー・グラナッハ、
     グスタフ・フォン・ワンゲンハイム、グレタ・シュレーダー 他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    主人公の妻ニーナのペット
  名前:なし
  色柄:キジトラ(モノクロのため推定)

◆ゾンビ以前

 人間の姿に近いモンスターと言えば、いまは真っ先にゾンビが挙げられると思いますが、昭和の頃の洋物系ホラー映画の2大スターは、吸血鬼ドラキュラとフランケンシュタインの怪物。
 フランケンシュタインの怪物は、1818年にイギリスの作家メアリ・シェリーが発表した小説『フランケンシュタイン あるいは現代のプロメテウス』に描かれたキャラクターで、完全にメアリの創作です。原作には醜悪な怪物と記されているだけですが、1931年の映画『フランケンシュタイン』(監督:ジェームズ・ホエール)でボリス・カーロフが演じた、首にボルトが刺さって顔に縫いあとのある怪物の姿が定着しています。「フランケンシュタイン」は怪物の名前と誤解されているようですが、怪物を作った科学者の名前です。
 吸血鬼の方は、ヨーロッパを始め世界各地に民間伝承があり、その姿や行動様式は一様ではないはずです。にもかかわらず、吸血鬼と言うと、髪をテカテカのオールバックになでつけ、牙があり、黒いマントをまとっている姿を(ある年代以上の人は)思い浮かべるかと思いますが、これは、1931年の映画『魔人ドラキュラ』(監督:トッド・ブラウニング)で、ベラ・ルゴシが演じた姿がもとになって定着したものだそうです。この幻想的な美男子の姿は、女性が生き血を吸われる場面のエロティシズムを盛り上げるのに大いに効果を上げています。
 それにしても、怪物のビジュアルについての映画の影響力はすごいものです。

◆あらすじ

1838年ブレーメンに起こった事件を、歴史家が記した日記から、という設定で物語が始まる。
 不動産屋のレンフィールド(アレクサンダー・グラナッハ)という老人の下で働くジョナサン(グスタフ・フォン・ワンゲンハイム)は、レンフィールドから、ドラキュラ伯爵がこの町で家を欲しがっているので、ジョナサンの家の向かいの家を売るようにと指示を受ける。伯爵の住むトランシルヴァニアは化け物が出るという噂の地。伯爵の城へ向かうジョナサンを妻のニーナ(グレタ・シュレーダー)は心配そうに見送る。途中、ジョナサンは泊まった宿屋で『吸血鬼の書』という備え付けの本を手に取り、「ノスフェラトゥ(不死身の者)」についての警告が書かれているページを目にする。
 翌朝、城の手前で馬車から降ろされてしまったジョナサンを薄気味の悪い伯爵(マックス・シュレック)が自分で馬車を駆って迎えに来る。城には伯爵以外誰もいない。食事中、パン切ナイフで手を切ると、伯爵が血を見て興奮し、思わずジョナサンは後ずさりする。
 翌朝、のどに噛み傷があるのにジョナサンは気づく。宿から持ってきた『吸血鬼の書』を開くと、吸血鬼に血を吸われた者は喉の噛みあとによってそれに気づく、と書いてあった。その晩、ジョナサンの部屋に伯爵が忍び込む。妻のニーナはテレパシーのようにそれを感知し、ジョナサンに危険が迫っていることを遠くブレーメンから呼びかける。
 翌朝、ジョナサンは、伯爵が棺で眠っているのを見つけ、彼が吸血鬼だと確信する。ジョナサンは、伯爵が馬車にいくつかの棺を載せて、その一つの中に自分で入って運ばれて行くのを目撃。吸血鬼の伯爵は、棺に入ったまま船に積み込まれてブレーメンに向かう。
 ジョナサンは城を脱出し、ニーナのもとにたどり着く。その頃、船もブレーメンに着く。吸血鬼の運んだ棺の中に潜んでいたネズミによって、ブレーメンの町にペストがはびこる。吸血鬼はジョナサンたちの向かいの家にやってくる。
 ニーナはジョナサンの持っていた『吸血鬼の書』を読み、自分の姿を覗き見している向かいの家の男が吸血鬼だということを悟る。その書には、「心に汚れなき女性がノスフェラトゥに自らの血を惜しみなく与える」という吸血鬼の退治法が書いてあった・・・。

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◆瞬猫登場

 「この映画、猫が出てます」初のサイレント映画、そして初の瞬猫(しゅんねこ)映画です。映画が始まってすぐ、ジョナサンとニーナがブレーメンで平穏に過ごしているシーンで、ニーナが窓辺で猫をじゃらしています。猫の登場時間はこのわずか6秒ほど。6秒もあれば瞬猫としては長い方ではないでしょうか。ホラー映画とかサスペンスでは、猫は何か不吉なことが起きる前触れのように登場することがよくありますが、この映画では平和な日常の描写に使われています。
 何度も同じことを申しておりますが、このブログは「猫が出てくる」ことを条件に選んだ映画について書くものなので、これはと思う映画に猫がチラッとでも登場すると、しめた、と思います。『吸血鬼ノスフェラトゥ』も猫が出ていたかどうかチェックしていなくて、たまたま久しぶりに見たときにこのシーンを見つけ、大喜びしました。とは言え、いままで見たことはあるけれど、猫の出番の有無をメモしていなかった映画をもう一度全部見直すかどうかは未定ですが…。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

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◆カツベン!

 私が初めてこの映画を見たときは、活動弁士澤登翠(さわとみどり)さんの口上つき。無声映画で弁士がついたのは、日本と、かつて日本の統治を受けた朝鮮、台湾、それ以外ではタイだけだそうです。欧米では内容の説明者が出てくることが一時期あったものの(観客同士が「今のどういうこと?」などとしゃべり合ってうるさくならないように?)、映画の表現技法が発達するにつれ、姿を消したということ。日本には、講談などの話芸や義太夫などの伝統により、物語を語り聞かせる弁士が活躍できる土壌があったのでしょう。一時は弁士の人気が映画館の客入りを左右したとか。弁士はトーキー映画の出現により、1930年代には消えていきます(注1)。

◆饒舌な映像

 私の手元にあるのは、アメリカ版のDVDですが、ストーリーは、頻繁に入る字幕のショットと『吸血鬼の書』の記述によって進行します。伯爵のいる城になぜジョナサンが行くのか、吸血鬼とはどんな性質を持つのか、などは視覚的な演技だけでは伝えられない内容です。が、感情表出とか、特に印象付けたい出来事などは、オーバーなパントマイム的な演技で、外国映画という言葉の障壁を越えて十分伝わるのがサイレントの妙味です。
 一目見たら忘れられない吸血鬼ノスフェラトゥ。スキンヘッドにギョロ目、鷲鼻、とんがった耳、長く伸びた爪、ハンガーにかけて吊るされた服のように固まっているのは、一度死んだ者であるというしるしの、死後硬直を表しているのでしょうか。
 ちょっと笑ってしまうのは、ブレーメンに着いてから、自分が入っていた棺を抱えて自分の買った家に向かうところです。人に見られたら100%怪しい行動ですが、大真面目なだけにおかしい。字幕の説明によると、吸血鬼は魔力を保つために、昼間は自分が葬られていたのと同じ土に埋もれて眠っていなければならないので、土の入った棺を運んでいるのです。けれども、この棺を運んでいるのはどう見ても眠っていなければならないはずの真っ昼間ですし、けがれを知らない女性の生き血を飲ませるより、この棺を奪って始末してしまう方が簡単に吸血鬼を退治できると思うのですが、そこはまあ、目をつぶることにして…。

◆弁士以外に消えた者

 ジョナサンの妻・ニーナを演じたグレタ・シュレーダー、この『吸血鬼ノスフェラトゥ』以外にはほとんど知られていないようで、ちょっとごつくて顔が大きく、何度か男の人が演じているのかと思ってしまいました。
 日本映画では、女性を女形が演じていたことがありました。初期の日本映画は、歌舞伎の演目をそのまま映画化したものもあり、歌舞伎とは切っても切れない関係で、俳優も歌舞伎役者が多く、女形が女優の役割を演じるのは自然な流れでした。映画監督の衣笠貞之助も、女形として映画に出演していた時期がありました。また、新派(歌舞伎の「旧」に対する「新」の意)の現代劇でも、女形が活躍していた時期があったのですが、演劇界のリアリズムの追求、洋装の演劇では女形を隠しようがない、などの理由から女優の活躍の場が広がり、大正後期の1920年代頃から女形は日本映画の中から姿を消していきます。

◆よみがえったフィルム

 この映画の原作は1897年にアイルランドのブラム・ストーカーによって発表された『吸血鬼ドラキュラ』ですが、映画化の権利を取得しないまま製作され、ブラム・ストーカーの未亡人が訴えて勝訴、ネガやプリントもすべて廃棄されたことになっていたのですが、秘かに隠されていたプリントが世に出てきたそうです。具体的なデータが伏せられたのか、いつということなくじわじわと表に出てきたのか、それは1960年代から70年代初め頃だったようです。吸血鬼のように地下に眠っていたものがよみがえるとは、不思議な因縁です。
 光と影のコントラスト、不気味な登場人物、不安と恐怖をかきたてる情景描写、顔のアップ、不穏な空間。監督のF・W・ムルナウは、ロベルト・ヴィーネ監督の『カリガリ博士』(1919年)などとともに、ドイツ表現主義の代表的な作品としてこの映画を残しました。そこに表現された超現実的な感覚は、映像の持つ可能性を大きく開くものだったと言えます。さきほど女形だったと紹介した衣笠貞之助監督も、これらの作品に影響を受けたと言われる『狂った一頁』(1926年)、『十字路』(1928年)を残しています。
 『カリガリ博士』には、実験的な映像に挑戦しているという硬さを感じるのに対し、『吸血鬼ノスフェラトゥ』には、楽しんで作っているような自由さを感じます。
 私の持っているDVDで見る限り、プリントは汚れや傷だらけで、もともと狙った効果なのかプリントの問題なのかわからない不鮮明なショットもありますが、それがかえって不気味さを増幅しています。これをデジタル修復してきれいにしてしまったら怖さが半減してしまうのではないでしょうか。

◆ホラーは語る

 前回の『怪談佐賀屋敷』で、日本の怪談ものは恨みの感情をモチーフにしている、と言いましたが、『吸血鬼ノスフェラトゥ』はどうでしょうか。欧米の怪奇もののモチーフになっているのは、キリスト教の神に対する「悪魔」の存在だと思います。キリスト教社会では、人間を無差別に襲う超自然的な力への恐怖が、魔物の姿で表現されるのではないでしょうか。吸血鬼は生まれながらに吸血鬼。個人的な感情とは全く関係なく、自分が吸血鬼として存在し続けるために何の落ち度もない人を襲います。言うなれば日本の怪談ものは個人の行いが招く仏教的な因果応報の恐怖、キリスト教文化の欧米系はその社会全体を脅かす異質で理解を超えた侵略者への恐怖を描いてきたように思います。
 ノスフェラトゥの姿には、風刺画などに描かれるユダヤ人の特徴が見えると言われています。また、ノスフェラトゥが船でネズミを運び、ペストを流行させますが、中世ではユダヤ人が毒をばらまいてペストをはやらせたといううわさが流布し、多くのユダヤ人が虐殺されたそうです。それらのことから、この映画のユニークなノスフェラトゥ像は、ユダヤ人への差別的な見方から生み出されたとされる一方、ムルナウが意図的に演出したものではないとする説もあるようです(注2)。

 先ほどの棺のように、どこかしらスキがあるのが昔のホラーの面白いところ。ジョナサンが宿屋に泊まって表を眺めたときに、シマハイエナの映像が映ります。「なぜトランシルヴァニアにハイエナが?」と思ったら、これは日が暮れるとこの近辺に出没する魔物、werewolf(人狼)を表しているようなのですが…(注3)。


(注1)参考:『映画館と観客の文化史』(加藤幹郎著/2006年/中公新書
(注2)吸血鬼ノスフェラトゥ - Wikipedia
(注3)Nosferatu (1922) - Trivia - IMDb

 

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