この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

フランケンシュタイン(1931年)

香り高い英国文学を怪物のビジュアルを決定づけるホラーに改造した、映画史上の記念碑的作品。


  製作:1931年
  製作国:アメリ
  日本公開:未公開
  監督:ジェームズ・ホエール
  出演:ボリス・カーロフ、コリン・クライヴ、メエ・クラーク、ドワイト・フライ 他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    少女マリアのペット
  名前:不明
  色柄:キジトラ(モノクロのため推定)


◆メアリーの総て

 この映画の原作となった小説を書いたのは、イギリスの女性作家メアリ・シェリー(1797~1851年)です。彼女はのちの夫と詩人バイロンとその愛人らとバイロンの別荘で過ごしたときに、それぞれが幽霊話を披露しあうということになり、そこで思いついた話を19歳のときに小説としてまとめ、1818年に出版します。そのときは、著者は夫と推定される形をとっていたそうです。この頃は女性が自身の名で小説を発表したりするのは勇気がいる時代だったそうで、自身が著者であることを彼女が明らかにしたのは、1831年の第三版の出版のときだったということです(注1)。
 この小説について、映画から来る誤解を解く意味も交えて、京都大学大学院の廣野由美子教授が『批評理論入門――「フランケンシュタイン」解剖講義』(2005年/中公新書)という知的興奮の書にまとめています。また、メアリ・シェリーについては映画『メアリーの総て』(2017年/監督:ハイファ・アル=マンスール)に描かれていますので、ご覧になってください。

◆あらすじ

 ところはドイツ。科学者のヘンリー・フランケンシュタイン(コリン・クライヴ)は、助手のフリッツ(ドワイト・フライ)と共に墓から死体を、さらに大学の教室から犯罪者の脳を盗み出し、合体させて人里離れた塔の実験室で人造人間を創り出そうとしていた。彼は婚約者のエリザベス(メエ・クラーク)との結婚も忘れ研究に夢中だった。二人の共通の友人のヴィクター(ジョン・ボールズ)やヘンリーの大学の恩師・ヴァルドマン博士(エドワード・ヴァン・スローン)が心配してエリザベスと共に嵐の日に彼の実験室を訪ねると、激しい稲妻の閃光の中、雷の電気エネルギーを得て人造人間に生命が宿る。それは世にも醜悪な怪物だった。助手のフリッツが怪物を忌み嫌ってたいまつを突きつけると、怪物は怒ってフリッツを殺してしまう。
 ヘンリーは怪物を生み出した後悔で精神が不安定となり、父のフランケンシュタイン男爵(フレデリック・カー)とエリザベスに家に連れ戻される。怪物は、実験室に残って怪物の命を断とうとしたヴァルドマン博士を絞め殺し、脱走する。
 ヘンリーとエリザベスとの結婚式が行われることになり、ヘンリーの父の村の人々がお祝いで浮かれる中、怪物が近くの湖に現れる。少女マリア(マリリン・ハリス)が怪物を見つけ、一緒に遊んでいると、突然怪物はマリアを湖に投げ込んでしまう。
 マリアの父がフランケンシュタイン男爵のもとにマリアの遺体を抱いて現れ、マリアが殺されたと訴える。マリアを殺した怪物を生け捕りにしようと、ヘンリー、ヴィクターや領民たちはたいまつをかかげて怪物の行方を追う・・・。

◆初めての友

 湖のほとりで、怪物と少女マリアが横向きに見つめ合うこの映画のスチル写真を見たことがある方も多いと思います。それは、まるで愛し合う恋人同士を写したような幸福と平和に満ちた光景です。このあと、怪物がこの少女を水に投げ落とすなどという惨劇が起ころうとはとても思えません。
 幼いマリアは怪物に出会う前、父親から「猫ちゃんと遊んでおいで」と言われ、子猫を抱いて一人で湖に遊びに行きます。湖のほとりで花を摘んでいると、怪物が生まれて初めて見る女の子に不思議そうに近寄ってきます。マリアは初め少し驚きましたが、怪物を怖がらずに遊びに誘い、摘み取ったマーガレットの花を「ボートよ」と水面に投げて浮かべて見せ、怪物も楽しそうにしています。怪物は、マーガレットの花のように少女を水面に浮かべてみたくなったのでしょう。人間としての教育を一切受けていない彼は、そんなことをしたらどうなるかとの推理も善悪の区別も働かず、マリアを花と同じように投げ込んでしまうのです。怪物はマリアが沈んでしまったことに驚いて逃げ出します。
 この部分は、その後で父親がマリアの遺体を抱いて村に現れるシーンと共に、かなりショッキングです。アメリカでは、怪物が少女を投げ込むカットを削除して公開した地域があったそうです(注2)。
 無邪気な笑顔すら浮かべてマリアとひと時を過ごした怪物。人造人間として生まれさせられ、人として扱われたことのなかった彼が、初めて対等に接してくれた少女を殺めてしまう――彼の哀れさがひとしお胸に迫る場面です。
 ちなみに猫ちゃんは、マリアが怪物と遊び始めるときに放したので、難を逃れています。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆誰がフランケンシュタイン

 「フランケンシュタイン」と言うとボリス・カーロフが演じた人造人間のことと思われてしまっていますが、あらすじを読んでおわかりの通り、フランケンシュタインは人造人間を作った科学者の姓で、人造人間は映画でも原作でも単に怪物(モンスター)と呼ばれています。映画のタイトルが『フランケンシュタイン』ですし、その強烈なインパクトからフランケンシュタイン=怪物という混同が生まれてしまっても仕方ないかもしれません。
 メアリ・シェリーによる原作の題名は『フランケンシュタイン または現代のプロメテウス』です。「プロメテウス」とは、神のものだった火を盗んで人間に与えたギリシャ神話の神の名前で、プロメテウスは最高神ゼウスから肝臓を鷲に食われるという罰を受けます。プロメテウスの肝臓は毎日再生し、鷲に食べられる苦痛をずっと味わわされることになるのです。神の領域に踏み込んで人造人間を創り出したフランケンシュタインの終わりのない苦しみを表現するものとして『現代のプロメテウス』という副題がつけられたのでしょう。
 ところで、映画にはもう一つの混乱があり、科学者はヘンリー・フランケンシュタインで、その友人がヴィクターとなっていますが、原作ではヴィクターはフランケンシュタインの名で、友人の名がヘンリーなのです。なぜこのようなことが起きたのかはわかりませんが、原作はこの映画より前に舞台で繰り返し上演され、初の映画化も1910年だったそうですので、その間に混乱が生じ、この映画まで受け継がれてしまったのかもしれません。

ボリス・カーロフ

 この映画の素晴らしさはイギリス出身の俳優・ボリス・カーロフが演じた怪物の、外見および内面の造形にあります。「はめ込まれた薄茶の眼窩とほとんど同じ色に見えるうるんだ目、やつれたような顔の色、一文字の黒い唇」「よみがえらされたミイラでも、あいつほどおぞましくはない」などの原作の記述をもとに、あの姿は創り出されました。この特殊メイクは、支度にもはがすにも3時間半ずつかかり、においがひどかったそうなので、ボリス・カーロフの肉体的・精神的消耗は並大抵のものではなかったでしょう。怪物の頬はこけ、深いくぼみができていますが、これは彼が歯のブリッジを抜いて作り出したものだそうです。また、ボリス・カーロフは本来とてもくっきりした大きな目の持ち主ですが、彼自身の発案で出っ張った眉の下にまぶたをかぶせ、半開きの目を創り上げたということです(注3)。カーロフは怪物の役に役者として真剣な情熱を傾けていたことがわかります。
 物言わぬ怪物の目からは、戸惑いや怯えといった繊細な心の動きが感じ取れます。それは怪物が獣などではなく、間違いなく人間的な存在であることを物語っています。フリッツやヴァルドマン博士に殺されそうになったので、自己防衛的に殺人を犯してしまうのです。
 ボリス・カーロフの演技は品格があり知性的です。人間としての悲しみを、目と、手と、全身の動きで表現しています。映画『フランケンシュタイン』のヒットは、彼の本格的な役作りによって生まれたと言えるでしょう。彼はその後多くのホラー映画にその足跡を刻んでいます。

 怪物に命を吹き込む実験室、電気エネルギーによる生命誕生の視覚効果も当時としては斬新なものだったことでしょう。このセットは1970年代まで使い回されたといいます(注4)。

◆怪物は怪物か

 科学者フランケンシュタインさながら原作をつぎはぎに作り変えてしまった個所は、この映画の中で随所に見られます。マリアの殺害も原作にはありません。
 最も不自然なのは、意図せず怪物がマリアを死なせてしまったあと、誰も現場を見ていず、フランケンシュタインの周辺の幾人かしか怪物の存在を知らないはずなのに、市長以下村人たちもこぞって怪物が犯人と決めつけ、捜索に向かう部分です。製作者側は儲かればよくて、このあたりのいい加減さには無頓着だったのかもしれませんが、悲しいのはラストです。一方的に怪物を悪魔のように追い詰め、めでたしめでたしとなるのです。原作では、怪物は言葉も覚え、自分を作っておきながら捨てて逃げたフランケンシュタインを憎悪して殺人鬼と化し、復讐を遂げたあと自ら死を選ぶのです。映画は大幅にそうした怪物の人間的側面を省略してしまっています。
 『ゴジラ』(1954年)や『空の大怪獣 ラドン』(1956年/いずれも本多猪四郎監督)など日本の怪獣映画では、害怪獣であってもその命を奪う心の痛みが描かれます。同じく本多猪四郎監督の映画『フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン)』(1965年)では、実験的に生まれ、野生のまま育った男の子(フランケンシュタイン)が巨大化し、やはり自己防衛から人を殺して人間に追いつめられますが、最後に害怪獣を倒して地底に消えていきます。
 一度は彼を葬り去ろうとした日本人医師が「彼は永久の生命を持っている。いつかはどこかに出てくると思う」と言うのに対し、アメリカ人医師は「死んだ方がいいかもしれない。所詮彼は怪物だ」と言います。本多監督は『フランケンシュタイン』を見て、ラストに怪物への悼みがないことに戸惑ったのではないでしょうか。そのときに感じた日本との違いを、この映画の医師たちのセリフで表現しようとしたのかもしれません。

 ジェームズ・ホエールは、続編となる『フランケンシュタインの花嫁』(1935年)でも監督を務めています。エルザ・ランチェスターによる、原作者メアリ・シェリーと怪物の花嫁の一人二役、現代のホラーにも通用しそうな映像表現は今見ても鮮烈です。


(注1)『メアリ・シェリー「フランケンシュタイン」』
    (廣野由美子/2015年/NHK 100分de名著 NHK出版)より
(注2)『フランケンシュタイン』(NBCユニバーサル・エンターテイメント/2016年/
    Blu-ray)「メイキング」より
(注3) 同
(注4) 同

参考:
『批評理論入門――「フランケンシュタイン」解剖講義』(廣野由美子/2005年/中公新書
フランケンシュタイン』(メアリ・シェリー/森下由美子訳/2003年/東京創元社

 

【2023.07.21修正】

ボリス・カーロフの章

怪物の姿についての記述を、原作小説からの引用に修正。

 

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