この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

ウンベルトD

家主から家を追われた老人ウンベルトは、愛犬フライクと死出の旅をさまよう・・・。

 

  製作:1951年
  製作国:イタリア
  日本公開:1962年
  監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
  出演:カルロ・バッティスティ、マリア・ピア・カジリオ、
     リーナ・ジェンナーリ 他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    通りすがりの猫2匹
  名前:なし
  色柄:黒白ハチワレ、白茶ブチ(モノクロのため推定)

◆非情な名作

 高齢者が主人公の映画シリーズ第二弾は、イタリアの『ウンベルトD』。前回とは打って変わって、過酷な現実に打ちひしがれる高齢者の姿を描いた映画です。まさに四門出遊、釈迦が城門から出て見た世界がここにあります。辛いところがある映画ですので、初めての方は少々心にご準備を。私はイタリア映画史に残るすばらしい映画だと思っています。

◆あらすじ

 30年間公務員として勤めた老人・ウンベルト・D・フェラーリ(カルロ・バッティスティ)は、身寄りがなく、犬のフライクとローマのアパートに住んでいる。年金の半分以上が家賃にかかり、滞納分を全額払えなければ月末までに出ろと家主から追い立てを喰っていた。ウンベルトは、本を売ったり、病院に入院して食費を浮かせたりして金の工面をしたが都合がつかず、退院するとアパートの部屋が勝手に改装されていた。入院中、大家の家事使用人のマリア(マリア・ピア・カジリオ)に預けたフライクまで逃げ出していて、野犬収容所でやっとの思いで見つけ出す。彼を支えていたのはフライクと、自分と同じように頼る人のないマリアの存在だった。
 物乞いをしようとしたり、知人を頼ろうとしたが、ウンベルトはどうしても捨て身になることができない。救済施設にも入りたくない。進退窮まった彼はアパートから出て行き、フライクとあてどなくさまよう。彼は死を決意していた…。

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◆猫も出てます

 白い毛に黒っぽいブチ模様の入った小型の雑種犬・フライクの名演に涙、涙。だから犬の映画は困るのです。
 いままでたびたび、1匹の猫の役を複数の猫が演じている映画を紹介してきましたが、『ウンベルトD』のフライクも、2匹の犬が演じています。顔が黒くて額に白い筋の入った、背中からお尻にかけて大きなブチが3つあるのがメインのフライク、頭の黒いところが若侍の前髪のような形になっている、顔の白いフライクの2匹です。芸達者なのは顔の黒いフライク。
 この映画を見たことがある方でしたら、フライクのことは忘れようとしても忘れることができないと思いますが、猫のことはほとんど記憶にないのではないでしょうか。
 始まって30数分が過ぎた頃、マリアがガラス張りの明り取りの天井のある廊下に置いたベッドに横たわっていると、1匹の黒白の猫が天井のガラスの上を歩いて行きます。マリアは手で顔を覆い、祈りのような声を出すと、ベッドから起き出して自分の仕事場である台所の窓から外を眺めます。視線をおろすと、家並みの屋根の上を白っぽい猫が歩いているのが小さく見えます。マリアはテーブルの上に置いた書きかけの手紙らしきものをインクとともにひきだしにしまい、うつろな目でガリガリとコーヒー豆を挽きだします。頬には涙が光っています。
 実はマリアは、ナポリ出身か、フィレンツェ出身か、どちらかの兵隊の子どもを身ごもっているのですが、二人から自分の子ではないと言われています。17、8歳と見えるマリアは、次第に自分の身体に現れ始めた変化にとまどい、心細さに身を震わせているのです。セリフのない4分弱、誰もいない場所をひっそりと音もたてずに歩く猫、それに向けたマリアの黒い瞳が、頼る人のない孤独を訴える、物寂しいシーンです。 

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

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◆年金上げろ!

 タイトルバックに、ロングショットでローマの道路が映り、画面奥から人の集団がこちらに向かって来るのがクレジットの文字の陰から見えます。それは手に手にプラカードを持った人々のデモ行進だということがだんだんはっきりします。ヴィットリオ・デ・シーカ監督の「この作品を父に捧げる」という献辞が消え、画面には帽子をかぶりコートを着た老年の男性たち。「年金の支給額を上げろ」「大臣に会わせろ」と彼らは叫びますが、無許可のデモのため警察に追われ、皆散り散りに逃げ出します。その中に愛犬のフライクを連れたウンベルトが混じっています。
 彼らは退職した公務員で、長年国のために尽くしたのに生活もままならないと不満を訴えています。第二次大戦後のこの頃のイタリアでは、相当インフレが進んでいたのではないでしょうか。映画の中でお金をやり取りする場面では、紙屑のように大量のお札を無造作にバサバサとつかんでいます。年金の支給額が物価にスライドする仕組みがないと、インフレの中で年金生活者はたちまち困窮してしまいます。ウンベルトは、一緒に逃げた老人たちも自分と同じような生活レベルだろうと、滞納した家賃も払えない、とこぼすと、自分は大丈夫、借金はないと、みな他人の顔。一人の男に自分の懐中時計を売ろうとしますが、すげなく断られてしまいます。
 アパートの自分の部屋に帰ると、ベッドに見知らぬ男女が。女家主がウンベルトの外出中に部屋を時間貸しして、連れ込み宿としていたのです。家主は身なりもいいし、オペラを歌うのが趣味と、裕福に見えますが、そんなことをして少しでもお金を稼ごうとするほどインフレは激しかったのでしょうか。ウンベルトを追い出すための嫌がらせのためだとしたら、相当の意地悪です。

◆ネオレアリズモ

 イタリアの、1940年代から50年代初めにかけての、現実を厳しく描写したリアリズムの映画群は「ネオレアリズモ」(新現実主義)と呼ばれています。素人を俳優に起用することが多く、この映画のヴィットリオ・デ・シーカや、ロベルト・ロッセリーニ(『無防備都市』(1945年)『戦火のかなた』(1946年))、ルキノ・ヴィスコンティ(『揺れる大地』(1948年))らの作品が、毒にも薬にもならないお話でお茶を濁していた世界中の映画界に衝撃を与えた、とされています。オペラの本場イタリアの伝統でしょうか、非常に劇的な展開を見せる作品が多いと思います。
 『ウンベルトD』もその代表的な一つ。ウンベルトが生活費を浮かせるために、食堂でフライクにこっそりエサをやったり、自分で用意万端整えて救急車を呼んで入院したり、というあたりまではまだクスリと笑えますが、アパートに戻ってフライクが逃げ出したと知ってからは、悲劇の幕が切って落とされたかのようになります。
 物乞いをしようとしてどうしてもできないウンベルトが、帽子をくわえたフライクをちんちんさせて、誰かがめぐんでくれないかと物陰に身をひそめる・・・。フライクのいじらしさとウンベルトの惨めさ。まじめに働いて来たウンベルトが老いてこのような境遇に至った苦しみ。公務員として国に貢献してきた自負のある彼は、国から裏切られたという思いでいっぱいだったはずです。

◆Just so !

 人間は生きて来た時間の分だけ心の荷物をしょっています。老いの苦しみとは、心身の衰えや病気もありますが、自分の生きて来た社会が変化し、置いていかれること、あるいは是としてきた価値が陳腐なものになることではないでしょうか。
 支え合っていたマリアに別れを告げるウンベルトのそんな心の内を、若いマリアは読み取ることができません。
「また会えるわよね」
窓から見送る彼女を路面電車から見つめるウンベルト。
 最後の心残りのフライクの身の落ち着けどころを探すことができず、ウンベルトはフライクを胸に抱くと…。

 ユング派の臨床心理学者で文化庁長官も務めた河合隼雄は、著書の中で「just so !」という言葉を使っています(注1)。自然や現実の前で、人間がなすすべもないということ、「いくらなんでも」「夢であってほしい」と思うようなことが現実には起きる、それは「just so !」としか言いようがないというのです。その「just so !」ゆえに、『ウンベルトD』は拒まれたようです。あまりにも悲観主義的であると当時のイタリアで批判され、興行的にも失敗し、この作品でネオレアリズモはイタリア映画の表舞台から去っていったということで(注2)、インターネットの映画サイトでも、あらすじの書き手がこの映画を嫌いだとわかるような書き方がされているものもあります。けれども、私は人間社会の「just so !」から目を背けないためにも、『ウンベルトD』やその他の世界中のリアリズムの作品を、暗いと言って埋もれさせたくないと思っています。

◆悲劇のメロディ

 ウンベルトDを演じたカルロ・バッティスティは、大学の言語学者で、マリアを演じたマリア・ピア・カジリオも、この映画のとき偶然見出された素人だということ。さきほどのマリアの無言の4分間も、プロの俳優ではない硬さがかえって生々しいものを生んでいます。
 ヴィットリオ・デ・シーカ監督のネオレアリズモ作品で最も有名なのは『自転車泥棒』(1948年)でしょうか。父と男の子を巧みに使った映画ですが、どこか出来過ぎなところもあって、私は1944年の『子供たちは見ている』が、粗さがあるものの「just so !」を感じる好きな作品です。俳優でもあった監督は、なかなかの二枚目。恋愛喜劇映画での軟派な演技などを見ると、これが『ウンベルトD』を作った人か、と信じがたかったりもします。
 さきほど劇的な展開はオペラの伝統か、と言いましたが、イタリア映画は音楽がやはりすばらしい。『ウンベルトD』でも、アレッサンドロ・チコニーニの曲が、オペラの序曲か間奏曲のように壮麗な調べを奏でています。


(注1) 『昔話の深層』(河合隼雄著/1977年/福音館書店
(注2) 「『ウンベルトD』作品解説」(石田美紀/『ウンベルトD』Blu-rayリーフレット
     /(株)アイ・ヴィー・シー)

 

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