この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

地下鉄のザジ

パリを舞台に繰り広げられる、こまっしゃくれた女の子の招くドタバタ劇!

 

  製作:1960年
  製作国:フランス
  日本公開:1961年
  監督:ルイ・マル
  出演:カトリーヌ・ドモンジョ、フィリップ・ノワレ、ヴィットリオ・カプリオーリ、
     カルラ・マルリエ 他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
  街中の猫×2匹
  名前:なし
  色柄:キジトラ、黒

◆ギャングエイジ

 小学校3、4年生くらいの年代を、ギャングエイジと呼ぶのだそうです。小集団を作ってつるんで行動する様子を「ギャング」にたとえたわけで、決して悪事を働くわけではありませんが、この年代は親や先生の言うことを聞かなかったり、無茶や乱暴なことをしたり、子どもたち同士で秘密を共有する、といったことも増え、少し悪い子になったように見えることもあるようです。ザジもギャングエイジです。おかっぱ頭に、永久歯に生え変わったばかりのすき間のある前歯。子どもだと思って甘く見ていた大人は、次々手玉に取られてしまいます。

◆あらすじ

 ザジ(カトリーヌ・ドモンジョ)は10歳の女の子。お母さんが恋人と会うためにパリまでザジを連れて来て、弟、すなわちザジの叔父さんのガブリエル(フィリップ・ノワレ)にあずけ、あさっての朝ね、と言い置いて恋人といなくなってしまう。ザジはパリで地下鉄に乗るのを楽しみにしていたが、あいにく地下鉄はストライキ中。叔父さんは知り合いのタクシー運転手のシャルル(アントワーヌ・ロブロ)の車で家に向かうが、ザジの生意気でませた言動に叔父さんもシャルルも目を白黒。叔父さんの家でもザジは家主を言い負かしてけろっとしている。美しいアルベルティ―ヌ叔母さん(カルラ・マルリエ)だけは、そんなザジに涼しい顔。
 翌朝、ザジは一人で黙って家を出て地下鉄の駅に行く。相変わらずストが続いていて泣いていると、中年男(ヴィットリオ・カプリオーリ)に声をかけられる。ザジは男と蚤の市に行ったり、追いかけっこをしたり、レストランで食事をしたりしながら嘘かほんとかわからない話で男を翻弄、叔父さんの家まで送り届けてもらう。男は、アルベルティーヌ叔母さんを見て一目惚れ。叔父さんに追い出されてしまう。
 午後、ザジと叔父さんとタクシー運転手のシャルルはエッフェル塔見物に出かけるが、シャルルはザジの恋愛に関するツッコミに閉口して一人でタクシーを運転して帰ってしまう。叔父さんは紫色の服を着た婦人にベタベタつきまとわれ、そこに警官が駆け付けるが、それは婦人をアルベルティーヌだと思って駆け寄ってきた、今朝がたザジと一緒にいた中年男だった。叔父さんはエッフェル塔ツアーの客に無理やり観光バスに乗せられてしまい、紫の婦人が地下鉄ストのあおりの大渋滞の間を縫って、ザジと警官を乗せた車で叔父さんを追いかける。
 叔父さんはバスから脱出、ダンサーとして働くナイトクラブにたどり着く。紫の婦人は叔父さんから警官へと心変わり、警官はアルベルティーヌ叔母さんを追いかけ、叔母さんは叔父さんのショーの衣裳を届けに自転車を走らせ、ザジは夜のパリの街をさまよう。
 運転手のシャルルと恋人のマドが婚約し、レストランでのお祝いで、ドタバタの大げんかが始まる。大騒ぎの中、いつの間にかザジがテーブルで疲れて眠っている。叔父さん夫妻がザジを抱いて地下に逃げ出すと、地下鉄が動き始める・・・。

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◆絶妙の登場

 この映画には追いかけっこの場面が何度も登場します。猫が登場するのは、始まってから全体の三分の一ほど進行した、あとで警官とわかる中年男とザジの追いかけっこの最中です。
 はじめに登場するのは、パッサージュと言われる、パリの屋根付き商店街の猫。キジ猫らしき1匹が店の方から通りに出て来て、ザジと男の追いかけっこを一瞬立ち止まって眺めたあと、「かかわっちゃおられん」とばかりに走って逃げます。商店街に住んでる猫でしょう。ロングショットで毛色もはっきりしませんが、いい味出してますねぇ。ザジと男の追いかけっこは5分以上続きますが、撮影にはその何倍もの長さをかけているはず。その長い長いフィルムから、この部分、猫の役者ぶりが監督の目に留まって使われたのでしょう。
 2匹目の猫は、追いかけっこをしながら、建物の外に置いてあるブリキのゴミバケツにザジが飛び込んで、男が蓋を閉じて上から座り込み、中から叩く音がするので開けてみると、ザジではなく1匹の黒猫がモグラたたきのように顔をのぞかせる、というもの。こちらはもちろん撮影用に準備された猫です。たったこれだけのカットですが、猫を相手に狙った絵が撮れるまでどれくらいの時間がかかったことか。それでもうれしいことに映画監督たちは猫を使うことをやめようとしません。猫好きとしてはその心意気に応えなくては。これからも渾身の猫ショットを数ある映画の中から探していこうと思います。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

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◆感じたい

 『地下鉄のザジ』は、好きと言う人と、好きではない、と言う人に分かれる映画ではないかと思います。その「好きではない」の中に、「よくわからないから」という理由が含まれるのではないでしょうか。わからなくても、これを見たときに自分の中にどういう反応が起きるかを観察するのが感じるということですが、大人になるとどうもそういうのが苦手になってきます。
 私はモダンバレエやコンテンポラリーダンスなどをやっていたことがあり、自分で振付をしたりしたこともあるのですが、踊りとしては抽象的な表現のジャンルです。舞台を見てくれた人から言われて困るのは「あれはどういう意味?」と聞かれること。たとえば「山」という題名の作品を作って、山の神秘性とか豊かさなど、自分のイメージを身体を使って表現し、そこから山を感じてもらうのがこちらの方法なのですが、具体的に山的な見え方を表さないと「難しい」「わからない」と反応してしまう人がいるのです。もちろんこちらの表現力不足という問題もあるので「山というより海だよね」と「感じて」もらえればいいのですが、真面目な方は理解しようとしてしまうようです。
 この映画も、レーモン・クノーの原作をルイ・マル監督が自分自身で感じ、こう表現したいと作り上げた、独自の創作物です。別の人が作れば全く違った映画になるはず。表現というものは一つとして人と同じになることがなく、その表現のもとになっているのが感じるということ。感じるということもその時その人に固有のものです。『地下鉄のザジ』が繰り出してくるサプライズにどう自分が反応するか、とにかく体験してみましょう。

ヌーヴェル・ヴァーグ

 一度は見て感じてみたい20世紀のハチャメチャコメディ『地下鉄のザジ』。1950~60年代のフランス映画と言えば、ヌーヴェル・ヴァーグの時代です。ヌーヴェル・ヴァーグとはどんな映画を表すのか、という問いに対して簡単でズバリ核心をついた説明を、いままで私も聞いたことがないのですが、やはり、それ以前の映画にはなかった新しい表現の波、としか言いようがなさそうです。映画学校で技術を磨いて監督になる、という通常のコースではなく、映画批評などを書いていたトリュフォーのような人がいきなり映画を作ってしまうというような現象や、撮影スタジオのセットを使わないなどの製作方法も、その中には含まれるようです。その当時は新しいと感じられた表現が、その後に育った人たちには当たり前となってしまっていることも、わかりにくい理由かと思います。ヌーヴェル・ヴァーグの担い手と言われている映画監督たちの作品を実際に見ることでその「感じ」を掴むことが、結局一番の近道ではないでしょうか。
 ルイ・マル監督は『死刑台のエレベーター』を1958年に発表して、一躍注目を浴びます。実は、『地下鉄のザジ』の中には、ヌーヴェル・ヴァーグの映画のパロディと思われる場面がいくつか見られます。
 たとえば、ザジが叔父さんに連れられて家にやってきたとき、家主の傍らでレストラン従業員のマドと恋人のシャルルが愛をささやく場面で、映像がとぎれとぎれに飛ぶのは、ジャン=リュック・ゴダールの『勝手にしやがれ』(1960年)で使われたジャンプ・カットという技法。ザジと追いかけっこをした中年男がアルベルティーヌに一目ぼれするシーンは、ルイ・マル自身の『恋人たち』(1958年)、ザジが夜、パリの街をあてどもなくさまよい、バックにジャズが流れるシーンは『死刑台のエレベーター』の自己パロディでしょう。また、「ヌーヴェル・ヴァーグは最低」と言うザジのセリフが飛び出したりもします。

◆自然に帰れ

 そんな遊びの見える『地下鉄のザジ』で、ルイ・マル監督が伝えようとしているものはなんでしょう? 私には、やはり「感じる」ことの大切さではないかと思えます。子どもの目から見た大人の世界の批判・風刺と言う人もいるようですが、私にはそんな思惑とは関係なく、ザジはザジとして勝手にあるがままにふるまっているだけに見えます。ザジの行動から教訓や批判を読み取ろうとするのは、大人の「理解」しようとする心の動きではないかと思います。
 大人を批判しているのは、ザジではなく、ルイ・マル監督です。
 たとえば、エッフェル塔見物に行ったとき、叔父さんは、塔の鉄骨や手すりすれすれのところをよじ登ったり歩いたりします。見ているこちらのお尻の下がムズムズするような場面ですが、叔父さんは怖がるどころか無表情で、何やら難しい哲学的なことをつぶやいています。私にはこれが感じようとせずに理屈に走ろうとする大人の姿を象徴しているように思えるのです。
 もし、この頃、ヌーヴェル・ヴァーグとは何ぞやという論争が起きていて、あれはどうだの、彼は違うだなどの議論にルイ・マルが巻き込まれて辟易するというような状況があったとしたら「理屈はどうあれ、私は私の撮りたいように撮るだけ」と、ルイ・マルの呈した態度表明が『地下鉄のザジ』だったのではないか、と私は想像しているのです。『地下鉄のザジ』は、あなたは感じることができますか、とルイ・マルがつきつけた挑戦状のように思えます。コメディではありますが、笑わせに行っている映画ではありません。
 エッフェル塔のシーンで叔父さんがブツブツつぶやいていた話の内容を覚えているでしょうか? 誰もが覚えているのは、ヒヤヒヤした感覚の方だと思います。理屈より感じろよ、というのがルイ・マル監督の主張ではないでしょうか。

◆地上のザジ

 と、いったようなことも、公開から60年以上経過する間にとっくの昔に誰かが言っているかもしれませんのでこれくらいにします。いまも根強いファンが多いこの映画、ザジにまったく悪意がないところや、古典的なスラップスティックには、いまでは驚きよりノスタルジックな安心感を覚えるでしょう。導火線に火がついた爆弾を持たされる、というギャグ、昔はよくありましたっけ。食べ物を乗せたお皿を投げ合うという場面は、いまではNGでしょうね。
 ザジが一日パリを走り回って眠くなってしまったり、せっかく楽しみにしていた地下鉄が動いたのに無関心なのには、とても子どもらしさを感じます。生意気なようでもやっぱりおチビさん。ザジを演じたカトリーヌ・ドモンジョはわずかな映画出演後、19歳で映画界を退いたそうです。
 ガブリエル叔父さんを演じたフィリップ・ノワレと言えば、『ニュー・シネマ・パラダイス』(1988年/監督:ジュゼッペ・トルナトーレ)の映写技師アルフレードが印象的でしたね。『地下鉄のザジ』のエッフェル塔のシーンや、ナイトクラブでのラインダンスのシーンで、あの大柄な体をしなやかに動かしているので驚きました。
 気になる登場人物と言えば、美しいアルベルティーヌ叔母さんです。ほとんど表情も感情も動かず、いつも口元にギリシャ彫刻のようなアルカイックスマイルを浮かべています。これも何かのパロディとか? 警官のヴィットリオ・カプリオーリはレバノンに逃げたあの人物にちょっと似ていたりして・・・。

 『地下鉄のザジ』なのに、普通の列車からの眺めで始まり、普通の列車からの眺めで終わります。これがまた真面目な人を「どうして」と困惑させてしまうかもしれませんね。

 

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