この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

甘い生活

空虚な人生を立て直そうともがくゴシップ記者のマルチェロは、もがけどもがけど腐った生活に呑み込まれて行く・・・。

 

  製作:1960年
  製作国:イタリア/フランス
  日本公開:1960年
  監督:フェデリコ・フェリーニ
  出演:マルチェロ・マストロヤンニアニタ・エクバーグ、アヌーク・エーメ、      イヴォンヌ・フルノー、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    セクシー女優が町で拾う子猫
  名前:なし
  色柄:白


◆道化師の歌

 名セリフをソラで言える映画や、あるシーンを一人で再現できるくらい何度も見た映画が皆様にもあると思いますが、私のそういう映画の一つが、フェデリコ・フェリーニの『道』(1954年)です。イタリア語はできませんので日本語で一人ものまねです。
 監督の妻ジュリエッタ・マシーナの演じる軽い知的障がいのある主人公のジェルソミーナが、怪力の大道芸人ザンパーノの一応は妻・芸の助手として二人でバイクに幌車をつなげ、津々浦々を旅します。粗暴なザンパーノはジェルソミーナを対等に扱わず・・・と、話をし出せば1本記事が書けてしまいそうです。
 子どものようなジェルソミーナを真似するも楽しいのですが、もっと楽しいのが怪力ザンパーノの真似。裸の胸に巻いた鎖を筋肉の力で引きちぎるのが彼の芸。道端に人を集めて、今から見せる芸のことを説明する口上が楽しいのです。
 ジェルソミーナはザンパーノの助手として道化の衣装を着てラッパを吹きますが、フェリーニの作品には道化師が欠かせません。今回取り上げる『甘い生活』はネオレアリズモ後のイタリア映画を牽引した巨匠フェリーニの、1960年のカンヌ国際映画祭最高賞パルム・ドールなど多くの賞を受賞した代表作。これにもチャップリン風の哀愁を帯びた道化師が登場しています。

◆あらすじ

 マルチェロマルチェロ・マストロヤンニ)はローマでゴシップ記者として有名人や巷の話題を追いかけていた。文学を志す気持ちを持ってもいるのだが、刹那的で空虚な日々に流されている。ある日、ネタをあさっていたナイトクラブで美しいマッダレーナという女性(アヌーク・エーメ)と会って一夜を共にし、自宅に帰ると同棲中の婚約者エンマ(イヴォンヌ・フルノー)が自殺を図っていた。命は助かったが、マルチェロの浮ついた生き方にエンマは疲れ、マルチェロも彼女にうんざりしていた。
 ある日、マルチェロは知り合いのシュタイナー(アラン・キュニー)という男と偶然再会し、彼の家でのインテリが集まるパーティーにエンマと出かける。シュタイナーは二人の子どもに恵まれた理想的な家庭を築いていて、エンマも憧れを抱く。彼はマルチェロに文学を志すならつてがあるとほのめかす。
 マルチェロは一念発起し、海辺の食堂で文学の執筆に打ち込もうとするが、邪魔が入りうまくいかない。そんなとき父が仕事でローマに立ち寄り、マルチェロはゆっくり話したいと願ったが、父はそそくさと帰ってしまう。
 貴族の館での頽廃的なパーティーでマッダレーナと再会し、マルチェロは彼女を求めようとしたが、彼女は誰彼かまわず関係を持つ女だった。パーティーで夜を明かした後はエンマとお互いをののしり合う喧嘩をして、別れる瀬戸際まで行きながらいつも通りの不毛な関係に戻る。
 そんなときシュタイナーが子どもと無理心中してしまう。
 目標を見失ったマルチェロは文学も記者の仕事も捨て、芸能人の宣伝マンとして仲間内と乱痴気騒ぎで夜を明かす。朝、みんなと海岸に出ると、大きく不気味な魚が浜辺に引き上げられていた・・・。

◆頭に子猫

 映画の前半、ゴシップ記者マルチェロの仕事ぶりが描かれる中、アメリカからイタリアを訪れた色気ムンムンの人気女優シルヴィア(アニタ・エクバーグ)をマルチェロが相手するシークエンスで、白い子猫が登場します。
 ローマ時代の建築や服装を模したナイトクラブでマルチェロがシルヴィアを接待し、肉感的な彼女にのぼせ上ってダンスをしているところに、彼女と共演したことがある男性俳優が馴れ馴れしくやってきます。シルヴィアと彼は店中を踊りまくり、どんちゃん騒ぎを繰り広げます。そんなシルヴィアに婚約者のロバートという男が侮蔑的な言葉を投げてシルヴィアはおかんむり。店を出て行ってしまったので、マルチェロが追いかけて自分の車に乗せ、ローマ市内を走って彼女の気を落ち着かせます。
 シルヴィアは静かな道で手のひらに載るほど小さい白い子猫を拾い、マルチェロにミルクを持ってくるよう言って、頭の上に子猫を乗せてフラフラと足の向くまま歩いて行きます。マルチェロがなんとかミルクを調達して戻って来ると、シルヴィアは猫を地面に置いてトレヴィの泉の中をザブザブ歩いている最中。あわてて泉の中に入り、シルヴィアを止めるマルチェロ。そのとき夜が明け、周囲の人が二人を好奇の目で見ています。
 シルヴィアをホテルまで送ったマルチェロ、何もなかったのに待ち構えていたロバートに往復ビンタと腹へのパンチを食らってしまいます。
 マリリン・モンローを連想させるシルヴィアという女優、空港で記者やカメラマンにもみくちゃにされたあと、「寝るときはパジャマかネグリジェか」などの記者のつまらない質問に「フランスの香水を2滴だけ」などとモンローと同じように答えています。
 モンローは1954年に新婚旅行で夫の大リーグ連続試合安打の記録を持つ野球選手ジョー・ディマジオと日本を訪れ、記者がモンローにばかり取材するのでディマジオが腹を立て、仲が悪くなったという話が伝わっています。それをちょっと思い出させるロバートとの仲たがい。
 ミーミーと鳴くいたいけな子猫が出て来るのは、48分ほど過ぎたあたりです。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆いと高き所

 3時間に及ぶ大作。多くの人物が背景の説明なく登場しますが、人物設定は細かく気にしなくてもその人がすることを見ていれば大丈夫です。見始めるとそう難解な表現に苦しむほどではなく、マルチェロ・マストロヤンニも良い艶加減、出て来る女性俳優もきれいでセクシーです(似たようなタイプの女性たちばかりですが)。けれども、安易に流して見ていると中に含まれているスパイスに気づけないかもしれません。

 冒頭、キリスト像が空を飛んで行きます。ローマ教皇のもとに運ぶためにヘリコプターがロープでむき出しのまま吊り下げているのです。日光浴をしていた水着姿の若い女性たちがそれを見て手を振っています。もう1台飛んできたヘリコプターにはマルチェロやゴシップ専門のカメラマン・パパラッツォ(ウォルター・サンテッソ)が乗り込んで取材しています。彼らは水着の女性たちに気づいて会話しますが、ヘリコプターの音にかき消されてうまく通じません。
 のっけからキリスト像がただの物として扱われていることにうろたえます。『甘い生活』にはキリスト教の権威が衰え、精神的な支柱をなくした人々が堕落と頽廃に陥っている様子が描写されます。
 ローマ郊外では、聖母マリアが現れたと幼い少年少女が訴え、警察、報道陣がどっと押し寄せ、再び聖母の顕現を見ようと群集や病人が集まります。マルチェロも取材にやって来て、自殺未遂から回復したエンマもついて来ています。テレビか映画のクルーとみられる人たちが足場を組んで聖母が現れる瞬間を撮影しようと狙う中、当の子どもたちは「マリア様だ!」とあっちへウロウロ、こっちへウロウロ。一杯食わされたかと思ううちに大雨になり、奇跡を願ったどこかの憐れな母親が連れて来た病気の子どもは死んでしまいます。
 取材の謝礼や金儲けをあてこんだ作り話か、聖母の顕現はとんだ茶番に使われ、マルチェロマルチェロとの幸福な結婚を聖母に祈ろうとしていたエンマも呆然とします。神聖なるものは俗の手垢にまみれています。

◆甘い性格

 神の権威や信仰が衰えると、人間は幸運への感謝を忘れ、不幸や不運を神の思し召しとすることができなくなり、自助努力の不足、無能、と自分の責任として引き受けざるを得なくなります。
 『甘い生活』に登場する貴族など、金のある人々は遊興によってその不安から逃避しています。一方、働くことで飯を食っているマルチェロは、いまの自分は今まで自分がしてきたことの結果、という状況に直面させられています。マルチェロの年頃なら、戦争によって国家体制が崩壊し、権威や道徳的なバックボーンを失い、無我夢中で大人になって、必ずしも彼のせいだけとは言い難い面もありますが、ふと気が付けばどうでもいいゴシップを書いて食べているだけ。文学を目指すという高い志はどこへやらと、はっとする時期のはずです。
 現在の日本で生きている私たちも多かれ少なかれマルチェロと同じ境遇です。そういう自分を直視することは厳しいもの。
 けれども付き合いのある貴族ら恵まれた階級や芸能人たちの頽廃ぶりは自分よりもっとすさまじい。マルチェロは彼らといると自分はまだマシと安心できるので一緒に遊んで現実から目をそらしたいのです。
 婚約したエンマの関心は料理と夜の営みのことばかり。目線の低い平凡な女というだけのことなのですが、マルチェロは彼女といると、凡俗にからめとられて抜け出せない自分を思い知らされ苛立つのです。けれども、互いの人格を否定するようなことまで言う大喧嘩をしたあげく元のさやに納まるところを見ると、マルチェロは優柔不断な男。現実逃避傾向も合わせ自分はこうしたいという軸がフラフラしているのではないでしょうか。ちょっと甘い性格です。

◆チャンスが逃げる

 そんなマルチェロが人生を理想の方向に軌道修正できるチャンスは3度ありました。シュタイナーと再会し再び文学に目を向けたとき、文学に取り組み始めた海岸で清純な娘に会ったとき、父親がローマに訪ねて来たときです。
 父親は地に足が着いた実直な人物。マルチェロの子どもの頃は仕事で不在がちで、以後疎遠だったようですが、昔ながらの妻子を食わせてなんぼ、という大黒柱の気質を持ち合わせているように見えます。ほどほど遊びも心得ていて、男としての学びが得られそうでした。けれどもゆっくり話す暇もなく、悪酔いしてさめるとすぐに帰ってしまいます。
 海岸の食堂で知り合った純真な若い娘はマルチェロに健全な生活を思い出させますが、彼女の好きな流行の騒々しい音楽やエンマからの電話が彼をいつもの生活に引き戻してしまいます。
 そして完璧に自己コントロールしているように見えたシュタイナーが子どもを殺して自殺したことによって、マルチェロは理性と規律への信頼を見失い、一層激しく遊ぶようになってしまいます。

◆海と魚と女性

 海岸に引き揚げられた気味の悪い3日前に死んだ魚は、腐敗した生活の象徴です。そして「魚」キリスト教のシンボルでもあります。この魚はキリスト教のシンボルとして描かれる流線型の魚とは異なる形の、エイのような怪魚です。キリスト教の神や聖母の代わりに、おぞましい何かが人間の権威となるということを示しているのでしょうか。
 そのとき、海岸の食堂の若い娘が現れ、マルチェロに気づいて呼びかけます。彼女は遠くの砂浜から何か言葉を発していますが、波の音にかき消されマルチェロは聞き取ることができません。彼は結局、娘のいる健全な世界とコンタクトを取れないまま、「こっちの生活は甘いぞ~」と呼びかけられたかのように、乱痴気騒ぎで一夜を過ごした仲間たちに合流してしまうのです。
 このラストは、冒頭のキリスト像をヘリコプターで運ぶ途中、女性と呼びかけ合いながらコミュニケーションがうまくいかなかったシーンと呼応しています。また、空を飛ぶキリストと海から引き上げられる怪魚も対を成す関係です。
 映画の始まりと終わりに共通するモチーフが使われることはよくありますが、このラストをどう捉えるか。フェリーニの映画の男性主人公は、たいてい女性と建設的な関係を築くことができません。その関係を築くことができたとき何が変わるのか。怪魚の出現を含め自由で様々な解釈を試みることができるのが、この映画の一番面白いところではないでしょうか。

 信じるものをなくした現代人の方向喪失感を描きながら、映画を重たくしていないのがニーノ・ロータの音楽です。フェリーニとは『道』の「ジェルソミーナのテーマ」をはじめとする名コンビ。ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』(1960年)や『ゴッドファーザー』(1972年)など、20世紀の映画音楽は彼なくしては語れません。

 

◆パソコンをご利用の読者の方へ◆
過去の記事の検索には、ブログの先頭画面上部の黒いフチの左の方、「この映画、猫が出てます▼」をクリック、
「記事一覧」または検索窓をご利用いただくのが便利です。

◆関連する過去記事

eigatoneko.com

eigatoneko.com