帝政ローマの浴場技師が現代日本の風呂文化を導入して賢帝の治世に貢献する! 壮大な歴史コメディ!
製作:2012年
製作国:日本
日本公開:2012年
監督:武内英樹
出演:阿部寛、上戸彩、市村正親、北村一輝、宍戸開、他
レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
◆◆ この映画の猫 ◆◆
役:☆(ほんのチョイ役)
真実の実家の鉱泉宿の猫
名前:不明
色柄:キジ白、三毛
◆永遠の都
前回の『甘い生活』(1960年/監督:フェデリコ・フェリーニ)の頃から遡ること1820~30年ほど、舞台となったローマでは帝政が敷かれ、五賢帝の一人ハドリアヌスが治めていました。歴代皇帝は広大な公衆浴場を作り、民衆の支持を集めたということです。「テルマエ・ロマエ」とは「ローマの浴場」のことだそうです。
そんな古代ローマと現代の日本をお風呂を通じて結び付けた、ご存知ヤマザキマリさんの漫画が原作の実写映画。寒い季節はやっぱりお風呂。ゆる~く風呂談義でもしながら理屈抜きで楽しみましょう。
◆あらすじ
紀元128年、ローマの浴場建築技師ルシウス(阿部寛)は、斬新な浴場が求められていたのに時代遅れのものしか思いつかず、仕事を失う。
気晴らしにテルマエの湯に浸かって斬新な発想に思いを巡らせていると、排水口に巻き込まれ、気づくとそこは現代の日本の銭湯だった。ルシウスはそこで壁の富士山の絵やフルーツ牛乳や脱衣かごなどのローマにはないアイテムに驚き、再び時空を超えてローマに戻ると、それら銭湯のアイデアを取り入れた。
それ以来、ルシウスはタイムスリップで現代日本と行き来して「平たい顔族(日本人)」の風呂文化をローマに持ち帰り、新しい風呂を作って評判になる。皇帝ハドリアヌス(市村正親)もそれを聞きつけ、自分専用の浴場を作らせる。続けて次の皇帝候補ケイオニウス(北村一輝)の治世のために素晴らしいテルマエを作るよう命令するが、ケイオニウスを後継者と認めたくないルシウスは死罪も顧みずそれを拒む。
ルシウスは、日本と行き来するたびに漫画家の卵・真実(上戸彩)の前に現れ、真実はいつしかルシウスに惹かれていく。ルシウスは真実の実家の鉱泉宿で温熱療法や温泉水の飲用などの効能を知り、ローマ北方の反乱蛮族との戦闘で傷ついた兵士を癒す湯治場を作って兵士の回復に貢献する。湯治場を作る手伝いをしたのは、タイムスリップしてローマにやって来た真実や鉱泉宿の常連たちだった。
ローマは反乱を鎮圧し、ルシウスは湯治場建設の件でハドリアヌス帝から賞賛される。ルシウスはハドリアヌス帝に、湯治場を作る提案をしたのはルシウスが次の皇帝と認めるアントニヌス(宍戸開)だと言ったのだが、ハドリアヌスは何もかもわかっていた。ハドリアヌスはルシウスの気持ちを汲み、民衆の前でアントニヌスの功績と宣言してアントニヌスへの民衆の支持を固めさせる。
一方、愛するルシウスのそんな栄光を目にすることなく現代日本に戻ってしまった真実は・・・。
◆お風呂で逢いましょう
漫画家修業中の真実。銭湯の脱衣場の椅子でうたたねをしていると裸のルシウスが現れ、反射的にスケッチを始めると男性客たちがルシウスを連れて行ってしまいます。それ以来、師事している漫画家先生の家のお風呂場や派遣のバイト先の浴室・トイレのショールームなど、真実の行く先々にルシウスが現れ、実家の鉱泉宿の常連の長老の一言で、真実はルシウスが自分の赤い糸の相手だと確信します。ルシウスと会話ができるよう真実はラテン語を猛勉強。
この映画の中で猫が登場するのは、その真実の実家の鉱泉宿。実在する建物でロケしています。
真実の母がお見合い写真を真実に見せます。相手は地元の大ホテルの跡取り息子。母は以前から赤字続きでこの宿を閉めなければならないかもしれないと言い、真実は漫画家の夢を諦めて故郷に帰って親孝行しようかと思います。その立ち話の最中、廊下に三毛猫がニャオ~ンと登場します。猫は真実たちの脇を通り過ぎてひょいひょいと階段を昇って行きます。年月を重ねた木造の宿に素朴な三毛猫の姿はよく似合います。
ほかにも常連客たちがロビーで話をしているとき、キジ白が長老の膝に乗っています。どちらも慣れた様子なのを見ると、ロケしたお宿の本物の飼い猫かもしれません。
我が家で昔飼っていた猫の中で、お風呂に入っていると時々見に来る猫がいました。風呂場の外にいるので戸を開けてやると目を丸くして入って来て、湯船の縁に手をかけ、鼻をフンフンさせながら中を覗いていましたっけ。そこでよっこらしょと湯船をまたいで入ってきたら化け猫ですけどね。
キジ白は始まってから30分20秒頃、三毛は43分30秒過ぎた頃に登場します。
なお、原作漫画には真実や真実の実家関連の人々は登場しません。
◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆
◆ローマ人もびっくり
漫画の原作者ヤマザキマリさんのコミックス版『テルマエ・ロマエ』第Ⅱ巻(ビームコミックス、発行:エンターブレイン)所収の彼女のエッセイ「ローマ&風呂、わが愛vol.10」によれば、ハドリアヌス帝の生きた紀元2世紀の前半あたりではローマ市内での公共大浴場は11ヶ所、個人経営の小さな浴場が約1000ヶ所あったそうで、古代ローマ人も相当なお風呂好きだったことが想像できます。社交場も兼ねていたようです。それらを運営するための労働力はもっぱら奴隷に頼っていたので、ルシウスが真実の働いていたショールームで日本の洗浄機能付きトイレの至れり尽くせりのテクノロジーに驚嘆したとき、奴隷も大変だなと真剣に考えるところが笑えます。
インバウンドの外国人観光客が日本に来て驚くのがこの洗浄機能付きトイレだということはよく耳にします。日本の多機能トイレはそれこそ日本人のガラパゴス志向の典型例とも言えるでしょう。
『テルマエ・ロマエ』は、そうした異文化間の接触が生み出す驚きと笑いを描き、日本の風呂文化を古代ローマ人がもろ手を挙げて賞賛し屈服するという日本人にとっては気持ちのいいもの。主役のルシウスを演じる阿部寛はじめ、ローマ側の主要人物を北村一輝や宍戸開など顔の濃い日本人俳優に演じさせるというキャスティングも、ジョークっぽさがあってよかったと思います。
実際は未知の物への警戒心から、すべて現代日本の物が受け入れられるわけではないはずですよね。日本人だって、洋式トイレの使い方がわからず戸惑ったことがあったわけですし、誰が使ったかわからない便座に直接座ることに抵抗がある人も少なくありませんでしたから。
◆文明の利器
真実の漫画家先生の家のお風呂に出現したルシウスは、高齢のお父さんの入浴を手伝うヘルパーさんと間違われてしまいます。ルシウスは垢すりタオルでお父さんの背中をこすって垢がどんどん出るのに驚きます。ローマではストリジルというへらを使って垢を落としていたのです。日本人にも、以前、韓国式垢すりに驚嘆した思い出が・・・。
ルシウスが動物の腸のような物と不思議に思ったホース付きのシャワー。かつてはシャワーと言えばハスの花托のような形のシャワーヘッドが壁や水道管から出ていただけでした。『サイコ』(1960年/監督:アルフレッド・ヒッチコック)で、ジャネット・リーがシャワーヘッドの下で体の向きを変えていますよね。
欧米式のお風呂にはバスタブの外に体を洗う場所がないのがつくづく不便だと思います。お風呂の目の前に便器があって、ほかの人の入浴中、同居人はトイレを我慢しているのでしょうか。
湯が冷めるのを防ぐお風呂の蓋も、欧米には浴槽にためたお湯を使い回しするという習慣がないから無用の物。昭和の我が家のお風呂の蓋は木製で、適度な温度と湿度のためかときどきキノコが生えてきましたよ。
シャンプーハットは使ったことがありませんが、お風呂ブーツは家の中で靴を履いている欧米では不要でしょう。風呂用の腰掛椅子にはルシウスは特に注目していませんが、あれも浴槽の外で体を洗うからこそ必要なもの。日本に旅行に来た外国の方々には小さすぎるかもしれませんが、きっと便利だと思っていただけていると思います。
◆描かれた銭湯
ルシウスが初めに日本に出現した場所は銭湯。
1970年代に向田邦子らが脚本を務め、久世光彦が演出したテレビドラマ『時間ですよ』は、銭湯を舞台とした大人気のホームドラマ。当時悠木千帆という芸名だった樹木希林や堺正章の定番のギャグとともに挿入されたのが、女湯の脱衣場に間違えたふりをして男性が入って来るシーン。そこでは駆け出しの女優(?)たちが必ずキャーッと言って胸を隠したりする、という演出がありました。うちの父など「風呂屋だったらばあさんや小さい子もいるはずなのに若い女ばかりでおかしい」などとその演出を批判していたのですが、その場面で鼻の下を伸ばしているのを見透かされないようごまかしていたのでしょう。
一方『テルマエ・ロマエ』の平たい顔族の風呂にいるのはじいさんばかり。明るいうちから銭湯や温泉でのんびりしているのは一定以上の高齢者というわけですね。
高度経済成長期前、東京など都市部では風呂のない家が多かったはずです。『東京物語』(1953年/監督:小津安二郎)では長女の夫が尾道から来た義父母を銭湯に連れて行きます。民間アパートではまず風呂はなく、銭湯に通うのが普通でした。
内風呂があっても毎日お風呂に入るわけではありませんでした。同じく小津監督の『秋刀魚の味』(1962年)では笠智衆の父に対し「今日は(お風呂を)沸かさなかった」と言う岩下志麻演じる娘のセリフが出てきます。
豊田四郎監督の『雁』(1953年)では、妾(高峰秀子)が旦那が遊びに来る昼間に女中を銭湯に行かせます。帰って来た女中は、昼間っからお風呂に行くのはお妾さんの女中だけだと言われた、と話します。成瀬巳喜男監督の『めし』(1951年)では、昼に風呂屋に行く女性を見て浦辺粂子が「二号はんて、ほんまに結構なご身分だんなぁ」と悪口を言います。
・・・銭湯に行くことはプライバシーをも裸にしてしまう!
◆秘湯名湯
映画の中では地名が明かされていませんが、ルシウスが弓の腕前を遊戯場で披露する、温泉街の階段が有名な伊香保温泉。ダラダラと腐れ縁の関係を続ける高峰秀子と森雅之の演じる二人が混浴の共同風呂に浸かる成瀬巳喜男の『浮雲』(1955年)も、訳ありの男女という後ろ暗さが画面から湯煙のように立ち上ってきます。
日本のひなびた温泉にいまもある混浴という習慣、温泉という場所が開かれたものであったこと、男女の性が今よりおおらかだったことを物語っていると思います。『テルマエ・ロマエ』では金精様(こんせいさま)という子宝祈願の奇祭の習俗も描かれていて、ルシウスは金精様の顕現かと思われてしまいます。
何度も映画化された川端康成原作の『伊豆の踊子』では、混浴ではありませんが、踊り子が女風呂から裸で主人公に向かって「学生さ~ん」と呼びかけるという踊り子の純真さを表す名場面が。
ちなみに、ローマ時代のテルマエは、もとは混浴だったのが風紀の乱れから男女別に分けられ、奴隷には奴隷用の浴場があったと、原作漫画には描かれています。
と、ここまでかなりの字数を使ってしまいました。野村芳太郎監督の『張込み』(1958年)、清水宏監督の『簪』(かんざし)(1941年)『小原庄助さん』(1949年)・・・まだまだ汲めども尽きぬ日本映画の風呂エピソード。「この映画、風呂が出てます」でも始めようかしら。
『テルマエ・ロマエ』に話を戻しますと、ルシウスは自分は平たい顔族の優れた文明のアイデアを盗用したに過ぎない、平たい顔族は何も見返りを求めず力を合わせて働くと、世界に冠たるローマ人として敗北感をぬぐいきれないのです。このルシウスのクソ真面目な性格が日本の当たり前を笑いに変換します。
ルシウスの真意を最後に汲み取るハドリアヌスはさすが賢帝。舞台で鍛えた発声、立ち居振る舞い、市村正親は別格の貫禄です。
残念なのは、音楽にイタリアのベルディやプッチーニの歌劇のアリアを多用していること。アリアは感情を揺さぶる効果絶大ですが、歌劇ですからストーリーがあり歌詞があり、それに関係なく劇的だからと持ってくるのは抵抗があります。ほかの映画の音楽を内容に関係なく使っているのと同じと思いますが・・・。
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