家族とピクニックに出かけたアンリエットは見知らぬ男性たちから声を掛けられ舟遊びに出かける・・・。
ジャン・ルノワール監督の美しき一本。
製作:1936年
製作国:フランス
日本公開:1977年
監督:ジャン・ルノワール
出演:シルヴィア・バタイユ、ジョルジュ・サン=サーンス、ジャーヌ・マルカン、
ポール・タン 他
レイティング:一般
◆◆ この映画の猫 ◆◆
役:☆☆(脇役級)
おばあちゃんがかわいがる子猫
名前:不明
色柄:キジ白
◆大いなる監督
パリオリンピック・パラリンピックを記念して始めたこのブログのフランス映画強化期間(?)も、今回をもって終了といたします。とは言ってもまたすぐにフランス映画が登場するでしょう。リュミエール兄弟による、スクリーンに投影した映像を大勢の観客に一度に見せるという現在の形の映画の発明以来、やはりフランスは映画に対し先駆者の誇りをもってその芸術的センスを投入・実験し続けていると思います。そして猫の出る映画も多い。
フランスが生んだ名映画監督の一人、今年2024年に生誕130年のジャン・ルノワールは、画家のピエール=オーギュスト・ルノワールの二男です。第一次大戦ではパイロットとして従軍し、足を負傷して治療中にリューマチの父を看病、映画監督を志し、父の絵のモデルの女性と親しくなります。これらのいきさつは映画『ルノワール 陽だまりの裸婦』(2012年/監督:ジル・ブルドス)の中で、ルノワール監督へのオマージュをこめて描かれています。
実は『ピクニック』は未完の映画。上映時間は約40分。けれどもこの結末のない短い物語には、映画が私たちにもたらしてくれる喜びが詰まっています。
19世紀後半のフランス庶民の縮図ともいえる風俗。ジャン・ルノワール監督自身がレストランの料理人の役で出演し、助監督にはジャック・ベッケル、ルキノ・ヴィスコンティ、このときまだ写真家になる前のアンリ=カルティエ・ブレッソン等と、そうそうたるメンバーが集結しています。
なお、2024年9月6日(金)~10月6日(日)まで、東京日仏学院エスパス・イマージュでルノワール監督作品の生誕130周年記念上映・トークイベントが開催されます。『ピクニック』は9月7日(土)、20日(金)に上映予定です。見に行かれる方は、以下の文章はご覧になったあとでお読みくださいね。
◆あらすじ
1860年の夏の日曜日、パリの金物商のデュフール氏は、妻(ジャーヌ・マルカン)と義母、娘のアンリエット(シルヴィア・バタイユ)と、将来アンリエットと結婚し婿養子となる使用人のアナトール(ポール・タン)を連れて、馬車を借りて郊外にピクニックにでかけた。田舎の風景に心洗われた一行は川岸のレストランを見つけ、木の下で昼食をとることにする。
舟で遊びに来てレストランで昼食をとっていた地元の青年アンリ(ジョルジュ・サン=サーンス)とロドルフ(ジャック・ボレル)は庭でブランコに乗るアンリエットに目を付け、ロドルフが彼女をくどくことに決めて接近する。二人はアンリエットと母親に声をかけ、それぞれが乗って来たボートに2組に分かれて川遊びに繰り出す。ロドルフがアンリエットを誘惑するはずだったが、アンリエットはアンリのボートに乗る。ロドルフは母親を乗せ、いちゃいちゃしながら陽気にアンリエットたちを追い越していく。
アンリエットとアンリは森の近くでボートを下り、アンリが個室と呼んでいる茂みに腰を下ろす。アンリエットは体に手を回してきたアンリに初めは抵抗するが、やがて口づけを許し身を任せる。まもなく嵐が訪れる。
数年後、同じ茂みで二人は再会する。そのときアンリエットはすでに結婚し、夫のアナトールがそばにいた・・・。
◆おばあちゃんといっしょ
馬車でピクニックに出たデュフール家ご一行、レストランの庭でデュフール氏の義母、つまりアンリエットのおばあちゃんはキジ白の子猫をみつけます。耳が遠く、認知機能が衰え気味のおばあちゃんは昼食の場所に置いた椅子で、ずっと猫と戯れています。
ところが食後、うつらうつらしていたおばあちゃんの手から子猫が脱走。おばあちゃんは逃げた子猫を「ミミ~」あるいは「ミンミ~」と呼んで追いかけます。見ず知らずの猫への呼びかけ方は日本と似ていますね。子猫の出番はこれっきりですが、おばあちゃんもこれっきり。子猫は遠目にもとてもかわいく見えます。
ルノワール監督のお父さんの絵に「ジュリー・マネの肖像(あるいは猫を抱く子ども)」という名画があります。喉のゴロゴロ鳴る音が聞こえてきそうな、目を細めたキジ白の猫を少女が膝に抱いている絵です。少女は画家のマネの姪。おばあちゃんのかわいがった猫は、一瞬、その猫が絵を抜け出して映画に出て来たのではないかと思うくらいそっくりな表情を見せます。
猫は開始から10分50秒頃から23分5秒頃までの間に断続的に登場します。
◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆
◆奇跡の40分
先ほども言ったように、この映画はおよそ40分の未完の映画。アンリエットが家族とピクニックに出かけ、アンリたちと出会う部分と、のちに結婚したアンリエットがアンリと再会する部分が同じ川岸なので、まとめてロケーション撮影をしたのだと思います。
この映画のデジタルリマスター版公式サイトによると、この映画の完成前にプリントがドイツ軍によって破棄、ところがオリジナルネガが残っていて、アメリカ亡命中のルノワール監督の了承を得て編集が進められ、1946年にパリで公開されたとのことです。
出会いと再会――この二つの部分のみが存在することによって、この映画は詩的な広がりを生み、青春の甘酸っぱい懊悩を掻き立て、魂に迫ってきます。
ルノワール監督の代表作で、複数のカップルが入り乱れ、きわどい恋愛模様を繰り広げる『ゲームの規則』(1939年)や『草の上の昼食』(1959年)などは、見る側の自由な解釈が入る余地のない、隙なく構築されたストーリーです。けれども『ピクニック』には、ただただ余白が広がっています。私たちが登場人物たちの感情や未来をどのように想像するかも自由。
そして川の水、木々のそよぎ、雲、飽きることなく眺めていられる自然の美、それらに視覚をゆだねたときの悠久の幸福感に満たされるのです。
2013年にこの映画がデジタル修復されたことは、多くの人がこの未完の映画の芸術的価値を高く評価していることのなによりの証拠です。
◆解放感
主人公のアンリエットがレストランの庭にあるブランコを漕ぐシーン、印象派の絵画を思わせる白いドレスで、アンリエットは勢いよく立ち漕ぎをします。田舎の自然の中で日常を忘れ、舞い上がるような気持ち。その様子をロドルフとアンリはレストランの窓から観察しています。「座ってくれないかな」とロドルフ。こちらに向かってブランコに乗っているアンリエットが座って漕げば、スカートの中が見えるかもと思っているのです。二人の若者は「子どもができたらどうする」というところにまで踏み込んだ話をしながら彼女を口説こうとしています。
アンリエットを演じたシルヴィア・バタイユは、この映画のとき28歳。舞台となった1860年頃のヨーロッパでは、女性は10代後半で結婚する人が多かったはずです。この映画の原作(『野あそび』)を書いたモーパッサンの『女の一生』では、主人公の女性は17歳で結婚しています。使用人のアナトールとの結婚が予定されているアンリエットもおそらくそのくらいの年齢でしょう。アンリエットは子どものようにブランコを漕いで男たちの性的な視線を吸い寄せているのに気づかぬ反面、どこかでうずきを感じている年ごろ。シルヴィア・バタイユは美しく魅力にあふれていますが、れっきとした大人の女性です。もう10歳ほど若返らせて、大人と子どもが一つの体に同居しているような女の子を思い浮かべないと、アンリエット像を見誤るのではないかと思います。
男性たちに声を掛けられる前、アンリエットは、母親に自分の衝動を訴えています。田舎へ来て変な気持ち、かすかな快い欲望が湧いてくる、泣きたいような気持ち、若い頃ママもそんな気持ちになった? と。
◆ゆく河の流れは
未来の夫のアナトールにはやや精神遅滞があるのか、アンリエットそっちのけで釣りに夢中です。それを特にどうとも感じていないようなアンリエット。そんな中で誘われたアンリに、アンリエットは恋心を覚えたのでしょうか。
心以上に、はちきれんばかりの若さから来る性衝動にアンリエットは抗し切れなかったのだと思えます。ロドルフが迫ったとしてもロドルフを受け入れたのではないでしょうか。映画の歴史の中で何度も描かれてきた十代の息吹。純情さの近くに隠れている欲望。
明るいお母さんはモヤモヤするアンリエットに、自分は分別を身に着けたと言って、夫にじゃれたり、ロドルフと追いかけっこをしたり、欲望をほどほどに発散して女盛りを満喫しています。
そして、このピクニックにおばあちゃんが加わっていることにもある意味を感じます。若い女性、大人の女性、年老いた女性の三人が人生の諸相を表したり、若い女性と骸骨を一緒に描いたりすることによって「死を想え」というメッセージを発する西洋絵画。この映画はそれに似てはいないでしょうか。
食事をした昼の盛りの木陰、舟遊びに漕ぎ出した穏やかな川の流れ、嵐の襲来、絵画のような映像美にも、どこか自然と時という抗えぬものが持つ無常観が漂います。アンリエットがアンリに抱かれ流す涙、そこに幸せへの予感はありません。
◆未完の美
現在見られる40分以外に、ルノワール監督は何を描こうとしていたのでしょうか。モーパッサンの原作は、ほぼこの映画と同じです。映画に描かれていない部分と言えば、アンリがたまたまパリでデュフール氏の金物店を訪れ、アンリエットの母に会う短い場面があるだけです。
それでもなおこの映画が完成していたら、と言うのは、ミロのヴィーナスに腕があったら、と言うのと同じように、芸術的な見地からはあまり意味のないことでしょう。描かれていないからこそ美しい。下世話な三角関係のような話になってしまってほしくない・・・。
ただ、私が残念に思うのは、アンリ役としてもうちょっと若い女性が初対面で好意を持ちそうな役者を選べなかったのか、というところです。あまり女性に好かれるタイプではなさそうだなあ(少なくともわたしの好みでは・・・)、まして十代の女の子の相手にしては・・・と、ここで急に現実的になってしまうのです。それはルノワール監督が、先ほどわたしが言ったように、アンリエットがアンリに恋心を覚えたからではなく、性の衝動によって身を任せた、というところを強調したかったから・・・なのかもしれませんが。
(参考)「野あそび」『モーパッサン短編集Ⅱ』(モーパッサン著/青柳瑞穂訳/2008年/新潮文庫/新潮社)所収
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