この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

手をつなぐ子等(こら)(1948)

知的障害のある男の子が教師の眼差しと温かい級友たちとの出会いで成長していく、戦前の小学校を舞台にした清々しい感動のドラマ。

 

  製作:1948年
  製作国:日本 
  日本公開:1948年
  監督:稲垣浩
  出演:笠智衆、初山たかし、宮田二郎、杉村春子、香川良介、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    いじめられる猫
  名前:不明
  色柄:白黒ブチ(モノクロのため推定)

 

◆手をつなげ

 12月3日から9日の障害者週間にあたり、この作品を取り上げてみました。
 戦前から昭和40年代にかけて、数多くの時代劇作品を作った稲垣浩監督の戦後第一作。今年2024年に生誕120年の笠智衆が主人公を導く教師役で出演しています。舞台は京都。子どもたちが遠足で渡月橋を訪れ、橋の上から河原で行われている時代劇映画のロケを見物するところなど、今のオーバーツーリズムでごった返す風景からは想像もできない穏やかな風情が描かれています。
 撮影は1940年の『宮本武蔵』三部作や、1943年の『無法松の一生』などで稲垣監督と数多くタッグを組み、黒澤明溝口健二作品、このブログで取り上げた映画では『はなれ瞽女おりん』(1977年/監督:篠田正浩)などで知られる名カメラマン宮川一夫。作品の空気は、『無法松の一生』の頃によく似ています。
 知的障害児教育に従事した田村一二(いちじ)の1944年の同名の著書を原作に、映画監督・脚本家の伊丹万作が書いたシナリオを、彼の没後に稲垣監督が映画化したヒューマニズムあふれる作品です。主人公の知的障害のある男の子が級友や先生に見守られ、小学校を卒業するまでが情緒豊かに描かれています。
 この映画は羽仁進監督によって『手をつなぐ子ら』という題で1964年にリメイクされているとのこと。残念ながらこちらは見たことがありません。
 京都市太秦小学校、嵯峨小学校、嵯峨野小学校、第三錦林小学校、和歌山県の御坊小学校が参加応援しています。

◆あらすじ

 昭和12年、中山寛太(かんた/初山たかし)は小学校高学年だったが、知的障害のため学校生活について行けず、入学以来あちこちの学校で邪魔者扱いされ続けていた。洋服の仕立て屋の父(香川良介)が中国に出征すると、母(杉村春子)は店をたたんで引っ越し、新しい小学校へ寛太を受け入れてくれるよう頼みに行く。松村先生(笠智衆)は、寛太を自分のクラスで引き受けることにし、まずは学校が面白いところだと寛太に思ってもらうために、クラスの子どもたちに寛太と友だちになってもらいたいと声をかける。級長の奥村(島村イツマ)はひらがなを教える役目を引き受けるなど、特にやさしく目を配ってくれ、寛太は自分から手を挙げて教科書を音読しようとするまでになる。
 そんなとき、山田金三(宮田二郎)という悪い子が転校してきた。山田金三ことヤマキンは子分を従え、寛太をだましてこき使ったり意地悪をしたりする。見かねた奥村級長はヤマキンと一対一でつかみ合いのケンカをして、なんとかねじ伏せる。ヤマキンが寂しさから悪さをするのを見抜いていた松村先生は、奥村級長に彼をそっとしておくようにと話し、寛太の成長にも、ヤマキンの曲がった心が素直になることにも、その時が来るのを待つ姿勢を貫く。
 ヤマキンは、寛太が松村先生の仕事を手伝ったり、ヤマキンの受け持ち場所の落書きを消したりしているのを知って、自分が恥ずかしくなってくる。とうとう先生やみんなの前で泣いて謝り、子どもたちの心がひとつにつながる。
 やがて学校対抗の相撲大会が開かれ、寛太も出場するのだが・・・。

◆悪ガキ

 ヤマキンは子どものレベルを超えたようなワル。松村先生が転校生として皆に紹介するときのふてくされた目つきはまるで反社のタマゴ。いがぐり頭にケガをしたときの傷跡がハゲになって残っています(昔はよくこういう子がいました)。
 ヤマキンの悪行エピソードの最初が動物いじめ。パチンコ玉を犬に、ニワトリに、そして猫に浴びせかけます。被害者の白黒猫は屋根の上で隠れる場所がないかと右往左往。最後にアヒルが物陰からそ~っと顔をのぞかせてまた引っ込むところが笑えます。
 やがてそのいじめの矛先は寛太に。草の生えた土手でそり遊びをするときに、滑りをよくするために塗るろうそくを持ってこなかった寛太は、下まで降りたそりをてっぺんまで10回運べば乗せてもらえるという約束だったのに、数を数えるのがおぼつかないのにつけこんだヤマキンに十数回もやらされてしまうのです。
 それにしても昔の子どもの遊びは荒っぽい。戦時体制で男の子はより勇ましさを求められていく時代。安全性のあやしい手づくりのそりで土手で遊んだりして怪我でもしたら、いまなら大騒ぎでしょう。
 そり遊びをしているのが男の子たちだけなのはうなずけますが、寛太たちの尋常小学校のクラスも男の子たちばかりです。この頃、小学校は1、2年まで男女共学、3年生以上は男女別々のクラスに分けられ、カリキュラムも異なっていたのだそうです。それが改められたのは第二次大戦後。そして、寛太のような知的障害児に対する施設が法律に定められたのも戦後になってからです。
 猫がヤマキンにいじめられるのは28分45秒頃です。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆検閲の時代

 このブログでは、終戦から連合国軍の占領が解かれ日本が主権を回復する1952年4月28日までの間に作られた映画として、『肖像』(1948年/監督:木下恵介)や『西鶴一代女』(1952年/監督:溝口健二)などを取り上げ、映画に対してGHQから検閲が行われたことに触れてきました。また、それ以前の1939年からは映画法によって国が戦時体制にふさわしい映画かどうかの検閲を行ってきたので、日本では終戦を挟み自由な表現で映画が作れない時代が十数年続いていたことになります。
 稲垣浩監督は『手をつなぐ子等』と同じ伊丹万作のシナリオの、1943年の『無法松の一生』で、主人公の人力車夫の松五郎が帝国軍人の未亡人に思慕の念を寄せるという表現などが問題となって該当部分を削除され、戦後は封建的な内容だと解釈されて、平家物語を題材とした「青葉の笛」を歌う場面などがGHQによって削除されるという二重の検閲を経験することになります(注1)。
 GHQによって時代劇そのものが禁止されたわけではないものの、封建的忠誠心や仇討、自殺や暴力の是認などを描くことは禁止され、また、戦前戦中に国寄りの作品を作っていた映画人がビクビクしていた状況下で、時代劇で名を馳せた稲垣監督が着手した『手をつなぐ子等』。検閲に泣いた監督にとって、おそらく誰からも何も言わせない、ということを強く意識した作品だったに違いありません。

◆すべての子に等しく

 誰からも文句を言わせないためか、この映画には民主主義啓蒙的な演出がところどころに顔を出し、そこには時代の要請を埋め込んだと見えるぎこちなさが感じられます。
 稲垣監督自身の意図ではないかもしれませんが、この作品を映画化するにあたって大きな目的とされたのは、この映画の前年の昭和22(1947)年12月に公布・施行された児童福祉法の理念の浸透だったのではないでしょうか。戦前の教育勅語にあるような、子どもは有為な臣民となるよう努め、有事には国のために一身を捧げなさい、という姿勢から、すべての児童の育成や福祉に対し、保護者、国、地方など周囲のすべてが責任を負うという姿勢が法律に明記されたのです。また、この法律の中に、知的障害児に対する施設の設置が規定されました(注2)。
 この映画の初めの方で、寛太が授業中に遊んでいて先生から机ごと廊下に出されてしまうところが出てきます。それをうわさで聞いた母が父に話すと、父がそっと授業中の学校を覗きに行きます(洋服屋さんなのに足袋をはいているところが面白い)。すると噂通り、寛太は廊下にペタンと座って何やらゴニョゴニョ遊んでいます。松村先生に出会うまで、ほかの学校でこういう扱いを受けていた寛太。寛太のような子どもには適切な指導がなされるべきだと、この場面は訴えています。
 一方で、松村先生は、ヤマキンが悪さをする理由には寂しさがあるに違いないと考え、ひねくれた彼の心が、人を疑うことのない寛太の純粋さや、級友の寛太を守る暖かさに触れて溶け出すのを待っています。ヤマキンの個人的な背景は描かれていませんが、これも障害のある子どもだけでなく、すべての子どもに等しく目を向け社会全体で育てるという理念を反映していると言えるのではないでしょうか。

◆平等ということ

 戦前を舞台としているにしては、教師の子どもに対する関わり方は進歩的に描かれていると思います。笠智衆の演じる教師を松村先生と書いてきましたが、映画では「訓導」となっています。当時の正規教員を「訓導」と呼んだそうですが、児童に対し上に立つ絶対的な存在であるというニュアンスが感じられる名称です。授業についていけない寛太を廊下に出ろと命令したように、言いつけを守れない子を廊下に立たせるなどの教師による懲罰が戦前は当たり前のように行われていたと聞きます。
 松村先生や、松村先生を応援する教師は、子どもたちが自発的に良いと思った行動を取るように見守っています。それに対し教頭が「指導性をもって命令的にやらせなければ」と発言し、松村先生を戸惑わせる場面があります。ここは教師が絶対者として一方的に子どもたちを従わせる古い姿勢を批判し、子どもの考えを尊重する姿勢を示した部分です。上からの命令に盲目的に服従させられてきた日本人は、松村先生の姿に新しい時代を感じたのではないでしょうか。
 この映画のシナリオが書かれたのは戦争中の1944年ですから、そもそもは田村一二の障害児教育の実践に感動した伊丹万作が彼らしい純粋なヒューマニズムの視点からシナリオ化したもので、民主主義とリンクするものではなかったはずですが、戦後、映画化する過程で時流に即した意味が付加されたのではないかと思います。

◆笑顔の子どもたち

 そうした理屈抜きでこの映画を生き生きと躍動感あふれるものにしているのは、子どもたちの描写です。
 先ほどのそり遊びを始め、雪合戦、シジミ獲り、寛太得意の泥だんご作り、喧嘩。インクで真っ黒になりながら嬉々として寛太が手伝う謄写版(とうしゃばん)印刷(今の子どもは知らないでしょうね)。そしてクライマックスは学校対抗の相撲大会です。勝とうという気のない寛太の防御的奇襲攻撃で相手は総崩れ・・・。
 そんな中でこれはちょっと、と思われるのが、ヤマキンが寛太を首だけ出して土に埋めてしまうところです。もともと寛太は穴掘りが大好きでよく一人で穴を掘って遊んでいたのですが、それを見たヤマキンが「30分くらい土に埋まっていると足が金色になる」とだまして寛太を穴に入らせて埋めてしまうのです。寛太は首だけ地面に出してニコニコしているのですが、今だったらたとえ映画でも行き過ぎだ、人権侵害だ、子どもが真似したらどうすると、許されないと思います。当時の検閲ではどう見られたのでしょう。

 寛太役の屈託のない笑顔の初山たかしと、ヤマキンこと山田金三役の宮田二郎は、俳優にはならなかったようですが、1948年10月公開の伊藤大輔監督の名作『王将』で、再び「寛ちゃん」「金ちゃん」という役名で共演しています。セリフはありませんが、ラストに主人公の将棋の名人・坂田三吉の暮らした通天閣の見える長屋の前で縁台将棋をやっている子どもの役です。二人の傍らをラーメンの屋台が通ると、邪魔かな、という表情をして二人が縁台の位置を逆に入れ替えます。最初は寛ちゃんの顔がこちらを向き、金ちゃんが背中を向けていたのですが、これにより金ちゃんの顔も見えるようになります。伊藤大輔監督の優しい気遣いが感じられるショットです。

 

(注1)故白井佳夫師匠は『無法松の一生』の検閲によって削除された部分をシナリオの朗読などによって復元するパフォーマンスを長年行っていました。
参考:「二重の検閲を受けた受難の名作『無法松の一生』」『黒白映像 日本映画礼讃』(白井佳夫文藝春秋/1996年)

(注2)以下のWebライター木下氏ブログ記事を参照

www.nhk.or.jp

◆関連する過去記事

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伊藤大輔監督の生前の姿が見られます↓

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