この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

はなれ瞽女おりん

瞽女(ごぜ)と呼ばれる盲目の女芸人の集団からはぐれ、女の血に導かれるままおりんがたどり着いた運命は・・・。


  製作:1977年
  製作国:日本
  日本公開:1977年
  監督:篠田正浩
  出演:岩下志麻原田芳雄、安部徹、奈良岡朋子樹木希林、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    瞽女屋敷の猫
  名前:なし
  色柄:黒

日本海

 横浜で生まれ育った私には、海と言えば東京湾であり、遠足や遊びで訪ねた三浦半島相模湾の穏やかな海でした。初めて日本海側を訪れたとき、海の黒さと波の猛々しさに息を呑みました。それは命をはぐくむ母なる海ではなく、人を死の世界にさらう荒涼とした海に見えました。
 おりんはその日本海の海岸線から長野の善光寺まで、目の見えない身でひたすら歩いて旅をします。
 盲目の女性たちが三味線や歌を習い覚え、集団で巡業して門付けとして芸を披露した瞽女。ことに雪に閉ざされた地域や辺鄙な寒村で、瞽女はその芸と一種の宗教的な力を帯びた存在として歓迎されたといいます。瞽女が最後に残ったのは新潟の長岡と、この映画の瞽女屋敷があった高田で、高田には現在「瞽女ミュージアム高田」が設立され、高田瞽女の文化の保存と発信が行われているということです。

◆あらすじ

 明治の終わり頃、若狭の小浜でおりんという6歳の盲目の娘が母に捨てられ、越後の高田の瞽女屋敷にやられた。瞽女屋敷ではおりんより年かさの盲目の娘たちがおかんさま(奈良岡朋子)のもとで日常生活をこなし、三味線や歌などの芸を仕込まれ、集団で門付け芸を披露して生計を立てていた。おりんは芸の覚えがよく、人気があった。
 瞽女の集団には、男と交わってはならないという規律があったが、21歳になったおりん(岩下志麻)は、瞽女仲間と妙音講(芸能の神・弁財天を祀り仲間意識を高める年に一度の行事)のときに泊まった家で忍んできた男に体を許してしまう。禁を犯した者は集団から追放され、一人で生きていかねばならなかった。おりんはおかんさまから叱責され、はなれ瞽女となる。
 おりんは26歳のとき、山の中で無骨な鶴川と名乗る男(原田芳雄)に出会う。鶴川はおりんの旅についてきておりんを付き人のように守り、おりんが門付け芸をしなくて済むよう、兄妹と称して下駄直しの行商を始めるが、おりんには指一本触れようとしなかった。
 柏崎の縁日で露店を出していたとき、土地のヤクザにからまれ、ケンカになって鶴川は警察に連れていかれるが、数日たっても戻ってこない。鶴川を待つおりんを縁日で隣で店を出していた薬売り(安部徹)が襲い、おりんは自分から帯を解いてしまう。
 薬売りがおりんを置いて去ったとき鶴川がやって来て、何があったかを知る。鶴川は逆上してノミを持って薬売りの後を追う。鶴川は殺人容疑をかけられ、おりんと別れ別れになって逃げるが、二人は善光寺で再会する。その夜、鶴川は初めておりんを抱く。だが、鶴川は別の罪でも追われていた・・・。

◆光る瞳

 この映画に登場するのは1匹のしっぽが短く曲がった黒猫。瞽女屋敷で娘たちが仏壇の前で勤行をしているときに、雪の積もった戸外から中に入って後ろを通り過ぎて行ったり、毎晩男と逢瀬を重ねる娘におかんさまが折檻するさまをじっと見ていたり、初めておりんが男に肌を許したときに見えない何かを目で追うような表情を見せたり、おりんが放浪の末、高田の瞽女屋敷におかんさまを訪ねてきたときに、誰もいない屋敷に主のように座って鳴いていたりします。
 ミステリアスな雰囲気を醸し出す者として、黒猫以上の役者はいません。この映画では、ことにその光る瞳が何かを語りかけてきます。目を閉じている盲目の女たち、その傍らで猫は瞳をじっと凝らしています。それは彼女たちがその体をお預けしたという阿弥陀如来の目のようでもあり、女たちを束ねて生きる術を叩きこむおかんさまの目の代わりを務めているかのようにも見えます。「おらたちが地獄を見ないですむよう、阿弥陀様がおらたちの目を見えなくしてくれた」というおかんさまの教え。猫は瞽女一人一人の宿命と地獄をじっと黄金色の瞳で見つめているのです。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆落とされる

 『はなれ瞽女おりん』では、瞽女屋敷に入って2年たつと3年目の祝があり、7年で出世名をもらう名替えがあり、8年目でお姉さんになり、それに3年経つと年季明けで、初めて一人前の瞽女になれるとおりんが語っています。おかんさまは10年かけてやっと一人の瞽女を育て上げるということになります。一人前と言っても独立するのではなく、育った集団に所属し、映画のように前を歩く瞽女の肩に手を置いて列を作って方々を旅して歩き、普段は瞽女屋敷で集団生活を続けることになります。それは、目の見えない身寄りのない女性たちが相互に助け合い自立するために編み出された仕組みです。
 瞽女の由来は「瞽女縁起」に、瞽女の掟と罰は「瞽女式目」にしたためられ、どちらも妙音講のときに僧侶によって読まれたと言います。男と交わってはいけないという規律は瞽女式目には明記されていないとのことですが(注)、メンバーが結婚したり子を持ったりして抜けてしまえばその相互扶助のシステムが維持できないということから生まれたものでしょう。また、いかがわしい女性の集団のように思われてしまえば、芸によって自立するという彼女たちの価値と信用を失ってしまいかねません。
 その規律を守るために、瞽女たちは仏の慈悲にすがって生きている身だと言い聞かせられ、その体を阿弥陀様に預け、自分の自由にすることはできないと戒められています。けれども、死ねば極楽浄土に迎えてくれるという阿弥陀様の遠い将来の約束も、若い血を鎮めることができません。規律を破る娘たちを追放する「落としてやる」という言葉が示す先は地獄。そうしておりんも落とされてしまいます。

◆旅路の果て

 はなれ瞽女となったおりんを、色々な男が手引きと称して体目当てで道案内をします。おりんもそれを承知で男を受け入れ、代わりに銭をもらいますが、初めておりんが心から愛を感じた鶴川という男はおりんが求めてもおりんを抱こうとはしません。皮肉なことに禁を犯しけがれた存在であるおりんを鶴川は「仏様のようじゃ」と崇めます。おりんの葛藤は愛する鶴川と結ばれたいということ以上に、燃えさかる肉体の持って行き場がないことにあります。薬売りに抱きすくめられ、おりんは欲望を開放してしまいます。鶴川はそんなおりん自身よりも自分にとって聖なるものであるおりんを薬売りが汚したことが我慢ならなかったのです。
 鶴川が逮捕され、再びはなれ瞽女となったおりんが高田の瞽女屋敷を訪ねると、おかんさまは既に亡くなっていました。寄る辺ないおりんは故郷を目指しますが・・・。

 映画のラストについては、私はあまりに直接的な表現にややたじろぎました。ここまで描かなくても誰でも想像がつくであろうことを、わかりすぎるくらいわかりやすく示して見せ、それまで積み上げてきた情趣を壊してしまったのではないかと思います。カラスが飛んでいるだけでも十分だったのではないでしょうか。

◆さだめ

 主演の岩下志麻の夫・篠田正浩監督のシャープな美的感覚、日本映画の数々の名作を手掛けた宮川一夫のカメラ、武満徹の音楽、新潟や福井の厳しく人を寄せ付けない自然、今は失われた瞽女の旅、日本的な情念が極めて洗練された形で繰り広げられたこのフィルムに、ついノスタルジックな感傷をかきたてられそうになりますが、ここに描かれているのは人間を縛る冷酷なさだめ。因果応報と地獄のイメージにいろどられた説法の世界です。
 鶴川もおりんと同じように社会の片隅で虐げられていました。彼が薬売り殺しのほかに犯したもう一つの罪は、貧しい者が支配層によって押し付けられた差別から生まれたものです。彼がおりんを仏様のように大事にし指一本触れなかったのは、おりんを俗のけがれとは無縁な清らかで尊ばれるべき存在と見ることで、おりんと同じ虐げられた存在であるおのれの自尊心を取り戻すことができたからではないでしょうか。皮肉なことにおりんが求めていたものはそれとは逆の現世的な欲でした。この二人が出会ったことも一つのさだめの厳しさと言えるでしょう。

 原作を書いた水上勉は、松本清張と同じように社会派サスペンスで有名ですが、生まれ育った日本海側の風土を舞台としたより文学的な香りの小説で、『雁の寺』(1962年/監督:川島雄三)、『越前竹人形』(1963年/監督:吉村公三郎)、『飢餓海峡』(1965年/監督:内田吐夢)など、多くの映画の原作に選ばれています。水上勉の人生自体が映画や小説以上に波乱万丈で、その世界に仏教の匂いが漂うのは、子どもの頃に口減らしのために禅寺に小僧に出された経験によるものでしょう。
 『はなれ瞽女おりん』は1918年に始まった日本のシベリア出兵のことにも少し触れています。これは学校ではほとんど教えられない日本の不都合な歴史のひとつでしょう。いつの世でも戦争は似たような口実で始まり、ひとたび始まるとなかなか終わらないもの、と重苦しい気持ちになるばかりです。


注:「瞽女縁起」「瞽女式目」についての記述は『瞽女うた』(ジェラルド・グローマ―/岩波書店/2014年)を参考にしました。

 

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