この映画、猫が出てます

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ある映画監督の生涯

日本映画の巨星・溝口健二監督の生涯に迫った新藤兼人監督による渾身のドキュメンタリー。
100歳で没した新藤兼人の映画人生にも触れる。

 

  製作:1975年
  製作国:日本
  日本公開:1975年
  監督:新藤兼人
  出演(インタビュー):依田義賢、成沢昌茂、田中絹代入江たか子増村保造、他
  レイティング:一般

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    インタビューの背景に写っている猫
  名前:不明
  色柄:白


◆その映画監督

 日本映画の三大巨匠と呼ばれる監督と言えば、黒澤明小津安二郎溝口健二とされています。私見ですが、その三人のうち、若い人にいちばんなじみがないのが溝口健二ではないかと思います。女性を縛る古い日本社会の因習、その中で屈辱と忍耐にあえぐ女性の姿を美的に昇華させた作品群は、他に類を見ない芸術性を誇っています。
 そんな溝口監督に人生を賭けて修行するきっかけとなる苦言を浴びせられ、のち彼の映画に2本のシナリオ(『女性の勝利』(1946年/野田高梧と共同)『わが恋は燃えぬ』(1949年/依田義賢(よだよしかた)と共同)を書いたのが脚本家・映画監督の新藤兼人
 このドキュメンタリーは、彼が60代前半のときに恩人と言える溝口監督の記録を残そうと、関係者の生の証言を集めた大変貴重な史料です。インタビューを受けた39名のうち、私が調べた中で現在も存命が確認できたのは俳優の香川京子若尾文子だけです。溝口監督自身の動く映像は残念ながらありません。
 大正から昭和30年代初め頃までの日本映画の歩みを概括的に知ることができるという意味でも、このドキュメンタリーはぜひ見ておきたいものです。まだ溝口作品を見たことのない方には、以下の「あらすじ」の中で触れる作品を、できれば古い順にいくつか見ていただければと思います。

◆あらすじ

 1956年8月24日、映画監督の溝口健二は満58歳で骨髄性白血病で亡くなった。彼の終焉の地である京都から、彼が生まれた東京・湯島に飛んで、監督の新藤兼人は、彼を知る関係者39人へのインタビューと自身のナレーションを合わせ、彼の映画監督としての姿と私生活をあぶり出し、その生涯に迫っていく。
 1898年生まれの溝口の幼い頃、父が事業に失敗し、生活に困窮したため溝口の姉が芸者になり、華族の妾となって溝口を支えた。
 1920年、溝口は当時の日活向島撮影所に俳優志望で入社、スタッフに回され、1923年に監督デビューするが、関東大震災で撮影所が壊滅すると、日活の京都大将軍撮影所に移って関西の文化を吸収していく。作品は出来不出来の差が激しく、私生活では女性がらみのスキャンダルなどもあった。サイレント時代に人気俳優の入江たか子出演の『瀧の白糸』(1933年)などが評判になるが、1936年に発表した『浪華悲歌(エレジー)』『祇園の姉妹(きょうだい)』、1939年の『残菊物語』、1940年の『浪花女』(現存せず)など、女性を主人公としたリアリズム作品で高い評価を得る。
 戦時中、新藤兼人が建築監督として原寸大の松の廊下をオープンセットに建てた『元禄忠臣蔵 前・後篇』(1941、42年)のほかには見るべき作品がなく、戦後も民主主義化の流れの中でスランプが続く。1952年の田中絹代主演の『西鶴一代女』でようやく復活を遂げ、以後1953年の『雨月物語』、1954年の『山椒大夫』でベネツィア国際映画祭に3年連続で入賞、続く1954年の『近松物語』とともに溝口芸術は頂点を極めるが、初のカラー作品で失敗作と言われる『楊貴妃』(1955年)の撮影時に俳優の入江たか子降板騒ぎを起こす。
 最後の作品、1956年の『赤線地帯』の撮影中から体調不良を訴え、次作の『大阪物語』の準備中に帰らぬ人となった。
 彼がプラトニックな愛を抱き続けたという田中絹代が、溝口に対する思いを赤裸々に語ったインタビューは、このドキュメンタリーのクライマックスである。
 溝口が死の前日に記した乱れた文字のメモが残っている。
「もう新涼だ
 早く撮影所の諸君と
 楽しく仕事がしたい」

◆猫がいます

 『浪華悲歌』以後、溝口健二の脚本の多くを書いた依田義賢や、最後の作品『赤線地帯』のシナリオの成沢昌茂など、溝口健二を語るうえで欠かせないスタッフや俳優ほか、総勢39名に新藤監督が直接インタビューして回ったこの映画には、スターの自宅を訪問した映像も混じっています。
 『雪夫人絵図』(1950年)や『赤線地帯』などに出演した俳優の木暮実千代の自宅テラスでインタビューしたとき、木暮実千代の背後の室内の椅子で白い猫がくつろいでいます。居眠りしながらインタビューに耳を澄ませているようで、時々目を向けたりします。大スターの飼い猫ですし、木暮実千代自身がグラマーでゴージャスなタイプですからペルシャ猫などを想像するかもしれませんが、普通の白い雑種の日本猫のようです。この対比はちょっと意外な気がします。彼女は保護司を務めるなど社会福祉に多大な貢献をしたそうなので、この白猫はそんな彼女がどこかで保護した猫なのかもしれません。

 新藤兼人も猫好き。自宅マンションの庭に居ついたノラ猫との交流を物語風にしたためた『ボケ老人と野良ネコチャー君の対話』という本を1996年に出版しています。挿絵も著者自身。猫をモデルに人間の老後をシナリオ化しようとしていたようです。チャー君は妹のブチ子と一緒に毎朝ネコ缶をもらい、時には近所の猫も連れてきたりします。妻の俳優・乙羽信子も登場、彼女が肝臓がんになって入院し、家に戻って夫婦でお墓を求め、チャー君がおとなになるところで物語は終わります。あとがきには、それからまもなく乙羽信子が亡くなって、チャー君の足がしだいに遠のいたと、少ししんみりとした暮らしの変化が記されています。

 木暮実千代の猫が登場するのは、88分30秒頃からおよそ75秒間です。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆暴君

 溝口健二は、昭和初め頃までインテリは見向きもせず、くだらないとされていた日本映画を芸術の域にまで高めた最大の功労者です。けれども、彼は模範的紳士ではありませんでした。仕事では自分の納得できる表現を求めて周囲に無理難題を要求し、暴言を吐き、私生活ではケチで名誉欲が強く、プロの女性と危険な関係にはまる一方で、愛する女性には少年のように純情だったという、きわめて生臭い人物像をこの映画は伝えています。

 映画は、溝口監督のデスマスクの映像から始まります。監督の映画で何度も美術・美術監督を務めた水谷浩が作ったものです。仏像のようなほほ笑みを浮かべているようにも見える死に顔。今だったらパワハラモラハラの主人公と言われかねない人物とは思えないような穏やかさです。
 新藤監督からインタビューを受けた39人のほとんどは、極端な言い方をすればそんな溝口健二の被害者です。脚本の依田義賢は、撮影現場で俳優がセリフを言ってみて不自然なときは溝口監督から呼び出され、その場でセリフの書き直しを命じられています。俳優は俳優で、前日覚えてきたセリフが急に変わり、スタジオの黒板に書かれている新しいセリフを見て演技する羽目に陥ったりします。演技指導なども具体的に行われず「反射してください」とだけ言われ途方に暮れる俳優も。
 俳優の中で、化け猫映画出演を人前でののしられ、降板の屈辱を味わわされたのは入江たか子。このことは『怪談佐賀屋敷』の記事で記しましたが、溝口監督に抗議した仲間もいます。
 乙羽信子の証言では、スタジオで撮影が始まると監督は一切休憩を取らない、トイレなどどうしているのかと思っていたら尿瓶(しびん)を持ち込んでスタジオの隅で済ませていたといいます。
 『西鶴一代女』のとき、助監督の内川清一郎は、公道でのロケで警察の許可を取って時間制限のある中でセットを組んだら監督は気に入らず、翌日撮り直すと言うので再び徹夜で指示通りセットを組むとまたも直せと言われ、キレて帰ってしまいます。
 そんな中で『楊貴妃』でセカンド助監督についた増村保造は、溝口は中国や忠臣蔵の武士の世界など、自分の理解できない分野ではどうしていいかわからなくなり、俳優やスタッフなどをどうでもいいことで罵倒していたと溝口を辛辣に分析。
 若尾文子は1953年の『祇園囃子』、溝口遺作の『赤線地帯』に出演し、いわゆる「新人類」と呼べるキャラクターを演じています。溝口が至極の日本美を表現する傍らで、増村、若尾に象徴される新世代が登場してくる1950年代。映画が斜陽化し、日本が高度成長で経済一辺倒に変貌していく直前にこの世を去ったことは、溝口健二にとってはある意味幸せだったのではないかと思います。

◆溝口と女性

 もう一つ、彼の人生を語るうえでは女性問題が避けて通れません。溝口監督の描いた、男や社会構造に虐げられた女性像の原型は生活のため芸者になった姉にあると言われています。そんな彼の描く女性像を見ていると、彼は哀れな女性の味方なのか、それとも女性を突き放し、これでもかと責め続けるサディストなのか、わからなくなるときがあります。
 プロの女性と遊ぶことが好きだった溝口監督は、1925年にヤトナ(三味線や踊りなどの芸もできる臨時雇いの仲居。時には体も売った)の女性から背中を切りつけられるというスキャンダルに見舞われます。溝口は、これでなきゃ女は描けないと言ったとか。
 また、のちの大映社長の永田雅一が間に入って元の夫と別れさせ、溝口監督と一緒になった智恵子夫人が、『元禄忠臣蔵』の撮影中に精神に異常をきたしてしまいます。溝口監督は自分が性病にかかっていて、それが夫人に感染し、脳を侵したのではないかと信じていたようです。実際は、溝口監督は検査ではシロだったそうですが、そんな思い込みの陰には女性を遊びの相手とすることへのやましさがあったのではないでしょうか。
 一方、彼の映画芸術のよきパートナーであった俳優の田中絹代にはプラトニックな愛を抱き続けていたそうです。これについても『西鶴一代女』の記事の中で触れていますが、田中絹代は、よくぞこの話をする機会を与えてくれたとばかりに二人の関係を語ります。この映画の中で最も多くの時間を割き、肉薄したインタビューですが、試写のあと新藤監督が田中絹代に声をかけようとしたのにぱっぱと帰ってしまったそうです。素顔の田中絹代が丸出しで出ていて、なんと言っていいのかわからなかったのではないかと、新藤監督はこの映画のDVDのオーディオコメンタリーで話しています。

 精神を病んだ夫人は、このドキュメンタリーが撮影されたときも病院に入ったままでした。溝口はその後、腰を痛めたときに介護に当たった女性と内縁関係となり、最期のとき、その女性が献身的に身の回りの世話をしていたそうです。

◆愛妻物語

 極端な逸話も芸術の神に愛された者の業を伝えるものと言えましょう。溝口の映画に関係者は賞賛を捧げ魂を震わせます。新藤兼人もその一人。1940年に脚本家デビューし、2011年の最後の監督作品『一枚のハガキ』まで、日本映画に70年以上にわたる貢献をした功労者です。その功績により新藤兼人賞という映画賞が設けられています(※)。このブログでも監督作品として『縮図』(1953年)、シナリオ作品では『銀座の女』(1955年)『ハチ公物語』(1987年)『姉妹』(1955年)を取り上げました。
 その新藤兼人溝口健二の接点は『愛怨峡(あいえんきょう)』(1937年)と『元禄忠臣蔵』で新藤が美術に関わったとき。新藤は、完成した映画を見て感服し、溝口に師事します。何か一本書いてみろと言われ、書き下ろしを溝口に提出しますが「これは脚本ではありませんね。ストーリーです」と突き返され、どん底に落ち込みます。そこから一念発起し、世界中の戯曲を読み漁り、一から勉強しなおすのです。この過程は、自身をモデルにし初めて監督した映画『愛妻物語』(1951年)に描かれています。妻は新藤が働いていた新興キネマスクリプターをしていた孝子夫人。収入が乏しく無理を重ねた妻は結核になり、亡くなってしまいます。映画で主人公を演じたのは宇野重吉、溝口監督がモデルの坂口監督は滝沢修。夫人を演じたのは今年2024年に生誕百年の乙羽信子乙羽信子はこのあと1994年に亡くなるまで、新藤兼人が監督するすべての作品に出演します。新藤兼人には孝子夫人のあとに妻がいたのですが、乙羽信子と愛し合い、その後新藤監督の離婚を経て正式に結婚。
 戦後、本当に作りたい映画を作るという意思のもと、インディペンデントの道を選び、社会派作品や実験的作品に挑戦を続け、70年という年月を映画に捧げた新藤監督。背も高くないしイケメンでもありませんが、女性に愛され、情熱的な人生を送っています。私生活でも新藤監督は乙羽信子のことを「乙羽君」と呼び続け、乙羽信子は新藤監督を「センセイ」と呼んでいたそうです。

 2時間半のこの映画に対し、撮影したフィルムは40時間にも及び、映画では伝えきれないことを、新藤兼人は『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(映人社/1975年)『ある映画監督 溝口健二と日本映画』の2冊の本に収めています。また、自身の半生、溝口健二との交流、『愛妻物語』のもとになった頃や戦争体験などを書いた『シナリオ人生』も、戦前戦後の映画界や溝口健二の姿を生き生きと伝える好著です。

 

(参考)
『ボケ老人と野良ネコチャー君の対話』(新藤兼人/新潮社/1996年)
『ある映画監督 溝口健二と日本映画』(新藤兼人岩波新書岩波書店/1976年)
『シナリオ人生』(新藤兼人岩波新書岩波書店/2004年)
溝口健二の人と芸術』(依田義賢/現代教養文庫社会思想社/1996年)

(※)新藤兼人賞・金賞を2019年に受賞した、ドキュメンタリー映画の村上浩康監督作品『東京干潟』をこのブログで紹介しています。またこの9月に村上監督の新作『あなたのおみとり』が公開予定です。

◆関連する過去作品

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eigatoneko.com※ 新藤兼人賞を受賞した村上浩康監督の作品

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