この映画、猫が出てます

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かくも長き不在

戦争中に行方不明になった夫にそっくりなホームレスの男。女は夫だと信じるが、男は記憶を失っていた・・・。

 

  製作:1960年
  製作国:フランス
  日本公開:1964年
  監督:アンリ・コルピ
  出演:アリダ・ヴァリ、ジョルジュ・ウィルソン、ジャック・アルダン、他
  レイティング:一般

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    カフェの近くをうろつく子猫
  名前:不明
  色柄:黒


◆作品の誕生

 一年前、フランスを代表する女性作家マルグリット・デュラスの原作・脚本の『二十四時間の情事ヒロシマ・モナムール)』(1959年/監督:アラン・レネ/以下『二十四時間の情事』と表記)を取り上げましたが、今回の『かくも長き不在』も、フランスであった実話をヒントに、マルグリット・デュラスがジェラール・ジャルロと共同で脚本を書いています(注1)。
 『かくも長き不在』のアンリ・コルピ監督は、『二十四時間の情事』の編集も行っていますが、個人的な心的体験を断片的に散りばめたような『二十四時間の情事』の難解さからは距離を置き、この映画を普遍的な人間ドラマに仕上げています。1961年のカンヌ国際映画祭最高賞パルム・ドールを受賞。
 ただし、マルグリット・デュラスとジェラール・ジャルロは、シナリオのまえがきの中で、アンリ・コルピ監督や、やはりコルピと共に『二十四時間の情事』の編集を行った、共同演出・編集のジャスミーヌ・シャスネーによって、シナリオが加筆されたり、一部が削除されたりしたと、少し不満そうに書いています。シナリオは、映画化で付け加えられた部分はできるだけ尊重しながらも削除したり、反対にシナリオにあって映画では描かれなかった部分を残したりして出版されています(注2)。
 音楽はフランソワ・トリュフォー監督とのコンビで有名な、フランス映画を代表する作曲家ジョルジュ・ドルリュー。ドルリューも『二十四時間の情事』で音楽を担当していて、情景の場面などでこれと類似した前衛的な表現を用いています。対照的に軽快な、タイトルバックとダンスの場面に流れるシャンソン『三つの小さな音符』もドルリューの作曲。歌詞はアンリ・コルピ監督によるものです。

◆あらすじ

 1960年のパリ郊外のピュトー。革命記念日のパレードが行われ、バカンスシーズンに入る頃である。セーヌ川近くの古い教会のそばの庶民的なカフェでは、女主人のテレーズ・ラングロワ(アリダ・ヴァリ)が特別な仲のトラック運転手ピエール(ジャック・アルダン)からバカンスに誘われている。その店の前を通りかかった中年のホームレスの男(ジョルジュ・ウィルソン)にテレーズの眼は釘付けになる。戦争中に行方不明になった夫のアルベールにそっくりなのだ。
 テレーズは従業員の女の子に男を店に連れて来させ、こっそり様子をうかがう。男は自分は記憶喪失だと言い、身分証明書の名前はアルベールではなかった。テレーズが男の後を追うと、男は河畔に小さい小屋を建てて住んでいた。男は、朝、テレーズの店の前を通ってゴミ捨て場で古紙などを拾い集め、午後に小屋に戻ると拾った雑誌などから気に入った写真を切り抜き、箱に収めているのだった。
 テレーズはアルベールの伯母と甥を店に呼び寄せ、男がアルベールかどうか観察してもらう。伯母の見解は否定的だったが、テレーズは耳を貸さなかった。
 テレーズは男を食事に招待する。アルベールが好きだったチーズを出し、男がいつも口ずさんでいるオペラの歌を聴き、ダンスを踊る。そのとき彼の後頭部に大きな傷があることにテレーズは気付く。
 テレーズがホームレスの男をアルベールだと思って接していることは、トラック運転手のピエールや近所の人たちも知っていた。テレーズの店を出た男は、テレーズや近所の人々の「アルベール・ラングロワ!」という背後からの呼びかけに立ちすくむ。そして両手を上げると、逃げるように走り出した・・・。

◆朝の歩道

 テレーズは、セーヌ川岸の小屋に男が住んでいることをつきとめ、そのまま小屋の近くで眠りにつきます。朝、男は目覚めると洗面器で川の水を汲んで顔を洗い、おもむろに小屋の中から一抱えもある木箱を持って出て、箱にかかった麻紐の結び目をほどき始めます。それを見ていたテレーズは、切れば? と言い、男と目を合わせます。男は答えず、少し難儀しながら紐を解きます。
 テレーズと男が顔を合わせ、言葉を交わすのはこのときが初めて。男はテレーズを見ても少しも関心を示しません。木箱の蓋を開け、雑誌から切り取った写真を取り出して眺め、また別の雑誌の写真を首から提げたハサミで切り取り始めます。それは写真のフレームに沿って四角く切り抜くのではなく、人の体なら体、手なら手と、写っているものの輪郭に沿って細かく切り取る作業。それだけにしか関心のない、壊れてしまっている彼の精神。
 男は箱をしまうと、いつものルーティンで、かばんを提げ、テレーズのカフェの前を通ってゴミ捨て場に向かいます。男から少し遅れてテレーズが歩いて行くと、テレーズの店の脇に小さい黒猫がチョロチョロしています。前日テレーズが男を追って出て行ってしまったため、そのまま店で夜を明かした従業員の女の子が朝にした打ち水が、歩道に光っています。店から顔を出した女の子を制止するテレーズ。子猫は男とテレーズが通り過ぎ、反対側から来た自転車に追われるように小走りになったあと、画面から切れます。
 心の動きが止まっているような男、彼の後をついて歩くテレーズの動揺、急におかしな行動をとり始めた主人をいぶかる女の子。黒い子猫が登場するのは41分35秒くらいから42分4秒くらいまでの約30秒間です。無言のロングショットに、三人の鼓動が聞こえてくるかのような張り詰めた空気の中、猫だけがいつも通りの朝を過ごしています。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆歌う男

 『二十四時間の情事』でもテーマとなった、戦争をめぐる愛と記憶の物語です。
 映画は、きしむような男の歌声から始まります。黒い画面は大写しになった男の背中になり、野原を歩く男のロングショットに切り替わります。
 男が歌っている歌はロッシーニのオペラ『セビリアの理髪師』のアリア「夜明けの光」。夜明け前、恋しい女性を誘い出すために女性の部屋の窓の下で歌われるセレナーデです。この歌は、テレーズが男を食事に招待し、二人がジュークボックスを前にオペラの聴衆のようにかしこまってレコードに聴き入る場面で全曲を聴くことができます。
 テレーズは2週間も、毎朝カフェの2階の寝室で、窓の下を通る男の歌声で目を覚ましていました。男が口ずさむこの歌が、テレーズへのセレナーデであるかのように。
 そして男は、同じく『セビリアの理髪師』の中の「陰口はそよ風のように」を歌いながらカフェの前を通って小屋に戻っていきます。カフェの従業員の女の子は、いつも歌いながら店の前を通る男のことを「歌手」と呼んでいます。「陰口はそよ風のように」は、貴族の身分を隠して女性を口説きに町に現れたセレナーデの男の陰口を恋敵が女性の耳に入れ、男を追い払おうとする歌だそうです。ここでもまた『セビリアの理髪師』の歌は、ホームレスの男と重なっています。正体のわからない男が現れ、トラック運転手のピエールの恋の邪魔になる、と・・・。

◆迷い

 テレーズの夫のアルベールは、1944年の6月に逮捕されゲシュタポの手によって強制収容所に送られます。それはナチスに抵抗する英雄的な行為の故で、彼がその後行方不明になってしまったため、戦後、彼に代わってテレーズが勲章を授与されます。
 その話は、カフェにアルベールの伯母と甥を呼び寄せたとき、テレーズがそばにいるホームレスの男に聞こえるように、わざと声高に始めた会話の中で語られます。この男がアルベールなら何かを思い出すかもしれないと、伯母も甥も親類の名前や住んでいた場所などを芝居がかった口調で話します。けれども、男は全く無反応で、テレーズが用意した雑誌を眺めるのみです。
 男の顔、背格好などを見た伯母は、アルベールではない、オペラなどどこで覚えた、とテレーズに話します。けれども、テレーズは伯母の否定的な発言をすべて打ち消します。伯母は、テレーズは恋心ゆえ目が曇っていると言いますが、実のところ、伯母自身もアルベールかそうでないか、確信が持てないのです。そしてテレーズもまた男がアルベールだと言い切ることができません。テレーズはこの男がアルベールだと自分に信じ込ませようとしているようにも見えます。
 伯母が甥と二人きりになったときに言った言葉は、この出来事がはらむ現実的な側面を示しています。
「もしアルベールだったら困ったことね」
確信が持てないのならば、波風を立てずそっとしておいた方がいい、と考えているのです。

◆過去の人

 男が夕食をごちそうになったあと、ダンスを踊っているときにテレーズは男の頭の傷を発見し、甘美な夢が破られたような苦悩の表情を浮かべます。
 戦争中、アルベールがフランスの警察に捕まり、ナチスに引き渡され、強制収容所に送られるという一連の事件の間に拷問によってつけられた傷なのか、記憶を失っている間に何らかの事故や医療的行為によってついた痕なのか、この男がアルベールであるということを裏付ける証拠となるような傷なのか、記憶喪失になった原因はこの傷にあるのか。
 男が狭い部屋を嫌がるところ、警官の姿を見ておびえるところ、近所の人たちに後ろから「アルベール・ラングロワ」と名を呼ばれ手を上げて立ち止まったところなどから、この男はアルベールであり、戦争中の逮捕や強制収容所での拷問によって心を病み、記憶をなくしてしまった、と推定することに矛盾はありません。頭の傷痕がそのどこかに関連したと考えることも。
 けれども、この男がアルベールであると、この映画は明確に言い切ってはいません。
 この男がアルベールだったかどうか。そのことより、男の頭の傷こそが答えを示しています。テレーズは男の傷に手が触れたとき、この男がアルベールであっても、記憶を取り戻す望みはないと悟ったのです。テレーズが味わった絶望。生物学的に同じ人間であっても、今は別の人・・・。
 甘い夢のわずかなかけらを手に、彼女が店を出て行った男の後ろ姿にかけた「アルベール・ラングロワ!」という叫びは、死にゆく者の魂を呼び戻そうとする最後のあがきのようです。
 男はその夜から姿を消してしまいます。

◆存在の証明

 言うまでもなくこの映画は戦争の悲惨さを訴える鋭いメッセージ性を持っています。開始早々、革命記念日の軍の祝賀飛行やパレードが映し出され、戦争とこの物語が関連を持つことが暗示されます。が、我々という存在の不確かさへの不安、アイデンティティとは何か、記憶とは何か、愛とは何か、という戦争以外の問題もこの映画は突き付けてきます。
 自分以外の誰も自分を知らないとき、自分は自分であることをどうやって証明できるのか、自分が自分であるという同一性は過去の記憶の蓄積の中にしかないのか、たとえ科学的に個人が特定できても、この映画のホームレスの男のように記憶が分断されているとき、同じ人と言いうるのだろうか、と。
 そして、テレーズもまた、16年というアルベールの不在の間に変化しています。彼がいないという前提の上に立脚した生活。たとえ、精神が健康なままアルベールがテレーズと再会しても、二人の間に愛は、もとの生活は、復活するのでしょうか。歳月の持つ容赦ない力に打ち勝つ愛は存在するのでしょうか。
 
 このブログで最初に取り上げた映画『第三の男』(1949年/監督:キャロル・リード)の製作から11年、アリダ・ヴァリは、犯罪者に共依存的な愛を捧げ、彼の親友が恋心を覚える女優という、『第三の男』のロマンチックな役柄から、首も太く、がっしりと逞しく、険しい表情が目立つ、生活にどっぷり浸かった中年女性という役柄に変化しています。
 そんな下町のカフェのおかみが、夫らしき男を見かけ、忘れていた愛を燃え上がらせる。男を食事に招待したときの、襟ぐりの開いた柄物のワンピースに表れた彼女の「女」。
 テレーズの空しさを反映したようなバカンスで人気のないピュトーの寂しい風景。情緒に流さないコルピ監督の演出。この映画が提示した問いかけは永遠に色あせることはないでしょう。
 記憶喪失の男を演じたジョルジュ・ウィルソンは、これ以後2010年に亡くなるまで、あまり目立つ役はなかったようです。それもまたこの男を演じた役者の人生として、似合いだったように思えます。

(注1)「マルグリット・デュラスという女性作家」菅野昭正(『かくも長き不在』マルグリット・デュラス、ジェラール・ジャルロ著/阪上脩訳/ちくま文庫筑摩書房/1993年/所収)より
(注2)前掲書「まえがき」より

 

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