この映画、猫が出てます

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二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)

広島で出会ったフランス人の女と日本人の男が、愛の傷跡を戦争の記憶と共に追体験する・・・。


  製作:1959年
  製作国:日本/フランス
  日本公開:1959年
  監督:アラン・レネ
  出演:エマニュエル・リヴァ岡田英次、他
  レイティング:一般

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    ①広島平和記念公園の猫 ②映画ロケの猫 ③地下室の猫
  名前:不明
  色柄:①茶白 ②白 ③黒(モノクロのため推定)


◆フランス流映画

 この映画は、日本とフランスの合作。主な舞台は広島市平和記念公園周辺と中心部の繁華街。回想シーンにフランスのヌヴェールの村が登場します。
 日仏合作ではありますが、セリフはごく一部を除きほとんどすべてフランス語。日本らしさは広島ロケ(1958年8~9月)で収められた風景と音声に感じられるのみで、フランス映画と言っていいと思います。戦後デビューし、社会派映画の出演も多い主役の岡田英次が、吹替ではない流暢なフランス語をしゃべりますが、なんと、彼はフランス語を解さず、セリフを音として発していただけというので、驚いてしまいます(注1)。
 さて、フランス映画の中には、哲学的で難解で、どう立ち向かえばいいのかわからない一群があるのですが、『二十四時間の情事ヒロシマ・モナムール)』もそんな作品の一つ。ロマンチックな恋愛ものを想像させる題名ですが、見始めると忍耐が必要な前衛的作品です。けれども意外に話題になることの多いこの映画、8月6日の広島原爆の日を機に見てみましょう。

◆あらすじ

 終戦から十数年後の夏の広島。平和記念公園の一画にあるホテルの1室で日本人の男(岡田英次)とフランス人の女(エマニュエル・リヴァ)が抱き合っている。女は30歳ちょっと、男は2歳上。
 女は広島に来て、「ヒロシマ」を見たと言う。男は「君はヒロシマを見ていない」と言う。
 二人は朝を迎えた。彼女は平和の映画の撮影のため広島を訪れ、自分の出番の撮影が終わり明日の今頃はフランスに帰ると言う。女は、行きずりの男とこうした関係を持ったことについて、「こんなことはよくあるの?」と聞いた男に「私の道徳は怪しいの」と答える。
 男は女が帰る前にもう一度会いたいと言う。女は怒ったようにそれを拒む。女は撮影用の赤十字の看護師の衣装を着て男と外に出、車で去る。
 撮影を終えた彼女を見つけて今朝別れた男がやって来る。
 広島の街は、原水爆禁止のデモ行進やパレードが行われている。それを見つめる男と女。男は妻が出かけている自宅に彼女を誘い、再び情事にふける。
 女は男と肌を合わせたことで遠い記憶が呼び覚まされたようだ。女には戦争中の18歳だった当時、フランスのヌヴェールで占領中のドイツ兵と愛し合い、駆け落ちしようとした過去があった。
 夜、男と女は別れがたく、川べりのカフェで語り合う。
 彼女がドイツ兵と駆け落ちしようとしたその日、ドイツ兵は撃たれて死に、翌日ヌヴェールはドイツ軍から解放された。
 彼女は敵と情を通じた女として見せしめに丸刈りにされ、親によって地下に幽閉される。彼女は荒れ狂う。20歳のとき落ち着きを取り戻し、パリに逃れ、そのときヒロシマのことを知った。
 初めて愛したドイツ兵の記憶は女には大切であり苦しいものだった。だが、こうしてほかの男と情事を経験することで、愛の記憶が忘却されようとしていることに恐れを抱いている。
 ホテルに一人帰った女は再び男とさっきまでいたカフェに戻る。カフェは閉まっていてその前にぽつんと座る女。「ヒロシマに残ろう」と彼女は考える。男が来て言う。「ヒロシマにいてくれ」・・・。

◆日仏の猫

 この映画で最初に登場する猫は、始まってから12分ほどたった頃の、原爆死没者慰霊碑を背景に平和記念公園を歩く茶白の短尾の若猫です。おそらく公園に住んでいるノラ猫かと思われます。爆心地近くのその地は慰霊碑がぽつんと立ち、猫は阿鼻叫喚の過去など知らぬげです。撮影は夏の晴れた日、上部4分の3ほどを空が占める画面。この大きく取った夏空に今にもあの日の閃光が輝きそうで、無防備に歩いて行く猫に「どこかに隠れて!」と言いたくなってしまいます。
 2匹目は、30分ほど過ぎたとき、看護師の扮装をしている女が木にもたれ目を閉じて休んでいると、その膝に白猫が手をついています。男は彼女を探し当て、口説こうとします。痩せて尾がくねくねと曲がった白猫は人懐こく、撫でても逃げません。この猫の白い姿が彼女の看護師の扮装を、身をくねらせるようなしぐさが昨夜の情事での女の姿態を思わせます。もう一度彼女を抱きたいと思っている男の内心を、猫は表しているかのようです。
 3匹目の猫が登場するのは映画の開始から51分ほど過ぎたあたり。場所はヌヴェール。ドイツ兵と情を交わしたことがばれ、丸刈りで地下室に幽閉された女を、黒猫がのぞくのです。陰気でダークな存在としての黒猫。動物や子どもにじっと見つめられるというのは、後ろめたいものを見すかされているようで居心地の悪いはずですが、彼女は猫に見られるのは嫌ではなかったと言います。閉じ込められた彼女には、人間に責め立てられるよりまだましだったのか・・・。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆心の傷

 映画の始まり、絡み合う人と人の腕の上に、砂か灰のようなものが降り注ぎます。明らかに死の灰を連想させるイメージです。やがてそれはキラキラと輝く粒子に変わり、汗ばんだ肌に変わります。
 男は女に、君はヒロシマで何も見なかった、と言い、女は(被爆者が入院している)病院を見た、平和資料館に4回も行った、様々な展示を見た、などと答えます。それに対し、男はなおも、君は何も知らない、と言い続けます。
 その間、病院や、被爆者や、平和資料館の展示や、原爆を観光資源としたツアー、原爆関連の土産物屋、さらに第五福竜丸事件などの映像が挿入されます。そこには日本の記録映画『広島・長崎における原子爆弾の効果』(1946年)、関川秀雄監督の『ひろしま』(1953年)、亀井文夫監督のドキュメンタリー映画『生きていてよかった』(1956年)の一部も使われているそうですが(注2)、どこまでがアラン・レネのオリジナルか、引用なのかがはっきり示されていません。私は『広島・長崎における原子爆弾の効果』はニュース番組か何かで一部を見ただけですし、『生きていてよかった』は見たことがないので、区別できませんでした。
 日本では1950年代、アメリカの占領が終わったことにより、被爆の実態を描いた、先ほどの『ひろしま』や新藤兼人監督の『原爆の子』(1952年)などの映画が製作され、核の悲劇が繰り返されないよう、時には目をそむけたくなるような描写も用いて、映像作品ならではの訴えが試みられました。『ひろしま』には岡田英次も出演しています。
 けれども『二十四時間の情事』は、そうした核兵器の非人道性や反戦意識を強調する映画とは異なり、主人公の女が、敵のドイツによって占領された田舎の村でドイツ兵と愛し合い、それによって負った心の傷が主要なテーマとなっています。

◆愛の記憶

 この映画の男と女が、どこで知り合い、一夜を共にすることになったかは省略されています。女が、朝、男より先に目を覚まし、男がベッドで眠っている手を見て、女の脳裏にヌヴェールで愛していたドイツ兵の撃たれた手がよみがえります。
 川べりのカフェで、女は、撃たれたドイツ兵にはまだ息があったけれども、死の瞬間には気づかなかった、と男に話します。愛した者との別れの瞬間があいまいだったこと、記憶が忘却されつつあることを、女は嘆きます。目の前の男を「あなた」とドイツ兵に見立て、男も、まるで男の体を媒介に死者が降霊し会話をしているかのごとく、ドイツ兵のつもりになって彼女の話を聞きます。悲嘆の中に溺れていく彼女の目を覚まさせるように男が繰り出す平手打ち。かつての日本映画で、男が女を戒めるためによく使われたこの表現が、突如躍り出たことに驚きます。
 これはメロドラマなのか? カフェと書きましたが、ティールーム「どーむ」というのれんに、提灯が飾り付けられた川べりの店には、そんな美しい記憶に不似合いなカエルの声や、演歌や、地元の酒造メーカーのまぶしいネオン塔の光が飛び込み、おまけにダメ押しの屋台のチャルメラの音まで加わって、日本人としてはちょっと恥ずかしいような気持ちを覚えてしまいます。けれども、女が涙ながらに語る愛の悲劇に水を差すような現実感にあふれた日本の風物が、はからずも、あくまで女は美しい主体で、男が狂言回しに過ぎないこの映画を象徴しているように思えるのです。

マルグリット・デュラス

 『二十四時間の情事』はフランスを代表する女性作家マルグリット・デュラスの原作・脚本。デュラスはいくつもの映画で脚本・監督も務めた人物ですが、1996年に亡くなる前、最後に映画化された1992年の『愛人 ラ・マン』(監督:ジャン・ジャック・アノー)の、自伝的原作が話題になりました。
 ベトナムを舞台にここで生まれ育った15歳のフランス人の娘が華僑の青年の愛人となり、捨てられる『愛人 ラ・マン』。娘が性愛に目覚め、背徳的なしのび逢いを続けるというモチーフは、「私の道徳は怪しいの」と語った『二十四時間の情事』の女のドイツ兵との体験とも共通します。
 原作者の体験をベースとした物語であれば、原作者は自分自身を投影した人物の肩を持ち、その内面描写に最も力を注ぐと思います。そう考えると、『二十四時間の情事』の女以外の登場人物や舞台は、この女が過去の記憶を物語るための装置としての役割を与えられているに過ぎないと思えてきます。
 『二十四時間の情事』は、原爆の物語でも、平和の映画でも、広島で出会った男女の恋物語でもなく、戦争をめぐる女の個人的体験の物語(マルグリット・デュラス自身の過去を反映した)です。
 広島の名をだしにした、フランス人スタッフによるフランスいいとこ取りの映画、などと日本人の私が言うとひがみに聞こえるでしょうか。

◆「ヒロシマ」「ヌヴェール」

 1955年にホロコーストを扱ったドキュメンタリー映画『夜と霧』を作ったアラン・レネ監督は、当初、原爆についてのドキュメンタリー映画を作ろうとしていたそうですが、日本の原爆映画を見て、これよりいいものは作れないと失望、他の理由もあって広島を舞台にした劇映画に切り替え、デュラスに脚本を依頼し、この映画が生まれたそうです(注3)。デュラスがフランスで脚本を書き、女と男の会話を吹き込んだテープを日本にいるアラン・レネ監督に送ったり、手紙などをやり取りしながら撮影した映画だそうですので(注4)、もともと観念的な二人の作風に輪をかけてわかりにくくなるのは必然だったと言えるでしょう。

 戦争がもたらした破局を、広島という都市と女の個人的体験から描く一方、もう一つテーマとなっているのは破局において生き残ってしまった者の罪の意識や記憶の風化です。
 男も女も今は結婚して、幸せな妻であり夫であると言います。人生を一変させるような過去の出来事の上に平凡な日常が積み重なり、やがてその記憶は薄れて行く。けれども広島での男との出会いによって、女はヌヴェールでの体験をフラッシュバックします。そしてその体験の記憶が薄れたこと、広島で出会った男にヌヴェールでの出来事をしゃべったことが、死んだドイツ兵への罪障意識となって彼女を襲います。女にとっては、思い出すことも忘れることも苦しいのです。
 日本人の男は、彼女のトラウマを刺激しドイツ兵の似姿となりました。ラストに女が男を「ヒロシマ」と呼んだこと、男が女を「ヌヴェール」と呼んだことは、ドイツ兵との記憶が、原爆のモニュメントのように永遠に女の心に痛みを伴って刻まれ続けることを示したものでしょうか。

 日本では公開当時からあまり人気がないようですが、北米では論文や書籍が多数発表され、人文学的に注目すべき作品とされているということ(注5)。一方、日本人男性を演じた岡田英次がこの作品をどう捉えたかを知りたいと思いましたが、調べた範囲ではわかりませんでした。
 様々な角度から議論を呼ぶこの作品。この手の映画は好きじゃないという方も、機会がありましたら「そういえば猫美人がなにか言ってたな」と、ご自身の目で見ていただけるとうれしいです。


(注1~3、5)『プロデュースされた〈被爆者〉たち 表象空間におけるヒロシマナガサキ』柴田優呼著/2021年/岩波書店
(注3)柴田優呼は、ドキュメンタリーを断念するにあたり念頭にあった映画は、亀井文夫の『生きていてよかった』だろうと推測しています。ドキュメンタリー製作を検討していた段階では、『ラ・ジュテ』(1962年)のクリス・マルケル監督も参加していたそうです。(前掲書)
(注4)「訳者ノート」工藤庸子/『ヒロシマ・モナムールマルグリット・デュラス著/工藤庸子訳/2014年/河出書房新社/所収

 

◆関連する過去作品

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