この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

モロッコ

灼熱の砂漠を進む軍隊。一人の兵士を愛した芸人の女。マレーネ・ディートリッヒの妖艶な美が輝く不朽の名作。

 

  製作:1930年
  製作国:アメリ
  日本公開:1931年
  監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ
  出演:ゲイリー・クーパーマレーネ・ディートリッヒ、アドルフ・マンジュー、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    楽屋の格子窓の外にいる猫
  名前:なし
  色柄:黒

2023年9月8日(現地時間)の大地震の被害に遭われたモロッコの皆様に、心よりお見舞い申し上げます。


◆字幕スーパー

 少し前の記事で、日本初の本格トーキー映画『マダムと女房』(1931年/監督:五所平之助)をご紹介し、トーキー化が俳優や活動弁士などの仕事を脅かしたというお話をいたしました。トーキー化後、日本映画ならば日本語の音声をそのまま流すことができたわけですが、外国映画はそうとはいかず、活動弁士はここに活路を見出したかと思いきや、現れたのが字幕スーパー。
 『モロッコ』は、日本での字幕スーパーによる外国トーキー映画第1号。日本公開は『マダムと女房』と同じ1931年ですから、1927年のアメリカでの本格トーキー出現をきっかけに、弁士を排し、俳優のセリフを直接伝える準備が音声・字幕の両面から進んでいたのですね。弁士と映画会社は、Win-Winの関係ではなかったということでしょう。
 欧米などでは外国映画は自国の言語に吹き替えて公開されるのが一般的だそうですが、日本では字幕スーパーが主流ですね。いつか映画の中のジョークを字幕より先に聞き取って笑いたい、という夢をもって外国語を学ぶ人もいらっしゃいます。
 いまの字幕スーパーはきれいな活字で表示されますが、昔は薄黄色に光る、ガリ版印刷のようなカクカクした文字で読みにくかったなぁ・・・。字数を減らしたいためか「かわいそうに」というセリフが「可哀想に」などと漢字で書かれていたり、画数が多いと字がつぶれてしまうので、それっぽく似せた漢字にされていたりして、子どもにはハードルが高かったものです。
 いまは画面の下の方に横書きで出ることが多いですが、そうすると人間より低い位置にいることが多い猫の姿が、時々字幕で隠れることがあるのが残念です。

◆あらすじ

 フランスの植民地支配に抵抗するモロッコ人の武力闘争が続く中、外人部隊の傭兵トム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)は、駐屯地モガドールでしばしの休暇を楽しみにしていた。キザな色男の彼の目当ては女。
 その頃、港に一隻の客船が着いた。目に物憂げな色をたたえた美貌の乗客の女(マレーネ・ディートリッヒ)に、初老のフランス人の大富豪ラ・ベシエール(アドルフ・マンジュー)が目を留める。ベシエールは女に、何か困ったことがあったら自分にと名刺を渡すが、女は細かくちぎって捨ててしまう。
 夜、トムもベシエールもキャバレーに出かけ、初お目見えのシルクハットをかぶった男装のアミー・ジョリーという女性歌手に心を奪われる。それはベシエールが船で出会った女だった。トムは彼女から花を投げてもらって有頂天。彼女が客席で売り歩くリンゴを買ったとき、大富豪のベシエールは釣りはいらないと高額の紙幣を渡し、トムは連れの兵士から金を借りて小銭を支払う。そんなトムの手に、アミーはお釣りのふりをして部屋の鍵を握らせる。
 トムがわざわざ部屋を訪ねたのにアミーは素っ気ない。がっかりしてトムが退散すると、かつてトムと関係があり、いまはトムの上官の妻に収まっている女が、トムがアミーのところに忍んで行ったのに嫉妬し、人を使ってトムを殺そうとする。トムは襲ってきた男をたたきのめすが、その事件がもとで前線に送られることになる。
 アミーは本心ではトムがいとおしく、お別れを言いに来た彼を舞台がはねるまで楽屋で待たせていたが、その間にトムはベシエールがアミーに贈った高価な宝石のブレスレットを見て、アミーをあきらめ、姿を消す。
 トムが前線に発ったあと、アミーはベシエールの求婚を受け入れ婚約披露パーティーに臨むが、前線から戻ったトムの部隊の行進曲を耳にして、矢も楯もたまらず外に飛び出してしまう。
 トムは負傷してまだ前線の病院にいると聞いたアミーは、ベシエールの車でトムを探しに行くが・・・。

◆元祖猫美人

 1901年にドイツのベルリンで生まれたマレーネ・ディートリッヒは、1930年にドイツにおいてこの映画と同じジョセフ・フォン・スタンバーグ監督による『嘆きの天使』で脚光を浴び、直後にスタンバーグ監督の誘いを受けて二人で渡米します。『モロッコ』はハリウッドデビュー作。彼女の英語はまだ流暢とは言えず、字幕なしでも理解できそうです。
 『嘆きの天使』は長い間テレビでもやりませんし、若い方で見たことがある人は少ないかもしれませんね。ディートリッヒの役どころは『モロッコ』と同じようにキャバレーの女芸人。男装ではありませんが、舞台で下着が丸見えの衣装を着てシルクハットをかぶり、椅子に座って歌いながら見事な脚線美で男性を悩殺。前のめりになったときバランスをとるために膝を開き気味にした脚を後ろに上げる、という演出は『モロッコ』のリンゴ売りの場面でも見られますね。『嘆きの天使』では、その女芸人にギムナジウムの謹厳な教授が魂を奪われ、破滅してしまいます。
 『嘆きの天使』でも『モロッコ』でも、ディートリッヒの演じる女芸人はクールです。ツンとした彼女が微笑んだり見つめたりすると、男はメロメロになって深みにはまっていくのです。
 あんたなんか知らないわ、というような態度、自分がきれいとわかっているポーズ、射すくめるような目つき、彼女ほど猫を思わせる女性はいません。生きていれば猫美人の称号は彼女に差し上げてもいいくらいですが・・・。

 さて、『モロッコ』の猫は黒猫。彼女の楽屋の窓の格子の外で、部屋に入りたそうな、そうでもなさそうな風情で、ものの数秒ですが登場します。室内ではアミー・ジョリーが前線に行ったトム恋しさに飲んだくれてステージ放棄。始まってから61分以上過ぎたあたりです。
 スタンバーグ監督は、よく猫をディートリッヒの映画に登場させています。やはり彼女と猫との親和性を感じていたのでしょう。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆アミーとローラ

 一人の女性が金や身分のある男と貧しい男から同時に愛され、真実の愛を選ぶ、という昔から繰り返し描かれてきた物語。外人部隊のトムと芸人のアミーは訳ありの過去のため、いまこんな仕事についているようですが、どこの国の人でどこから来たのか、などの具体的な背景はあいまいです。逆にそれが「むかしむかしあるところに・・・」という、場所や時代を超えた普遍性のある物語として、眩惑するような空気を作り出しているようにも思います。
 マレーネ・ディートリッヒという強烈な個性がこの映画を背負っていることは間違いありませんが、同じ酒場の歌い手でありながら、『嘆きの天使』の主人公ローラ・ローラに比べるとアミー・ジョリーは純粋です。
 ローラ・ローラは、女性に免疫のない老教授が、彼女目当てでキャバレーに通い詰めていたギムナジウムの生徒たちをとっちめるため潜入したのをきっかけに、確信犯的に彼に媚を売り、結婚します。教授が学校をクビになり、数年後、芸人一座の道化としてかつての教え子の前で舞台に立つのを、情人のキスを浴びながら見ているローラ。典型的なファム・ファタール(男を破滅させる宿命の女)です。
 一方『モロッコ』のアミー・ジョリーは、部屋の鍵を渡してトムを誘っておきながら、別の芸人がこの部屋を使っていたときにトムがしばしばここに通っていたことを知ると、「女を見下している」とかたくなになってしまいます。そのくせ、色事を楽しむつもりで来たトムが期待外れで部屋を出て行くと、あわてて後を追います。
 大富豪ベシエールに対しても、最初に名刺を破り捨てはしたものの、それ以上失礼な態度は取りません。ベシエールは勝手に彼女に熱を上げていきます。衣装の露出度もポーズも品の悪さも、アミーは『嘆きの天使』のローラよりずっと控え目です。

◆理想の女性

 ローラとアミーを同じような性格にしてしまえば二番煎じで飽きられるということもありますが、『モロッコ』は当時のアメリカが求めるものを忠実に反映していたのではないでしょうか。
 以前ご紹介した『チャップリンの黄金狂時代』(1925年/監督:チャールズ・チャップリン)では、ジョージアというダンスホールの女が出てきます。チャップリンの演じる貧乏な探検家が彼女を好きになり、初めは彼を馬鹿にしていたジョージアも彼の一途な愛に心を動かされ、別れ別れになったあと再会し結ばれます。そのとき探検家は大金持ちになっていたのですが、記者の取材に応えて貧乏時代の身なりで写真を撮られていて、それを知らずにジョージアは相も変わらぬみすぼらしい姿の彼を見つけ、狂喜するのです。
 女性の真実の愛、これもまた「むかしむかしあるところに・・・」で繰り返されるパターンではありますが、頽廃的な魅力と言われたマレーネ・ディートリッヒが、アメリカで受け入れられるには、『嘆きの天使』のローラのままでは難しかったのではないでしょうか。
 どんな女性も内面は聖女のようで、たった一人の男に真実の愛を捧げるという理想がアメリカ社会の前提としてあり、それが究極の形で表現されたのが『モロッコ』の有名なラストだと思います。そしてそれは、金も地位も名誉もない男でもすばらしい女性が愛してくれる(はず)、という圧倒的多数の同じ立場の男性の願望を描いてもいます。

 『モロッコ』のアミー・ジョリーからすれば、トムは好みではあるけれど行きずりの男で、金もない女たらし。しかも兵士で明日には死んでしまうかもしれない。その場限りのお相手として「生きていたらどこかでまた会いましょうね」などとお愛想を言って別れるのが現実的ではないでしょうか。
 かと言って大富豪のラ・ベシエールには男を感じない。それなら自分は好きな歌を歌って流れ者の芸人で行くわという、恋や結婚以上に自分らしい人生を追求する女性が映画に描かれるのはまだ何十年か先です。あとで述べますが、ディートリッヒはそういう先駆的な女性であることを自身の生涯で証明しています。

◆熱砂のロマン

 けれども、あまり現実的な目で見ると『モロッコ』は色あせてしまいます。運命的な恋のロマンチシズムとエキゾチシズム、「むかしむかしあるところに・・・」の世界に没入して見る方が幸せです。
 まだ十代の頃、初めてこの映画を見たとき、ハイヒールを脱ぎ捨てて砂漠を歩いて行くアミーの姿に感動を覚えました。けれども何十年も時を隔ててその場面を見たとき、砂漠の熱い砂の上をはだしで歩けるわけがない、という現実的な意識が鑑賞を妨げました。なんと、フランスではこの映画の公開時に、同じ理由でこの場面がカットされてしまったそうです(注1)。おそらくここが私を含め多くの人の心を揺さぶった最もドラマチックなシーンだと思いますが、現地を知っている人が多かったのであろうフランスでは荒唐無稽にすぎなかったのですね。現実とはかくも味気ない・・・。

 ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督といい仲だったというディートリッヒは、彼と別れたあと、アメリカに来たフランスの名優ジャン・ギャバンと恋仲になり、やがて破局しますが、ドイツで無名の俳優時代に結婚した夫とは離婚せず、それらの恋の悩みをずっと相談していたといいます(夫にもマレーネ公認の女性がいました)。頽廃芸術を排除したナチ政権が頽廃美と言われた彼女をプロパガンダ目的でドイツに帰国させようとして拒絶されるなど、興味深いエピソードが山とある彼女。映画でピークを過ぎたあと、歌手として第二次大戦中に兵士の慰問で覚えた「リリー・マルレーン」を、後年リタイアした彼らの前で歌い、喝采を浴びます。
 ゲイリー・クーパーは『モロッコ』で一躍有名になったそうですが、彼の映画で私が初めて見たのは『真昼の決闘』(1952年/監督:フレッド・ジンネマン)、次に見たのは『昼下りの情事』(1957年/監督:ビリー・ワイルダー)と、いずれも彼が50代に入ってから。その後見た『モロッコ』の彼とシワの入った50代の彼が結び付かず、いまだにじっと目を凝らしても同一人物と思えません・・・。

 

(注)DVD『嘆きの天使』((株)アイ・ヴィー・シー)解説「淀川長治ジョセフ・フォン・スタンバーグ作品評」より

参考:「永遠のヒロイン その愛と素顔『お母さん わたしを許せますか~マレーネ・ディートリッヒ~』」NHK衛星ハイビジョン・BSプレミアム 2010年12月4日放送

 

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