この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

胡同のひまわり(フートンのひまわり)

息子を画家に育てるために、父は息子が絵以外のことをする自由を許さなかった。30年以上にわたる父子の愛憎の物語。


  製作:2005年
  製作国:中国
  日本公開:2006年
  監督:チャン・ヤン
  出演:ソン・ハイイン、ジョアン・チェン、リウ・ツーフォン、チャン・ハン、
     ガオ・グー、ワン・ハイディ、他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    主人公の家の子猫
  名前:ミンミン
  色柄:三毛
  その他の猫:解体される胡同に住み着くノラ猫親子(長毛のキジ母猫と、黒白ブ
        チ、黒っぽい子猫の2匹)


◆胡同とは

 胡同とは、北京の街の大通りから横に入った細い路地のことだそうです。路地を形成する塀は、四合院という、ロの字型の土地の四辺に建物を建て、中庭がある住まいの塀で、昔は家族で四合院をそっくり所有などしたそうですが、この映画では主人公一家と、その同僚たちの家族が共同住宅として住んでいるようです。俯瞰でこの四合院をとらえた映像を見ると、単純なロの字型ではなく複雑に入り組んだ形になっていることがわかります。トイレは外にあり共同で、主人公がそこで友人と家出の相談をしたりします。チャン・ヤン監督も胡同のこうした建物で育ったということです。
 2008年の北京オリンピックを機にこうした建物の多くが解体され、胡同は姿を変えたと言います。この映画は文化大革命期から改革開放路線により経済的に発展を遂げた中国の30年以上にわたる社会の変化を背景に、親子の対立を描いています。

◆あらすじ

 1967年、北京の胡同で生まれた男の子は、中庭に咲いていたひまわり(向日葵)にちなんで、向陽(シアンヤン)と名付けられる。
 1976年、腕白な9歳の向陽(チャン・ファン)は、胡同を歩いてきた男性の額にパチンコ玉を命中させる。その男性は向陽が顔を知らない父親の庚年(ゴンニエン/スン・ハイイン)だった。父は文化大革命による6年もの農村部での強制労働から帰ってきたのだ。母の秀清(シウチン/ジョアン・チェン)と二人で暮らしてきた向陽は、父(パー)と呼ぶことができない。父は元は画家だったが、農村にいたときに指をつぶされ、絵を描くことができなくなっていた。
 父は向陽の絵の才能に気づき、自ら厳しく指導する。向陽は遊びにも行けず父に反抗を続けるが、大地震とその復興の中で父の頼もしさと優しさに触れ、心を開くようになる。
 1987年、19歳の向陽(ガオ・グー)は、画塾に通いながらさぼって物売りをしていたスケート場で、同級生の于紅(ユィ・ホン/チャン・ユエ)という女の子と親しくなる。父は向陽が絵に集中できていないのを許さなかった。向陽は友だちと于紅と3人で広州に家出を企てるが、父に見つかり、向陽だけ連れ戻されてしまう。于紅は妊娠に気づき向陽に手紙で知らせようとしたが、両親が手紙を盗み読み、父が向陽に何も知らせず中絶させてしまった。于紅と別れた向陽は父と激しく衝突する。
 1999年、以前から近代的なアパートに引っ越すことを切望していた母は、父と偽装離婚までしてアパートを手に入れ一人暮らしをしていたが、高齢になり、現在は画家として結婚もした向陽(ワン・ハイディ)夫妻と父とみんなでアパートに同居しようとする。父は住み慣れた胡同から動こうとせず、向陽夫妻は子どもはまだいらないと孫をほしがる両親と距離を置き、皆バラバラだった。そんな中で、向陽が家族を描いた絵画を出品する展覧会が開催され、向陽の絵を初めてほめた父は姿を消してしまう・・・。

◆動く子猫

 少年時代の向陽が可愛がっていた三毛の子猫のミンミン。始まって6分半ほどたったころ、強制労働から帰ってきた父と母と向陽が食卓を囲むその向陽の足元でごはんを食べています。パーと呼べずぎこちないまま 向陽がミンミンを抱いて床に就くと、父母の部屋から母のうめくような声が。覗いた向陽はミンミンを連れて来て、母の上に覆いかぶさっていた父の背中に放り投げます。びっくりする父に向陽が言ったのは「母さんをいじめるな!」(どうもこうした場合、目撃してしまった子どもはお母さんがいじめられていると思うらしいですね)。翌昼、向陽を外に遊びに行かせて仕切り直しをした父母に、ミンミンは部屋から追い出されてしまいます。
 大地震が起きたときに逃げてしまったミンミンが戻って来ず、元気のない向陽。そんな向陽に父がノートに描いた猫のパラパラ漫画をやり、「子猫が動く」と向陽は大喜び。ミンミンは帰ってくることはありませんでした。
 時は飛んで1999年、胡同の家に一人で住み続ける父。解体が進む他の胡同で震える手でスケッチをしているとノラ猫を見かけます。再びそこに来たとき、エサを置いておくとそのノラ猫が子猫を連れて食べに来て、目を細める父。次にまたエサを持って訪れると、すでに猫たちのいた場所は解体が進み、父はがっかりしてそこを去ってしまいます。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆一心同体

 前回に続き、父が果たせなかった自分の夢を息子に託し、厳しくしごく映画です。
 あらすじではこのくらいの親子関係はそれほど珍しいものではないと思われるかもしれませんが、実際に映画を見て父のふるまいや極端な言動に触れると、子どもの人権はどうなっている! と思わず口走りたくなってきます。
 9歳の向陽の画才に気付いたとき、父は向陽にいいと言うまでデッサンを描かせたりし、友だちと遊ぶのを一切許しません。おなかが痛いと嘘をつきトイレに行くふりをして向陽が遊びに行ってしまってからは、本当におなかが痛くなった向陽をトイレに行かせず、粗相させてしまいます。映画上映会が開かれたときも、絵を描き終わるまで行かせてもらえず、向陽がたどり着いたのは映画のラストのラストでした。向陽は手が使えなくなれば絵を描かないで済むと、自分の手を傷つけようとすらするのです。
 19歳という自立を模索する年頃の向陽に、父は相変わらず支配的。絵をやめて商売をしたいと言い出す向陽がそんなことを言う理由を考えもせず「画塾にいくらかかってると思っている」「勉強もせずに女の子と遊んで」「絵を描いて大学に行け!」。それに母親も加勢するので向陽が家出したくなるのも当然と言えば当然。よく今まで10年我慢したとほめてやりたいくらいです。于紅を向陽に黙って中絶させるに至っては、向陽の言う通り「何の権利があってそんなことをする」と思いますが、父は「お前の父親だから責任がある」「親と子は一心同体だ」と言い張ります。
 スケート場で「親子の縁を切る」と逃げる向陽を追う父。父が氷の割れ目に落ち、助けざるを得ない状況に陥らなければ二人の縁は本当にここで切れていたかもしれません。

◆1999年

 とは言え、それから12年後の向陽は、新しいビルの立ち並ぶ北京で画家として倉庫を改造したアトリエ兼住宅に住み、ジープを運転して妻とおしゃれな生活を楽しんでいます。父の見込みは間違っていなかったということになります。目下の父との対立の最大の種は孫の問題。向陽にまたもや父は「親を親と思っていないのか」「なぜ孫の顔を見せてくれない」と、自己本位の主張を繰り返します。二言目には「お前の父親だ!」と言う父に、向陽は「だが、いい父親でなかった!」「いい父親になれる自信が付くまで子どもは作らない」と返すのです。
 そんな関係の中で、父母が結婚してからの家族写真を題材に向陽が展覧会で発表した絵画によって、父と向陽が歩み寄る、という終盤の展開は、美しいですがやや弱いとも言えます。向陽自身、家族を題材に描くというのは苦しい作業だったと思いますが、その創作の過程は描かれません。けれども、それがこの映画を見る上での一つのポイントだと思います。
 アメリカの法廷物の映画のようにどちらが正しいか白黒つけることでは、心の問題は解決されないということを監督は言いたいのではないでしょうか。時が熟し、様々な出来事を、肯定はしないまでも受けとめられるようになる、という自然な変化の存在を、この映画は描こうとしていると私は思います。それはひまわりが開花すべき時に咲くのにも似ています。父が向陽の前から姿を消すということは、向陽の中で父の存在が小さくなったことを象徴しているのではないでしょうか。

 外国映画は、政治や歴史など記録として残るもの以外に、その時代の民衆の心の部分がわからないと読み間違えてしまいがちです。文化大革命とその後の転換が中国の人々の心に遺したものは私たちには計り知れません。前回の『シャイン』(1995年/監督:スコット・ヒックス)で息子が武者修行に出ようとするのを「家族を壊す気か」と父が阻止するのも、父の性格だけでは説明が付かないのかもしれないと思います。ただ、子どもの人生を親の人生と一緒にするのは間違いです。

◆時は戻せず

 農村での強制労働から帰ってからの父は、共産党政権下のお役所のような職場に戻りますが、元の美術部から倉庫係に回されます。職場のアパートの抽選に外れてばかりなのは、文化人や学者などが糾弾された文化大革命以後も、画家だった父のような人が冷遇されていたからかもしれません。
 父が6年も農村にいたのは、劉(リウ/リウ・ツーフォン)さんという同僚が上司に出した父についての報告書が原因で、劉さんは父に素直に謝るのですが、父は受け入れません。アパートの抽選に劉さんが当たり、父にそれを譲ることで謝罪としようとしますが、父はそれも拒否します。劉さんはアパートを別の人に譲り、父と同じ胡同の住宅にそのまま住み続けます。
 高齢になり、二人とも職場を退くとお互い一人暮らしで、顔を合わせて会話はしませんが、中庭に置いた将棋盤でそれぞれ一手を指し、駒が動いたのを見てもう一方がまた一手指す、という間接的な交流を続けています。父が胡同を離れて母と同居することを承知しなかったのは、劉さんをひとりぼっちにさせないという、父なりの思いがあったのでしょう。知らないうちに劉さんが亡くなり、劉さんの謝罪を受け入れなかったことを父は後悔します。

 1980年代から2000年代初めにかけて、中国映画ブームが世界を席捲します。その多くは貧しい農村部や、社会構造に抑圧された民衆を描き、一種ノスタルジックな感慨を呼び覚ますものでした。この映画の父や劉さんのような、まるで中国の土から生えてきたような存在感のある俳優が重厚な演技を見せたものです。
 母親の秀清を演じたジョアン・チェンは『ラストエンペラー』(1987年/監督ベルナルド・ベルトルッチ)の皇后や『共謀家族』(2019年/監督:サム・クァー)の警察局長など、幅広い役柄を演じる実力派。2000年の『オータム・イン・ニューヨーク』で監督業もこなすなど、活躍が光っています。
 監督のチャン・ヤンは2015年に『ラサへの歩き方~祈りの2400km』を発表しています。チベット仏教の聖地ラサへの五体投地の旅を続ける人々。現地の人を起用し、ドキュメンタリーだと思って見ていたら、実は劇映画だったと途中で気づきました。信仰というものの原点を垣間見ることができる美しい作品です。

 

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シャイン

父にピアノの手ほどきを受けた天才少年はピアニストとしての門出で精神を病んでしまう。実話に基づく奇跡の愛と復活の物語。


  製作:1995年
  製作国:オーストラリア
  日本公開:1997年
  監督:スコット・ヒックス
  出演:ジェフリー・ラッシュノア・テイラーアーミン・ミューラー=スタール
     ジョン・ギールグッド、他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    王立音楽大学在学中の主人公のペット
  名前:不明
  色柄:体の下側が白い長毛の黒白
  その他の猫:父の膝上のシルバーのトラ縞
        退院後に下宿で飼っていたシルバーのトラ縞


◆父と息子

 今回から次回にかけて、父が息子に自分の夢を託し、厳しくしごく映画をお届けします。
 日本でこのような父子関係を描いたものとして思い浮かぶのが漫画の『巨人の星』(原作:梶原一騎、作画:川崎のぼる)。プロ野球巨人軍の三塁手だった星一徹が、戦争で傷めた肩を補うため編み出した魔送球を邪道と指摘されて球界を去り、巨人軍の星として輝く夢を息子の飛雄馬に託す。テレビアニメ化もされ、今でも飛雄馬と父の特訓、それを涙を流しながら電信柱の陰で見守る明子姉ちゃんなどがギャグの元ネタやパロディとなっています(50年以上も前の漫画なのに)。
 いわゆるスポ根路線の父-息子=師-弟子関係ではなく、お届けする2作ともジャンルは芸術。文化系の父子関係もまた強烈です。何ゆえ父は息子に破れた夢を託すのか。

◆あらすじ

 雷雨の夜、デイヴィッド(ジェフリー・ラッシュ)はずぶ濡れでとあるワインバーの窓を叩く。意味の分からないことを口走る彼を、店のシルビア(ソニア・トッド)たちは下宿まで送っていく。
 オーストラリアで育った少年時代、デイヴィッドは父(アーミン・ミューラー=スタール)にピアノの手ほどきを受け、資質を見抜いた音楽教師の指導を受けるようになる。青年期(ノア・テイラー)に差し掛かり、実力を認められた彼はアメリカから留学の誘いを受けるが、家が貧しいうえ父が頑として受け入れない。支配的な父の下から避難するかのようにキャサリン(グーギー・ウイザース)という初老の女性作家のところにピアノを弾きに通うデイヴィッドは、彼女の支えで父の呪縛から逃れようとし始める。ロンドンの王立音楽大学からの奨学生としての招待には、父を捨てて旅立った。
 デイヴィッドを天才と評価するパーカー教授(ジョン・ギールグッド)の下、数々の賞を獲得し脚光を浴びた彼が協奏曲コンクールで演奏する曲として選んだのは、子どもの頃から父に目標として掲げられていた世界一の難曲・ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番だった。師の指導、超人的な練習、本番で演奏を終えたときデイヴィッドは昏倒してしまう。
 彼はそのまま精神を病み、20代の多くを精神病院で過ごす。ある日病院の音楽療法のピアニストが有名なデイヴィッド(ジェフリー・ラッシュ)だと気づき、身元引受人になって退院させるが、面倒を見きれず知人にバトンタッチ。デイヴィッドが道に迷ってシルビアのワインバーにやって来たのはその頃だった。
 デイヴィッドがバーに置いてあるピアノに目をつけ、演奏すると客が大喝采、店のピアニストになって過去を含め彼のことが新聞をにぎわせる。それを見た父が彼のもとを訪れるが、二人の溝は埋まらなかった。
 そんなある日、デイヴィッドはシルビアの家に遊びに来た占星術家の女性・ギリアン(リン・レッドグレーヴ)と知り合う。ギリアンと打ち解けたデイヴィッドは彼女に意外なことを申し出る…。

◆僕は猫

 この映画で猫が出る場面は多くありません。前半、デイヴィッドが王立音楽大学に行く決意を父に告げる場面で、父が膝に抱いているところと、ロンドンで勉強中のデイヴィッドが下宿で練習をしている場面、退院後に下宿で弾いているピアノの上に猫がいる場面の3ヵ所です。大学在学中のシーンでは、イワシの缶詰を膝の上の猫と分け合ったりと、デイヴィッドが猫好きな様子がうかがえます。
 猫そのものの登場する場面はこのように少ないのですが、猫についての印象的なセリフが出てきます。
 映画が始まってすぐ、真っ暗な画面にデイヴィッドの「僕は猫だと思っていた」というモノローグがかぶさります。スクリーンの左側からデイヴィッド役のジェフリー・ラッシュの横顔が現れ、モノローグが「いつ撫でられるかわからない不幸な猫」と続きます。「僕はどの猫にもキスする」「猫を見ればいつもいつも」…同じ単語を何度も繰り返したり、上滑りで意味のわからない話によって、彼の精神が病的であることを示す導入部。
 そして、王立音楽大学から奨学生としての招待を受けたとき、デイヴィッドが作家のキャサリンに「父が許さない」「ライオンみたいに怒る」と訴えると、キャサリンが「彼は猫ちゃんよ」と答えるところ。

 どちらの場面でも、猫は弱い者の象徴として語られています。そしてセリフのとおり、デイヴィッドはそんな猫と自分を同一視し、父をライオンにたとえています。
 キャサリンに励まされてデイヴィッドが帰宅したとき、父は膝に猫を抱いています。それまで全く出て来なかった猫がここで急に登場したのは、父のイメージがライオンから「猫ちゃん」に変化したことを物語っているのではないでしょうか。父に殴りつけられてもデイヴィッドは自分の意思を初めて押し通し、ロンドンに行くのです。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆歪んだ愛

 『シャイン』は実在のピアニスト、デイヴィッド・ヘルフゴットをモデルとしています。1947年にメルボルンに生まれたユダヤ系の彼は、この映画に描かれたように神童と言われ、20代で開花するも精神の病でそのキャリアを中断させてしまったということ。映画を見ていると病の原因は父親との葛藤にあるように思えます。
 父親のピーターは、かつてポーランドに住んでいてナチスの収容所を経験。音楽を愛したものの、子どもの頃買ったバイオリンを父親に叩き壊された悔しさを引きずり、その音楽への熱情を息子のデイヴィッドや、その姉や妹を通じて実現しようとしています。自分に比べたら音楽をやれるデイヴィッドは幸せ者だ、と洗脳するように言う父。コンクールにデイヴィッドを出し、優勝させることと、将来は父が最も難しい曲とするラフマニノフのピアノ協奏曲第3番をデイヴィッドに聴かせてもらうことを夢としています。
 けれども、デイヴィッドに本格的な音楽教育を受けるチャンスが訪れると、父は彼の将来を妨害し始めます。アメリカ留学の招待状を火にくべ、デイヴィッドが武者修行に行くことを「家族を壊す気か」と怒り狂うのです。この時点で父はデイヴィッドを威圧しているかのようでいて、実は自分の分身である息子が自分の手を離れることを恐れ、彼に依存していることに気づいていません。
 親きょうだい、子どもなどの家族に依存している人はたくさんいます。家族だからこそもたれ合うこともできるという面は否定できませんが、依存する側は自分と相手が別の人間だということを見失っています。過干渉になったり、家族の学歴や職業を自慢したり、依存される側が拒否的な態度を示すと「あなたのためを思って」と自分が相手にしがみついている現実をすり替えます。
 デイヴィッドの父は、自分のためにデイヴィッドを必要としていたのです。自分の手の届かないところにデイヴィッドが行ってしまう苦しみを理不尽な怒りとしてデイヴィッドにぶつけてしまいます。

◆愛ゆえに

 けれども、父との葛藤がディヴィッドの精神の変調の原因となったかと言うと、それだけではないと思えます。ディヴィッドはアメリカ留学の話を父が妨害したとき、腹いせにバスタブで脱糞します。ロンドン留学中には下半身裸でアパートの郵便受けに行き、住民の女性に会っても隠そうともしません。もともと何らかの性格的な偏りがあったところに、父との軋轢、コンクールの練習などの過度の緊張が悪い影響を与えたのだと思いますが、最大のダメージは作家のキャサリンの死だったのでしょう。
 彼女は彼を応援し、デイヴィッド留学基金の設立を働きかけ、自宅の使わないピアノを弾きに来てもらいつつ彼とゆったり話をします。デイヴィッドが素直に自分を出せ甘えられる唯一の相手がキャサリンでした。デイヴィッドが自分の写真を渡すと、一生宝物にすると言っていたキャサリンの訃報が届いたのがロンドン。遺族から送られた遺品の中にその写真が入っていました。家族を捨てるのか、と父にすごまれて旅立ったデイヴィッド。その後押しをしたキャサリン。もともと脆弱な彼の精神が支えを失ってしまいました。
 けれども、父はその彼の生まれ持った精神の危うさを知っていたがゆえに自分の庇護の下を出ることを恐れていたのかもしれません。自分がこの息子を守ってやらなければどうなるか、そんな思いが父をデイヴィッドに対する行き過ぎた干渉に駆り立てていたのかもしれないと思うと、ただの毒親とも見えなくなってきます。
 彼がロンドンに発ってから初めて父と会ったのは、バーでの演奏の新聞記事を見た父が訪ねて来たときです。暮らし向きは今も楽でないのか、メガネのレンズが割れているのをテープで補修している父。和解できず帰っていくわびしい姿にラフマニノフの3番の第2楽章が重なります。

◆運命の人

 デイヴィッドは、心を病んでから子どもに戻ってしまったかのように興味や感情のおもむくままふるまうようになってしまいます。シルビアの家にギリアンが来たとき、彼はギリアンに本能的になつき、彼女が帰るのをイヤイヤして「結婚しよう」と言うのです。資産家と婚約もしていたギリアン、普通なら聞き流すところですが、帰宅した彼女はデイヴィッドの星占いをし、その結果に驚きます。
 デイヴィッド・ヘルフゴットとギリアンは実際に結婚し、彼女がデイヴィッドのコンサート活動復帰を企画。昨年はヨーロッパでのコンサートがコロナの影響などでキャンセルになったようですが、演奏家としてデイヴィッドはギリアンと二人三脚で活動を続けています。
 題名の『シャイン』は、デイヴィッドがバーでピアノを弾いていることを記事にした新聞の見出し「David Shines.」から。現実に起きたこのような奇跡。時間や場所の関係、デイヴィッドの療養費は誰が などわからないところもありますが、見るたびに違った発見がある映画なので、何度か見ることをお勧めします。
 主演のジェフリー・ラッシュはこの映画でアカデミー賞ゴールデングローブ賞英国アカデミー賞各主演男優賞を受賞。『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズではヘクター・バルボッサとして出演。2010年の『英国王のスピーチ』(監督:トム・フーパ―)では国王のスピーチ矯正者ライオネルの役でゴールデングローブ賞アカデミー賞助演男優賞にノミネートされています。

参考:デイヴィッド・ヘルフゴット公式ウェブサイト David Helfgott

 

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巴里の空の下セーヌは流れる

様々な人々の人生がもつれ合い、響き合う。そこはかとないユーモアに彩られた、とある一日のパリの鼓動。


  製作:1951年
  製作国:フランス
  日本公開:1952年
  監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
  出演:ブリジット・オーベール、レイモン・エルマンティエ、ジャン・ブロシャール、
     クリスティアーヌ・レニエ 他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    ペリエさんの飼い猫
  名前:不明
  色柄:白、キジ白など、おとな・こども合わせ10匹以上
  その他の猫:ペリエさんの窓に来るキジトラのノラ猫(モノクロのため推定)


シャンソンは流れる

 「花の都パリ」という常套句と共に、定番のBGMとして流れる「パリの空の下」は、この映画の挿入歌としてポピュラーになったシャンソン。主役の一人のジュールの銀婚式のごちそうを家族そろってセーヌ河畔で食べるシーンで辻音楽師が披露するほか、彫刻家のマティアスのアトリエの隣の部屋から、つっかえつっかえのこの曲のピアノの音が聞こえて来て、マティアスをいらつかせます。
 当然、映画のタイトルバックに使われているかと思いきや、そこで流れるシャンソンは「パリの心」(歌はアンドレ・クラヴォー)。ゆったりと美しい魅惑の調べ。この歌と映画との関りについてはあとでお話ししたいと思います。

◆あらすじ

 日の出、パリの人々の運命が動き出す。ペリエおばあさん(シルヴィー)は猫のミルク代をめぐんでもらいに街へ。工場労働者のジュール(ジャン・ブロシャール)は、銀婚式当日なのにスト中で工場を一歩も出られない。不気味な彫刻を作る彫刻家のマティアス(レイモン・エルマンティエ)は連続女性殺人事件の犯人だった。
 そんなパリの駅へ20歳の田舎娘ドゥニーズ(ブリジット・オーベール)が降り立つ。彼女はパリに住む裕福な男性との結婚を決意して家を飛び出してきたのだ。ドゥニーズは占い師に愛と富と名声を手にする、芸術家には注意しろ、と告げられる。
 ドゥニーズが身を寄せた友人のファッションモデルの卵のマリー=テレーズ(クリスティアーヌ・レニエ)は、アメリカから仕事のオファーを受けるが、医師見習いの恋人ジョルジュ(ダニエル・イヴェルネル)と暮らすことを夢見ていた。ジョルジュはこの日医師になるための口頭試験を受ける予定だが、極度のあがり症でいままでに3度も失敗していた。
 ペリエさんの近くの青果店の娘・小学生のコレット(マリー・フランス)はひどい成績を取り、叱られると思って学校の帰りに友だちの男の子と舟でセーヌ河に繰り出してしまう。コレットペリエさんに同情したお母さんから、帰りにミルクを買ってくるよう言われていたのをすっかり忘れていた。コレットは男の子と喧嘩して知らない町で舟をおろされ、偶然迷い込んだ酒蔵で、女性を襲って隠れていたマティアスと一緒になる。
 ドゥニーズはお目当ての男性と会うが、彼は事故で下半身不随になってしまっていて、ドゥニーズの前から去る。
 ジョルジュはまたも試験に失敗した。夕食を一緒にとる予定だったマリー=テレーズのアパートに現れず、ドゥニーズが探しに行こうと夜道を出かけるが…。

◆多頭飼育崩壊

 冒頭、眠っていたパリが夜明けとともに始動するとき、最初に登場するのがノラ猫です。逆光のシルエットの猫がしなやかにバランスを取りながら、煙突や屋根瓦を通り抜け、ペリエさんの屋根裏の窓の向こうの猫たちとおはようの挨拶をします。
 ペリエさんは71歳。字幕によると「老嬢」とのことなので、独身を通してきたのでしょう。身寄りのない屋根裏の一人暮らしの部屋には大小色柄もさまざまな猫がいっぱい。朝が来るとお腹がすいたとギャーギャー大合唱ですが、ペリエさん自身もお金がなくて食事を我慢しているありさま。年金の支給日まであと2週間もあるので、ペリエさんは出かけてゴミをあさったり、裕福そうな人に猫のミルク代をめぐんでくれと声をかけたり、無料の食事提供をしてくれる養老院に出掛けて猫の食事を所望したりしますが、「猫にはダメ」と断られてしまいます。
 猫好きの人の中では、初めは自分の家の飼い猫だけだったのに、たまに通って来るノラちゃんにエサをやっているうちに家にいつくようになり、置きエサ目当てでほかの猫も次第に集まり始め、そんな様子からあの家は猫好きだから、と猫を捨てていく人が現れたりしていつの間にか手に負えないほど扶養猫が増え、集まった猫同士で繁殖し、不衛生になり、さらに感染症で病気の猫だらけに…という多頭飼育崩壊が少なくないようです。高齢者に多く、認知機能に問題があるケースも見られると聞きます。
 ペリエさんの猫もいつの間にか増えてしまったのでしょう。幸い、終盤にコレットとお母さんがミルクと肉を持ってきてくれ、ペリエさんは涙を流して喜びますが、根本的な問題解決はまだ先。
 自分よりも猫を優先する優しいペリエさんも空腹でした。彼女の食事の方はどうなったのか。コレットのお母さんの「人は冷たいから猫と暮らすのね」という言葉が胸に刺さります。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆パリが語る

 「パリの心」の歌と共に俯瞰のパリの夜景が広がり、夜明けから再び夜の眠りにつくまでのとあるパリの一日の出来事を、主役となる複数の登場人物のエピソードでつづり、最後は互いに見えない何かで結びついていたかのように終わる物語です。それぞれの人物にとっては特別な一日だったように見えるものの、パリという街では当たり前の日常の一コマだ、と言わんばかりの画面外からのナレーション。このナレーションの語り手は「パリ」なのだと思います。
 エピソードは、芸術、恋、ファッション、労働者のストライキなど、パリやフランスらしさとして私たちがイメージするもの。そして心をむしばまれた隣人が潜在する都会の闇も描かれます。車の運転をめぐり罵り合う場面はわざと音が消されていますが、こうした騒動も当時のパリでは日常茶飯事だったのでしょう。
 華やかで都会的な美を添えるのが、エッフェル塔周辺で行われるファッションモデルの写真撮影の場面。豪華なロングドレスはクリスチャン・ディオールによるもの。まばゆい太陽光の中、噴水をバックに美しいポーズをきめるモデルたちには何の映画かも忘れて見とれてしまいます。これぞパリ!
 屋外ロケは場所選定のセンスも良く美しいのですが、俳優の背景に風景を投影するスクリーンプロセスを使ったスタジオ撮影も多く、ガクッと質が落ちるのが残念。
 それぞれのエピソードの開始のあたりでときどき流れるジーッという耳障りな音は運命のルーレットが回る音。こういうわかりやすい直喩的な演出に、クラシックな味を感じます。

◆ドゥニーズ et 泥棒猫

 さて、この日、運命のルーレットの上を激しく動く球になったのは、貧しいペリエさん、銀婚式を迎えた工場労働者のジュール、彫刻家にして殺人鬼のマティアス、恋に賭けるドゥニーズ、小学生のコレット(素朴でとてもかわいい!)、医師見習のジョルジュです。
 ペリエさんは猫のミルク代の工面ができず、コレットは知らない町でマティアスと仲良しに。行方のわからないジョルジュを探しに出かけたドゥニーズと家での銀婚式のパーティーに急ぐジュールの運命はマティアスと交錯し、ジュールとジョルジュの出会いに結びつきます。占い師が占ったドゥニーズの運命は、富と名声については当たるのですが…。

 ドゥニーズを演じたブリジット・オーベールについては『泥棒成金』(1955年/監督:アルフレッド・ヒッチコック)のときに少し触れました。『泥棒成金』ではグレース・ケリーの引き立て役のようでかわいそう、『巴里の空の下セーヌは流れる』ではとてもチャーミング、と書きましたが、どうでしょう?
 田舎から出てきた若い娘で、美貌で香水のポスターのモデルになって、パリでも有名、という役です。田舎のホテルで働いていたときお客さんからモテモテで、そのうちの一人から熱烈なラブレターをもらい家を出てきた、という設定。モデルの友だちに比べると、うぶな感じも無理なく出ています(白い下着が乙女チック)。若いときの映画で日本で公開されたのはこの2本だけのようで、もう少し見てみたいと思います。

◆銀幕の思い出

 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督は、1930年代から活躍し、特に日本のオールドファンから熱く支持されている、という印象です。この映画と同じように複数の登場人物の運命のいたずら・皮肉を描く作品としては1937年の『舞踏会の手帖』や、第二次大戦時アメリカ亡命中に作った『運命の饗宴(きょうえん)』(1942年)などが。
 『舞踏会の手帖』は、社交界にデビューしたときのダンスの相手を20年ぶりに訪ね歩く美女の物語。いまでも交流の途切れた昔の知り合いに連絡することを「舞踏会の手帖」とたとえる年配の方も。
 『運命の饗宴』は、1着の夜会服をめぐる物語。リタ・ヘイワースなどハリウッドの大スターたちが出演する5話からなるオムニバス。第3話の作曲家と第4話の同窓会の人情話がいい。
 けれども、きっと、オールドファンの心を揺さぶる永遠の名作は『望郷』(ペペ・ル・モコ)(1937年)でしょう。フランスの名優ジャン・ギャバンが、船に乗って去る愛しい人に「ギャビー!!!」と叫ぶ声が汽笛にかき消されて届かない、という名場面。戦争のとき、愛しい人と別れ別れになった経験をこの映画に重ねた人もあったと聞きました。

◆パリの心臓

 さて、この映画にはジョルジュが行う心臓手術の映像が出てきます。切り開いた術窓から心臓が打つさまが見えたり、止まってしまった心臓に直接手でマッサージを行ったりするところなど、モノクロですからそこまで生々しくは感じませんが、テレビの普及していない当時、このような映像を初めて見る人も多かったのでは。なぜここでこのような映像を使ったのかについては、観客の知的好奇心を誘う面もあったと思いますが、タイトルバックで歌われた「パリの心」と関連があると思います。
 心というフランス語は、心臓の意味も。そして、「パリの心」は「パリの心臓は誰のために打つのか」という歌詞で始まります。心臓の映像はこの歌詞への答えなのではないでしょうか。パリの心臓・鼓動はパリの人々のために打つ、彼らの心臓と共に脈打ち、彼らと一体なのだと。――手術中の心臓は再び元気よく動き出します。パリの鼓動が宿ったかのように。
 ただ、一つ気になることが。あの止まった心臓、どうやって撮ったのでしょうか?

 

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