この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

胡同のひまわり(フートンのひまわり)

息子を画家に育てるために、父は息子が絵以外のことをする自由を許さなかった。30年以上にわたる父子の愛憎の物語。


  製作:2005年
  製作国:中国
  日本公開:2006年
  監督:チャン・ヤン
  出演:ソン・ハイイン、ジョアン・チェン、リウ・ツーフォン、チャン・ハン、
     ガオ・グー、ワン・ハイディ、他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    主人公の家の子猫
  名前:ミンミン
  色柄:三毛
  その他の猫:解体される胡同に住み着くノラ猫親子(長毛のキジ母猫と、黒白ブ
        チ、黒っぽい子猫の2匹)


◆胡同とは

 胡同とは、北京の街の大通りから横に入った細い路地のことだそうです。路地を形成する塀は、四合院という、ロの字型の土地の四辺に建物を建て、中庭がある住まいの塀で、昔は家族で四合院をそっくり所有などしたそうですが、この映画では主人公一家と、その同僚たちの家族が共同住宅として住んでいるようです。俯瞰でこの四合院をとらえた映像を見ると、単純なロの字型ではなく複雑に入り組んだ形になっていることがわかります。トイレは外にあり共同で、主人公がそこで友人と家出の相談をしたりします。チャン・ヤン監督も胡同のこうした建物で育ったということです。
 2008年の北京オリンピックを機にこうした建物の多くが解体され、胡同は姿を変えたと言います。この映画は文化大革命期から改革開放路線により経済的に発展を遂げた中国の30年以上にわたる社会の変化を背景に、親子の対立を描いています。

◆あらすじ

 1967年、北京の胡同で生まれた男の子は、中庭に咲いていたひまわり(向日葵)にちなんで、向陽(シアンヤン)と名付けられる。
 1976年、腕白な9歳の向陽(チャン・ファン)は、胡同を歩いてきた男性の額にパチンコ玉を命中させる。その男性は向陽が顔を知らない父親の庚年(ゴンニエン/スン・ハイイン)だった。父は文化大革命による6年もの農村部での強制労働から帰ってきたのだ。母の秀清(シウチン/ジョアン・チェン)と二人で暮らしてきた向陽は、父(パー)と呼ぶことができない。父は元は画家だったが、農村にいたときに指をつぶされ、絵を描くことができなくなっていた。
 父は向陽の絵の才能に気づき、自ら厳しく指導する。向陽は遊びにも行けず父に反抗を続けるが、大地震とその復興の中で父の頼もしさと優しさに触れ、心を開くようになる。
 1987年、19歳の向陽(ガオ・グー)は、画塾に通いながらさぼって物売りをしていたスケート場で、同級生の于紅(ユィ・ホン/チャン・ユエ)という女の子と親しくなる。父は向陽が絵に集中できていないのを許さなかった。向陽は友だちと于紅と3人で広州に家出を企てるが、父に見つかり、向陽だけ連れ戻されてしまう。于紅は妊娠に気づき向陽に手紙で知らせようとしたが、両親が手紙を盗み読み、父が向陽に何も知らせず中絶させてしまった。于紅と別れた向陽は父と激しく衝突する。
 1999年、以前から近代的なアパートに引っ越すことを切望していた母は、父と偽装離婚までしてアパートを手に入れ一人暮らしをしていたが、高齢になり、現在は画家として結婚もした向陽(ワン・ハイディ)夫妻と父とみんなでアパートに同居しようとする。父は住み慣れた胡同から動こうとせず、向陽夫妻は子どもはまだいらないと孫をほしがる両親と距離を置き、皆バラバラだった。そんな中で、向陽が家族を描いた絵画を出品する展覧会が開催され、向陽の絵を初めてほめた父は姿を消してしまう・・・。

◆動く子猫

 少年時代の向陽が可愛がっていた三毛の子猫のミンミン。始まって6分半ほどたったころ、強制労働から帰ってきた父と母と向陽が食卓を囲むその向陽の足元でごはんを食べています。パーと呼べずぎこちないまま 向陽がミンミンを抱いて床に就くと、父母の部屋から母のうめくような声が。覗いた向陽はミンミンを連れて来て、母の上に覆いかぶさっていた父の背中に放り投げます。びっくりする父に向陽が言ったのは「母さんをいじめるな!」(どうもこうした場合、目撃してしまった子どもはお母さんがいじめられていると思うらしいですね)。翌昼、向陽を外に遊びに行かせて仕切り直しをした父母に、ミンミンは部屋から追い出されてしまいます。
 大地震が起きたときに逃げてしまったミンミンが戻って来ず、元気のない向陽。そんな向陽に父がノートに描いた猫のパラパラ漫画をやり、「子猫が動く」と向陽は大喜び。ミンミンは帰ってくることはありませんでした。
 時は飛んで1999年、胡同の家に一人で住み続ける父。解体が進む他の胡同で震える手でスケッチをしているとノラ猫を見かけます。再びそこに来たとき、エサを置いておくとそのノラ猫が子猫を連れて食べに来て、目を細める父。次にまたエサを持って訪れると、すでに猫たちのいた場所は解体が進み、父はがっかりしてそこを去ってしまいます。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆一心同体

 前回に続き、父が果たせなかった自分の夢を息子に託し、厳しくしごく映画です。
 あらすじではこのくらいの親子関係はそれほど珍しいものではないと思われるかもしれませんが、実際に映画を見て父のふるまいや極端な言動に触れると、子どもの人権はどうなっている! と思わず口走りたくなってきます。
 9歳の向陽の画才に気付いたとき、父は向陽にいいと言うまでデッサンを描かせたりし、友だちと遊ぶのを一切許しません。おなかが痛いと嘘をつきトイレに行くふりをして向陽が遊びに行ってしまってからは、本当におなかが痛くなった向陽をトイレに行かせず、粗相させてしまいます。映画上映会が開かれたときも、絵を描き終わるまで行かせてもらえず、向陽がたどり着いたのは映画のラストのラストでした。向陽は手が使えなくなれば絵を描かないで済むと、自分の手を傷つけようとすらするのです。
 19歳という自立を模索する年頃の向陽に、父は相変わらず支配的。絵をやめて商売をしたいと言い出す向陽がそんなことを言う理由を考えもせず「画塾にいくらかかってると思っている」「勉強もせずに女の子と遊んで」「絵を描いて大学に行け!」。それに母親も加勢するので向陽が家出したくなるのも当然と言えば当然。よく今まで10年我慢したとほめてやりたいくらいです。于紅を向陽に黙って中絶させるに至っては、向陽の言う通り「何の権利があってそんなことをする」と思いますが、父は「お前の父親だから責任がある」「親と子は一心同体だ」と言い張ります。
 スケート場で「親子の縁を切る」と逃げる向陽を追う父。父が氷の割れ目に落ち、助けざるを得ない状況に陥らなければ二人の縁は本当にここで切れていたかもしれません。

◆1999年

 とは言え、それから12年後の向陽は、新しいビルの立ち並ぶ北京で画家として倉庫を改造したアトリエ兼住宅に住み、ジープを運転して妻とおしゃれな生活を楽しんでいます。父の見込みは間違っていなかったということになります。目下の父との対立の最大の種は孫の問題。向陽にまたもや父は「親を親と思っていないのか」「なぜ孫の顔を見せてくれない」と、自己本位の主張を繰り返します。二言目には「お前の父親だ!」と言う父に、向陽は「だが、いい父親でなかった!」「いい父親になれる自信が付くまで子どもは作らない」と返すのです。
 そんな関係の中で、父母が結婚してからの家族写真を題材に向陽が展覧会で発表した絵画によって、父と向陽が歩み寄る、という終盤の展開は、美しいですがやや弱いとも言えます。向陽自身、家族を題材に描くというのは苦しい作業だったと思いますが、その創作の過程は描かれません。けれども、それがこの映画を見る上での一つのポイントだと思います。
 アメリカの法廷物の映画のようにどちらが正しいか白黒つけることでは、心の問題は解決されないということを監督は言いたいのではないでしょうか。時が熟し、様々な出来事を、肯定はしないまでも受けとめられるようになる、という自然な変化の存在を、この映画は描こうとしていると私は思います。それはひまわりが開花すべき時に咲くのにも似ています。父が向陽の前から姿を消すということは、向陽の中で父の存在が小さくなったことを象徴しているのではないでしょうか。

 外国映画は、政治や歴史など記録として残るもの以外に、その時代の民衆の心の部分がわからないと読み間違えてしまいがちです。文化大革命とその後の転換が中国の人々の心に遺したものは私たちには計り知れません。前回の『シャイン』(1995年/監督:スコット・ヒックス)で息子が武者修行に出ようとするのを「家族を壊す気か」と父が阻止するのも、父の性格だけでは説明が付かないのかもしれないと思います。ただ、子どもの人生を親の人生と一緒にするのは間違いです。

◆時は戻せず

 農村での強制労働から帰ってからの父は、共産党政権下のお役所のような職場に戻りますが、元の美術部から倉庫係に回されます。職場のアパートの抽選に外れてばかりなのは、文化人や学者などが糾弾された文化大革命以後も、画家だった父のような人が冷遇されていたからかもしれません。
 父が6年も農村にいたのは、劉(リウ/リウ・ツーフォン)さんという同僚が上司に出した父についての報告書が原因で、劉さんは父に素直に謝るのですが、父は受け入れません。アパートの抽選に劉さんが当たり、父にそれを譲ることで謝罪としようとしますが、父はそれも拒否します。劉さんはアパートを別の人に譲り、父と同じ胡同の住宅にそのまま住み続けます。
 高齢になり、二人とも職場を退くとお互い一人暮らしで、顔を合わせて会話はしませんが、中庭に置いた将棋盤でそれぞれ一手を指し、駒が動いたのを見てもう一方がまた一手指す、という間接的な交流を続けています。父が胡同を離れて母と同居することを承知しなかったのは、劉さんをひとりぼっちにさせないという、父なりの思いがあったのでしょう。知らないうちに劉さんが亡くなり、劉さんの謝罪を受け入れなかったことを父は後悔します。

 1980年代から2000年代初めにかけて、中国映画ブームが世界を席捲します。その多くは貧しい農村部や、社会構造に抑圧された民衆を描き、一種ノスタルジックな感慨を呼び覚ますものでした。この映画の父や劉さんのような、まるで中国の土から生えてきたような存在感のある俳優が重厚な演技を見せたものです。
 母親の秀清を演じたジョアン・チェンは『ラストエンペラー』(1987年/監督ベルナルド・ベルトルッチ)の皇后や『共謀家族』(2019年/監督:サム・クァー)の警察局長など、幅広い役柄を演じる実力派。2000年の『オータム・イン・ニューヨーク』で監督業もこなすなど、活躍が光っています。
 監督のチャン・ヤンは2015年に『ラサへの歩き方~祈りの2400km』を発表しています。チベット仏教の聖地ラサへの五体投地の旅を続ける人々。現地の人を起用し、ドキュメンタリーだと思って見ていたら、実は劇映画だったと途中で気づきました。信仰というものの原点を垣間見ることができる美しい作品です。

 

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