この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

長屋紳士録

親とはぐれた男の子を押し付けられたかあやん。いやいや預かっているうちにいつしか情が移って・・・。小津安二郎監督の戦後第一作。

 

  製作:1947年
  製作国:日本
  日本公開:1947年
  監督:小津安二郎
  出演:飯田蝶子青木放屁笠智衆、河村黎吉、吉川満子、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    かあやんのお店にいる猫
  名前:不明
  色柄:茶トラ(モノクロのため推定)


◆むねかたきょうだい

 役所広司が最優秀男優賞を受賞したり、坂元裕二氏が脚本賞に輝いたりと、大いに盛り上がった今年2023年の第76回カンヌ国際映画祭では、小津監督の『長屋紳士録』と『宗方姉妹』(1950年)の2本が4Kデジタル修復されてワールドプレミア上映されました。
 今年は、小津安二郎監督の生誕120年、そして没後60年に当たる年です。小津監督は60歳の誕生日(1963年12月12日)に永眠されました。今も世界中の映画人・ファンから敬愛される小津監督の作品の、記念の年に合わせての修復は喜ばしい限りです。
 このブログで以前『宗方姉妹』について書いたとき、『宗方姉妹』は、「むねかたきょうだい」と読みます、と書き、「むなかたしまい」と堂々とルビを振った映画サイトも存在する、と言った私でしたが、その後も有名評論家の方が「むかたきょうだい」と書いておられるのを見て、「間違っているのは私じゃないか!?」と不安になって夜中に飛び起きたこともありました。それが、カンヌ国際映画祭での公開を機に、ローマ字で「MUNEKATA KYODAI」と表記されたものを目にすることができ、やっと枕を高くして眠れるようになりました。キャストが間違っているWeb記事はまだ見られるようですが・・・。

◆あらすじ

 終戦から少したち、まだ焼け跡の残る東京の、築地に近いとある長屋。職人の為吉(河村黎吉)のところに易者の田代(笠智衆)が、5、6歳くらいの男の子(青木放屁)を連れて帰ってくる。男の子は父親とはぐれ、田代が仕事をしていた九段(くだん)からついてきてしまったという。二人は子どもを持て余し、向かいの荒物屋の後家のかあやんことおたね(飯田蝶子)のところに連れて行く。かあやんも嫌がって断るが、無理やり置いていかれ、翌朝、布団におねしょまでされてしまう。
 かあやんと為吉は困って長屋の組長の喜八(坂本武)に相談し、男の子が父親と暮らしていたという茅ケ崎に連れて行って手がかりを探すことにする。連れて行く役を選ぶくじに当たったのは、かあやんだった。はるばる茅ヶ崎に行くと、男の子と父親はそこを数日前に引き払ったということしかわからず、かあやんは再び男の子を連れて帰る。
 帰ってからもかあやんは男の子を邪険にする。お手製の干し柿が盗み食いされていたのを、男の子がやったと決め付けて問い詰めていたら、為吉の仕業だった。男の子は叱られたのと、またおねしょをしてしまったのを苦にして、姿を消してしまう。心配になったかあやんが探し疲れた夜、男の子がまた九段に来たと田代が連れて帰って来る。ほっとしたかあやんは男の子にやさしく手製のパンを食べさせながら「おばちゃんちの子になる?」と聞いたりする。
 かあやんは男の子を動物園に連れて行ったり、写真館で二人で記念写真を撮ったり、帰宅してから肩たたきを男の子に頼んだりと、親のようにふるまうが・・・。

◆珍しい猫

 小津安二郎監督の映画では、シーンが切り替わるときに独特のショットが挿入されることが知られています。モノクロ作品でよく映るのは、物干し竿に干された洗濯物とか、煙突とか、人間の生活に関連する器物ですが、そこには人間が存在していません。そのような「不在」の意味は、研究者にとって恰好の題材でしょうが、『長屋紳士録』にはそのパターンを少し外した映像が見られます。
 かあやんや為吉など長屋の面々が、定期的に長屋のことを話し合う常会のため喜八の家に集合、打合せが終わってみんなでお酒を酌み交わし、田代ののぞきからくりの口上を楽しんだあと、映像がかあやんの荒物屋の店内に切り替わります。荒物屋とは、ほうきとか、たらいとか、今のホームセンターで売っているような、掃除・炊事・洗濯用品などの生活雑貨を売る店。商品を並べた土間に、かあやんが店番をしながら針仕事をしたりする、腰掛の高さほどの小上がりがあります。
 かあやんは常会に出ているので不在です。小上がりにはやかんがかかった火鉢が置いてあり、そのわきで茶トラらしい子猫が夢中でごはんを食べています。そのとき、柱時計がボーン、ボーンと鳴り、子猫は振り返ってそちらを見ます。何でもないとわかると子猫は再び器に首を突っ込んで食べ続けます。
 器にごはんが用意されていて、首によだれ掛けをつけているので、かあやんが飼っている猫だと思うのですが、このあと猫は出てきません。猫の直後に、違う角度から撮った火鉢や湯呑みが置いてあるかあやんの部屋のショットが入りますが、この生き物が存在しない映像が小津監督らしいスタイルです。それをふまえて見たとき、モリモリとごはんを食べている子猫が小津監督に選ばれた理由が、とても知りたくなってきます。
 私はこの子猫が小津監督の映画に出て来る猫の中で、ピカ一のかわいらしさだと思っています。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆拾った子

 この映画を見始めて、奇妙に思う方は多いでしょう。今だったら、親にはぐれた子どもは警察に連れて行って保護者を探してもらうのが当たり前です。黙って家に連れ帰ったりしたら、誘拐犯とみなされてしまいかねません。それが易者の田代は、靖国神社の鳥居のあたりから、父親とはぐれた男の子を連れてきてしまいます。映画が作られた1947年春、終戦からようやく1年半のこの頃は、まだ警察が今のように機能していなかったこと、親のない子どもがうろついていても珍しくなかったこと、置き去りなどで子どもを捨てる親があったことなどが背景にあります。
 食糧を巡る生存競争は、戦争中よりも戦後の方が厳しかったと聞きます。戦争中はまだ配給などの戦時体制が守られていて、コントロールがきいていたようなのですが、敗戦により社会が混乱すると、戦争用に備蓄されていた食糧や物資が横流しされて闇に流れ、法外な値段で売られたり、外地から復員してきた兵隊や引揚者による人口増によって、圧倒的な食糧不足に陥ったそうなのです。そんな状態だったので、消息が分からない家族を探そうとしなかったケースも少なくなかったようです。
 そして、この男の子に対する奇妙な感覚のもう一つは、大人たちが誰一人、この子の名前を聞かないことです。この子もそれほどの幼さでもないのに、ほとんど口をききません。大人の側も、この子も、行きずりの関係を保とうとしているかのようです。この子を押し付けられたかあやんは、「シッ」「シッ」とまるで動物か何かのように追い払おうとしたり、睨みつけたり、訪ねて行った茅ケ崎の海岸でこの子を置き去りにしようとすらします。帰りには2貫目と言いますから約8キロほどの芋をこんな小さな子にしょわせて戻ってきます。

◆子ども受難

 下町人情噺のようなイメージのこの映画ですが、こうした子どもの扱いや、くじで子どもを茅ケ崎に連れて行く役目を決めるところが、GHQ占領下の映画の民間検閲機関CIEによって残虐行為に当たるのではないかと問題になったものの、そのまま許可されたそうです(注)。自分の生活で精いっぱいという社会背景の中で、親にはぐれたのか浮浪児なのか、一人で歩いている子どもは見て見ぬふり、関わりを持たないように、というのが大方の大人の反応だったのではないでしょうか。そんな子どもたちが生きるためにスリやかっぱらいなどの犯罪を行うことが多かったのも、市民たちからいやがられる理由になりました。
 この男の子は戦争孤児ではありませんが、戦争孤児だった人のルポなどを読むと、駅などで寝泊まりしていると、戦争中は食べ物を分けてくれたり優しくしてくれたりする人もいたけれど、戦後は冷たくなった、という証言が見られます。かあやんたちだけが冷淡だったわけではないのです。
 男の子が姿を消してしまい、心配したかあやんが、何か知らないか為吉のところに聞きに行ったときの為吉の反応、「これでもう来やしないよ。厄払いだ」、これがこの頃の一般的な感覚を端的に表すセリフではないでしょうか。

◆束の間の親子

 男の子がいなくなって急に心配になり、おろおろ探し回ったかあやんは、幼馴染の料亭のおかみのきく(吉川満子)に諭され、私もあの位の年にはおねしょをした、とわが身を顧みます。きくはかあやんが男の子を好きになっているのを見抜いていました。
 きくと一緒に男の子を動物園に連れて行ったり、写真館で写真を撮ったりのシークエンスでの、かあやんが男の子に買い与えた学生帽は少し大きく、男の子は落としてばかりです。「おまえさん、あの帽子大きいよ」と、きくが言うと、かあやんは「学校に行く頃にはちょうどいいんだよ」と答えます。かあやんはこのまま男の子を育てる気になっていたのです。
 楽しく遊んで帰ってきたその晩、男の子の父親(小沢栄太郎)が現れます。父親は手を尽くして男の子を探していたのです。子どもは現金なもので、父親が来るとかあやんのことを振り返りもせず、一緒に帰っていきます。
 見送ったあと、かあやんは泣き出してしまいます。

 今だったら児童虐待と言われてしまいそうなエピソードも含むこの映画ですが、そうした状況をふわりと包むのどかさとユーモアが漂っています。茫漠たる茅ケ崎の砂山で、かあやんが「お土産にするから貝を拾っておいで」と男の子に言い、そのすきに走って逃げようとすると、男の子がまっしぐらに走って来てたちまち追いつかれてしまうシーン、男の子と気持ちが通じ始めると、肩をゆする男の子の癖がかあやんにうつってしまうシーンなど、おかしくもちょっとしんみりした思いに駆られます。

◆秘められた思い

 男の子が去って、子どもっていいもんだね、もらうとか拾うとかできないかね、とかあやんは易者の田代に言います。かあやんの生まれ年から上野の方角だろうということになると、カメラは上野の西郷隆盛銅像周辺の、戦争孤児とおぼしき少年たちを映し出します。
 上野はノガミと呼ばれ、全国の戦争孤児たちが無賃乗車で集まって来たそうです。公的な保護が始まったのは1946年春頃からで、施設は脱走防止のため鉄格子が施されるなど劣悪な環境、浮浪生活よりも食糧事情が悪かったりで、逃げ出す子どもが後を絶たなかったようです。『長屋紳士録』の男の子は、古釘やシケモク(タバコの吸い殻)を拾ってポケットにためていて、かあやんたちは父親が大工だからこういう物を拾っているんだろうと言っていますが、これらは浮浪児たちの収入源でした。

 小津監督と同じ1903年生まれの清水宏監督には、『蜂の巣の子供たち』(1948年)などの戦争孤児を扱った映画があり、清水監督が養った本物の戦争孤児たちが出演しています。この映画の冒頭には「この映画の子供たちにお心当りの方はありませんか」という驚くべき字幕が浮かび上がります。それがこの時代のリアルです。
 もしかしたら、シナリオの構想段階では『長屋紳士録』の男の子は戦争孤児という設定で、小津監督はこの問題にもっと迫りたかったのではないかという想像もよぎります。映画の中で一度も名前を呼ばれることがない男の子ですが、実は幸平という役名があります。あてどなく焼け跡をさまよう子どもたちを見て、その幸福と平和を祈って、小津監督が付けた名前でしょうか。

 戦勝国への非難につながるため、戦争の被害をストレートに描くことは占領下のこの時代はできませんでした。ソフトな味わいのこの映画ですが、そこに秘められたメッセージを心に留めて味わいたいと思います。

 何度か映る異国情緒漂う建物は、のちに小津監督の葬儀が行われた築地本願寺
 男の子を演じた青木放屁とは、ひどい芸名ですが、あの突貫小僧の青木富夫の弟、本名は富宏です。無表情なところがすばらしい。

 

(注)
天皇と接吻 アメリカ占領下の日本映画検閲』平野共余子草思社/2021年

(参考)
『児童福祉の戦後史』本庄豊/吉川弘文館/2023年
『浮浪児 1945-戦争が生んだ子供たち』石井光太/新潮社/2017年

◆関連する過去記事

eigatoneko.com

◆パソコンをご利用の読者の方へ◆
過去の記事の検索には、ブログの先頭画面上部の黒いフチの左の方、「この映画、猫が出てます▼」をクリック、
「記事一覧」をクリックしていただくのが便利です。