この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

禁じられた遊び(1952)

戦争で心が傷ついた幼い女の子と少年が熱中した奇妙な遊び・・・。
戦火にさらされる子どもたちが絶えない今、武器を捨て見てほしい、20世紀の名作。

 

  製作:1952年
  製作国:フランス
  日本公開:1953年
  監督:ルネ・クレマン
  出演:ブリジット・フォッセー、ジョルジュ・プージュリー、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    雑踏の中の猫
  名前:不明
  色柄:キジ白(モノクロのため推定)


◆世代間ギャップ

 今年2023年9月に中田秀夫監督による同名の日本映画(原作小説:清水カルマ)が公開されていますが、中田秀夫監督と言えばホラー。禍々(まがまが)しい世界が展開されたことと思いますが、その公開時にタイトルのもととなったルネ・クレマン監督の『禁じられた遊び』を知らない、見たことがない、という方もいらっしゃったかと思います。70年前の映画ですからね。
 昭和世代にとって『禁じられた遊び』は、知らない人はいないと言っても過言ではない、戦争の悲しみを訴える別格の名画。1952年ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞、1953年アカデミー賞名誉賞(のちの外国語映画賞)、1953年度キネマ旬報ベストテン外国映画部門第1位などの栄誉に輝いています。
 ナルシソ・イエペスによるギターの主題曲も広く知られていますが、いまは曲自体は聞いたことがあるけれど、この映画に使われたものとは知らないという方も多いと思います。
 そんなわけで、私がこのブログの『ラ・ブーム』(1972年/監督:クロード・ピノトー)の記事でソフィー・マルソーのお母さん役のブリジット・フォッセーがこの映画の主役のポーレット、『死刑台のエレベーター』(1957年/監督:ルイ・マル)でドイツ人夫婦を殺した不良青年役のジョルジュ・プージュリーがその相手役のミシェル少年、と少し興奮気味に語ったことも、空回りだったかもしれません。

 この映画のタイトルが、斜めから解釈したときの響きから、ホラーやエロチック系のタイトルに応用されていることを知ったのは最近のことです。世界各地での戦火や紛争のニュースを聞かない日はないと思えるいま、このタイトルが訴える本来の物語を多くの人に知ってほしいと思います。

◆あらすじ

 1940年6月、ナチス・ドイツのパリ侵攻によりたくさんの市民たちが郊外に逃げていた。ドイツ軍の戦闘機がそんな人々に容赦なく襲いかかる。両親と逃げていた5歳の女の子のポーレット(ブリジット・フォッセー)は、抱いていた子犬が逃げ出し、追いかけて走り出す。ポーレットの後を追った両親も子犬も、機銃掃射によって死んでしまう。
 通りすがりにポーレットを保護した人が、もう死んでいると言って子犬を川に放り投げ、ポーレットは一人で死骸を拾い上げに行く。子犬の死骸を抱いて川沿いをとぼとぼ歩いていたポーレットは、やがて牛を追っていた農家の少年ミシェル(ジョルジュ・プージュリー)と出会う。ミシェルはポーレットを家に連れて帰り、両親と二人の兄、二人の姉とミシェルとで保護する。
 11歳のミシェルとポーレットはすぐに仲良くなり、水車小屋の中に子犬のお墓を作る。ポーレットは生き物が死んだら穴に埋めて十字架を立てお祈りするということをミシェルに教わって強く興味を持ち、動物や虫たちにもお墓を作る、そのお墓にも十字架がいる、と言う。
 やがて、ミシェルの上の兄が怪我がもとで亡くなってしまう。ミシェルは兄の棺を乗せる霊柩車の屋根の十字架を動物たちのお墓のために盗む。せっかく盗って来た十字架をポーレットは気に入らない。兄の葬儀で教会の祭壇の十字架を見て、ポーレットはミシェルに「きれい」とささやく。
 ミシェルは司祭に霊柩車の十字架を盗んだことを告解したが、話が終わるや否や祭壇の十字架を盗もうとして司祭に叱られる。なおもミシェルとポーレットは墓地にまで十字架を盗みに行き、小屋の中にたくさんの動物の墓を作る。
 しばらくして、ミシェル一家が長兄の墓参りに行くと十字架がない。ミシェル一家と隣のグアール家は以前から犬猿の仲だったが、ミシェルの父はグアール家の仕業と思って、先だって亡くなったグアールの女房の墓の十字架をめちゃめちゃに壊してしまい、グアール家と大喧嘩になる。
 仲裁に入った司祭が、十字架がなくなったのはミシェルの仕業だと言い、逃げたミシェルをみんなが探し回っていると、警察の車がやって来る・・・。

◆避難する猫

 話の展開からいって、この映画に出てくる猫は近所の猫か何かで、死んでミシェルとポーレットによってお墓に埋められたのだろうと思った方が多いと思いますが、猫は死んでいません。猫の登場は、映画が終わる2分ちょっと前です。

 十字架を盗んだミシェルをみんなが探し回っているときにやってきた警察は、ミシェルを捕まえに来たのではなく、ポーレットを赤十字の施設に入れるために引き取りに来たのです。ポーレットと別れたくないミシェルは、十字架をどこにやったか話せばポーレットをうちで引き取る、と父が約束したのを信じて場所を明かしますが、ポーレットは連れて行かれてしまいます。「約束したのに!」とミシェルが叫んでも子どもにはどうすることもできません。ミシェルは集めた十字架を次々と川に捨て、小屋で一部始終を見つめていたこの村の主のフクロウにポーレットの壊れた首飾りをあげて、泣きながら見つめるのです。
 そのフクロウと入れ替わるように、映像がキジシロの子猫の姿に変わります。避難する人々でごった返す駅で、子猫はある女性の胸に抱かれてカフェオレボウルから何か食べさせてもらっています。この女性はペットの猫を連れて避難してきたのでしょう。その傍らでポーレットが赤十字の施設に送られることを示す札を首から下げて座らされています。自分の名字を覚えていなかったポーレットは、ミシェルの名字の「ドレ」と名乗り、札にはポーレット・ドレと書いてあります。
 ポーレットは、雑踏の中で「ミッシェール!」と人が呼ぶ声を耳にしてハッとします。声の方を見ると、見知らぬおじさんのミシェルが、彼を呼んだ人との再会を喜んで抱き合っています。自分のミシェルではなかったことにみるみる涙ぐんでポーレットは・・・。

 この映画には、農家が舞台とあって、牛やニワトリなど多くの動物が登場します。ポーレットはミシェルと出会ったとき、農場から逃げた牛と出くわして泣きべそをかきますが、ほかの動物のことは怖がりません。ミシェルと寝そべってしゃべっているときにゴキブリが目の前に現れても、それを手で捕まえて気持ち悪いとも汚いとも思っていないケロリとした顔。ミシェルがペン先で刺してしまうと、死のトラウマにとらえられているポーレットは急に「殺さないで」と泣き出してしまいます。
 ハエもたくさん飛び回っています。ポーレットがミシェルの家に来たとき、もらったミルクのコップにハエが入っているので嫌がりますが、お母さんは指でハエをかき出してまたポーレットに・・・。ハエは色々な場面で俳優たちの顔や体にも次々飛んで来てたかっています。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆子どもの心

 出演したとき実際に役と同じ5歳だったブリジット・フォッセーには何も言うことはありません。これは演技とか子役とか言うより本物の少女ポーレットです。どうやってこの子を見つけ出したのでしょう。
 ミシェル少年役のジョルジュ・プージュリーも1940年生まれと、ほぼ役と同年齢。この主役二人の、ちょっと年上の子どもと幼い子どもとの絶妙な距離感がすばらしい。
 ドレ家で末っ子のミシェル。近所にも自分と同じくらいの年齢や年下の子がいない中で出会ったポーレットは、パリ育ちの垢抜けて可愛い女の子。ミシェルにとってポーレットはお姫様のように思えたかもしれません。そんなポーレットにいいとこ見せたいと、男の子らしいヒーロー精神が頭をもたげます。
 ポーレットが「パパとママが死んでしまって雨に濡れたらかわいそうだからお墓に埋めるのね」「川のほとりにおいてきた子犬の死骸は雨に濡れてしまうのね」と言うので、二人は子犬の死骸を運んで来て水車小屋の床に埋めます。そこで十字架を飾ることをポーレットは覚えます。まだ死の意味や宗教のことを何も知らないポーレットに、お祈りや埋葬や宗教的儀式のことを教え導くうちにミシェルは、ミミズやハチやヒヨコなど、様々な生き物に似合うデザインの十字架を集めてポーレットを喜ばせることに夢中になるのです。
 両親と子犬の死や空襲によって、心に恐怖と傷を抱えていたポーレットは、小さな生き物のお墓づくりという遊びを一種のグリーフケアとして、死を幼いながら心に取り込もうとしたのでしょう。
 戦争で心が傷ついた幼い少女を、盗んだ十字架で動物の墓地を作るという行き過ぎた形で喜ばせようとした少年。二人は大人が始めた戦争で、大人が作った社会のルールによって、なすすべもなく引き裂かれてしまいます。

◆神も仏もない

 この映画で、戦争のもたらす悲しさと共に身に沁みるのは、神ないしは宗教の無力さです。
 カトリック教会の司祭がまとめ役のようなミシェルたちの村。ミシェルの家では、長兄が寝ているベッドの頭の上に十字架が飾ってあります。その長兄の容態が急変し、父親がミシェルに「お祈りをしろ」と命じます。お祈りは効き目がなく兄は死んでしまいます。
 一方、ポーレットは兄の頭の上の十字架を「これ何?」と聞いたくらい、宗教とは無縁な雰囲気の中で育ったことがうかがえます。5歳だったら、その意味はちゃんとわからなくても、家庭にその習慣があれば形としてのお祈りや宗教的シンボルを敬うことは知っていると思います。ポーレットはお祈りの言葉も、十字を切るのも、ミシェルから教わります。
 人間は自分たちではどうすることもできないとき、神仏などの超越者にすがります。けれども、神を信奉していたミシェル一家にも兄の死という不幸が訪れ、無神的な雰囲気の中で育ったポーレットにも両親の死が同じように訪れています。神は信じる者にもそうでない者にも無力であるようです。
 そして、都会よりも教会の教えが生活の隅々に規範として沁み込んでいるはずのミシェルの村なのに、ミシェルの姉とグアールの息子は親に隠れて肉体関係を持って、姉が司祭に告解しています。ミシェルの家と隣のグアール家は、汝の隣人を愛するどころか憎しみ合っています。国と国との戦争をまつまでもなく、そんな小さな単位の争いや倫理さえ神はどうすることもできません。
 ミシェルの家でいちばん教会の教えを学んでいたのはミシェルですが、墓地ならたくさん十字架があると言うポーレットをたしなめるどころか、兄の十字架も含め15個も盗んでしまいます。死者と神を冒瀆するようなこのような行為にも、神は罰を与えるどころか沈黙を続けています。
 人間の愚かな行いを止めることは神にはできない――戦争の悲惨さの訴えとともに、神や信仰など、すがるものは何もないというペシミズムがこの映画を貫いています。

◆繰り返す過ち

 ご覧になった方はわかると思いますが、ポーレットが抱いていた子犬の死骸は本物ではないかという気がします。ぬいぐるみかと見えるカットもあれば、何か薬を打たれたのかピクピクしていたり、薬で眠らせているにしては硬直しているように見えるカットもあります。残念なことですが、この頃の映画が本物と見まごうほど精巧な作り物を作って撮影していたとは考えにくいのです。『幕末太陽傳』(1957年/監督:川島雄三)では、出演者の小沢昭一が本物の猫が犠牲にされたと語っていましたし、かわいそうですが同様のことが行われていたのではないかと思います。
 この映画を見たいと思われた方の中で、そういう映像を見るととても辛くなる方には注意が必要ですので、お知らせさせていただきます。

 戦争のとき、真っ先に犠牲になるのは子ども。昨年2022年はロシアのウクライナ侵攻、今年2023年はイスラエルハマスの戦闘が始まってしまいました。
 フランスは第二次大戦後、旧植民地との間で1960年代まで戦争をしていました。この映画が作られたのはベトナムと戦った第一次インドシナ戦争の最中です。両軍や民間人を合わせて何十万人という人々が亡くなったそうです。罪のない子どもを犠牲にする戦争は終わりにしてほしいという願いや、隣同士から国家間まで争いを繰り返す人間の愚かさと、それを止めることができるのは神ではなく人間自身だということを、この映画は静かに訴えています。


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