この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

ベイブ

農場にもらわれた子豚のベイブ。食べられてしまうはずの運命が、牧羊犬コンテストに出ることに!?
感動のピッグドラマ。


  製作:1995年
  製作国:オーストラリア、アメリ
  日本公開:1996年
  監督:クリス・ルーナン
  出演:ジェームズ・クロムウェル、マグダ・ズバンスキー、
    (声)クリスティーン・カヴァナー(ベイブ)、
     ミリアム・マーゴリーズ(フライ)、他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    ベイブと同じ農場に飼われている猫
  名前:ダッチェス
  色柄:濃いグレーのペルシャ


◆何のため生きる

 前回は、日本初の本格トーキー映画『マダムと女房』(1931年/監督:五所平之助)を取り上げましたが、今回はなんと、人間ばかりではなくブタや犬や猫までトークしてしまう映画を取り上げます。とまあ、冗談はともかく、羊や牛などたくさんの動物がいる農場が舞台の映画で、動物同士が人間語で会話するところはもちろん吹替、主人公ベイブは白豚の子豚です。そのかわいらしいこと!
 この子豚が牧羊豚としての才能を見出され、無口な農場主と新しい生き方を開いていく物語。その背景には「ブタは人に食べられるための生き物」という非情な現実が横たわっています。
 我が家の近所でもひところ小さいブタをペットとして散歩させている人の姿を見かけ、話題になったりしていたのですが、ここのところすっかり見なくなりました。あの子はどうしたのか。元気なのか、引っ越したのか、それともハムになってしまったのか。ほかの動物なら姿が見えなくなっても食べられたなどとは思いもしないのに、ブタは命の意味をより考えさせてくれる動物です。
 子ども向けの映画と思われがちですが、社会であえぐ大人にこそ沁みる映画です。

◆あらすじ

 養豚場で生まれた子豚の1匹が、とある村のお祭の「ブタの体重当て」用に選ばれた。賞品はその子豚。ブタを当てたのは農場主のアーサー・ホゲット(ジェームズ・クロムウェル)だった。もらわれた子豚のベイブ(声:クリスティーン・カヴァナー)はママに会いたい、とめそめそ。農場の動物たちの中で、子犬を育てていたメスの牧羊犬のフライ(声:ミリアム・マーゴリーズ)が、母親代わりに面倒を見る。
 アヒルのフェルディナンドは、雄鶏代わりに時を告げて得意になっていたが、ある日おかみさんのエズメ(マグダ・ズバンスキー)が目覚まし時計を買ったのに腹を立て、ベイブを誘って家の中に忍び込み、時計を始末しようとする。そのとき、猫に見つかって大あわて。家の中をめちゃくちゃにしてしまい、ベイブは動物たちのボスのオス犬レックスに説教される。
 クリスマスに農場主の娘一家がやって来てベイブかアヒルのフェルディナンドのどちらかがごちそう候補になったが、別のアヒルが丸焼きにされたのを見て、フェルディナンドはいたたまれず家出する。見送っていたベイブは羊泥棒に気づき、農場主のアーサーに知らせに走る。その後ベイブがニワトリを色別に分けて並ばせているのを見かけたアーサーは、ベイブに牧羊の才能があるのではないかと牧羊犬の訓練を始める。
 母親代わりの牧羊犬フライはベイブを応援し、コーチするが、オス犬レックスは牧羊犬の誇りを傷つけられ、いい顔をしない。話し合おうとしたフライにレックスが飛びかかって、走れないほどのけがをさせ、レックスは獣医に注射をされて牧羊犬としての役目にピリオドを打つ。ついにベイブが2匹の犬の代わりを務めざるを得なくなった。
 全国牧羊犬コンテストが近づいたある日、アーサーは、思い切ってベイブを出場選手として申し込む。前代未聞のブタの出場にコンテスト会場は騒然とするが・・・。

◆口を開けば

 意地悪猫のダッチェス、濃いグレーのペルシャ猫ですが、猫の色の表し方だと「ブルー」と分類されるようです。ペルシャらしく口がへの字に下がって、いかにも性格が悪そう。
 アーサーの農場では、家に入っていいのは犬と猫だけ。妻のエズメはベイブをいずれ食べてしまうブタとしか見ていませんが、アーサーは初めて会ったときからベイブとなんとなく通じるものがあったよう。クリスマスのごちそうにエズメがベイブをローストポークにしようと考えていたとき、アーサーは「もっと太らせれば来年ハムのコンテストで優勝できるかも」と、エズメの気をそちらに向けさせ、ベイブは命拾いします。
 牧羊犬コンテストの前日の、エズメが婦人会の会合に泊りがけで出かけている夜、アーサーはベイブを家に入れ、いつも暖炉の前のいい場所に寝そべっている猫のダッチェスは追いやられてしまいます。ダッチェスはシャーッと怒ってベイブの鼻にひっかき傷を。
 なおも腹の虫がおさまらないダッチェスは、アーサーが席をはずした隙に「こんなことあなたに言うべきかどうかわからないけど・・・」とベイブに話しかけ、「自分がブタだということを忘れて牧羊犬のつもりになっていると、みんなが笑っている」「動物には役割がある。役立たずのブタは人間に食べられるために飼われている」「ポーク、ベーコン、生きているときだけ『ブタ』」と、ベイブに言って聞かせるのです。動揺したベイブはフライのいる小屋に行き、「人間ってブタを食べるの? ご主人も?」と聞くと、フライは静かに「そうよ」と答えます。
 ベイブはショックを受け、雨の夜中に外に飛び出して、翌朝茂みに隠れているところを見つけられ、コンテスト当日なのに風邪をひいてしまいます。
 ベイブに動物それぞれの役割を説明するときの猫のダッチェスの言いぐさは「牛はミルクを出す、犬は羊を集める、わたしは、美しいペットとして愛される」。どこまでうぬぼれが強いのか、こいつ!
 どこにもいる、他人の幸運をうらやんで引きずり降ろそうとするいやな奴。農場のボス格のレックスも、ブタの持って生まれた役割を越えてベイブが牧羊犬の真似をすることにプライドが傷つけられ、快く思いません。人間社会も動物社会も、ねたみや嫉妬というドロドロした感情が、前例や慣習を乗り越えようとする者の壁になってしまうのでしょうか。
 猫のダッチェスは、ブタの体重当てで「ブタが当たったらハムとベーコンにしましょうね」と話すおかみさんの肩に乗っている場面で初めて登場し、ベイブに意地悪な口を利く場面まで何度も登場しますが、セリフを話すのは意地悪のときが初めてです。口を開くと嫌なタイプってやつですね。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆競争社会

 愛くるしく素直な子豚のベイブ。『ベイブ』の投げかけるものは、生まれながらの差別の問題、生命の優劣、多様性、映像加工の課題など、様々なジャンルに及んでいます。
 主人公の子豚は人間に置き換えて考えることができます。罪もない無垢な子豚(子ども)が、自分が他者から踏みつけにされるような差別的な運命に生まれたことを知る。そして仲良く暮らしているように見える動物たち(人間たち)も、それぞれの種類ごとに陰では優劣を競っている。優劣の評価は人間(支配者)の役に立つかどうかで決まる。日常的に人間に利をもたらさない者は、人間の犠牲になることでその役割を全うする。
 農場の問題児・アヒルのフェルディナンドが、なぜ雄鶏のお株を奪って時を告げていたのかというと、そうやってほかのアヒルと違って人の役に立つ存在であることをアピールしていたのです。だからおかみさんが目覚まし時計を買ったときに青くなったわけです。フェルディナンドがクリスマスに別のアヒルが犠牲になったのを見て農場を出て行ったとき、ベイブはまだわが身が同じ立場であるとは思っていませんでした。

◆サバイバル

 ベイブはフェルディナンドのように自分から役に立とうと働きかけたわけではありませんが、牧羊豚としての才能を見出されます。
 牧羊犬フライたちは、羊を自分たちより劣ったバカな動物と低く見て、力による支配を行っています。ベイブは子どもということもあって逆に羊たちにバカにされ、フライに教わった通り噛みついたり威圧したりしますが、おばあさん羊から「丁寧に頼めばいいのよ」と教わり、コミュニケーションによってリードする術を学んでいきます。これはまさしく現代ビジネスの王道。ヒエラルキーによる上意下達の命令系統からフラットな風通しのよい組織へ。子豚のベイブには、これはこうあるべきという硬直した経験則がなく、自分らしい牧羊スタイルを確立していきます。
 ベイブがそうやって羊たちに受け入れられたのも、フレンドリーで素直な性格ゆえ。人柄も成功の鍵です。

 と、なんでも処世訓に結び付けて考えてしまうのは大人の悪い癖。ただ、優れたスキルを持つベイブにも生まれながらの宿命という、いかんともし難い問題は依然として存在します。本来は食肉になるのが彼の未来です。彼はその未来を免れうるのか? また、ベイブにはたまたま人の役に立つ才能と、それをくみ上げてくれる人の存在があった。けれどもそれを持ち合わせない者は、ただひたすら肉になる役割を引き受けざるを得ないのか。
 もしベイブが「ブタは人間に食べられるために飼われている」と知ったのが、牧羊豚としての訓練を始める前だったら、ベイブは訓練などあきらめて肉になる道を歩んだと思います。訓練によって積み上げてきたものがあったからこそ、それを無にしたくないとベイブはコンテスト目前に立ち直れたのでしょう。不条理とぶつかるにもタイミングがあるのです。

◆命をどうする

 『ブタがいた教室』(2008年/監督:前田哲)という、ある小学校での実話をもとにした映画があります。6年生のあるクラスで、1年飼ったら食べるという前提で子豚のPちゃんを飼い始めます。その1年目になる前にPちゃんの今後を話し合い、3年生に引き継ぐ、食肉センターに送る、とクラスの意見が真っ二つに割れてしまうのです。
 シナリオを与えられていない子どもたちの真剣な討論にもらい泣きしてしまうのですが、ここではクラスで1年間世話をしたPちゃんの命をどうするかが問題となっていて、そもそも動物を食べるということをどう考えるのか、という議論に直接踏み込んではいません。
 『ベイブ』もその問題に答えを用意していませんが、ある人物は行動変容を起こしました。農場主アーサー・ホゲットを演じたジェームズ・クロムウェル(注1)は、この映画の出演後に菜食主義者からヴィーガン(食物に限らず革製品など動物由来の物を利用しない)に転向したというのです。この映画は完成まで長期にわたり、ベイブ役の子豚も48頭を数えたということなので、特定の子豚への愛着からではなく、長い間ブタや動物たちと向き合ったことが彼の変化を促したのでしょう。また、この映画の公開後、アメリカでの豚肉の消費量が20%ダウンしたと言われています(注2)。

 崇めたり、忌避したり、利用したり、食用にしたり、人間の動物に対する態度は様々で、文化的な伝統は容認すべきと思います。ただ、命を粗末に扱うこと、動物をみだりに苦しめることは、見直し、変えていってほしいと願います。

◆虚実のあわい

 この映画のCGや、人形を使って本物の動物のように動かす技術は、意図的にマンガっぽく誇張された部分もありますが、それを除けば実写と加工の部分をほとんど意識させない自然なものです。けれども一方で一抹の不安を覚えるのも確かです。
 映画を歴史的な史料としたい者にとっては、本物と作り物の区別がわからないことは致命的です。古い実写の映画だからと言ってすべて真実を写し取っているわけではありませんが、本物と見分けのつかないほどまで巧妙な現在の画像加工の下では、史料としての映画の価値は皆無だと思っておいた方がいいのかもしれません。どこからどこまでが真実で、どこに手が入っているのか。記録は残っているのか。誰が責任を持つのか。
 この映画にも頻繁に登場する、動物の顔を交互に映し出してあたかも会話しているように見せるカットバックの手法は古典的なもので、映画の虚偽性はいまに始まったことではありません。けれども前回も書いたようにAI映画が当たり前になったらそこに何があるのか。
 一方で、アニメに描かれた実在する風景に聖地巡礼としてたくさんの人が訪れています。このパラドックスは、何!?


(注1)ジェームズ・クロムウェルは、前回の『マダムと女房』の記事の中でご紹介した『アーティスト』(2011年/監督:ミシェル・アザナヴィシウス)で、主人公の心の友の運転手役を演じています。
(注2)IMdb

 

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