この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

刑事ジョン・ブック 目撃者

仲間の犯罪を追う刑事ジョン・ブック。彼が潜伏したのは目撃者の少年とその母親が住むアーミッシュの村だった。


  製作:1985年
  製作国:アメリ
  日本公開:1985年
  監督:ピーター・ウィアー
  出演:ハリソン・フォード、ケリー・マクギリス、ルーカス・ハース
     アレクサンダー・ゴドノフ 他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    農場に住んでいる猫
  名前:なし
  色柄:キジ、キジ白、黒2匹


◆少年は見た!

 原題は『Witness』。ずばり「目撃者」です。『刑事ジョン・ブック 目撃者』という題名を聞いたとき、なんと味気ない! と思いました。かつて洋画の邦題は、文学的な香りのするものが多かったのに・・・。「目撃者」という題の映画は既にありましたし、大人気のハリソン・フォードが主役の刑事だと注目させるべく、この題名になったのかもしれません。80~90年代の邦題に、原題+内容を示唆する日本語の組み合わせがよく見られたと思います。最近のカタカナオンリーの邦題よりはまだ詩心があったかな?

◆あらすじ

 ペンシルベニア州アーミッシュの村のレイチェル(ケリー・マクギリス)は、夫を亡くしたあと、息子のサミュエル(ルーカス・ハース)と二人でボルチモアに住む姉を訪ねることにした。途中、列車の乗り換えのためフィラデルフィア駅で待つ間、トイレに行ったサミュエルは殺人事件の一部始終を目撃してしまう。
 刑事のジョン・ブック(ハリソン・フォード)は、唯一の目撃者のサミュエルを警察署に連れて行き、容疑者の黒人の男を割り出そうとした。サミュエルは署内に掲示されていた麻薬課の警部補マクフィー(ダニー・グローヴァー)の写真を偶然見て、この男だとジョンに知らせる。マクフィーがこの事件に絡んでいると内密にシェイファー本部長(ジョセフ・ソマー)に報告したあとで、ジョンはマクフィーに銃で襲われる。麻薬の裏取引で結託していた本部長とマクフィーは、ジョンとサミュエルを消そうとしたのだ。負傷したジョンは、車を運転してレイチェルとサミュエルをアーミッシュの村に送り届けたが、傷が深く倒れ込んでしまう。
 伝統の治療法とレイチェルの看病でジョンは回復する。レイチェルの義父と親子の家に身を隠したジョンは、次第にアーミッシュ生活様式に馴染むとともに、レイチェルと惹かれ合っていく。だが、ジョンという異分子を村に入れたのは、アーミッシュの掟を破ったと言われかねないことだった。二人は村の噂になる。
 友人のカーター巡査部長がシェイファーたちに殺されたことを知ったジョンは、カーターの仇を討つためフィラデルフィアに戻ることにした。それを知ったレイチェルは、アーミッシュの帽子を脱ぎ捨て、自分からジョンの腕の中に飛び込んでいく。
 翌朝、レイチェルの家にシェイファー、マクフィーらがジョンの命を奪いにやってきた・・・。

◆子猫のきょうだい

 この映画の猫が出るシーンは2箇所。どちらもストーリーには関係ありません。初めは、映画のちょうど真ん中へん、サミュエルが収穫したトウモロコシの実を貯蔵するサイロについてジョンに説明していると足元で2匹の子猫がミイミイ鳴いています。サミュエルはキジ白の子猫をジョンに渡し、「なでると喜ぶんだよ」と言って、自分が抱き上げたキジ猫の首を後ろにそらせて喉をなでてみせようとしますが、この子猫、もがいてサミュエルの説明通りのお手本を見せてくれません。
 2度目はそれから30分近くあと。カカシの見える草むらで黒い子猫が2匹、じゃれています。1匹が跳びはねて走っていくと、もう1匹がそれを追いかけて行くほほえましいシーンです。
 子猫のきょうだいのじゃれ合いは、ほんとうに見ていて飽きません。力の強いのとか、おとなしいのとか、最初遊んでいたのに段々本気でケンカになったり。通いのノラちゃんの子育てを何度も見てきましたが、ある日を境に、かき消すように1匹もいなくなることが時々ありました。人為的なものなのか、猫為的なものなのか、真相はいまだに謎です。ハーメルンの笛吹男みたいなのがいたのでしょうか?

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

アーミッシュの暮らし

 殺人事件を目撃した少年と未亡人の母親、二人を助けようとした男の窮地を母親が救い、いつしか二人には恋が芽生え、そこに男の命を狙う悪者がやってくる・・・映画やテレビドラマなどでありがちな通俗的なストーリーである『刑事ジョン・ブック 目撃者』を類似のものから際立たせているのは、アーミッシュの文化についての描写です。
 アーミッシュキリスト教宗教改革の時代にルーツを持つ再洗礼派の一派で、アメリカではこの映画の舞台となったペンシルベニア州オハイオ州に居住者が多く、特にペンシルベニアのランカスター地域には、その現代社会と一線を画した生活を一目見ようと大勢の観光客が訪れるということです。この映画のロケも1984年夏にそこで行われました。

 アーミッシュたちは、質素、倹約、非暴力を重んじ、自分たちの伝統的な小規模の共同体を維持するため、外の世界から入って来る欲望や虚栄をかきたてるものに触れることをできるだけ排除するそうです。けれども近代テクノロジーを否定するのではなく、自分たちの秩序を乱さない範囲で選択的に利用するということです。この映画で、ジョンが友人のカーターに電話をしようとしますが、家には電話はありません。観光客が訪れる地区に公衆電話があり、そこから電話を「かける」のです。
 インターネットもテレビもダメで、ジョンが食事中にテレビコマーシャルの真似をしたときも、みんな「なにそれ?」という顔で固まっています。音楽もダンスも禁止。レイチェルがジョンに誘われてカーラジオの音楽で踊っていると義父にたしなめられます。

 非アーミッシュの人との接触も必要な程度にとどめるそうです。レイチェル親子が姉のところに行くために駅に向かうとき、義父が「イギリス人(イングリッシュ)に気をつけろ」と言うのは、アーミッシュの人々の間で使うペンシルベニア・ダッチという言語ではなく、英語を話す人間に気をつけろ、という意味です。やむを得ない事情とはいえ、ジョンがレイチェルたちの家に逗留するのはとても例外的なことなのです。

◆いらない道具

 ジョンが刑事だということも、アーミッシュの人々にとって好ましいことではありません。刑事は銃という人を殺す武器を持ち、暴力で人を傷つけることもある職業です。サミュエルがジョンの銃をいたずらして、ジョンがレイチェルに銃を預けたときも、レイチェルは汚らわしいものを持つように銃を指でつまんでいます。義父がサミュエルを銃のことで戒めるシーンに、彼らの考え方が端的に現れています。「銃は人を殺すための道具だ。人の命を奪ってはならない。それは神の仕事だ」「悪い人なら殺してもいいのか?」、そして、聖書の一節を引いて「彼らから離れて暮らせ」と。義父は、ジョンがアーミッシュの世界とは相容れない存在であること、彼から距離を置くべきことをレイチェルとサミュエルに説いて聞かせるのです。
 アーミッシュの服を身に着け、村人たちと納屋を建てる共同作業をし、溶け込みつつあったジョンは、公衆電話でシェイファー本部長がカーターを殺したことを知って頭に血が上り、イングリッシュの本性を表します。観光客にからかわれたアーミッシュの村人がじっと耐えていたのに間に割って入り、観光客を血が出るほど殴りつけます。ジョンはこれ以上アーミッシュの村にいられなくなります。

◆異文化間の学び

 この映画は、アーミッシュの文化を世界中に広めるのに一役買いましたが、アーミッシュからは歓迎されなかったようです。ジョンが観光客を殴るこのシーンは、尊厳を傷つけられたアーミッシュをジョンが守ったわけですが、暴力に訴えて人を制圧するのはアーミッシュのやり方ではありません。ジョンがアーミッシュに非ざることを強調したシナリオなのですが、アーミッシュからは、フィクションとは言え、自分たちと同じ外見をした人が人を殴ること自体受け入れがたかったのではないでしょうか。レイチェルが裸をジョンに見せたり、ジョンと抱き合って口づけをかわしたりなども、作り話にしてもとんでもないことかもしれません。
 『アーミッシュ昨日・今日・明日』(2009年/ドナルド・B・クレイビル著/杉原利治・大藪千穂訳/論創社)(注)によれば、パラマウント社は撮影時、アーミッシュに支援を依頼したそうですが、アーミッシュの教会のリーダーたちは、このプロジェクトを助けた者は破門すべきとしたそうですし、映画の撮影に対してペンシルベニア州副知事、他州の役人や地方役人に抗議したということです。また、同書によれば、レイチェルを演じたケリー・マクギリスが、お忍びでアーミッシュ家庭に数日間滞在したことが発覚したとのことで、これは互いの関係にひびを入れる行為です。
 アーミッシュを間違って伝えている、ということがアーミッシュの人々にそっぽを向かれる原因になったようですが、映画を見ない彼らからは完成した作品の感想は聞けません。ただ、現代社会に倦んだ世界には、アーミッシュは好意的に受けとめられたのではないでしょうか。
 彼らの生き方は、SDGsや、戦争や、孤立の問題などに対する多くの示唆を与えてくれます。一方で、固定した男女役割やデジタル化の問題など、時代とともに変わる価値観とどう向き合うかが問われて行くでしょう。

◆美しき思い出

 さて、「あらすじ」では全く省略してしまいましたが、レイチェルを想う男性としてダニエルというアーミッシュが登場します。アーミッシュの男性は結婚するとあごひげを伸ばすということですので、あごひげのない彼は独身です。ユダヤ教徒も似たようにひげを伸ばしますが、口ひげも生やします(サミュエルが駅でアーミッシュかと思って男性に近寄っていくと、口ひげがあるので離れていくシーンがありますね)。
 このダニエル役のすらりとした長身のアレクサンダー・ゴドノフ、元ボリショイ・バレエのスターで、アメリカ亡命後俳優になったのです。以前、テレビでたまたま流れていた映画(おそらく『ダイ・ハード』(1988年/監督:ジョン・マクティアナン))で、アクションシーンの立ち回りの美しい俳優に目を奪われ、これはきっとバレエダンサーだ、と思ったら彼でした。
 イングリッシュだったらレイチェルを巡るライバルのジョンと醜い嫉妬もあらわに争うところでしょうが、最後まで模範的アーミッシュのダニエル。車に乗るジョンとすれ違うラストシーンで、ちょっと手を挙げて挨拶する、そのさまも美しい!
 ああ、アレクサンダー、なぜ死んだ~(1995年45歳没)! 


(注)この記事中のアーミッシュについての記述は、同書を参考にしました。

 

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