この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

駅馬車(1939年)

先住民の襲撃から逃げる六頭立ての駅馬車。目的地に待つ決闘。女に寄せる男の真心。西部劇の金字塔!


  製作:1939年
  製作国:アメリ
  日本公開:1940年
  監督:ジョン・フォード
  出演:クレア・トレヴァージョン・ウェイン、トーマス・ミッチェル、
     ジョン・キャラダイン、他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    道を横切る猫
  名前:不明
  色柄:黒(モノクロのため推定)


◆馬車は行く

 このブログで初めての西部劇です。「西部劇」と言われてその典型的な情景がぱっと頭に思い浮かぶのは一定以上の年齢の人ではないでしょうか。
 19世紀後半のアメリカ西部開拓時代を舞台に、フロンティアを開く人々の不屈の精神や、町や牧場などを舞台に利益の対立する者同士の抗争を描いたアクション映画。銃の撃ち合いが見せ場。登場人物は、無法者や保安官、カウボーイに酒場の女、白人を敵視し襲う先住民(西部劇が盛んだった頃はインディアンと呼ばれていました)。主人公の男性は強くて優しいアメリカ人の理想のヒーローでした。
 いかにヒーローがかっこよく銃を扱うかもポイントで、この映画の主役のジョン・ウェインがやるようにくるっと銃を片手で回して手にスタッと収めるという、おそらく実戦では何の役にも立たたない動作は昔の子どもがよくおもちゃで真似したものです。
 見せ場のガンアクションに持って行くために後付けされたような安っぽいストーリーのものもたくさんあったようですが、西部劇というだけでお客さんが集まったということでしょう。その人気にあやかり、アメリカ固有のジャンルのはずが外国でも真似して作られ、特にイタリア製は日本で「マカロニ・ウェスタン」と呼ばれました。そんな中から感動を呼ぶ多くの名作が生まれています。
 移動手段は馬、人間と家財道具を乗せた幌馬車、そして、この映画の駅馬車(stagecoach)とは、今で言う高速道路のサービスエリアのような中継地(駅)や町へ荷物や人間を乗せて運んだ乗合馬車。映画の冒頭で鉱山労働者の給料を運んでいるように現金を載せることもあり、金品目当ての強盗などにいつ襲われてもおかしくない乗り物だったようです。郵便配達、トラック、現金輸送車、路線バスなどの役割を担った駅馬車は、モータリゼーションと共に20世紀初頭には姿を消したそうです。

◆あらすじ

 アメリカ西部の町トントをローズバーグに向かう駅馬車が出発しようとしている。乗客は、ローズバーグに滞在中の騎兵隊の大尉の妻・ルーシー(ルイズ・ブラット)と、ルーシーを一目見て護衛についたギャンブラーのハットフィールド(ジョン・キャラダイン)、飲んだくれで町を追われた医師のブーン(トーマス・ミッチェル)、同じく町を追われた娼婦のダラス(クレア・トレヴァー)に、自宅へ帰る途中のおとなしい酒の行商人ピーコック(ドナルド・ミーク)だった。ローズバーグへの道のりには、先住民のアパッチ族の襲撃がありそうだという情報が伝えられ、保安官(ジョージ・バンクロフト)が御者(アンディ・デヴァイン)の隣に座って銃を構え、騎兵隊が後ろから護衛についた。ルーシーは身重でこの先の旅が案じられたが、気丈に夫のもとを目指した。
 出発して間もなく街はずれで銀行の頭取のゲートウッドが鞄を抱えて乗り込んだ。さらに進むと、お尋ね者のリンゴー・キッド(ジョン・ウェイン)が乗り込んでくる。彼はプラマー三兄弟の証言で投獄され、彼らに殺された父と弟の仇を取るために脱獄して三兄弟のいるローズバーグに向かおうとしていた。保安官はリンゴーがローズバーグに行くに違いないと思って駅馬車に乗ったのだ。これで駅馬車の乗客は7人、御者と保安官を合わせ総勢9人になる。
 中継地点まで来て、護衛の騎兵隊は命令により帰還し、交代の部隊も先に発ってしまっていたが、乗客の多数決で駅馬車単独で進むことになる。馬車の中でルーシーは露骨にダラスに対して軽蔑の念を表したが、ダラスが娼婦だと知らないリンゴ―は彼女に礼儀正しく接する。
 次の中継地に着いたとき、ルーシーは夫が負傷したと知り、ショックで倒れ産気づいてしまう。女の子が生まれ、ダラスがその子を抱いた姿に心動いたリンゴ―は彼女に求婚する。ダラスは自分の素性を知らないリンゴーに気兼ねして返事をせず、ローズバーグに着けば再び投獄される彼を逃がそうとする。
 気づいた保安官がリンゴーを追おうとしたとき、丘にアパッチ族の戦いののろしが上がる。リンゴ―も駅馬車に乗り込みアパッチ族の襲撃に備える。赤ちゃんが増えた駅馬車は、一刻も早いローズバーグ到着を目指して走り出すが・・・。

◆黒猫のお尻

 猫が出ていないかと色々な映画を見ていると、猫がよく登場するジャンル、そうでないジャンルがだんだんわかるようになってきます。西部劇には猫はめったに出てきません。動物で一番多いのはやっぱり馬、次に牛、次にニワトリ、それから犬、といったところでしょう(あくまで筆者の実感です)。
 わたしがいまだ猫が出るのを確認できていないジャンルはヤクザ映画・任侠映画です。そもそもあまり見ないせいもあるかもしれませんが、ニャーなどと出てきたらあの張りつめた空気がフニャフニャになってしまうからでしょうか。ヤクザの周辺の女性が働いている料理屋の招き猫とか、姐御の背中の彫り物の猫だったら見たことはあるのですけれど・・・。
 さて、『駅馬車』の猫は、ラスト近く、リンゴ―と仇のプラマー三兄弟との撃ち合いになる前に、プラマー三兄弟の前を横切るという形で登場します。黒猫が横切ると不吉なことが起きる、と言われていますが、まさにそれを暗示するかのよう。兄弟の一人が猫を銃で撃とうとすると、はずれて猫は物陰に逃げ込みます。古いモノクロ映画の黒い猫なので、闇に溶け込むかのようなのですが、その逃げる後ろ姿のお尻の穴がやけに鮮明に映っていて、ニャンともかわいい。緊迫の場面を前につい頬がゆるんでしまう・・・ヤクザ・任侠映画に出て来ない理由はやはりこれでしょうか。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

       

◆対立の構図

 『駅馬車』はそれまで低く見られていた西部劇の地位を一気に押し上げたと言われる名作中の名作。人間ドラマと、アクションと、アメリカ先住民の聖地・モニュメントバレーの風景、テーマ曲、その後のあらゆる西部劇の原点と言っていいのではないでしょうか。ジョン・ウェインがスターの地位を獲得したのもこの映画です。
 巧みに対立の構図が利用された人間ドラマ。大尉の妻で誇り高い貴婦人ルーシーと、風紀を乱すと町を追い出された娼婦のダラス、そのルーシーを洗練されたマナーでエスコートするギャンブラーのハットフィールドと、ダラスをレディーとしてやさしく接する西部の男リンゴー、その脱獄囚リンゴーと彼をにらむ保安官、飲んだくれの無頼の医者対、彼に試供品を片端から飲まれてしまう気の弱い酒の行商人、そしてかつての南部の富裕層と北部の対立。
 実はギャンブラーのハットフィールドは南北戦争でルーシーの父の隊に所属していた南部の名門の出身者。ルーシーの身分に一目で気づき、彼女を護衛したのです。上流の二人に対し、飲んだくれの医者のブーンはかつて北軍に参加したことが自慢の勝者。ハットフィールドはそんなブーンに敵意を示し、マナーのマの字も守らないブーンをルーシーも嫌悪しますが、出産のとき彼女を助けたのはこの医者と娼婦のダラスでした。
 そして最大の対立は、駅馬車の白人一行とアパッチ族。襲いかかるアパッチ族に、脱獄囚リンゴー、保安官、南軍出身のギャンブラーと北軍出身の医者の4人の男たちが、銃を手に取って死闘を繰り広げます。

◆待ち受ける敵

 疾走する六頭立ての馬車と何十人ものアパッチ族。地面に掘った穴にカメラとカメラマンがもぐってそれらを下から撮った映像、走りながら馬から馬へ飛び移る超絶技、落馬したアパッチの男の上を駆け抜けていく馬たち。死人が何人か出てもおかしくないくらいの危険なアクションに、疾走する馬と並走するスピード感あふれる撮影。100年近い昔の映画でありながらものすごい迫力です。
 命からがら一行はローズバーグにたどり着き、最後に待っているのはリンゴーとプラマー三兄弟の対決。
 酒場は西部劇に欠かせない舞台。カウンターはツルツルで、バーテンダーの滑らせたグラスが注文者の前まで一直線に届かなければなりません。三兄弟の中で一番のこわもてのルーク(トム・タイラー)のもとにリンゴーが来たと知らせが届き、酒場全体が凍りつきます。外では、ダラスに求婚したリンゴーと「仕事を探しに」ローズバーグに来たダラスが、娼館の並ぶ一画を歩いて行く。いよいよ自分の素性がリンゴーに知られる、と身をこわばらせるダラスに、待っていてくれと、決闘におもむくリンゴー。この映画の中で最もドラマ性が高まる場面です。二人を待つのは死による別れかもしれません。銃声が聞こえたとき、ダラスの心は・・・。

 リンゴーのプラマー三兄弟への復讐の背景の描き込みが足りないとか、ギャンブラー・ハットフィールドとルーシーの関係が単純化されすぎているというような素朴さも目につきますが、それを忘れさせる娯楽性はあまたの現代の映画を圧倒しています。

アメリカ先住民たちと

 話が出て来なかった銀行家のゲートウッドですが、彼は自分の銀行から預金を持ち逃げして駅馬車に乗ったのでした。だから早く早くと先を急がせ、自分のことしか考えない嫌な奴というキャラクターです。昔のアメリカ映画では、金持ちや銀行家はこのような我利我利亡者として描かれることが多かったものです。

 『荒野の決闘』(1946年/この映画のテーマ曲「My Darling Clementine」は替え歌の「雪山讃歌」になった)、1956年の『捜索者』『リバティ・バランスを射った男』(1962年)などの数々の名作でアメリカの魂を描いたジョン・フォード監督。彼はモニュメントバレーの先住民の経済的困窮を知り、映画のエキストラや裏方に起用して報酬を払っていたそうです。この頃の映画ではアメリカ先住民を悪者として侮蔑的に描いていたのですが、それを償う意味があったのかどうかは定かではありません。
 ジョン・フォード監督の映画は、アメリカ人のアイデンティティを掻き立て、正義と秩序を重んじています。そして白人入植者と先住民の対立という、映画的に最もインパクトのある歴史を用いてそれを浮き彫りにしています。けれども、白人と敵対する先住民を生んだのは白人の彼らに対する行動そのものだったという認識を、のちにジョン・フォード監督は『シャイアン』(1964年)などの映画を通じて明らかにしますが、すでに西部劇の中で差別的な先住民像は固定化してしまった後でした。ジョン・フォード監督の映画がそれに影響したことは残念ながら否めないでしょう。1960年代後半には西部劇自体がすたれて行きます。
 価値観や立場と共に動く時代認識。映画監督は、過去の足跡を消すことのできない厳しい職業だと思います。ただ、ジョン・フォード監督の映画の中に、かつての知り合いや親戚の姿を懐かしむ先住民たちがいるそうです。


参考:『ジョン・フォード アメリカを創った男』(2018年/フランス/ドキュメンタリー)

 

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