この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

舟を編む

辞書とは、言葉の海を渡る舟――15年の歳月を費やして新しい辞書を編纂する人々の、清々しい苦闘の物語。

  製作:2013年
  製作国:日本
  日本公開:2013年
  監督:石井裕也
  出演:松田龍平オダギリジョー加藤剛小林薫、宮﨑あおい、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    早雲荘の家主の猫
  名前:トラさん
  色柄:茶トラ
  その他の猫:早雲荘にやって来る茶トラの子猫

◆言葉は生き物

 毎年、暮れが近づくと新語・流行語大賞が発表されますが、それを聞いて初めてそんな言葉がはやっていたのか、と思うことがしばしばです。会社にいた頃は、ビジネス書などで覚えたてのカタカナ言葉を真っ先にさも得意そうに使う人がいて、ああ、また始まった、と思っていました。ま、こういう人には罪はありません。
 最近、テレビを見ていて気になるのは「~せざる+を+得ない」という言い回しを「~せざる+おえない」というように話す人が増えていることです。ある日、某有名フリーアナウンサーがそのように話しているのを聞いて、こういう人がこう話したら影響される人が出るのもやむを得ない(「やむ+おえない」ではありません)と思いました。
 「めちゃめちゃ」という言葉が「めちゃめちゃ」使われているのも「めちゃめちゃ」気になっています。

◆あらすじ

 1995年。新しい辞書『大渡海』を編纂中の玄武書房・辞書編集部のベテランの荒木(小林薫)は、家庭の事情で退職するため、編集主幹の国語学者・松本(加藤剛)に、後任を探す約束をした。辞書編集部の若手・西岡(オダギリジョー)が見つけてきたのが、コミュニケーション能力不足でオタク的な、営業部のマジメ君こと大学院で言語学を学んだ馬締光也(まじめみつや/松田龍平)。馬締は辞書編集部に異動し、「生きた辞書」を目指そうと新語や流行語にも貪欲に取り組む松本の情熱に心を動かされ、編集作業にのめり込んでいく。
 ある日、馬締の住む古めかしいアパートの早雲荘に、家主の孫娘・香具矢(かぐや/宮﨑あおい)が越して来て、馬締は一目惚れしてしまう。不器用な馬締は一風変わったラブレターを香具矢に渡し、読めなかった香具矢に「手紙でなく口で言って」と怒られる。馬締が「好きです」と言うと「わたしも」という答えが返ってくる。
 馬締を支えてくれた西岡は『大渡海』作成中止という噂を聞きつけて上司に掛け合い、作成継続と引き換えにコスト削減のため辞書編集部から一人減らすという条件を呑んで、馬締に後を託して宣伝部に異動していった。
 馬締と香具矢は結ばれて、2008年。『大渡海』編集作業も最終段階に近づき、馬締が中心となって校正を進めていたが、松本はがんに侵され会社にもあまり顔を出さなくなっていた。発売は2010年3月に決まる。松本の自宅を訪問した馬締は、松本に残された時間が少ないことを悟り、完成した『大渡海』を見せようと仕事を急ぐ・・・。

◆トラとマゴトラ

 早雲荘の家主(渡辺美佐子)は2008年には亡くなって、その遺影にも写っていた「トラさん」。映画が始まって10分もたたないときに、アパートの部屋でコツコツ馬締が仕事をしている窓の外からニャーンと鳴き、中に入れてもらいます。映画ではそれから30分ほど後のある夜、いつものように鳴き声が聞こえたのにトラさんの姿が見えず、馬締が早雲荘の中をぐるっと回って「迎えに来たよ~」と別の窓を開けて呼ぶと、香具矢がトラさんを抱いて月を眺めています。馬締はそのときまで香具矢が家主の家に来たことを知らず、びっくりして腰を抜かしてしまいます。それはただ驚いただけでなく、初めてわが心の女性に出会った衝撃から。トラさんの声に導かれてのこんな出会いでなければ、馬締は恋に落ちなかったのでは。
 西岡の異動が決まり、西岡とその彼女を早雲荘に呼んで飲んだときに、トラさんも部屋でおもてなしをしています。西岡は酔った勢いで彼女にプロポーズ。眠ってしまった二人を置いて、馬締はトラさんを抱いてそっと部屋を抜け出します。人間関係に不器用だった馬締がずいぶん成長しています。
 家主と虹の橋を渡ってしまったのであろうトラさんに代わり、早雲荘の外で鳴いていた茶トラの子猫を、トラさんの孫かもしれないと、馬締と香具矢は迎え入れます。名前はやっぱり「トラジロー」。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆伝える・伝わる

 破綻のない映画で、素直な感動に包まれます。第37回日本アカデミー賞最優秀作品賞など、多数の賞を受賞。そもそも大学院で言語学を修めた馬締が営業部に配属されていたとか、契約社員の佐々木(伊佐山ひろ子)が15年以上も勤務しているとか、終盤、ファッション雑誌を担当していた岸辺という女性(黒木華)が畑違いの辞書編集部に異動してきたり、というところに多少企業としての不自然さがありますが、まあ、それはいいでしょう。2012年に本屋大賞を受賞した三浦しをんの小説が原作で、TVアニメ化もされたということ。
 企業を舞台にし、集団で何年もかかる大きな仕事に挑戦する物語ですが、『プロジェクトX』的なチーム感動ストーリーと言うより、馬締光也という一人の青年の、自己実現の物語と言えます。少し神経質そうで、片時も本を手放さない馬締は、早雲荘の自分の部屋以外の空間もほとんど本で埋め尽くしているという活字オタク(こういう人は映画なんか見ないでしょうね)。笑わない、無表情、コミュニケーション力に決定的に欠ける馬締に、松田龍平は、馬締が先か、松田が先か、と言うくらいピタッとはまっています。
 文字情報にとらわれている彼なので、生身の人間との意思疎通には苦労します。恋をしてどうやって思いを伝えればいいかわからないという彼に佐々木が「ラブレターを書けば」と勧めれば、巻紙に筆でくずし字で書いてしまうし、それを西岡に「戦国武将じゃないんだ」と怒られると捨てようとします。けれども、西岡に、馬締に関心があるならどんな手を使っても読むだろうと「そのまま渡せ」と言われ思い直します。どんなにすばらしい内容の物を書いても、相手に伝わらなければ何にもならないという言葉の持つ本質を、彼はこの経験から学んだはずです。
 馬締とのやり取りの中で見せる、宮﨑あおいの内面的な表情の変化がすばらしい。特に観覧車のシーン。故郷の恋人と自分の職業の選択の間で揺れています。こちらは言語化できないコミュニケーション。早送りで映画を見たのではわからない繊細さです。

◆用例採集

 『大渡海』の監修に携わる国語学者・松本は、辞書編集部のメンバーよりもずっと年上にもかかわらず、新しい言葉、知らない言葉を探しに合コンにも出ていく好奇心の持ち主。『大渡海』編集を「今を生きる辞書」という方針のもとに進めて行くのだと熱く語ります。その話を聞きながら、馬締の体に熱い血が流れ出します。馬締は馬締以上の先輩オタクに出会ったと言えましょう。力で馬締をその気にさせるのでなく、まことに理路整然とした言葉で馬締を引っ張っていく、この老学者の真摯な姿勢に心を打たれます。
 その人物を演じる加藤剛加藤剛の松本教授の、権威ぶらない美しい老い方に憧れとも言える感情を搔き立てられます。加藤剛は眉目秀麗、清廉潔白のイメージそのまま(うちの祖母も大好きで)、TVドラマの大岡越前役で有名ですが、この映画で久しぶりに見たときにずいぶん老けてしまったな、と胸にチクリとするものを感じました。終盤、がんが発見されてからは、メイクも一層病み衰えた老人らしさを強調したものになり、70代半ばでこういう役を演じるのは重たいものがあったのではないでしょうか。この次の映画『今夜、ロマンス劇場で』(2018年/監督:武内英樹)が遺作となりました。
 若くりりしい加藤剛の姿をたずねて『忍ぶ川』(1972年/監督:熊井啓)や『砂の器』(1974年/監督:野村芳太郎)がまた見たくなりました。

◆はじめに言葉ありき

 視覚を主とする表現手段である映画で、言語という絵になりにくい素材を扱いながら、セリフや字幕で説明することは最小限に抑え、人間ドラマを描いた『舟を編む』。出来がいいのが欠点のようなところもあります。何か、スペックも価格も期待通りの電気製品だけれど、それを手にしたための高揚感や面白さを感じるかと言うと、ちょっと違う、というような。独自性、芸術性、知らないものを見たという衝撃はあまり期待できません。
 この映画の時点で既に「ヤバい」と言う言葉が肯定的な意味で使われていた、ということが西岡のセリフでわかります。興味深いのはそうした「用例採集」の部分。用例採集カードが時々映り、聞いたこともない言葉が書いてあったりしますが、最後まで読めるように画面に出ていてもよかったように思います(著作権の問題なのか?)。

 この映画を見て馬締に贈りたい言葉は「若くして生涯を捧げる仕事に出会い、自分の資質を導いてくれる先達に出会い、初恋の人と結ばれ、周囲に悪い人はなく、四十そこそこで成果を出す、というのは、ほとんどの人が望んでも手に入れることができない稀有な幸運。それに恵まれた馬締君、その幸福を分かち合いなさい。今度は君が後進を育てる番だよ!」ということ。
 そして、「お前もこうして文章を書く身なら、言葉の海をもっと泳げ」と自分を省みなければ。
 ・・・猫美人の造語「猫々しい」も、そのうち然るべき辞書に載るといいですね。

◆おまけ

最後にクイズを。


「荒木は、退職後『大渡海』が仕上げに近づいた頃、嘱託として再び玄武書房に戻ってきます。その荒木が退職するとき馬締にやった、書き物をするときなどに服の袖が汚れないように着ける、手首とひじのところがゴムで留まるようになっている筒状の布のことを日本語で何と言うでしょう」


ヒント:「腕カバー」ではありません

 

答えをコメントでお寄せいただいてもいいですよ!
正解は次の記事の公開の前日に発表します。

 

【2022.12.13訂正】 茶トラの子猫の名前を「寅次郎」から「トラジロー」に訂正

eigatoneko.hatenablog.com

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