この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

まあだだよ

随筆『ノラや』で愛猫の失踪を書いた内田百閒(ひゃっけん)をモデルに、監督自ら書き下ろした脚本によるほのぼのとしたドラマ。黒澤明監督最後の作品。


  製作:1993年
  製作国:日本
  日本公開:1993年
  監督:黒澤明
  出演:松村達雄香川京子、井川比佐志、所ジョージ、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    先生宅の飼い猫
  名前:ノラ
  色柄:茶白ブチ
  その他の猫:ノラの後釜クルツ(黒白ハチワレ)、ノラに似た近所の猫

◆ラスト黒澤

 最後の作品『まあだだよ』から5年以上経った1998年9月6日に、88歳でこの世を去った黒澤明監督。1986年に戦国時代を舞台にした大作『乱』を作ったあと、『夢』(1990年)『八月の狂詩曲』(1991年)など、老境に人生を振り返るような作品が続いていました。『まあだだよ』のあと、最後に温めていた企画『雨あがる』は脚本が未完成のまま小泉堯史監督に引き継がれ、2000年に公開されています。
 スケールの大きい男性的な活劇をスクリーンに展開して見せた巨匠黒澤明の最後の作品は、穏やかさの中に幾分の痛々しさを感じさせるものになっています。

◆あらすじ

 太平洋戦争中、大学でドイツ語を教えていた先生(松村達雄)は文筆業一本で生計を立てる目途が付き、大学を退いた。先生は独特のユーモアで教え子に慕われていて、先生の還暦のときには自宅に16人もが集まり、先生のふるまった馬と鹿の肉の馬鹿鍋をつついて愉快に過ごした。
 終戦後、焼け出された先生は妻(香川京子)と二人で小さな小屋に住んでいたが、見かねた教え子の高山(井川比佐志)と甘木(所ジョージ)が先生に家を贈りたいと相談した。
 高山と甘木らは先生の61歳の誕生日に摩阿陀会(まあだかい)という集いを催し、戦後の何もない中、何十人もの教え子たちが協力・参加して酒を酌み交わした。その後毎年先生の誕生日に集まるのが恒例となる。
 教え子たちのおかげで先生は池のある新居を構えることができた。そこに迷い込んできた茶白のブチ猫を「ノラ」と名付けて飼っていたが、ある日ノラがいなくなり、先生は食事ものどを通らないほど憔悴してしまう。教え子たちも協力してノラを探すがみつからない。何ヶ月かたち、今度は黒白の猫が先生の庭にやってくる。先生はその猫にクルツと名を付け、次第に元気を取り戻す。
 摩阿陀会も17回目を数え、先生は教え子やその家族たちに囲まれながら喜寿を祝う。その席で先生は体調を崩し、家に運ばれてしまう・・・。

ノラや

 昭和初期から中期に活躍した内田百閒は、愛猫のノラのことを書いた『ノラや』や、それに前後する猫に関する随筆を著しています。『まあだだよ』の中間部に挿入されるノラのエピソードは、その『ノラや』をもとにしたもの。猫が登場するのは、この部分のみです。
 ノラが失踪したのは昭和32年(1957年)3月27日。映画では先生が九州に出張中で、途中の駅のガラス窓にノラの姿が写ったのを見て嫌な予感を覚えたらノラがいなくなっていた、と描かれていますが、『ノラや』によれば、百閒がノラの幻を見たのは失踪の前年です。ノラがいなくなった日、百閒は朝方になってようやく寝付け、午後3時頃に目覚めたそうなのですが、昼頃奥さんがノラを抱いて庭に出ると、ノラがもがいて塀の陰から外に行ってしまい、それっきり帰らなくなったということ。
 『ノラや』では、その日から毎日、内田百閒が帰らぬノラを思って悲嘆にくれる日記になるのですが、ノラがいつもお風呂の蓋の上に置いた座布団で寝ていたので、ずっと風呂をたかずに座布団を置いたままにしていたり、何も手につかないため20日も顔を洗わずノラの座布団に顔を付けて涙を流したり(失踪後初めて入浴するのは1ヶ月以上過ぎた4月30日!)、ノラによくおすそ分けした玉子焼きを見るにしのびず鮨の出前を取らなくなったり…。心配した奥さんが教え子を呼んで百閒に付き合わせますが、そうでもしなければどうにかなってしまいそう。明らかに抑うつ状態に陥っています。有史以来、猫はどれだけの人間をこうして苦しめてきたのでしょう。
 それにつけても頭が下がるのは、付き合わされた教え子たち。新聞に迷い猫の折り込み広告を出したあと、似た猫がいるという知らせを受けると会社の仕事を中断して見に行ったりするのです。
 映画では、ノラの代わりにしっぽの短い黒白の猫が現れ、それを先生夫妻はクルツ(ドイツ語で「短い」の意)と名付けて飼うことにしますが、『ノラや』と続編『ノラやノラや』によると、現れたのはノラが帰ってきたかと見間違えるほどそっくりの茶白の猫。尻尾が短いところがノラと違うだけで、兄弟ではないかと百閒たちは思います。この猫の死までを看取る『クルやお前か』も胸をえぐる猫愛で、途中から読み進めるのが難しくなってしまいます。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆世界のクロサワ

 昭和を半分ほど生きた人はリアルタイムの黒澤明の映画と、その人自身を見、聞き、体験することができたわけですが、黒澤監督の仕事の流儀は、令和の世では受け入れられそうもないワンマンなものとして音に聞こえていました。自分の作りたい映画を時間も予算も度外視して作り上げようとする姿勢と情熱、実際それを実現させてしまうだけの強引さ、誰も逆らえなかったため「黒澤天皇」というあだ名があったほどです。スタッフや俳優は徹底的にダメ出しをされ(先生を演じた松村達雄は、映画の最初の、教室に入って来るところで何度やってもOKが出なかった、という話を聞いたことがあります)、一日が終わった後も夜集まって歌を輪唱させられたりしたそうです。
 ベネツィア国際映画祭で日本映画初のグランプリを受賞した『羅生門』(1950年)では、巨大な半分崩れた羅生門をオープンセットに建ててしまったため、映画会社(大映)が予算が狂い青くなったと聞きます。
 まだ黒澤監督の映画を見たことがない人が『まあだだよ』を「マイ・ファースト・黒澤」に選んではいけません。2022年12月の英国映画協会の、世界の映画監督が選んだベスト100の映画に入っている『羅生門』、『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)、『蜘蛛巣城』(1957年)のいずれか、中でも『七人の侍』が、黒澤監督らしさが凝縮していてお勧めです。セリフを覚えてしまうくらい何度も見ても飽きません。ちなみに私の「マイ・ファースト・黒澤」は小学生のときの『どですかでん』(1970年)でした。『少年マガジン』に掲載されたメイキング特集を見て見に行きたいと思ったのです。

◆わが師の恩

 『まあだだよ』は、30年以上ドイツ語教師をしていた先生の最後の授業の場面から始まります。先生がやめることを知った学生たちは「先生はドイツ語のほかにもとても大切なことを教えてくれたように思います」と言って全員起立し、直立不動で先生への敬意を表します。
 そして、還暦の日に教え子たちを呼んだ馬鹿鍋の席で、談論風発のさなか、集まった全員が先生の方に向き直り、姿勢を正して「仰げば尊し」を歌います。
 麗しすぎる師弟関係にややムズムズするものを覚えますが、それが最高潮に達するのが第1回摩阿陀会の席上。
 摩阿陀会は、「先生、まだ死なないのか、まあだかい?」「まあだだよ」というかくれんぼの呼び声をもじった、きみまろ式のユーモアによる命名。先生への賛辞、祝辞、謝辞が続いたあと、先生にお酌をしようとまたもや全員(北海道から鹿児島までの駅名をソラで言っている一名を除いて)が一斉に集まります。「出た出た月が」と歌いながらの宴会芸や、続く「オイチニの薬屋さん」(注)の、汽車ごっこのようにみんなが連なって歌いながら行進する3分間。大半の観客が映画と自分の距離が遠くなるのを感じたと思われるところで、最後に先生の葬列を模したパフォーマンス。先生のご遺体役だった所ジョージの甘木がパッと立ち上がって紅白の扇を手に「まあだかい」と音頭を取り、先生が「まあだだよ」と答えるこのシーンは、先生と教え子たち以外入り込めない極私的ユートピア以外の何物でもありませんでした。

◆夢のまた夢

 ①先生の人となり ②教え子との交流と摩阿陀会 ③ノラの失踪 ④晩年の先生と摩阿陀会、という『まあだだよ』の構成で黒澤監督が一番描きたかったものは何でしょうか。それは、観客が一番置いてきぼり感を味わった第1回摩阿陀会と、喜寿の摩阿陀会で体調を崩した先生が家に帰って床の中で見る夢だったと思います。
 日米合作の『トラ・トラ・トラ!』(1970年/監督:リチャード・フライシャー舛田利雄深作欣二)で日本側の監督を任されるはずだった黒澤監督は1968年12月にアメリカ側から解任されてしまいます。ワンマンでコストを度外視した黒澤監督流のやり方がアメリカ側に受け入れられなかったようです。日本で映画の観客動員数が減少し、映画会社がかつてのように資金を出せなくなった中で、時間とお金に糸目をつけない黒澤監督は次第に敬遠されるようになっていき、初のカラー作品『どですかでん』の興行的失敗のあと、1971年12月に自殺を図り、未遂に終わります。そんな黒澤監督に手を差し伸べたのは海外の映画関係者でした。
 黒澤監督の映画作りを支えたのは「黒澤組」と言われるなじみのスタッフや俳優たち。イヤと言うほどダメ出しをされた俳優たちは、監督の「OK」の声を聞くとそれだけに嬉しかったそうです。時には黒澤監督自ら最上級のステーキを焼いてスタッフや俳優たちにふるまうこともあった――そんなエピソードから浮かび上がる黒澤監督は、『まあだだよ』の先生のように「愛されジジイ」として気の置けない人々に囲まれた晩年を送りたかったのだと思います。かくれんぼをして遊んだ子どもの日のように分け隔てなくワイワイと。寂しかったのかもしれません。『まあだだよ』のようなモラルと信頼という芯のあった時代は、セピア色の彼方に過ぎ去ってしまっていました。

 『まあだだよ』は、黒澤監督らしくない作品なのか、と言うと決してそうではありません。ノラを探してくれた人々や先生の隣の空地をめぐる人間の良心についての寓話的・教訓的なまとめ方、集団で歌ったり踊ったりする場面の挿入、音楽に意味を持たせるところ、先生のやつれ顔のメークなど、随所にその特徴が顔をのぞかせています。
 
 初めて見たとき、第1回摩阿陀会のシーンで「まあだ終わらないのかい」と苦しみましたが、次に見たときは心構えができていたため、そこまでは感じませんでした。が、ノラのエピソードがなければ、二度は見なかったかもしれません。映画を見て苦しみ、黒澤監督に申し訳なく思った気持ちを思い出したくないと。


(注)明治から昭和初期にかけて、手風琴の伴奏に合わせて歌いながら兵隊の装束で薬を売り、その合いの手から「オイチニの薬屋さん(薬売り)」と呼ばれていた行商人。このように集団でつながってやって来たりはせず単独行です。
私もいくつかの映画でしか見たことはありませんが、稲垣浩監督の1965年の『無法松の一生』で、大辻伺郎がこのいでたちをしたカラー映像が見られます。

 

参考 
ノラや』内田百閒集成9(内田百閒 ちくま文庫 2003年)
黒澤明映画はこう作られた~証言秘蔵資料からよみがえる制作現場」
(NHKBS1スペシャル 2020年11月8日放送)


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