この映画、猫が出てます

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洲崎パラダイス 赤信号

行き場のない腐れ縁のカップルが「洲崎パラダイス」に流れ着く。かの巨匠を牽制した(?)、川島雄三監督流の人間観が見える風俗スケッチ。

 

  製作:1956年
  製作国:日本
  日本公開:1956年
  監督:川島雄三
  出演:新珠三千代三橋達也轟夕起子河津清三郎芦川いづみ小沢昭一、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    子どもがおもちゃにする子猫
  名前:なし
  色柄:キジ白


天国の門

 原作は芝木好子の小説『洲崎パラダイス』(1955年)。
 洲崎パラダイスとは、1958年の売春防止法の施行によって姿を消した赤線地帯のひとつ。現在の東京都江東区にあり、江戸時代には潮干狩りなどもできる景勝地で、歌川広重の名所江戸百景「深川洲崎十万坪」にも描かれています。ここに遊郭が置かれたのは、明治時代に東京帝国大学(現在の東大)の近くの根津遊郭を、帝大生が入り浸ってはよろしくないとの理由で移転させたため。関東大震災や太平洋戦争の空襲からもたくましく立ち上がり、昭和中期まで隆盛を誇ったそうです。この映画でも見られるように、戦後は独特のアーチが建ち、まるでテーマパークのようにあたりはばかることなく存在していたことが、今の世の目で見ると驚きです。
 売春防止法の施行をめぐっては、溝口健二監督の『赤線地帯』(1956年)や、田中重雄監督の『赤線の灯は消えず』(1958年)で、行き場を失う娼婦たちの苦悩が社会問題の提起も交えて描かれましたが、『洲崎パラダイス 赤信号』は、娼婦ではなく、その街があることで暮らしを立てている、パラダイスへ渡る洲崎橋の手前の川っぷちの人々のほろ苦い人間喜劇です。スケッチ風に人々の姿を追いながら、川島雄三監督はタイトルに「赤信号」という印象的な言葉を付けて、登場人物たちに「止まらんと危ないぜ」と声をかけているかのようです。

◆あらすじ

 隅田川にかかる勝鬨(かちどき)橋。無造作に髪を束ね崩れた和服の女・蔦枝(つたえ/新珠三千代)が残り少ない金の中からタバコを買って義治(よしじ/三橋達也)に渡す。
 二人は腐れ縁のカップル。義治は蔦枝が原因で仕事をクビになったのだが、行く当てのない二人は口論の末、腹を立てた蔦枝が来合わせたバスに飛び乗り、義治もあわてて乗り込む。二人が降りたのは洲崎弁天町。「洲 パラダイス 崎」のアーチの前で二人は立ち止まる。蔦枝はどうやら昔ここで娼婦をやっていたらしい。
 パラダイスの手前、洲崎橋のたもとの飲み屋・千草の「女中さん入用」の貼り紙を見て、蔦枝はおかみ(轟夕起子)に住み込みで雇ってくれ、義治にも何か仕事はないかと頼み込む。たまたま来た常連のラジオ屋の落合(河津清三郎)への蔦枝の客あしらいのうまさにおかみは承知して、蔦枝と義治はその晩千草の2階に泊まった。おかみの夫は、4年ほど前にパラダイスの中の女とできて、子どもとおかみを置いて出奔してしまっていた。
 翌日、千草のおかみは義治にも近くのそば屋の出前持ちの仕事を探してきてくれた。出前持ちの三吉(小沢昭一)が義治に先輩風を吹かし、玉子(芦川いづみ)というまじめでかわいい店員は義治に好意を持ったようだ。義治と蔦枝は、それぞれの店で住み込みで働くことになった。自分にべったりで甲斐性のない義治にいらだっていた蔦枝は、いざ離れ離れになると辛くなった。
 蔦枝は、常連の落合とねんごろになり、アパートを世話されて義治には何も知らせずいきなり千草を出て行ってしまう。おかみからそれを聞いて、義治は狂ったように「神田のラジオ屋の落合」という情報だけを頼りに、蔦枝の居場所を探しに飛び出していく。そんなとき、おかみの夫(植村謙二郎)が、夜、ひっそりと帰ってくる。
 蔦枝を探し疲れた義治が洲崎に戻り、千草に行くとそば屋の玉子が留守番をしていた。夫と子どもたちと遊びに行って帰ってきたおかみは義治と玉子を見て、一緒になるように勧める。
 けれども、おかみが一人でいるときに蔦枝がふらりと現れ、義治への断ち切れない思いを口にする。おかみは玉子のおかげで立ち直りかけた義治に蔦枝を会わせまいとするが、蔦枝はおかみを振り切ってそば屋で義治が戻るのを待ち、玉子と火花を散らせる。
 暗くなってから、パトカーのサイレンが鳴り響き、やじ馬がどっと集まる。おかみの旦那が、一緒に逃げていた女に殺されたのだ。騒ぎの中で蔦枝と義治は再会する・・・。

◆狭い場所

 猫が出て来るのは29分30秒頃。
 千草のおかみの子どもは、小学生と小学校入学前くらいの元気な男の子2人。おかみが店に立っていると、奥の自宅の方から子猫が鳴く声が聞こえてきます。金網でできたネズミ捕りに子どもたちが子猫を閉じ込めて遊んでいたのを見て、おかみは子どもたちを叱りながら子猫を出してやります。
 いかにも男の子がしそうないたずら。猫が登場する場面はここだけです。川島雄三監督は色々な作品に猫を使っていますが、取るに足らない哀れな生き物、という位置づけで登場させることが多いようです。
 ネズミ捕りに捕まったネズミの運命は、おおかた罠に仕掛けられた毒エサで死ぬか、ネズミ捕りごと水に浸けられてしまうかでした。我が家では早くから猫を飼っていて、ネズミの穴の前でじっと待ち伏せして捕まえてくれていたので、人間が手を下さずに済んでいました。
 ある日、いくら探しても猫の姿が見当たらない。どこへ行ってしまったのかと途方に暮れたあげく、まさかと思って野菜類を保管していた引き出しを開けて見たら、引き出しの一番奥のわずかなすき間に猫が閉じ込められていたのです。ちょうどその引き出しの奥にネズミの穴があって、いつも引き出しを外に出して中で猫が見張りをしていたのですが、誰かが猫がいるのを知らずにうっかり引き出しを閉めてしまったのですね。引き出しの奥には少し遊びの空間がありますが、あれがなかったらどうなっていたかと思うと今でもぞっとします。猫はどんな気持ちだったのか。狭いところが好きだし体は液体だから、人間が思うほど危機感は抱いていなかったかもしれません。

◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

◆理屈抜き

 グズグズした男と女の話なのに、テンポの良い運びで、見終わったあと不思議に爽快感があります。
 映画の始まりと終わりの勝鬨橋のシーン、始めは二人が洲崎に流れ着く前、終わりの方は洲崎を出たあとの場面です。二つの映像を見比べると二人の関係の変化が見て取れます。
 冒頭のシーンでは、蔦枝が苛だっています。これからどうするか義治に聞いても、俺なんか死ねばいいんだろう、と義治はいじけたことを言うばかりで、行動を起こそうとしません。怒りがエスカレートするにつれ、蔦枝はだんだんと義治との距離を広げ、橋の欄干を何メートルも離れて川を見つめています。そして義治を置き去りにするかのように一人で走り出してバスに飛び乗ってしまいます。
 けれども、ラスト、始まりと同じように勝鬨橋から川を眺める二人の表情を映したあと、カメラは二人の膝から下に移ります。
「あんたの行くとこついていくからさ」
蔦枝の下駄が、小股で義治の前からわきへまとわりつき、蔦枝から義治にすり寄って行っています。バスに飛び乗るときは義治が蔦枝の手を引っ張って走って行きます。この描き分けが鮮やかです。体の距離が二人の心の密着度を表しています。

 蔦枝がいなければ夜も日も明けないダメ男義治。そば屋の手提げ金庫から金を抜き取るというちんけな盗みを働いたりします。それでも蔦枝はそんな義治を思い切ることができません。神田のラジオ屋の囲い者におさまっていればいいのに「そば屋の出前持ちを見るとみんな義治に見えてしまう」と、義治恋しさに洲崎に会いに来てしまいます。
 理屈では割り切れないのが男と女。千草のおかみも行方をくらましていた夫が戻ってくると、髪もお化粧もきれいに調え、蔦枝からもらった派手めな反物で着物を作り、女に戻って幸せそうです。

◆人は変わらない

 最後には元のさやに戻る蔦枝と義治の関係。けれども、義治はまともな男に変わったわけではないし、蔦枝は周囲を振り回したことを反省したのでもありません。恩知らずにも、二人は誰にも言わずに洲崎から消えてしまったのです。
 そして千草のおかみの夫は、おかみのもとに戻って来たあと「遅まきながらいいおやじになろうと思ってるんだ」と再出発しようとしていたのに、別れた女に殺されてしまいます。
 だらしない生き方をしていた登場人物たちは、みな生まれ変わることができずに終わってしまったのです。
 日本軽佻派を自称する川島雄三監督は、『しとやかな獣』(1962年)など、シニカルで人間の美質を否定するような作品を残しています。人間の醜さや汚さをえぐるというより、そもそも人間に気高さなど初めから存在しないといった風です。『洲崎パラダイス 赤信号』の終わり方にも「人間はどうしようもない生き物です。人間が生まれ変わるなんて所詮は夢です」と川島監督がニヤリと笑う顔が後ろに透けて見えるように思えます。

◆異化効果

 『洲崎パラダイス 赤信号』をすでにご覧になった方は、義治の帰りを待つために蔦枝がそば屋に現れ、義治に好意を持っている玉子とライバル意識をむき出しにする場面で、ラジオから童謡の「かわいいさかなやさん」の歌が流れるところに違和感を覚えなかったでしょうか。「かわいい、かわいい、さかなやさん」と、子どもの甲高い歌声が何度もしつこく繰り返されます。
 以前からなぜここで流れる曲が「かわいいさかなやさん」なのか、と思っていた私、この映画を何度目かに見たとき「あ、これは黒澤明監督の『野良犬』のあの場面のパロディーだ!」と突然ひらめきました。
 黒澤監督の『野良犬』(1949年)は、自分のピストルを盗まれた刑事(三船敏郎)が犯人を追う映画。刑事がある朝犯人を見つけ、捕らえるまでの場面で、近くの家から女性が弾くピアノの「ソナチネ」が、やがて子どもたちの「ちょうちょう」の歌声が聞こえてきます。
 息詰まる場面にやさしいメロディーを使い、より緊迫感を際立たせる異化効果を狙う対位法の例ですが、そば屋で牽制し合う蔦枝と玉子のシーンの「かわいいさかなやさん」は、黒澤監督が好んで使った対位法を川島流に揶揄したものだと思えたのです。そして同時に、『洲崎パラダイス 赤信号』は黒澤監督的人間観を裏返したものではないかと思い至りました。

◆アンチ黒澤?

 黒澤明監督の『生きる』(1952年)を初めて見たとき、いくら死期を悟ったからと言って、何事も無気力に過ごしていた人間がこんなに変われるものだろうか、という疑問を私はぬぐえませんでした。
 『生きる』の主人公、何もしないのが仕事のような市役所の市民課長の渡邊(志村喬)は、当時の医学では死を意味した胃がんに侵され、ショックで生ける屍のようになってしまいます。けれども、市役所をやめた元部下(小田切みき)が、おもちゃ工場に就職して物を作る喜びを語るのを聞くと「遅くない、あそこでもやればできる!」と、目の色を変えます。その後、渡邊は市民の苦情をもとに子どものための公園を作り上げ、それが彼の人生の置き土産となります。

 さきほど、『洲崎パラダイス 赤信号』は、川島監督が人間が生まれ変わるなんて所詮は夢ですと言っているかのような終わり方だ、と書きましたが、これは『生きる』とは正反対のメッセージです。
 黒澤監督の映画では、しばしば、人が尊い志に目覚め、生まれ変わったようになる、という展開が描かれます。『生きる』を筆頭に、主人公が蓮の池に一晩浸かって柔道の道に目覚める『姿三四郎』(1943年)、大学教授のお嬢さんが反戦活動家の夫の実家の農村に身を投じる『わが青春に悔なし』(1946年)。脚本を担当した『銀嶺の果て』(1947年/監督:谷口千吉)では、強盗が山小屋の人々の汚れない心に打たれて改心し、このブログで紹介した『肖像』(1948年/監督:木下恵介)では、妾の生活に甘んじていた女性が目ざめて自立します。また、『野良犬』、『羅生門』(1950年)や『七人の侍』(1954年)など、人道的な教訓でどっしりとラストが締めくくられる作品も多く存在します。
 それに対して、「いいか悪いかは別にして、ダメな人間はダメなりの生き方で生きていく」という人間観を川島監督が鮮やかに描き出してみせたのが『洲崎パラダイス 赤信号』ではないでしょうか。そして、それは多くの人々に支持されている黒澤監督流ヒューマニズムへの牽制の姿勢を示したものだと思えます。

 『生きる』の主人公と同じように不治の病を抱え、死の影におびえていた川島監督は、遊興、浪費、愛した女性との関係を公のものとせず、放縦な生活に明け暮れたそうです。そんな彼は黒澤流の、自身の問題を克服して立派な人に生まれ変わるという人間観に対する批判、いやむしろ反抗を、この作品に忍ばせていたのではないでしょうか。
 生活のため、と称してあまり出来の良くないプログラムピクチャーもたくさん残した川島監督。自身も好きだと語った『洲崎パラダイス 赤信号』(注)には、そんな川島雄三の素(す)の顔が見える、と私は思います。

 

(注)
「再録 川島雄三監督 自作を語る」『日本映画黄金伝説』(白井佳夫著/1993年/時事通信社
(初出:今村昌平編『サヨナラだけが人生だ――映画監督川島雄三の生涯』(1969年/ノーベル書房))

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