この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

ローズマリーの赤ちゃん

悪魔崇拝者がおなかの赤ちゃんを狙っている!」
  ローズマリーの訴えは、現実か、妄想か?


  製作:1968年
  製作国:アメリ
  日本公開:1969年
  監督:ロマン・ポランスキー
  出演:ミア・ファロージョン・カサヴェテス、ルース・ゴードン、
     モーリス・エヴァンス、他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    集会の客の猫
  名前:不明
  色柄:黒

◆怖い映画

 ゾンビであったり、サイコパスであったり、百花繚乱の様相を呈しているホラー映画。たくさんの人が残忍に殺されたり血その他が飛び散ったりする映画はあまり見ていないのですが、そういう力わざのホラーが流行する前、『エクソシスト』(1973年/監督:ウィリアム・フリードキン)や『オーメン』(1976年/監督:リチャード・ドナー)などのオカルトの流行がありました。
 1970年代は、公害などによって科学文明の否定的な面がクローズアップされた時代で、その反動として心霊やUFOなどの超自然的な現象に関心が高まったように思います。『エクソシスト』や『オーメン』は、その流れの中で誕生しヒットした時代の産物と言っていいと思いますが、『ローズマリーの赤ちゃん』は、その前に突然前触れなく登場したという印象があります。
 いわく言い難い雰囲気を醸し出す緑色のポスター、そして「ローズマリーの生んだ赤ちゃん」の噂が噂を呼び大ヒット。いままでにない映画が誕生した、という空気がひたひたと伝わってきました。

◆あらすじ

 ローズマリーミア・ファロー)とガイ(ジョン・カサヴェテス)の夫婦は、ニューヨークの古いアパートの部屋を借りた。俳優である夫の仕事にも便利である。ローズマリーの親代わりのハッチ(モーリス・エヴァンス)は、このアパートにまつわる気味の悪い過去の話をしたが、二人はさして気に留めなかった。
 ローズマリーは隣室のカスタヴェット夫妻の養女で同年代のテリーと知り合うが、テリーはまもなくアパートから飛び降り自殺をしてしまう。その騒ぎでミニー(ルース・ゴードン)とローマン(シドニー・ブラックマー)・カスタヴェット老夫妻と、ローズマリーとガイは近づきになる。ミニーはお節介焼きで、差し入れをくれたりローズマリーに変なにおいのするお守りのペンダントをくれたりした。
 ガイは、狙っていた芝居の主役をほかの役者にとられてくさっていたが、突然その役者が失明し、主役が回ってきた。ご機嫌なガイはすぐにも赤ちゃんを作ろうと言い出す。夕食後めまいを起こしたローズマリーは、悪魔に犯されるという夢か幻覚のような体験をする。翌朝、ガイは意識もうろうとした彼女を抱いたと話す。
 妊娠が判明し、友人に紹介された産婦人科医に通うつもりだったローズマリーは、著名な産婦人科医のサパスティン(ラルフ・ベラミー)のところに通えとカスタヴェット夫人のミニーに押し付けられる。ローズマリーの体調は悪化し、連日激しい腹痛に襲われる。
 ローズマリーの体調を心配したハッチが会おうと言ってきたが、突然倒れそのまま亡くなってしまう。ローズマリーはハッチの形見の悪魔関連の本を読み、隣のローマン・カスタヴェットの少年時代の写真を見つける。ローズマリーはカスタヴェット夫妻やサパスティン医師が悪魔の手先だと確信し、最初にかかった産婦人科医のところに助けを求めるが、彼女の話を妄想と捉えた医師の連絡で、ガイとサパスティンが迎えに来る。
 激しい動揺の中でローズマリーは産気づく。気が付くと赤ちゃんの姿はなく、逆子で死産だったと告げられる。だが、かすかに赤ちゃんの泣き声を耳にしたローズマリーは・・・。

◆嫌われるわけ

 猫を楽しみにこの映画を見てくださる方には申し訳ありませんが、猫が出るシーンは最後の最後。残り8分を切ってからです。それは黒猫。けれども、わずか5ショット、合計しても数秒、引きの映像で注意していないと見逃してしまいますから用心してください。銀髪の痩せたメガネの老婦人が抱いています。
 ヨーロッパでは黒猫を不吉なものする空気があり、保護猫の里親探しで最後に残るのは黒猫が多いとか。そもそも12世紀のローマ教皇グレゴリウス9世が黒猫は悪魔の下僕というおふれを出したというのですから、ローマ・カトリック教会の勢力下で黒猫が悪魔のシンボルとして定着したのも無理からぬこと。中世の魔女裁判では魔女とされた女性たちと一緒に、黒猫も火あぶりになったそうです(注)。その頃の偏見が今も尾を引いているわけです。
 けれども、その固定したイメージのおかげで、映画の中では不吉の前兆とか魔物のお供として、黒猫はなくてはならない存在です。この映画ではほんのちょっとしか映りませんが、それを抱いている老婦人が悪魔側の人物であることを示す記号となっています。ほかにも悪魔を暗示する事物がこの映画にはところどころに登場しているというのですが、キリスト教文化の素地がないと読み取れないのがもどかしいところ。
 近年、黒猫へのいわれなき偏見への反省の意味を込め、8月17日を「黒猫感謝の日」と定めて、世界各地でイベントが催されるようになってきたそうです。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆恐怖の源

 いまのホラーは主人公を追い詰める相手が未知の何かで、その異常性の恐怖を描いているものが多いと思いますが、『ローズマリーの赤ちゃん』で登場するのはキリスト教の悪魔という既知の存在です。『エクソシスト』や『オーメン』もその系統の作品です。
 私の記憶では『エクソシスト』はアメリカで公開当時、失神したり吐いたりする観客が続出し、映画館がパニック状態になったといううわさが届いて、日本で公開されたらどうなるかと大騒ぎでした。が、いざ蓋を開けて見ると日本人は意外とケロリ。日本はキリスト教の土壌ではないので、悪魔に対する恐怖感が異なるからではないかと、マスコミが分析していました。
 相手が悪魔であれ、化け物であれ、非人間と人間との戦いという意味では、『エクソシスト』も『オーメン』も大きくモンスターものとくくってしまってもいいかもしれません。けれども『ローズマリーの赤ちゃん』は、悪魔との対決以上に、人間の心の闇を恐怖の源泉としています。

◆訳あり物件

 オープニング、ニューヨークの風景のタイトルバックに流れる子守歌風のけだるいスキャットローズマリーを演じたミア・ファローの歌声です。
 ローズマリーたちが住んだ古いアパートの外観には、ニューヨークにあるダコタハウスという19世紀に建てられた有名なアパートがイメージとして使われています。いかにもいわくありげな古めかしさ。1980年にジョン・レノンが、住んでいたこのアパートの前で射殺されました。
 ローズマリーたちがここに住むと聞いたハッチは、そこには昔子どもを食べるのが趣味の姉妹が住んでいたとか、霊媒師が住んでいて悪魔を呼び寄せて半殺しにされたなどの悪い噂がある、と忠告します。いざ住んでみて、ローズマリーたち二人の生活に侵入してきたのは怪奇現象ではなくカスタヴェット夫妻でした。
 ローズマリーは表面だけの付き合いにしたかったのに、ガイはローマンと演劇の話をしに夫妻の部屋に入り浸り、ローズマリーの妊娠がわかると、ミニーは毎日手製の栄養ドリンクを飲ませに来ます。
 ローズマリーがどんどん痩せこけ、お腹が痛いと訴えているのに、ガイもカスタヴェット夫妻も、サパスティン医師も取り合わず、ローズマリーはパニック様の心理状態に陥ります。そんなとき、ハッチの形見の本などによってローズマリーは彼らが悪魔の手先であるに違いないと思い込みます。ローズマリーのその確信を観客が受け入れられないところから、この映画の真にスリリングな展開が始まります。

◆人間の闇

 観客は彼女の心理に同化できないのです。悪魔について書かれたという眉唾な本を信じ込み助けを求めるローズマリーを、妄想に取り憑かれている、と突き放して見てしまいます。妊娠中で体調も悪く精神的に不安定になり、理性的な判断が出来ないのだろう、などと分析し、彼女の味方になってやりません。ローズマリーの方こそ異常では、と思うのです。ローズマリーはこの局面で、ストーリーの中でもスクリーンを見つめる観客からも、完全に孤立しています。
 「誰も自分の言うことを信じてくれない」。少女とも大人ともつかない痩せて頼りなげなミア・ファローその人が、役の上のローズマリーとしてでなく、現実に体験し混乱しているかのように見えます。カメラはサディスティックに彼女を追い詰めていき、何もかもが彼女を陥れる罠のような緊迫感を引き出します。

 最後まで見れば、ローズマリーの確信は正しかったことがわかるのですが、悪魔対人間という仕立ては今では少々カビ臭く、すんなりとは入り込めません。けれども、カスタヴェット夫妻やサパスティン医師たちを、世界中にはびこる陰謀論やカルト教義を信じる人間たちと重ね合わせると、妄信に取り憑かれ、どんなことでもやってのける人間の暗部が見えてきます。反転すれば、怪しげな本を鵜呑みにするローズマリーも同様のメンタリティの持ち主です。ガイが、役者としての成功のために悪魔に魂を売ったのだとしたら、人間は悪魔の操り人形です。
 ガイを演じたジョン・カサヴェテスは1980年の『グロリア』などを作った映画監督でもあります。この映画の頃はそうでもないのですが、後年になると少し意地の悪そうな顔立ちになって、悪魔タイプと見えなくもありません。
 そして、この映画のヒットの最大の要因は、ミア・ファローというガラスのように壊れそうな個性の持ち主が主人公を演じたことに尽きると思います。

◆訳あり監督

 監督のロマン・ポランスキーは『水の中のナイフ』(1962年)『チャイナタウン』(1974年)『戦場のピアニスト』(2002年)など、多くの名画を生み出した巨匠。サスペンスのセンスは抜群。よく自作にも出演しています。
 ただし、児童や10代の女性俳優に性的暴行・虐待をした過去があり罪に問われていて、2019年の『オフィサー・アンド・スパイ』のセザール賞(フランスの映画賞)の受賞に対して抗議が寄せられニュースになりました。世界中で続々明るみに出る映画関係者の性的ハラスメントは、業界の体質を物語る改めなければならない問題で、映画界への信用回復ということを考えた場合、作品はともかく監督賞を与えるという選考委員の時代感覚には私も疑問を感じます。
 ローズマリーに対するサディズムや、彼女の衣装に見える少女的傾向などは、そう思って見ると監督の趣味かと思ってしまうのですが・・・。
 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019年/監督:クエンティン・タランティーノ)で引用された、妻のシャロン・テートが1969年に惨殺された事件など、ポランスキーの周りにはスキャンダルや事件がついて回っています。


(注)「ヨーロッパ黒猫紀行」(NHKBS 2017年4月放送)を参考にしました。


◆関連する過去作品

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夫婦善哉(めおとぜんざい)

ダメ男としっかり女の腐れ縁。大阪を舞台にした大人の恋の浮き沈み。

  製作:1955年
  製作国:日本
  日本公開:1955年
  監督:豊田四郎
  出演:森繫久彌、淡島千景司葉子山茶花究浪花千栄子、他
  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    主人公の住む貸間の近くの猫
  名前:不明
  色柄:茶白?(モノクロのため推定)
  その他の猫:喧嘩中の猫たち


◆さまざまな夫婦善哉

 「夫婦善哉」という四文字を前にして「全く初耳」と言う人もいれば、「そういうテレビ番組があった」と言う人、「織田作之助の小説」「(この)映画でしょ」そして「大阪の有名なぜんざい屋さん」と言う人があると思います。私が初めてこの四文字に接したのは、関西の芸人ミヤコ蝶々南都雄二が司会を務めていた1960~70年代の視聴者参加型のテレビ番組「蝶々・雄二の夫婦善哉」です。現在の「新婚さんいらっしゃい」のような、視聴者のゲストに夫婦ならではの泣き笑いを語ってもらう番組ですが、見たことがあるようなないような程度の記憶しかありません。ただ「夫婦」はわかるけれど「善哉」ってなんだろう? と引っかかっておりました。
 「夫婦善哉」は、この映画のラストに登場する法善寺横丁に現存するぜんざい屋さん。織田作之助の同名の小説と、それを原作としたこの映画で有名になったそうです。ホームページを見るとなんと明治16年(1883年)にルーツがあるそうで、一人前で二椀出るこのぜんざいを食べるとカップル円満になれるという縁起物。ためしにオンラインショップでお取り寄せしてみました。レトルトで豆の粒が大きく、甘さもちょうどよくてとてもおいしかったのですが、温める場合の時間のめやすが書いていなかったので☆一つマイナスです。

◆あらすじ

  昭和7(1932)年。大阪・船場の化粧品類の卸問屋・維康(これやす)商店の跡取り息子の柳吉(りゅうきち/森繁久彌)は、妻が病気で2年も里に帰っている間、芸妓の蝶子(淡島千景)に入れあげ、店の事には一向に身が入らなかった。病で寝付いた店主である父(小堀誠)は、そんな柳吉を勘当する。
 柳吉は蝶子にくっついて暮らし始めるが、たちまち金に困り、蝶子が芸妓をやめてヤトナの勤めに出て生活を支える。妻が亡くなっても柳吉は家から知らせてもらえず、番頭から耳打ちされ、二人で蝶子が稼いだお金を全部遊んで使ってしまった。蝶子はそんな柳吉に怒りながらも、いつか柳吉を一人前の男にして維康商店を見返してみせるつもりだった。
 柳吉は父が死ねば店は自分の物になると高をくくっていたが、父は柳吉の妹の筆子(司葉子)に婿養子(山茶花究)を取らせて店を任せ、柳吉は完全に跡継ぎの座を失う。
 貯金などを元手に柳吉と蝶子は関東煮(かんとだき=おでん)屋を開いたものの、柳吉は腎臓の病気で倒れてしまう。蝶子は手術代を都合してもらおうと維康商店を訪れるが、婿養子に門前払い同然の対応をされる。
 けれども、妹の筆子が柳吉の一人娘のみつ子(森川佳子)を連れて見舞いに来て、父が蝶子の存在を認めるような話をしたと聞き、蝶子は柳吉の後妻になる望みを抱く。
 柳吉の退院後、父の容態が悪くなる。蝶子は柳吉に、お父さんに二人が晴れて夫婦になれるよう頼んでくれと送り出すが、柳吉はその話を切り出さず、父は亡くなってしまう。ショックを受けた蝶子はガス自殺を図るが・・・。

◆屋根の上の猫一匹

  映画の冒頭、柳吉と蝶子は東京に駆け落ち、熱海で大地震に遭い、大阪に戻ってきます。黙って1週間も出て行ったので勘当されても、芸妓の館(置屋?)に顔を出せなくなっても身から出た錆、そうして人の家の二階を借りて住み始めます。蝶子の両親だけは二人を認めてくれて、娘をよろしくお願いします、と柳吉に頭を下げます。蝶子の父(田村楽太)は自分で惣菜の天ぷらを揚げて1個いくらで売る商売。母親役は独特の個性の三好栄子。まあ、あまり似てない親子です。
 映画が始まって20数分過ぎ、その母親が二人の借りている部屋に来て「父さんにもっといい材料を仕入れさせてやりたい」と蝶子に金の無心をします。二階借りのため炊事場がなく、蝶子は腰掛窓の前に七輪を置いて煮炊き中。その向かいの家の屋根の上に茶白らしい猫がいて、食べ物の匂いにつられてかニャアニャア大きな声でずっと鳴いています。蝶子はお金を出し渋り、母は柳吉さんにはお小遣いをやるくせに、とむくれて帰ってしまいます。
 もう1箇所、猫が登場するのは30分過ぎの、柳吉が妻が死んだことを知らされ3日も遊郭で遊んで蝶子の元に戻ってきた場面。早朝、柳吉がよろよろと歩いて路地に入ってくると、また屋根の上で猫が鳴いています。今度はオス同士の喧嘩の声。けれども猫は1匹しか見当たらず喧嘩は声だけ。さっきと同じ猫かどうかは映像が不鮮明でよくわかりませんが、猫は柳吉に「やかましい!」と怒られます。商売の街・船場のええ家に住んでいた坊ちゃんの柳吉が、猫がニャーギャー騒ぐ安っぽいとこに落ちぶれて住んでます、というわけでしょうか。
 猫の登場場面ではありませんが、柳吉が腎臓を痛がっているときに、蝶子が「猫のフンとミョウバン煎じて飲むか?」と聞くセリフがあって驚きました。これはもうおまじないのたぐいだと思いますが、猫好きのそこのあなた、飲めますか?

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

      

◆惚れた弱み

 苦労知らずのぼんぼん育ちの男と、気のいいしっかり者の女。二人は正式の夫婦になることはありません。けれどもまあ、この男と夫婦になるのはやめといたら、と蝶子には言ってやりたいです。お金の面でも精神面でも、苦労をしょい込むのは一方的に蝶子。なのに維康商店にとって蝶子は柳吉をたぶらかした悪者、日陰の身の屈辱に耐える日々です。そんな蝶子を柳吉は「おばはん」と呼び(蝶子はまだ20代)、それを親しさの印のように受け入れる蝶子です。良く言えば「割れ鍋に綴じ蓋」、はっきり言うと共依存の関係です。
 よくアルコールやギャンブルに依存したりDVをしたりする男性に、無意識にその行動を助長させるような働きをしてしまう女性がついていると聞きますが、この二人はそういうカップルでしょう。女性は男性にそういう行動をやめてほしいのですが、男性からの激しい怒りに遭い、お酒を買ってきたりお金を渡したりする、そのときの男性の打って変わった優しさにほだされ、ずるずるとそんな関係を続けてしまうといいます。「この人は私がいなければだめになってしまう」という思い込みと、激しい感情のアップダウンが彼女の生きているという実感を生み、相手なしでは空っぽになる、と本で読んだことがあります。
 けれども、この映画の柳吉が極悪人かと言うと、まあなんとも憎めない男。生活力のない甘ったれなのですが、こういう頼りなさがしっかり者の女のレセプターにがっちりはまってしまうのでしょう。
 育ちの良さがアダとなって大人になりそこねたような柳吉を演じる森繫久彌が、とにかくうまい。ブラブラと暇を持て余して、通りすがりの子どもたちのおままごとに混ぜてもらおうとすると、紙芝居の拍子木に子どもたちが走って行ってしまい、一人ぽつんと取り残されます。そこに通りかかった蝶子に「動物園行ってきてん」と言い「ぶぶあげまひょか」と口をとんがらせておままごとの急須でお茶をつぐ。男の子どもっぽさに弱い女は多いんですよ。こういう男に甘えられたら抵抗は難しいんだろうなあ…。

◆ラブコメ大阪発

  ちなみに「ヤトナ」というのは、宴会や婚礼などのときの臨時雇いの仲居で、三味線や踊りなどの芸もできる人。芸者を呼ぶと高くつくので、宴会を安くあげようとする客たちに重宝がられたようです。蝶子は根っから接客業が好きだったよう。ヤトナになったその晩から出たお座敷のあと、日本髪で衣裳を着た姿を柳吉に見てもらいたくてウフンと柳吉にしなだれかかる淡島千景の蝶子がかわいい。
 この映画は、ズルズルの男女関係を描いていますが、いわゆる濡れ場は一度も出てきません。けれども、柳吉が久しぶりに帰って来ると、それではと蝶子がカーテンを閉め・・・などの大人だけにわかる遠回しの表現がいくつかちりばめられていてクスリとさせられます。こうしたことが、この腐れ縁のカップルをじめじめさせず、明るくコミカルに見せているのだと思います。
 同じ豊田四郎監督による『新・夫婦善哉』(1963年)というこの映画の続編があるのですが(シルエットで猫が出てます)、ここでは柳吉が商売をしようと東京に一人で出てきて淡路恵子が演じる食わせ者の女につかまります。東京のドライで現代的な女性を表現しようとしているのか、淡路恵子が森繫久彌の首を足で挟んだりするのがうるさく、力がちょっと抜けたような関西の言い回しや風土がどれだけ『夫婦善哉』の魅力に関わっているかと、あらためて気付かされました。
 その象徴ともいえる法善寺横丁。蝶子は度々法善寺境内にお参りに訪れます。「柳吉はんの奥さんが死んでその後釜に座ろうとは思っていない」と言う蝶子ですが、奥さんが亡くなったあとお参りに来たときには「おおきに」と深々と頭を下げるというブラックな笑いも・・・。

◆雪の法善寺横丁

 柳吉は父の死に際に蝶子との夫婦約束を許してもらうどころか、蝶子の存在を隠して財産を分けてもらおうとして失敗、傷ついた蝶子の自殺は未遂に終わります。これが蝶子にとっては腐れ縁を切る最大のチャンス。さすがに蝶子も目が覚めたかと思ったら、抜け殻のような蝶子の前にほとぼりの冷めた頃柳吉が現れ「夫婦善哉」に蝶子を連れて行きます。店の中での二人のやり取りは映画を見ていただくこととして、帰り道、雪の降る中しっぽりと二人で歩くうちに柳吉の殺し文句が。
「頼りにしてまっせ、おばはん」。

 豊田四郎監督は川端康成原作の『雪國』(1957年)など、文芸作品を多く手掛けています。森繫久彌主演の喜劇『駅前』シリーズなどでもメガホンを取っており、彼とは相性がよかったようです。
 主役の森繁久彌・さっぱりとした女っぽさの淡島千景のボケとツッコミのようなコンビネーションに加え、癖のある脇役がそろい踏み。ヤトナの周旋屋・浪花千栄子、婿養子の山茶花究、番頭の田中春男、酔客の上田吉二郎、易者の沢村いき雄・・・中でも好きなのは、よく女中役などを演じる出雲八恵子が、ヤトナの三味線の稽古で間違えて変な音を出すシーンです。「ボケてまんねん、近頃」と自分で自分を笑いのネタにする絶妙の間。関西のお笑いの神髄、ここにあり。

 

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アンネの日記(1959年)

ナチスの迫害から逃れ、隠れ家生活を送った少女アンネが日記に遺した2年の多感な日々。

 

  製作:1959年
  製作国:アメリ
  日本公開:1959年
  監督:ジョージ・スティーヴンス
  出演:ミリー・パーキンス、リチャード・ベイマ―、シェリー・ウィンタース
     ジョセフ・シルドクラウト 他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆☆(脇役級)
    ペーターのペット
  名前:ムッシー
  色柄:茶トラ(モノクロのため推定)


◆記憶と記録

 辛かったことや悔しかったことを思い出したくなくて、わたしは日記のたぐいを残していないのですが、映画を見ていて昔のいやな記憶がよみがえり、映画の内容が全く頭に入らなくなってしまうことも時々あります。記録は残さなくても、記憶は消せません。
 日本では昨年『アンネ・フランクと旅する日記』(2021年製作/監督:アリ・フォルマン)というアニメ映画も公開されました。友だちとはしゃぎまわりたい年頃の2年を親友にも黙って身を隠したアンネにとって、日記は話し相手のような心のよりどころだったはずです。
 アンネの日記は収容所での本当の悲惨さを体験する前に終わっています。アンネがベルゲン・ベルゼン強制収容所で病死したのは、連合軍によって収容所が解放される1945年4月15日のほんの少し前、2月終わりから3月頃と推定されているそうです。

◆あらすじ

 1942年7月、オランダのアムステルダムに住むユダヤ人の13歳の少女アンネ・フランク(ミリー・パーキンス)は、ナチスドイツのオランダ占領後、ユダヤ人迫害から逃れるため、父オットー(ジョセフ・シルドクラウト)の知人のクラーレル(ダグラス・スペンサー)とミープ(ドディ・ヒース)の計らいで、彼らの働く香辛料工場の屋根裏に隠れ住むことになった。父の知人のファン・ダーン夫妻(ルー・ジャコビ、シェリー・ウィンタース)とその息子のペーター(リチャード・ベイマー)も隠れ家に同居、アンネの父母とアンネの3つ年上の姉のマルゴット(ダイアン・ベイカー)と合わせ7人での共同生活がスタートする。
 アンネたちの部屋のすぐ下の事務室にはクラーレルらが、その下には工場の従業員たちが働き、気づかれるのを防ぐため朝の8時から夕方6時まで音をたてたりカーテンを開けたりできなかった。そんな生活の始まりに、アンネは父から日記帳をプレゼントされ、親友に語りかけるように日記をつけ始める。
 アンネは活発で大人にも物をはっきり言う性格、ペーターからうるさがられてムッとする一方、優等生の姉のマルゴットに劣等感を抱き、そんな姉を可愛がる母に反抗した。隠れ家にはやがて歯科医のデュッセル氏(エド・ウィン)も加わり、アンネは彼から親友のサンネが収容所に連れて行かれたと聞く。
 アンネは、ペーターと次第に心を寄せ合うようになる。食料の入手なども不十分になり隠れ家の中にはとげとげしい雰囲気が漂う。ファン・ダーン氏が夜中にパンを盗んだのをアンネの母が見つけ、隠れ家から出て行けとファン・ダーン夫妻に詰め寄る重苦しい空気の中、連合軍がノルマンディーに上陸したという吉報が入り、喜んでみな仲直りをするのだった。
 1944年8月、いつも食料や情報を届けたりしてくれるミープが3日も姿を見せず、みんなの不安が極限に達する。アンネはペーターと隠れ家を出てからのことを語り合うが・・・。

◆猫の幸福

 ファン・ダーン家の一人息子でアンネより3つ年上のペーターは、猫なしでは生きられないと隠れ家に茶トラのオス猫のムッシーを連れて来ます。ペーターは引っ込み思案で一人でムッシーと過ごすのが好き。「猫が大好き」と騒ぐアンネより、静かに猫をかわいがるマルゴットの方を初めは好ましく思ったようです。ムッシーの出番はインターミッション(休憩)の前まで。隠れ家のあちこちで映ります。
 室内を縦横無尽に動き回る猫。隠れ家のあるビルの事務室に泥棒が入り、みんなが息をひそめている最中に、ムッシーはバケツに首を突っ込んだり、ぴょんと跳び降りる音を立てたり。あせったペーターが捕まえようとしてうっかり物にぶつかり、大きな音を立ててしまいます。泥棒は入り口のドアを開けたまま逃げ、夜警とドイツ兵がビルの中を調べに入ってきます。またもやムッシーは台所の食べ残しなどを食べて音を立て、絶体絶命! 
 息詰まる緊迫の展開。迷惑猫ぶりはあの『エイリアン』(1979年/監督:リドリー・スコット)の茶トラのジョーンズと互角の勝負。
 後から隠れ家に加わったデュッセルさんには猫喘息でうとまれ、食料が乏しくなると猫に分け前を取られると目の敵にされ、ムッシーは肩身が狭かったのか、1944年になる少し前に家出してしまいます。けれども、ずっと隠れていなければならなかった人間たちに比べ、外に逃げ出す自由のあった猫は幸せだったと言えるでしょう。

 ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

    

◆脱皮の季節

 多くの方がご存知だと思いますが、『アンネの日記』は、ドイツ兵に隠れ家が見つかり、全員収容所に連行されたときにアンネが隠れ家に置いて行ったものが、戦後、唯一の生き残りのアンネの父のオットーに手渡され、オットーが1947年に出版したことにより世界中に知られることとなったということです。戦争と民族差別という極限状況に輪をかけて、大人5人とティーンエイジャーの男女3人による隠れ家生活という異常な環境の中で書かれたこの日記は、心理学上の特異な実験の記録と呼んでもいいかもしれません。
 そんな中で、アンネは普通の思春期の女の子のように、本を読み、親や大人たちに反抗し、将来ジャーナリストになる夢を抱き、恋もするのです。この時期の人間の、子どもから大人へ脱皮しようとする力を何者も止めることができないことを、この日記は証明しています。

 映画『アンネの日記』は170分という長尺。引き締まったモノクロの画面が暗い時代を再現します。映画の初め、父・オットーが戦後隠れ家でクラーレルとミープと会い、アンネの残した日記を渡されてページを開くと、みんなでここに移って来た日の描写が始まります。
 前半は、不自由な隠れ家生活と、反抗期の入り口のアンネが大人たちとぶつかる中で、父に絶対の信頼と愛着を寄せる様子が描かれ、泥棒の侵入がクライマックスとなります。
 後半に入るとアンネはぐっと大人っぽくなり、大人たちにぶつけていたイライラを父ではなくペーターを相手に語るようになって、二人の間に生まれた恋が美しく描かれます。
 アンネがペーターの一人部屋に話しに行く、それだけのことが正式のデートになります。二人とも精いっぱいのおめかしをして、全員がかたずをのんで見守る中、突き刺さる視線を背負いながらアンネがペーターの部屋を訪問します。アンネは外の世界からも、隠れ家の中でも自由を奪われているわけです。
 時計塔の鐘が鳴るまでという約束のもと、アンネがペーターの部屋を出て行こうとしたとき、ペーターはアンネに初めてのキスをします。暗がりの中で二人のシルエットがおずおずと近づくこのラブシーンは、極限まで静かで、そして美しい。

◆若者の叫び

 この映画の中で、アンネの主張にはっとする部分がありました。
 自分たちが隠れていることが外部に気づかれたとうかがわせる情報を聞いて、皆が不安に突き落とされたとき「こんな所、もういや」と口走ったマルゴットに、母親が「私たちは幸運よ。外で戦死する人や収容所の人のことを考えなさい」と言ったことに対し、アンネは「大人と違って私たちはこれからだ、悲惨な時に悲惨なことを考えていてはおかしくなってしまう」「希望も持てない世の中でも理想を追いたい」「こんな世界になったのはわたしたちのせいじゃない」と言うのです。
 置かれた条件は比べ物にならないものの、新型コロナ禍の3年間、学校生活や社会人生活を様々な制約の中で耐えてきたいまの若い人たちと、アンネやペーター、マルゴットの苦悩には共通するものがあるように思います。
 大人は、この間に起きたことは、長い人生という目で見れば小さなことと思ってしまいがちですが、たとえば50年のうちの3年と、18年のうちの3年は重みが違います。そしてその年頃でなければ経験できないことが人生の中には多々あります。
 コロナ禍以外でも、戦争や紛争の中で子ども時代から青年期を過ごす人たち、地球環境への危機感を訴える人たちなど、若者たちが「取り返しがつかない」と言い、未来を憂えていることを、彼らが感じているほどには重く受け止めていないのではないか、大人は逃げ得だ、とアンネに叱られたような気がします。

◆その日が来た

 ナチスが乗った車が隠れ家の建物の前で止まり、破れた天窓から空を飛ぶカモメを見ていたアンネとペーターは、すべてを悟って抱き合います。アンネが硬い表情でその腕をほどく姿に、先ほどのキスの場面の甘さと対照的な現実の過酷さがむき出しになります。

 アンネは、この日記をもとに戦後、手記を発表しようと思っていたようですが、もしそれが実現していたら、収容所で苦しんでいた人がいたのに、と誹謗中傷にさらされることはなかったでしょうか。外国に亡命したユダヤ人もたくさんいましたし、ほかにも隠れていた人はいたと思いますが、そのような人たちへのユダヤ人社会での反応については、耳に入ってこないように思います。生き延びたあとの生活再建のため、他人のことなどかまっていられなかったのかもしれません。
 近年はユダヤ人虐殺に協力させられたユダヤ人の存在も知られ、またナチス戦争犯罪の追及もいまだ行われています。アンネたちが隠れていることを密告した人を特定したという本も数年前に出版されましたが、内容に疑義ありとされたそうです。
 アンネが戦後も生き続けていたら、収容所の体験をつづったことでしょう。そして「人間の本質は善だ」と日記に書き残した彼女は、収容所の中でもその思いを持ち続けていたのか、それを聞いてみたかったと思います。

 監督のジョージ・スティーヴンスは、1951年の『陽のあたる場所』1953年の『シェーン』1956年の『ジャイアンツ』などの名作を監督、プロデュースした巨匠。
 主演のお人形のようにかわいいミリー・パーキンスはこの映画でデビュー後、特にこれといった作品には恵まれなかったようです。ペーター役のリチャード・ベイマ―は、1961年の『ウエスト・サイド物語』(監督/ロバート・ワイズ、ジェローム・ロビンス)の主役のトニーで、永遠に人々の心に刻まれ続けることでしょう。二人とも1938年生まれで、現在80代半ばです。

 

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