この映画、猫が出てます

猫が出てくる映画の紹介と批評のページです

ジェニーの肖像

売れない画家が出会った美しい少女は短い間に会うたびに何歳か成長している・・・。幻想的な恋の物語。


  製作:1948年
  製作国:アメリ
  日本公開:1951年
  監督:ウィリアム・ディターレ
  出演:ジェニファー・ジョーンズジョゼフ・コットン、エセル・バリモア、
     リリアン・ギッシュ 他

  レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)

  ◆◆ この映画の猫 ◆◆
  役:☆(ほんのチョイ役)
    主人公のアパートの家主の飼い猫
  名前:不明
  色柄:茶白のハチワレのタビー


◆幻想スペクタクル

 恋愛映画は、どちらかと言えば男性はあまり見ないのではないかと思いますが、『ジェニーの肖像』は男性(特にオールドファン)から支持されているという印象が私にはあります。この映画は、モノクロながら、一部、緑、赤、フルカラー、と画面に色が着く部分があり、異変が起きる瞬間にパッと切り替わるのですが、説明のつかない超常現象の襲来を告げる不気味なインパクトは絶大です。女性的な柔らかい空気が、この瞬間にディザスタームービーのように一変します。そんな部分が男性に支持されるのかもしれません。
 そうした特殊効果とともに、シーンの切り替えのときに風景がキャンバスに描かれた絵のように表現されていたり、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』などの夢幻的な曲がアレンジされて使われていたり、この映画は終始夢のような空気に包まれています。

◆あらすじ

 1934年の冬のニューヨーク。貧しい画家のエブン・アダムス(ジョゼフ・コットン)は、画廊でやっと1枚の絵が売れたあと、セントラルパークで一人の女の子(ジェニファー・ジョーンズ)に声をかけられる。少女は、ジェニー・アプルトンと名乗り、両親は綱渡りをする芸人だと言った。ジェニーは帰ろうとしてスカーフを置き忘れるが、エブンが渡そうとすると、かき消すようにいなくなる。エブンは、ジェニーを思い出しながら木炭で彼女の顔の素描を描く。
 数日後、先日の画廊を訪れると、その絵は高く評価され、よい値段で買い取ってもらえた。エブンが機嫌よくセントラルパークでスケートをしているとジェニーが現れ、この前会ったときより背が伸び、何歳か大人びて見えた。エブンはジェニーに肖像画を描いてほしいと頼まれ、ジェニーの両親の了解を得ようとしたが、調べてみると両親はとっくの昔に亡くなっていたことがわかる。混乱するエブンのもとにジェニーが泣きながら現れ、両親が今夜亡くなったと言って姿を消す。
 春になってジェニーは美しい大人の女性として現れた。ジェニーの肖像画を完成させたエブンは、彼女のいない人生は考えられなくなっていた。
 夏の間はニューイングランドで叔母と過ごすと言っていたジェニーは、秋になっても姿を見せなかった。不安になったエブンが、以前ジェニーが学んだ修道院に行って彼女の消息を尋ねると、ジェニーと親しかった修道女(リリアン・ギッシュ)は、ジェニーは数年前にコッド岬で津波にのまれて亡くなった、と話す。信じることができないエブンは、彼女が消息不明になったという10月5日にコッド岬を訪れる・・・。

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◆猫係

 この映画での猫はほんの添え物。始まって11分ほどたった頃、ジェニーと不思議な出会いをしたエブンがアパートに帰ると、家主のおばさんがエブンから家賃を払ってもらおうと待ち構えています。一部しか払ってもらえなかった家主が部屋に戻ると、友だちが遊びに来ていて、二人でエブンの噂話を始めます。素敵な人ね、とか、画家って裸の女の人を描くの、だとか、今も昔も変わらぬガールズトーク。その周りを家主の飼い猫がチョロチョロしています。なかなかかわいい猫ですが、出番はここだけ。
 こういう猫の使い方を見ると、私にはうれしいけれど、ストーリーには関係ないし、わざわざ登場させる手間ひまは・・・。思い通りに動いてくれない猫、スタッフ同士でくじを引いて、当たった人が泣く泣く猫係になったのでは? 猫係さん、猫さん、ありがとう。七十数年後の日本で、私がこのシーンを大喜びで見ていますよ。

  ◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆

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◆時を超えて

 ロバート・ネイサンの小説『ジェニーの肖像』(映画も含め『ジェニイの肖像』と表記されることもあります)をもとにしたこの物語と私との出会いは漫画です。藤子不二雄など昭和中後期を代表する漫画家を輩出したアパート・トキワ荘の、唯一の女性の住人だった水野英子の漫画『セシリア』。少女漫画誌に短期連載されたのだと思います。漫画では少女はセシリアという名前になっていて、残念ながら私が読んだのは途中まで。それ以降の号は買わなかったのでしょう(私はおさがりを読んでいました)。断片的ではありましたがその不思議なストーリーが忘れられず、それから何十年かしてこの映画を知ったときにあの漫画だ! とすぐに結びつきました。この頃の少女漫画には、映画を漫画化したものがよくあったのです。

 初めてエブンがジェニーに会ったときは、まだほんの子ども。ジェニファー・ジョーンズが大きなつばの帽子をあみだにかぶったようなスタイルで現れますが、1903年を舞台にした『若草の頃』(1943年/監督:ヴィンセント・ミネリ)の冬のシーンで、子どもたちがこんな帽子をかぶっていますので、相当時代遅れのファッションだということがわかります。けれども、子役を使わず小学生くらいに見せるにはやはり無理が・・・。俳優が実年齢より相当老けたメーキャップをしてもあまり不自然には見えませんが、悲しいかな若返った役ではコスプレのよう。さすがにこのシーンでは美貌のジェニファー・ジョーンズもアップはありませんが、ロングはロングで足元が映りません。大人の男と子どもとの背丈の差、ということでジョゼフ・コットンが一段高い台に乗っていたのだろうと思います。

◆私はどこから

 今ここにいない、とうの昔に死んでしまったはずの女性との恋。幻想的な物語の解釈には、その人の世界観が反映され、正解はありません。タイムトラベルもの、ととらえる人もいるでしょうし、霊的な神秘ととらえる人もいるでしょう。
 タイムトラベルを扱った恋愛映画で印象深いのは『ある日どこかで』(1980年/監督:ジュノー・シュウォーク)。新進劇作家(クリストファー・リーブ)のもとへある日見知らぬ老婦人が訪ねて来る。その後、彼は偶然見かけた美しい女性(ジェーン・シーモア)の肖像に魅せられ、彼女を求めて時間をさかのぼって恋に落ちるが、彼のミスで現在に戻ってしまう。訪ねてきた老婦人は、その肖像の女性だった、というものです。
 過去に存在していた人や未来の人間が現在に来る、現在の人間が過去や未来に行くには『ある日どこかで』の男性のように、何か強い必然性や、タイムスリップというアクシデントが必要なように思いますし、もしタイムスリップした少女がエブンに心をとらえられたのなら、段階的に大人になっていく必要はない気もします。私には、ジェニーは、過去に存在していた女性の霊魂と考える方がしっくりきます。

◆愛との出会い

 ジェニーは、凡庸な画家だったエブンに霊感を与え、未知の才能を開花させます。彼が画廊のスピニー女史(エセル・バリモア)に描きためた絵を見せたとき、スピニー女史は彼の絵に愛を感じない、と指摘します。それでも1枚の花の絵を買ってもらえて、ヨタヨタとエブンがセントラルパークを通りかかったとき、ジェニーと出会います。スピニー女史の指摘した「愛」との出会いです。彼の出会った「愛」は、まだほんの子ども。けれども「すぐ大人になるから待っていて」と姿を消し、次に出会ったときは時間よりも早く成長しているのです。その不可思議な成長は会うたびに繰り返されます。
 彼の心の中の愛の萌芽が、彼の無意識の中の永遠の女性像と結びついて彼の芸術的霊感を呼び覚ました、ジェニーは彼の中の「愛」の成長段階を女性の姿で表したヴィジョンだ、と言うことができるかもしれません。けれどもそうした精神分析的解釈はこの物語のせっかくの神秘性を色あせたものにしてしまうように思います。

◆スピニー女史

 私には、スピニー女史の霊的な波動があの世のジェニーの霊魂を呼び寄せ、エブンの前に出現させたように思えるのです。
 スピニー女史はずっと独身を通してきた70代くらいの女性です。エブンと初めて会ったとき、エブンに異性として魅力を感じたようなことを口にします。もし、エブンと釣り合いの取れる年齢でエブンと出会えていれば・・・意識せずともそんな思いが彼女の中にふと膨らんだように思います。
 高齢のスピニー女史にとって、優れた画家を発掘し世に送り出すことは、ビジネス上の利益以上に、長年待ち望んでいた真の芸術に巡り合う喜びと、それを生み出す芸術家を育てる生き甲斐をもたらすものでしょう。エブンがジェニーに出会ったように、スピニー女史もエブンに出会った。その高揚感と、エブンに感じた女性としての「愛」がジェニーの霊を引き寄せ、彼の絵に欠けている「愛」の経験へとエブンをいざなった、と私は思うのです。『ある日どこかで』のように、若い頃のスピニー女史が時間を超えてエブンと恋に落ちたのではとも思いましたが、ジェニーの生きていた年代と彼女の年齢は合いません。
 そして、物語はジェニーの死の謎に向かって進んでいきます。
 見る人によってさまざまな解釈を生む物語、長く語り継がれてきた神話や伝説のように、不思議は不思議だから美しいと思います。

◆ふられ癖

 ジェニファー・ジョーンズは、女優として売り出し中に『風と共に去りぬ』(1939年/監督:ビクター・フレミング)やヒッチコック作品で有名な大物映画プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニック(『ジェニーの肖像』でも製作を担当)の目に留まり、夫と別れて彼と結婚、ハリウッドで目覚ましい活躍をします。
 ジョゼフ・コットンは脂ぎった男くささを感じさせない人で、『第三の男』(1949年/監督:キャロル・リード/これもセルズニック製作)など「いい人なのにねえ」と、ふられ役で同情票を集めるタイプ。「片思いの似合う男」です。
 修道院の教師役の、このとき50代半ばのリリアン・ギッシュの衰えぬかわいらしさも見どころ。1910年代の映画草創期から主にサイレント時代に活躍した、可憐な中にいつも毅然としたものを感じさせる、映画史を語るうえで欠かせない名花です。
 この三人は、『ジェニーの肖像』より前に、やはりセルズニックプロデュースの西部劇『白昼の決闘』(1946年/監督:キング・ヴィダー)でも共演しています。こちらのジェニファー・ジョーンズはジェニーとは似ても似つかぬワイルドな女性の役ですが、ジョゼフ・コットンは、ここでもやっぱりふられ役です。

 

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