女職人のチョコレートが禁欲的な村を変えていく。見たら絶対チョコが食べたくなる映画。
製作:2000年
製作国:アメリカ
日本公開:2001年
監督:ラッセ・ハルストレム
出演:ジュリエット・ビノシュ、ジョニー・デップ、アルフレッド・モリーナ、
ジュディ・デンチ、レナ・オリン、他
レイティング:一般(どの年齢の方でもご覧いただけます)
◆◆ この映画の猫 ◆◆
役:☆(ほんのチョイ役)
アルマンドの飼い猫
名前:不明
色柄:白
◆割れない思い出
2月14日のバレンタインデーにちなんで、今回はチョコレートの映画を取り上げました。
この時期、プレゼント用のパッケージが施された美しくておいしそうなチョコレートが店頭に並び、見ているだけで楽しくなってしまいますが、直径3センチにも満たないチョコ一粒に500円以上の値段がついているのを見ると、これだけでおかずの食材のあれとあれとあれが買える、などと思ってしまうのが猫美人の悲しい性です。
昭和の味覚で育った私としては、昔ながらの板チョコがおいしい。子どもの頃、割りやすいようにチョコに溝がついているのにその通りにきれいに割れず、次はきれいに、と何度も割っては繰り返したことを思い出します。
◆あらすじ
1959年のフランスの小さな村。
流れ者の母娘がやって来て、もうすぐ70歳になるアルマンド(ジュディ・デンチ)が所有する店舗兼住居を借りた。母ヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)はチョコレート職人で、チョコレート店「マヤ」を開店させる。
村長のレノー伯爵(アルフレッド・モリーナ)は、カトリックの規律を重んじ、自分を範とした禁欲的で静かな生活を村人たちに求めていた。彼は復活祭前の断食期間中に村人を誘惑する「マヤ」の開店を快く思わず、ヴィアンヌ母娘を村から追い出そうと画策する。しかし、ヴィアンヌのチョコレートのファンが増え、その一人、夫に暴力を受けていたジョゼフィーヌ(レナ・オリン)は神への結婚の誓いを破り、夫を捨ててヴィアンヌのもとに逃げて来る。村には少しずつ変化が表れる。
そんな時、村の川べりに流浪の集団・ロマの舟がやって来る。レノー伯は彼らが村に入るのを阻止しようとするが、ヴィアンヌはリーダーのルー(ジョニー・デップ)と心を寄せ合うようになる。
ヴィアンヌは村との融和を図ろうとチョコ祭りを企画するが、その前段階として家主のアルマンドの誕生パーティーを開く。チョコのファンの村人とルーを同席させ、彼らの舟の停まる桟橋での音楽や踊りの二次会は大盛況。異分子としての悩みを分かち合ったヴィアンヌとルーは肌を重ねる。しかし誰かが彼らの舟に火を放ち、ルーたちは村を去ってしまう。アルマンドもパーティーの後に糖尿病で死ぬ。
ショックを受けたヴィアンヌは娘と村から出て行こうとするが、チョコファンの村人たちがチョコ祭りの準備を進めているのを知り、思いとどまる。
ルーたちの舟に火をつけたのはジョゼフィーヌの夫だった。彼はレノー伯が自分の価値観通りにしつけた男。さらに自分の秘書がヴィアンヌの店にいるのを見て、絶望したレノー伯はヴィアンヌの店に忍び込み、ディスプレイのチョコをめちゃめちゃにしてしまう・・・。
◆偏屈者の友
犬と人との細やかな愛情を描いた映画を世に送り出しているラッセ・ハルストレム監督。『HACHI 約束の犬』(2008年)『僕のワンダフル・ライフ』(2017年)などの作品をこのブログでも話題としてまいりました。どの映画にも必ず犬が出ているのではないでしょうか(猫にもこういう監督がいてほしいものです)。
案の定『ショコラ』では猫より犬の方が何匹も画面に登場し、ストーリーにも絡んでいます。
ヴィアンヌが店を開いてまだ間もない頃、喪服の婦人に散歩中の犬がなついているのを見て、飼い主の初老の男性に声をかけます。飼い主がその婦人に気があることを見抜き、チョコレートをプレゼントしてはどうかとヴィアンヌは言います。けれどもその男性は、彼女は夫の喪に服しているので、と想いを伏せているのです。聞けば婦人が夫を亡くしたのは40年以上前の第一次世界大戦! レノー伯の厳格なキリスト教的道徳で縛られた村人たちは心の欲するままに行動することを罪深いことと感じています。
ヴィアンヌのチョコレートは、それらの抑制を取り去るスパイスや薬効を有しています。彼女のチョコレートを試した村人たちは次第に心が自由に解き放たれていきます。
その中でジュディ・デンチ演じるアルマンドはもともと我が道を行くタイプ。娘に糖尿病の治療のため老人施設に行くよう勧められているのを拒絶して一人暮らし。はみ出し者の彼女はヴィアンヌと気が合って、糖尿病にもかかわらず「好きに生きる」と、チョコレートをたしなみます。
彼女のペットは白猫。一人暮らしの部屋の中でミルクの皿をあてがわれ、おとなしくしています。欧米系の映画では一人暮らしの高齢女性が猫を飼っている、という設定が多いように思います。それもちょっと偏屈な女性・・・。まあ人柄はどうあれ、おばあちゃんと猫はよく似合います。
猫が出て来るのは開始から5分過ぎ頃、31分30秒過ぎ頃の2回です。
◆◆(猫の話だけでいい人はここまで・・・)◆◆
◆チョコレートの秘儀
主人公のヴィアンヌがなぜ放浪しているのか、なぜチョコレートを作っているのか、と言えば彼女の父母に話は遡ります。父はお堅い薬剤師。その父が薬効成分の研究のため中米に赴き、現地で出会った母と情熱的に結ばれます。けれども彼女は先祖代々、放浪し、古代の秘薬を広める運命のもとに生まれていました。二人は結婚しフランスで暮らしたのですが、母はヴィアンヌを連れて家を出、カカオによる治療法を広めて歩いたというのです。
ヴィアンヌはその母の血筋を引いて、結婚せずに娘のアヌークを生み、いまに至ったのです。彼女のチョコレート店が「マヤ」というのも、そんなルーツから。マヤの意匠を施した民芸品が置かれていたり、彫刻が施された円盤を回して直感で中に何が見えるかをお客に答えさせ、そこからお客の好みのチョコレートを選んだり、とヴィアンヌの店は異教の雰囲気が漂っています。
レノー伯は先祖が新教徒をすべて村から排除したという厳格なカトリック信者で、村民の精神面まで支配しようとしています。少し前に赴任した若い神父は、プレスリーの真似をしてこっそり歌って踊っているのをレノー伯に見られ、彼の添削で黒くなった日曜の礼拝の説教の原稿を嫌味っぽく手渡されてしまいます。
村長じきじきに「マヤ」を訪れ、教会に通うよう誘ったのをヴィアンヌは断ります。娘のアヌークは婚外子で「わたしはマドモアゼル」と言う彼女はレノー伯にとって敵・魔女でしかありません。ヴィアンヌ母娘の悪口を言いふらして歩くとは情けない村長ですが、そんなレノー伯に嫌気がさしたのか、妻はイタリアに行ってしまって帰ってこないのです。
けれども、先祖から受け継いだ伝統を守り続けているという点ではレノー伯もヴィアンヌも同じ。レノー伯の村にいま軋みが見えているように、ヴィアンヌ自身にも何かがありそうです。
◆パントゥーフル
ヴィアンヌの自由の、影の部分を背負ってしまったのが娘のアヌークです。年のころは11歳くらいでしょうか、独立心の芽生える頃です。アヌークは心の中の見えない友・カンガルーのパントゥーフルといつも一緒で、ストレスがかかったり決断しなければならなかったりすると、見えないパントゥーフルに耳打ちしてパントゥーフルに答えさせます。パントゥーフルは、アヌークが自分の考えを直接表すことでヴィアンヌとの間に起きる摩擦を回避するために彼女が無意識に生み出した本音の代弁者です。
この村に落ち着いたとき、アヌークは「パントゥーフルがここにずっといたいと言っている」と話します。父親もない放浪の生活は、行く先々の学校でいじめの原因にもなり、アヌークには次第にママの勝手の犠牲になっているという自覚が芽生えてきています。この村でもヴィアンヌが魔女呼ばわりされていじめられ、アヌークは「ほかのママたちみたいに黒い靴を履いて!」とヴィアンヌに訴えます。母と一体化した生活の限界がアヌークには訪れているのです。
そんなとき、さらに異質のロマの集団が村を訪れ、レノー伯への当てつけにヴィアンヌはリーダーのルーに近づきます。アヌークもルーになつきます。
◆違いを受け入れる
異質な存在への不寛容が世界のさまざまな対立の火種になっています。人種や宗教、国家、性別など、大きなくくりで人は自分の属する集団と異なる価値観や生活習慣を持つ人々に警戒の念を抱き、何とかして自分より低く見ようとあらさがしをします。その人個人がどういう人間かではなく、その人の所属する集団が○か×かで、その人自身の存在が否定されてしまうという乱暴がまかり通っています。
子どもは親がちょっと普通と変わっていたりみっともなかったりするのをとても気にします。残酷な子どもたちは、親に直接「おじさん変ですね」とは言わず、その子をからかって勝ち誇るからです。
若い読者の皆様は、その昔NHKが長髪のグループサウンズを出演させなかったことをご存知でしょうか。ジュリーの所属したザ・タイガース、ショーケンの所属したザ・テンプターズなど人気絶頂の日本のグループサウンズは、外国のロックグループの外見を取り入れたに過ぎなかったと思うのですが、体制への反発を象徴したと言われる長髪の若者をNHKは認めなかったのです。
さて、レノー伯はヴィアンヌと直接会って、彼女を自身の価値観と合わないと判断した、ここまではよいですが、嫌がらせして村から追い出そうとするのは行き過ぎです。ルーとは一度も直接話し合っていないのに、ロマは村に入るなと一方的に宣言するのは非民主的です。
そうした態度の村長がトップにいたことで起きたのは村民の思考停止。ジョゼフィーヌの夫のセルジュは、川岸にやって来たルーたちロマの集団を「何とかしなければ」とレノー伯がつぶやいたのを、彼らを排除すべしと言ったと受け取って舟に火を放ちます。それがどんな結果を生むかではなく、レノー伯の意に沿うことが行動の規範になってしまっていたのです。独裁体制の恐ろしさです。
◆甘さの行方
自分の価値観に合わせ徹底的に紳士教育したセルジュが放火の罪を犯し、秘かに好意を抱いていた秘書がヴィアンヌのチョコ祭りの準備を手伝っているのを知って自分が否定されたと感じたとは言え、道徳家のレノー伯がヴィアンヌの店を襲撃するとは考えにくいですが、彼は復活祭前の5週間の断食期間を厳格に守っていました。空腹で血糖値が極限まで下がり、キレてしまったに違いありません。壊されたチョコのかけらが彼の唇にくっつくと・・・。
一方、ヴィアンヌは、ルーとアルマンドとの別れの後、アヌークを連れて無理やり村を出ようとします。アヌークが嫌だと抵抗すると、ヴィアンヌが母から受け継いだ古代マヤの壺が落ちて割れてしまいます。ヴィアンヌの中で何かがプツンと切れます。
こうしてヴィアンヌも、チョコ店を襲ったレノー伯も、先祖からのくびきから解放され新しい未来へ踏み出すのです。アヌークの未来は? ルーは? パントゥーフルは? そしてこの村は?
ちなみに、チョコなどの甘い物は急激に血糖値を上げ、一時的に気分が上がりますが、逆にストンと落ちやすく精神的なイライラのもととなります。ヴィアンヌのチョコレートを食べて村人たちが幸福感を味わったのは、この血糖値の急上昇によるものでしょうか・・・。
ラッセ・ハルストレム監督の作品は、監督がアメリカに行ってからだんだんソツがない優等生風になったように思います。スウェーデン時代の『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』(1985年)の頃は、もっと泥臭さがあったけれど・・・。
ジュリエット・ビノシュと、夫から逃げたジョゼフィーヌを演じたレナ・オリンは『存在の耐えられない軽さ』(1987年/監督:フィリップ・カウフマン)でも共演しています。二人ともレノー伯が見たら卒倒しそうな役を演じていますよ。
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